第百五話 切り裂き魔は花園に眠る
歓楽街に響くは万雷の拍手。人々が上げるは称賛の声。その中央で少女は混乱の最中にいた。
「ゴーレムを殺したいって……どういうこと……?」
「俺は昔、サルバという班長に拾われて防人に入隊してな。そのまま彼の下でしばらく働いていた」
「知っているわ。ピルエットと一緒の班にいた頃の話ね」
「あぁ、そうだ。俺とクォーツとピルエット、そしてサルバ班長。四人で幾つもの任務をこなした」
遠い過去の話である。
「そんなある日、サルバ班長は変死体となって見つかった。もちろん俺は躍起になって原因を探したさ。だが真相は何も掴めず、俺は腐ったような日々を送っていた」
変えられない過去の話である。
「そこで声をかけて下さったのがジルベール様だ。あの方は変死体の真実、サルバ班長の死、その全てを教えてくれた! 俺はすぐに防人を辞めて彼の下へ向かったよ」
ミリィは見た。興奮したように語る彼の瞳が正常でないことを。それが見覚えのある赤い瞳に変化していることを。
「俺は生きる目標を見つけたんだ」
彼がかつての知っている人物ではないことを――。
○
裏街道の闇をピケは必死に駆けた。ただ生き残りたい。夢も思想も、未来すらも失った彼に残されたのはその一心だけだった。純粋なる生への執着だ。正気を失った彼にとってはある意味もっとも生前に近い状態である。
「ハァッ、ハァ……!」
切り裂き魔が通った後には真っ赤な道が出来る。切り裂き魔の噂の一つだ。哀れな犠牲者の血によって、切り裂き魔への道しるべが描かれる。そんな恐怖の噂が今は、彼自身の血によって描かれることになった。
死にたくない。死ぬのが怖い。まぶたの裏に潜む暗闇が恐ろしい。されど、流れる血は止まることを知らない。少しずつこぼれ落ちる命が彼の心を焦らせる。
「ハァ……まだ、おれは……!!」
死にたくないのだ。自らの部隊に帰りたいだけなのだ。とっくに正常な判断力が失われている。霧が見せる幻影を本気で信じていた。
男の足は少しずつ遅く、重く、鈍くなっていく。そのことにすら彼は気が付いていない。ずるずると引き摺る音が空しく響いた。
やがて彼は見覚えのある広間に出た。かつて部隊の仲間とともに酒を浴びた場所だ。虚ろな瞳にあの日の情景が浮かび上がった。手を上げて歓迎する仲間達。いじられながらも笑顔を浮かべる小間使い。
「あ、あぁ……」
彼が見ているのは仲間に歓迎される幸せな幻覚だ。渡された酒を受けとると彼はゆっくり腰かけた。中央のボロボロな像に背中を預けて酒を煽る。ようやく愛した部隊に帰ってきたのだ。
彼は数年ぶりに涙を流した。そんな様子を仲間達が笑う。よく見ればジャックも笑っている。下っぱのくせに生意気な奴だ。後でこらしめてやろう。
ぼやけた視界の中で、彼は胸が温かくなるのを感じた。数多の汚れ仕事をしてきた自分は、きっとろくな死に方をしないだろう。そう思っていたが、どうやら神様は最後に贈り物をくれたらしい。
しかし、夢は終わる。空から白い花が降った。それは霧を吸い取る美しい花であり、あの化け物が現れる合図でもある。その時、この幸せな夢は終わるのだ。
○
「来たか……」
ピケは顔を上げた。彼の前には一人の少女が立っている。人の皮を被っているが、彼女があの日の化け物だと理解した。白い綺麗な花を携える姿はまるで月光に照らされる蝶のようだ。
「よぉ、化け物。俺を殺しに来たのか?」
「見届けに来たのさ。長くないことは、もう分かっているでしょ?」
「ヒッヒッ、それは光栄だな……まさかお前に最期を看取られるとは思わなかったぜ……」
防人一等兵アストレア。またの名をティアという。彼女は左手に幽玄草を握っていた。
「その花は何だ。餞別のつもりか?」
「この幽玄草は霧を吸って花を咲かせるの。微睡みの霧が見せる恐怖を幸せな夢に変えてくれるんだ。最後にあなたと話したくて用意したんだよ」
「さっきの夢はお前が?」
「気に入ってもらえた?」
「ハッ、悪くは、無かったな……」
ピケは目を細めた。確かにあれは幸せな光景だったと思うのだ。
「教えて欲しいんだ。あなたはジルベールを追って何を見たの?」
「さあなぁ、俺には……分からなかった。何も、分からなかったんだ……」
「?」
「奴の実験を近くで見た。何か弱みを掴めるのではないかと……分からなかった。何が良くて、何が駄目で、何が正義で、俺は何がしたかったのか……」
化け物は憐れむような目を向けた。男の心はとっくに壊れていたらしい。
「奴の元に集められたのは、どうしようもない人間ばかりだった。俺よりもよっぽどクソみたいな奴ら……誰からも必要とされない底辺の人間……犯罪者、浮浪者、忌み人……」
異なる価値観を悪と呼べるか。うわ言のように呟く彼は、心を擦りきらしていた。
「でも彼らは変わった……奴の実験で生まれ変わった元犯罪者が誰かの命を救っていた……俺には分からなかった。あれが人なのか、魔物なのか、あれが本当に間違っていることなのか」
ピケの独白は続く。
「あれが悪でないならば、生まれ変わる前の奴らは何だったんだ。それと同類である俺は何だったんだ。路地の裏側でしか暮らせなかった俺達は――」
ガハッ、と彼は再び吐血した。もう時間は残っていないらしい。
「人が人を裁けるのか? 人が化け物を裁けるのか? そう思うと、俺はお前すらも恨めなくなった」
「ごめんね、嫌なことを思い出させちゃったみたい。あなたはきっと深く考えすぎたんだよ」
「お前なら、どうした?」
「私はたくさんを守れるほど器用じゃないから。何か一つの大切を守るために他は切り捨てるよ。たとえジルベールが偉業を成し遂げたとしても、彼がミリィを害するなら私の敵になるってだけさ」
化け物はきっぱりと言いきった。それが彼女なりの覚悟である。それを聞いたピケは納得したように頷いた。
「俺もそうすれば良かったな……部隊を守ることだけを考えていれば……」
「もう眠るの?」
「そうするさ。俺はもう、疲れちまった……」
「そっか。ならせめて、もう一度夢を見させてあげる」
ティアが右手を差し伸べると、彼女の腕から幾つもの幽玄草が咲いた。やがて白い花弁は広場を埋めつくし、柔らかな霧が二人を包んだ。幽玄草が彼の狂気を吸い上げ、代わりに最後の夢を与えるのだ。
「化け物にしては……悪くない餞別だな」
ピケは目を閉じた。沢山の幽玄草に囲まれながら、彼は人生最後の夢を見る。それは仲間とバカ騒ぎをする夢だろうか。使いきれないほどの大金に溺れる夢だろうか。もしくは、何気ない日常だろうか。
最後の風景は彼にしか分からない。しかし、あの寝顔を見る限りはきっと幸せな夢だろう。
「いい夢を見てね、ピケ。お休みなさい」
化け物は涙を流している。真っ黒な、涙を流している。悲しいのではない。痛いのだ。
○
冷たい風が吹いた。白い花弁が夜空に舞う。安らかに眠る男の傍らで、ティアは夜空を見上げた。
「逝ったカ。安らかな顔をしているナ」
何もない空間からララが現れる。
「彼は少し、頑張り過ぎたんだよ。ゆっくり休ませてあげよう」
「オレも休みたいゼ。人使いが荒い誰かのおかげでろくに寝れていないからナ」
「ララも頑張ったね。おかげで根回しがとても楽だった」
「流石に“今夜は誰も近づかせるな”なんて依頼は困ったゾ。裏街道の伝手を総動員させて何とかなったけどナ」
「ご苦労様。ミリィの晴れ舞台としては中々のものじゃないかな」
ティアは満足げに微笑んだ。妹の名が盛大に、そして確実に広まるよう準備をしたのだ。三年前、ティアはこの街を出た。ファルメール邸襲撃の日に、自らの正体がバレてしまったからである。噂が人々の記憶から無くなるまで、彼女は周辺の都市を巡った。宗教都市、新興都市、星見の都……たった二年だが、様々な都市を見て回った。
そして二年前、ティアはトーカスに帰ってきた。一時の休暇を終えて、彼女は再び動き出したのだ。ララ達の伝手で多方面から準備を進めた。全てはミリィを王にするために。
「想定外はあったけど、今回の騒動はミリィにとって大きな強みになるよ」
「これから騒がしくなるゾ」
「そうだね。ファルメールという大貴族が歓楽街の子供をかばったんだ、この噂はきっと広まるよ」
「オレが広める、の間違いダロ?」
「そうとも言う」
二人は笑った。かつて一世を風靡した花屋の店主と劇団のスター。表舞台から去った今、二人は新たな目標に向かって暗躍する。
「もう店はやらないのカ? 今なら裏街道の店でもう一度始めることも出来るゾ?」
「それも悪くないけどね。でも、私がやることは決まっているから」
「それならオレも店を閉めるカ。これでようやく自由ダ」
「でも楽しかったでしょ?」
「あぁ、楽しかった。自分の店というのは悪くないナ」
裏街道を占めるためにララは店を構えた。街を変えるためにティアは防人に入った。表と裏、その両側を繋ぐのだ。自分たちが道標となって、未来の王を導こう。今日はそのための一歩だ。
「それじゃあ、始めようか」
「そうだナ。これからもオレを楽しませてくれ」
「ふふ、頑張るよ」
夜風が吹く。街を一新させる新しい風だ。




