いわく付き物件との上手な付き合い方
パンッ、パンッ、ピシッ、ギシギシ!
「ん、んう~~ああぁぁあ」
部屋の中に響き渡る何かを叩く音や、壁や床に天井の軋む音に、俺は大きな欠伸をしながら目を覚ました。
「あ~、おはよう」
部屋には自分以外、誰の姿も無い。
ワンルームの小さな調理台から良い香りが漂ってくる。腹が鳴った。よいしょとベッドから腰を上げて、コンロの上の鍋を覗く。
「やっぱり朝は味噌汁だよなあ」
腕が強く引っ張られる。
「わっ、引っ張るなって。先に顔洗えって言うんだろ。わかったわかった」
解放された腕をぐるぐる回しながらユニットバスへ向かう。窮屈に押し込まれた風呂桶も便器も洗面台も、どれも白く輝いている。
「ん」
鏡の向こうに黒い影。俺の背後にぴったりとくっついている。
「見張らなくたってちゃんとするよ」
霧のように影が散る。
俺は消えたお節介焼きに苦笑いしてから、顔を洗い、髭も剃る。本当は毎日剃るのも面倒だし、いっそのこと伸ばしたい。だけど前に二、三日剃らずにいた時は、空飛ぶ剃刀に追い回された。どうやら髭を生やした男は嫌いらしい。
さっぱりとした顔で部屋に戻ると、卓の上に先ほどの味噌汁にご飯、それから玉子焼き、白菜の浅漬けが並んでいた。
「おお、今日もおいしそう。いただきます」
味噌汁をすすり、息を吐く。
「これ食べると一日が始まるって感じがする」
さっき「おいしそう」なんて言ってしまったのは失礼だったかもしれない。どれを食べても本当に「おいしい」。
空の茶碗を置くや否や、茶碗が宙に浮く。
「あ、おかわりはいいよ。腹いっぱいで満員電車はきつい」
全部綺麗に平らげて、せめてもと食器を流しに持って行く。
歯を磨きスーツに着替える。
「お願いします」
そう言って宙に差し出したネクタイが、ふわりと浮かびひとりでに首に巻き付く。
「ぐえ」
キュッとネクタイがきつく締まり、呼吸が止まる。ネクタイと首の間に指を入れて緩めて笑う。
「やったな」
トットットッ――。
逃げるように足音が遠ざかった。
「まったく……」
鞄といつの間にやら卓に置かれていた弁当を持って玄関へ。
「それじゃあ、行って来ます」
扉を閉める前にそう言って、俺は会社へ向かった。
後ろから、部屋の鍵がかかる音がした。
デスクでモニターとにらめっこすること数時間。待ちに待った昼休みになった。
椅子に座ったまま背伸びをすれば、体中がパキパキポキポキと悲鳴を上げた。便乗するように腹の虫も鳴く。
「ああああ、飯だああああ」
せかせかと弁当の包みをほどいて蓋を開ける。
「おお」
筑前煮、ゴボウのベーコン巻き、キャベツとミニトマトのサラダ、それにふりかけご飯という、実に体に良さそうな内容だった。
「なんだよお前、最近急に弁当なんて持ってくるようになって。彼女でもできたか」
「そんなんじゃねえよ」
「じゃあこのうまそうな弁当、自分で作ったって言うのかよ。できる男アピールかよ」
「そんなんでもねえよ」
「くうー、それ、ベーコンのやつよこせ!」
「メインのおかずなんてやるか。お前はミニトマトでも食ってろ」
二つあるミニトマトの片方をつまんで、同僚の口に押し付ける。それから改めて自分はゴボウのベーコン巻きを頬張った。
ゴボウにベーコンの旨味と肉汁がよく染み込んでいる。
「あーおいしい」
次は筑前煮だ。里芋を箸で摘む。
「あ」
里芋の下には、小さなハートの形の人参が隠れていた。
「なににやけてんだよ」
同僚が恨めしげな目を向けてくる。
「いやあ、本当に弁当おいしいなあと思ってさ」
じっくりゆっくりと弁当を食べ終えてからも、気を抜けば顔が緩んでしまった。
アパートに帰ったのは夜の十時を回ってからだった。
「ただいま」
扉を開けると、鞄と空の弁当箱が宙に浮かんで先に中に入った。蛇口から水が流れて弁当箱が洗われる。鞄はベッドの脚に立てかけられる。
「ありがとう。あ、いい匂い。今日の晩御飯は?」
コンロの鍋の蓋に手を伸ばす。しかし手が届く前に、俺は体の自由を失った。
金縛りだ。
動けない俺の体から上着が剥がされ、ワイシャツのボタンも外される。
「えっと、ご飯より先に、風呂に入れって?」
ピシッと天井が一度軋む。
「そんなこと言わないで食べさせてくれよ。腹ペコペコなんだ」
しばらくの間を置いて、鍋が浮いた。
「お、食べさせてくれるの?」
鍋は水平に移動し、流しの上へ。蓋が外れ、鍋はゆっくりと傾いていく。受け止めるものは何も無い。
「え!? ちょっと待って、待って! わかった先に風呂に行くから待って!」
わかればよろしいとでも言うように、金縛りが解かれ鍋はコンロに戻った。
「俺のお腹ぁ、もう少し我慢してくれぇ」
その場でワイシャツもズボンもパンツもみんな脱いでベッドに放り、風呂場へ駆け込んだ。
口の中に入れるととろけるほど柔らかく煮込まれた鯖の味噌煮を平らげてから、だらだらとテレビを見ていると日が変わった。
「そろそろ寝るか」
テレビと照明を切ってベッドに潜り込む。そして天井に向かって話しかける。
「明日はいつもより三十分早く起こしてくれない? 会議の準備があるんだ」
ピシッ。
「うん、ありがとう。それじゃあ、おやすみ」
ピシッ。
深夜の真っ暗なワンルーム。
男が一人、穏やかな寝息を立てて眠る。




