エレベーターガール
「はぁ…」
壮太は一人深い溜息を付きながら、自宅のマンションのエレベーターに乗り込んだ。ドアの向こうの鏡の中で、暗い顔をした男と目が合う。それが自分だと気づくまでに、壮太には数秒かかった。
「いてて…」
壮太は勤続疲労で悲鳴を上げている太ももをさすった。所属している部活が試合前という事もあり、このところ碌に睡眠時間も取れていない。今日も練習が終わって、帰ってきたのは零時を回ったところだ。明日は遠征になるので、五時前には起きないといけない。
いや、それはいいのだ。エレベーターのドアがゆっくりと閉まる。壮太は俯いて携帯電話を取り出した。
「………くそ」
昨日のミーティングで告げられた、明日の試合のスタメン発表。彼の名前は、またしても呼ばれることはなかった。監督は「努力は認める」と言ってくれたが…実力で椅子を奪い取ることが出来なかった。壮太は悔しさと徒労感を噛み締め、鏡に体を投げ出して項垂れた。昨日が終わり、「明日」がまだ始まっていないこの時間帯に、壮太は一人取り残されたような孤独感を味わっていた。
元々微妙な位置だったのだ。三年生が抜け、自分たちが中心となる秋。壮太の他にも同じポジションを希望する部員は五人いた。うち三人は一年生で、壮太の同期の残り一人は夏までのレギュラーだったが、生憎前回の試合で怪我をして、後期はリハビリに専念することになっていた。
壮太にとって、この秋が巡ってきた最初のチャンスだった。絶対にレギュラーを取るつもりで、半ばオーバーワーク気味に練習量を増やした。今思えば、それが逆効果だったのかもしれない。紅白戦で疲労を残し、思ったようなパフォーマンスを披露出来なかった。結果、レギュラーに選ばれたのは後輩の一年生だった。
一体、何のためにあんなに頑張っていたんだろう。明日の試合で、俺はどんな顔をして皆を応援しているんだろう。こんなことなら、最初から…。
「……はぁ」
壮太は取り出した携帯電話の画面を見つめた。誰からも連絡はなし。いつもと同じことなのに、今日はとても寂しさを感じる。壮太は頭を振りながら自宅のある九階のボタンを押した。慰めの言葉一つかけられない壮太の頭の上に、エレベーターの機械音が無情にも降り注ぐ。
『上へは…』
「……」
『上へは、参りません』
「……は?」
思っても見ない案内音のセリフに、壮太は口をぽかんと開けた。疲れているんだろうか、今エレベーターが喋ったような…。そういえばさっきから、ボタンを押しているのに動かない。
「故障したんかな…?」
壮太は不安になり設置されていたパネルを見上げた。非常用についているインターホンに目をやる。ここを押せば、管理会社に直通でつながるはずだ。苦笑いしながら、壮太は恐る恐るボタンを押した。
「ったく、ホントもう今日散々だな俺…」
『はい。こちらエレベーターです』
「あ…あの、すいません。何か故障で急に動かなくなっちゃったみたいで…」
『故障ではありません。私もう、金輪際上へは参るつもりはございません』
「は…はぁ?」
インターホンの向こうから聞こえてくる女性の声に、壮太は首を傾げた。どうも話が噛み合っていない。
「どういうことですか?」
『よくぞ聞いてくれました。実は何を隠そう私、ここに努めてもうかれこれ十二年になるんです。このマンションが建った時から、ずっと私がここを支えて来ました』
「はぁ…」
『来る日も来る日も住人様達を上へ運び、下へ運び、雨の日も風の日も、二四時間年中無休で体にムチを打って連れ添った次第であります』
「それは、どうも…」
『ところが、一体どうしたことでしょう!?』
段々とインターホンの向こう側の鼻息が荒くなってくるのを、壮太は耳で感じた。
『社長ったら、「君はもう限界が来ている。新しいエレベーターを雇ったから来月交換しよう」だなんて…酷い!』
「なるほどですね…」
『私が今まで、何回このマンションを往復したか知ってます?毎日ですよ、毎日。絶対新しい子なんて、すぐ根を上げるんだから。最近の若い子は根気がないから』
「ないんですか?」
『知らないですよ。でも乗客とかよくそんなこと言ってるし。絶対そうです。とにかく私、こんな酷い仕打ちを受けたのは初めてです。社長が私を認めてくれるまで、もう上へも下へも参りません!』
「ええええ…それは困る」
壮太は途方に暮れた。今更九階まで階段で上がるのはきつすぎる。何よりエレベーターに閉じ込められたままだ。何とか向こう側の人を説得しなくては。彼はカバンを下ろした。
「もう一回…もう一回上を目指してみましょうよ。ねえ?」
『嫌ですよ。大体上に登っても、また下に降らされるだけじゃないですか。下らない。言うほど簡単な仕事じゃないんですよこれは』
「それは、そうかもしれないけど…」
『あーあ…こんなことなら最初から、上になんて参らなきゃ良かった。そしたら降らされることなんてなかったんだわ』
「でも、でも貴方が元気に上に下に行ってる姿を見たら、その社長も考え直してくれるかも…」
『そんなことないわ。もう決まったことなんですもの…』
向こう側が寂しそうに呟いた。この人は…もしかしたら人じゃないかもしれないが…本当はもっとここで働きたいんだ、と壮太は思った。
「でもやっぱり、僕はまた上に登って欲しいんです。貴方のためじゃなく、僕のために」
『貴方のため…?』
「そうです。僕と、ここに住んでいる住人のみんなのためにも。貴方が今上に行ったり下に行ったりしなくなったら、僕らものすごく困るんです。それは、来月から来る新しい子には出来ないんです。今、貴方にしかできないことなんです」
『私にしかできない…?』
向こう側のトーンが明らかに変化してきた。それでも相変わらず扉は閉じたままだ。
「はい。僕と一緒に、もう一回上に行ってみませんか?もちろん、そしたらまた降らされることもあるでしょう。でも、それならまた、登ればいいんです。僕も貴方が毎日上に行けるように協力します。九階とか」
『そんな…ああ、私…ごめんなさい…』
向こう側がすすり泣く声が聞こえてきた。
『疲れてたんだわ、本当にごめんなさい。エレベーターの癖に愚痴を言っちゃったりして…』
そう言うと、止まっていたエレベーターが音を立て動き出した。壮太はバランスを崩しながらも、ホッと溜息をついた。良かった。これで何とか明日への扉は開かれる。
『壮太様。本日は大変お見苦しいところを申し訳ございませんでした…』
「僕の名前を知ってるんですか!?」
途中、インターホンの呼びかけに壮太は驚いて声を上げた。
『ええ、もちろん住民様のことなら私は何でも知っていますよ。こうして毎晩遅くまで頑張ってらっしゃいますよね』
「あ…」
その一言で、壮太は扉の向こうの明日に何が待っているのかを思い出した。
『御身体にお気を付け下さいね。私も僭越ながら、今の私にしかできないやり方で、応援しておりますので』
「はい…あの、ありがとうございます…」
上へ上と運ばれる体で、壮太はおずおずと頭を下げた。やがてエレベーターは目的地に辿り着き、彼の目の前で扉がゆっくりと開かれていった。