見習い研究員
「エリカ、これを所長に持っていって下さい」
「はい」
どさ、と前に置かれたのは書類の束。私は今、王立研究所の研究員見習いとして働いている。一応、制服も貰って正式な見習い研究員の立場をとっているといっても、研究どころか掃除や雑用程度しかしていない。まあ、読み書きがほとんどきないし、そもそも私は彼らの観察対象でるもあるし。仕方ないことではあるんだけど、役立たずっぽくてちょっと心が痛い
。
二週間ほど前の交渉の結果、この世界の知識を教えてもらうかわりに、私は自分が持っていた教科書の知識を伝えることになったのだ。
けれど、当然日本語が通じるわけがない。しかし、英語は多少通じるらしい。ということで、なぜか教科書を英訳するという超ハードな作業をしております。学校の英作文の授業よりつらいけど!
研究員の人が教科書を見て、訳すとこを指定してくれるんだけど、範囲が広いのだ。和英辞典が鞄に入ってて助かった。
しかし、一介の高校生に数学と化学と生物の教科書の英訳は無茶ぶりだと思うんだ。おかげで、作業は遅々として進まず、目の前の教科書には印ばかりが増えていく。
この作業とは別に、今私がいるガルシニア王国の歴史や公用語のフェノミ語も勉強中なので、正直頭が爆発しそうだ。でも頑張る。だって、これを覚えなきゃ生きていけないもん。
「いってまいります」
「はい。気を付けて」
時々言いつけられるお使いで気分転換をしつつも、完全に頭が切り替わることはなく、頭の中は常に日本語と英語とフェノミ語がぐるぐるしている。
今私がいるのは生物学の研究部門で、マルコーさんが直属の上司にあたる。第一印象の通り、穏やかで優しい人なので、非常に働きやすい。なぜ生物学部門かというと、私の観察も兼ねているかららしい。ヒトが知識を習得する様子とか見たいんだそうですよ。かといって、常に見られているわけでもなく、結構自由に動き回っているんだけど。
私がフォルダーで、唯一の女性研究員ということもあってかみんな気を使ってくれるし、ダメなことやわからないことはきちんと教えてくれるのでそれなりに過ごしやすい。
不満があるとしたら、この研究所には年の近い女の子がいないことだ。研究員に女性はいない。私以外の女性は、食堂のウエイトレスのマーシャさんと、掃除婦のアリサさんと、宿泊所の管理をするマダム・フィーナの3人だけ。
マーシャさんは6つ歳上の新婚さん、アリサさんとマダム・フィーナはもうお母さん位の年だ。みんな顔を合わせれば声をかけてはくれるけど、ゆっくり話すような時間はない。お仕事後だって忙しいみたいだし。アシュリー嬢も王都にやって来たけど、日中は私がずっと研究所にいるから、朝と夜しか会えなくて寂しい。
ちなみに、この男だらけの中に年ごろ女子一人という状況であっても、これは逆ハーレムでは断じてない。
イケメンだって男なんだぞ、逆ハーレム素敵、なんて男だらけの空間がどんな状況か知らない人がそんなこと言うんだ。現実を見たら、そんなもの空想だって思い知るに違いない。
共用廊下は物を置いちゃいけない決まりだから一応片付いているけど、一歩部屋に入るといろんなものが至るところに無造作に積み上げてあって、基本的にいい匂いなんてしない。ホコリとか体臭とか、なんか謎の薬の臭いとかいろんなものが混じった臭いなの。初日は研究室に入らなかったし緊張していてよくわからなかったけど、落ち着いたらすごく気になる。一度建物中を大掃除しませんか、とアリサさんに相談してみよう。あ、これも不満なことなのかな。
考え事をしながら歩いていると所長室に到着した。ドアをノックして、返事を待っていると、ゆっくりドアが開く。
「ああ、エリカか。どうぞ」
「失礼します」
ドアを開けてくれたのは、所長の孫のカルロさんだった。この春に学校を卒業したばかりの19才で、今は所長の秘書のようなことをしているそうな。きっと若い頃の所長そっくりであろう赤毛と、緑の目をした好青年だ。この研究所のなかで一番年が近いので、話しやすくてつい長話をしてしまう。笑顔で穏やかに応対してくれるしね。
私がお使いで所長室に来ると、いつもお茶をいれて所長と二人、不便はないかとか、体調はどうかとか色々気にかけて話を聞いてくれる。
「今日はどうしたの?」
「マルコーさんのお使いで書類を持ってきました」
そう言うと、カルロさんは私の手から書類を受け取り、部屋に入るよう促してくれた。
「エリカはこの後忙しいかね?」
「ええと、忙しいといえば、忙しいですけど」
ゆったりと執務用の椅子に腰かけるダントンさんにとわれて、私は曖昧に答えた。フェノミ語の表記の勉強中なので、できたら少しでも覚える時間を取りたい。とりあえずは自分の名前をサインできるようにはなったけど、それ以外はまだ全然だ。アルファベットに似た文字なのに読みが全然違うから、妙に大変なのだ。
「今日でなければならない用事でも言いつけられたかい?」
「そういうわけでは、ないのですが」
「勉強かね?」
「はい。ここで働かせていただく以上、少しでも早く役に立ちたいので」
「それは素晴らしいことだね。でも、根を詰めすぎるのは良くない」
「うう、でも」
私はあんまり頭が良くないので、必死にやるしかないんです、とはなんだか恥ずかしくて言えない。だって会話ができても文字の読み書きができなければ、ここの仕事では役に立たないのだ。だから、早く読み書きを覚えて、みんなの役に立ちたい。
「顔色があまり良くないよ。お茶くらい飲んで行きな」
「カルロさん……」
にっこり笑って湯気のたつカップを差し出されたら、受け取らないわけにはいかなくなってしまう。
「座りなさい。ちょっと話もあるしの」
「話、ですか?」
「ああ。カルロ、オースティンを呼んできてくれるかね?」
「はい」
さあ、座って、と言われるままに、応接用のソファーに腰かける。だけど、オースティンさんを呼ぶってどういうことだろう。私、もしかしてなにかやらかしたんだろうか。研究所をクビになるとか? それで、保護者のオースティンさんともどもお叱りを受けるとか? どうしよう、怖いよう。