睡蓮人形と林檎
睡蓮がその家に来たのは、昨日のことでした。女の子が誕生日プレゼントの箱を開けた時、誰もが嘆息しました。
「なんて可愛い人形でしょう!」
女の子はその言葉をきいてちょっと嫌な感じがしました。
「私の方が可愛いもん!」
睡蓮は、ショーウィンドウに並べられた時に早速女の子の両親に選ばれました。オリーブ色の瞳、柔らかなプラチナブロンド、蒼い睡蓮を思い出させるドレスに加えて、その桃のような頬が彼女の純粋な優しさをうかがわせました。
「このお人形の方が可愛いよ。」
そんな言葉が、女の子の弟の口をついて出ました。女の子は弟の頬を思い切り引っ叩きました。男の子はわあっと泣き出して、誕生日パーティの幸せな雰囲気は大混乱にとってかわられました。男の子を抱き上げる両親と、言い訳を大きな声で喚く女の子とで、リビングは大変な騒ぎになりました。その中で、睡蓮という名前のお人形だけは、じっとして、その騒動を見ていました。いえ、正確には、泣きじゃくる男の子の方を見ていました。男の子が睡蓮の顔を覗きこんで可愛いよ、と言ってくれた瞬間、彼女の胸の中に小さな花が咲きました。そして、居てもたってもいられないような、こそばゆい感情を抱きました。誰もが眠る夜になって自由に動けるようになった彼女は、女たらしで有名なオモチャの兵隊に聞きました。彼は、それは恋だよ、と答えました。
「僕も君に対して同じ感情を抱いているから、よく分かるよ」
睡蓮はお礼を言って、次にこの持て余す胸の熱をどうすべきか考えました。睡蓮には分かりませんでしたが、兵隊はさみしげな笑みを浮かべていました。
リンドウ、という人形の隣に彼女は飾られました。リンドウは睡蓮の話を聞いてこう忠告しました。その恋は絶対に叶わない、と。しかしそれでも彼女の熱は冷める気配がありません。彼女の硝子の瞳の中には恋の炎が既に揺らめいていました。
リンドウはそれを見て思いつきました。スノードロップの処へ行けば良い。睡蓮は夜の明けない内にと彼女のいるという一番上の棚の一番奥、湿った空気の滞る場所へ向かいました。スノードロップは、後ろ髪を前に持ってきて、片目を隠していました。
「事情は上から見ていたよ。マスターの弟が好きで、その好意を持て余しているんだろう。」
睡蓮は戸惑いながらも頷きました。
「彼の心を君のものにする方法はいくつかあるが、最終的には自分の努力だ。明日から一週間以内に彼の心を奪いなさい。その手助けはするから。ただし、心はくれてやるけど肉体は私がもらう、それでいいね?」
最後にスノードロップの言ったことを完全には理解出来ませんでしたが、嬉しさから彼女は大きく頷きました。
次の日、弟は真っ黒いおしっこが出た、と母親に言いました。不安になって近くのクリニックへ行くと、腎臓が悪くなっているからすぐに大きな施設のある病院へ入院するよう言われました。その日の晩、睡蓮はスノードロップから青い林檎を貰いました。熟していない、硬くて冷たい林檎でした。これを病院へ持って行くようにとスノードロップは指示しました。
「ドレスの下に隠しなさい」
翌朝女の子は、両親から弟へ見舞いの品があれば持って行くように、と言われました。女の子は考え、睡蓮のことを思い出しました。どうせ私の好きな人形じゃないし、弟は気に入っていたみたいだから別にそれで良いか。そうして棚に並んでいた睡蓮を取ると、紙袋に入れて病院に向かいました。
男の子は腎臓の検査のために入院中でした。白い壁、白いカーテン、白い床。男の子は飽き飽きしていました。そこへ、家族が訪ねて来たのです。テーブルの上に並べられるいくつもの見舞い品。その中で彼が一番目を惹かれたのは睡蓮でした。男の子は驚いて、僕が貰ってもいいの、と姉に聞きました。女の子は頷きました。あげる、と。そして病気早く良くなってね、とも付け加えました。
「ありがとう、お姉ちゃん。」
その夜、男の子は夜中に目が覚めてしまいました。昼間に沢山昼寝をして、見舞いの品に興奮していては、寝るのは難しいことです。男の子は寝床台の上のお人形に話しかけてみました。
「睡蓮、今日の月は雲を虹色に染めているよ。」
すると人形の首が一人でに動いて窓を向き、そうね、と呟きました。男の子はこれ以上無いほどびっくり仰天して、お人形も話せるの、と聞きました。
「どんな人形も魔法の力を持っていて、夜は私達の時間なの。」
男の子は暫く月光に照らされている睡蓮の横顔に見惚れていました。
それから夜は、二人きりの自由なお喋りの時間になりました。男の子は入院や検査が嫌だということ、でもお母さん達がとても心配するので仕方なく従っていること、ずっとベッドの上にいる不満、自分の身体についての不安を話しました。睡蓮はそれらの何一つ聞きこぼさずに男の子の気持ちを理解しようとしました。
それは男の子の心を安らかにしました。けれど、病気は時間とともに進行していきました。男の子の明るかった顔が青ざめていくほどに、青かった林檎は赤く染まっていきました。
6日目とうとう、男の子は泣きました。入院の日がまた延びたのです。
「お人形さん、苦しいの。助けてちょうだい。」
泣きながら訴える男の子に、何を言えばいいのか、睡蓮には分かりませんでした。最後の日、男の子は息をするのも辛くなり、呼吸マスクをつけて喋れなくなりました。
「お星様、私に何が出来ますか。」
星は言いました。
「貴方は癒やす魔法の力を持っている。それを使いなさい。」
「でも私の力では足りません。」
睡蓮は、大好きな男の子の苦しげな寝顔を見ました。
「鍵は林檎だよ。貴方が癒やすべきは、その林檎の主だ。その林檎を食べて、その孤独を癒しなさい。けれど、その実はそんなに熟してしまっている。食べ終えた時には貴方の魔力も底をつくでしょう。どちらかを選びなさい。」
その頃、スノードロップは髪で隠した片目をさすっていました。その目は空でした。目が取れてしまっていたのです。
(昼間でも動ける身体が手に入ったら、)
彼女は考えます。
(それで私を壊した子をこらしめてやろう。)
(そして一度も出たことのない窓の外の世界へ行って、出会う人すべてを不幸にしてやろう)
想像しながら、彼女は無くなった眼球だけでなく心の傷をそっと撫でながら慰めていました。
睡蓮は、薄々自分の選択が男の子を苦しめる結果になったことに気付いていました。ごめんなさい、と呟いてから、彼女は林檎を一囓りしました。その林檎は、真っ赤に熟した外見からは想像もつかないほど苦い味でした。それはスノードロップの、孤独と憎悪と深い哀しみの味でした。睡蓮はもう一度男の子を見ました。そして勇気を奮ってもう一囓りしました。一口目よりもさらに苦味が口の中一杯に広がりました。
睡蓮は一口ずつ、ゆっくりと林檎を飲み下していきました。そして、段々と眦から涙が溢れてきました。林檎の苦味はそのままスノードロップの苦しみでした。睡蓮の胸一杯にスノードロップの孤独、絶望、憎しみが伝わりました。そしてとうとう芯まで飲み下した時、その底にあったのはただただぽっかりと空いた奈落の哀しみでした。
これで大丈夫よ、誰にともなく呟くと、睡蓮はそのまま、動かなくなりました。
翌朝、男の子は自分で呼吸器のマスクを外し、ベッドの上に起き上がりました。一夜の内に病気はすっかり治ってしまい、退院の日がやってきました。退院までの夜、何度も男の子は睡蓮に話しかけましたが、その答えが返ってくることはありませんでした。
それは病院から帰ってきても同じでした。夜中に隣のリンドウが話しかけても、好意を抱く兵隊が肩を叩いても、何の反応も示さなくなっていました。
スノードロップは、昼間でも動ける身体を手に入れられなかったことよりも、睡蓮が動かなくなってしまったことが何よりも悲しくなりました。スノードロップは棚の一番上から降りてきて、こう睡蓮に言いました。
「貴方が私の林檎を食べたことは分かってるのよ。」
睡蓮の目がスノードロップに向けられることはありませんでしたが、スノードロップはそのまま話し続けました。
「貴方があの実を食べたお陰で、私は独りじゃなくなったのよ。とても良い住処だったのに。」
スノードロップは、両目から、はらはらと涙を流しました。
「貴方がいなくなったことが哀しくて、胸がキリキリ絞られるようなの。この感情は一体なに?」
誠実なオモチャの兵隊が言いました。それは愛です、と。
「私も彼女に同じ感情を抱いていましたから、よく分かります。」
その街に人形屋ができました。学校帰り、裕福な家の男の子がその店に寄って行きました。そしてすぐに、年老いた店主の後ろに座っている人形が欲しくて堪らなくなりました。
「そのお人形、おいくら?」
店主は目を細めて微笑むと、首を左右に振りました。
「売り物じゃないんだ。」
と答えました。そういわれると男の子はますますそのお人形が欲しくなりました。
「いくらでも出すよ。」
店主は人形の頬を愛おしげに撫でました。
「これは私の、恋人なんだよ。」
おしまい