こんな能力(ちから)は望んでいません。
1 そもそもの始まりが
新学期も早や一か月すぎた課業後の教室の一コマと思っていただきたい。
「ちっくしょう。あのアホに今日もまんまとにげられたわ」
教室を見回して気づいた時にはもう逃げられていたあとだった。悔し紛れに握った拳にも自然と力が入る。沢渡詩織は眉間に小さくしわを寄せて怒りを堪えていた。
彼女はどこにでもある私立中学の2年生で、面倒見が良いのでずっとクラス委員をしている。
小学校からソフトボールをやっていて、何故かそのまま中学でも続けていた。
流石というか、運動神経は良いようで、1年の頃からレギュラーとなれるだけの実力があったし、加えて明るくフランクな性格なので周りからの人気もあった。よく天は二物を与えずと言われる。スポーツに特化した人間だったら、普通は脳筋と呼ばれる、残念な頭脳が多いのだが、彼女の場合は勉強もそこそこ出来る方で学年でも5位以内に常に入るほどであった。
ここまで優れたパラメーターを持っていたら、流石に容姿はダメだろうとみんな思いそうなところなのだが、そこは2物も3物も与えたのが天だった。
確かにスポーツをしているので、肌は日に焼けてはいるが、普段からポニーテールにまとめた髪に大きな瞳。小さな鼻と形のいい唇。少し細めの顎のラインといい、一言でいうと ―スポーツ美少女― という例えがぴったり嵌っていた。
詩織が探している相手というのが、近所に住んでいて幼稚園からずっと一緒だった男子で名前を一条猛という。
「せやけど終礼終わったときには猛はちゃんとおったのに……」
同じように箒を持ったクラスメイトの中谷葵が呆れた顔で合いの手をいれた。
「せたねん。聞いてーな葵。あいつの席って窓際やん。つまり出入り口からは遠いはずやのにいつの間に消えてんねんもん。どんな技つかっとんのやろ。こんなん才能の無駄遣いとちゃうのん?」
聞いて葵が思わず吹き出した。
「ほんま、あんたらって仲良いんか悪いんかよう分からへんね」
葵の合いの手に思わす詩織も切って返す。
昔、詩織の家に父親に連れられて訪ねてきた小さい男の子が父親の足元に隠れるように彼女を見つめていた。猛の母親は彼が小さい時に事故で亡くなったため、父親同士が親友であった事もあって、彼が働いている間は猛を預かっていた時期があった。
以来、小さい頃はいつも一緒にいたのこともあり、何かにつけて面倒を見ていたので、詩織にとって猛は単なる幼馴染以上の存在であったが、特別の感情を沸き立たせるような事もなく、広い意味で同い年でありながら、弟のような感じでもあった。
「いっつも、いっつも、掃除さぼって人に押し付けてからに・・・ そのうちにキャンて言わせたるわ」
ひとしきり怒りをぶちまけたら少しは気が晴れたようだ。詩織も黙って机を教室の後ろに移動させていった。
大して広くもない教室だ。数人でかかれば掃除自体は15分程で終わる。自分の机から鞄を掴むと、詩織はそのまま部活に向かっていった。
部室に向かうため、公舎の端にある渡り廊下を進んでいく。コンクリートの廊下は少しひんやりとして、掃除で動いて少し火照った体を包むように控えめな冷気が詩織を包んでいた。昨今の節電、ひいては省エネ推奨のあおりを受けたせいか、階段の蛍光灯が消されていた。少し暗いけれど、周りが見えないほどでもなく、上り下りする事に支障が出るほどではなかった。
「猛のアホ。今度さぼったらホンマにしばいたらなあかんなぁ」
さっきまで葵と一緒になってボロクソに言っていたけどまだ少し収まらない。
「でもなぁ…… アイツかっていいとこあるねんけどなぁ」
腹は立っていても、やはり昔から一緒にいるだけあって、少し甘い。
気持ちを入れ替えるように詩織は部室へ速足で進んでいった。
***
「なんやろな。思うように体が動けへんわ」
部活中の詩織はいつもと違う体のだるさを感じていた。
特に昨夜の夢は良くななかったこともある。
――― 真っ暗な山に囲まれた湖の様な所に詩織は立っていた。
湖はさざ波すら立っていない状態で例えれば水銀をたたえたボウルのようなな感じだ。水自体がものすごく重量感があり、鈍色の空を暗い鏡のごとく映していた。
詩織は夢を認識できるはずもない。夢を見ているときは夢こそリアルなのだから。
そして、彼女はその湖の真ん中に立っていたのだった。普通に考えればそのまま沈むのが物理法則だが、そこは見た目も重金属。彼女の体重レベルでは沈みもしないのだった。
「歩けるんやろか?」
恐る恐る一歩を踏み出した。
現時点で沈まないのだ。動いたところで沈む道理もない。
そのまま歩いて岸までたどり着き、振り返って周りを見渡した。
切り立った山の斜面に囲まれた中に重い色の湖。夕暮れともつかない暗い色の空。
「何か変なところやなぁ……
異世界っぽい景色ではあったが、別段何も起こることはなく、目覚ましによって、現実に引き戻されてしまってからが、昨夜の夜から今朝にかけての出来事だった。