交渉成立?
食事を終えて応接室に戻ると、私は荷物の中からいくつか取っておきたいものを選んだ。でも、それは本当にわずかで、意外と大事なものって少なかったんだな、とちょっと寂しくなった。
お兄ちゃんの京都土産だった柘植櫛と、妹とお揃いで従姉妹にもらったガラス製の爪やすり、高校の入学祝いで父に買ってもらった腕時計、15歳の時に母が譲ってくれた誕生石のネックレス、友達とお揃いの折り畳みミラー。それに電池の切れた音楽プレイヤーと携帯電話。全部ポーチに収まってしまった。
ノートや教科書は、まだ新しいのもあってかさほど愛着はなかったので、渡してしまうことにした。
「本当に、それだけで?」
「はい。あとはどうぞご自由に」
「もともと全部エリカのものです。遠慮はいらないんですよ?」
確かに、お昼を食べながら話を聞いていて、みんな研究熱心で私の持ち込んだものに並々ならぬ興味を持っていることを改めて理解した。だけど、だからといってそれに遠慮したわけではない。そもそも、ここにある教科書を勉強したって、なんの役にもたたないはずだ。だったら、研究に生かしてもらった方がいい。
制服や筆記用具だって、こっちで使うにはおかしいし、壊れたときに直しようがない。それなら、研究して似たようなものをつくってもらって、将来的に私もまた使えるようになったほうが嬉しい。
だから、友達や家族の思い出があるものだけ手元にあればいい。私が、彼らと繋がっていたことだけは、忘れないように。
「だって、私は戻れないんでしょう? だったら、大丈夫です。研究に使って下さい」
曖昧に笑ったら、グッとマルコーさんが眉間に力を入れた。あれ、もしかしてなんか泣きそう? なんてけなげな子なんだ、的な空気を感じるよ? ダントンさんなんて目尻に涙が浮かんでしまっている。
違うの、皆さんのために、みたいな殊勝な理由じゃないの! むしろ、自分のためっていうか。だって、私そんなに勉強好きじゃないもん。そりゃここで生きていくためには、読み書きや社会常識を覚えなきゃな、とは思ってるけど、できたら学校の勉強はしたくないの。高校の勉強なんて大学受験以外に役に立たないじゃない。だいたい先生もいないのに、教科書なんてわかるかっつーの!
みたいなことを、正直に言えたらいいんだけど、今の私の語学力じゃ無理です。
「エリーには自分の国の化学や歴史より、こちらのことを勉強してもらわないといけないと思いますよ」
オースティンさん、ナイス助け船! こくこく、と頷いていると、ガストンさんが面白そうに笑った。
「エリーは勉強が嫌いだったのか?」
「……普通です」
「そうか。けど、こっちのことを勉強するなら、筆記用具なんかはあった方がいいんじゃないか?」
ガストンさんの台詞に、思いきり反応したのは工学部門の方々だった。シャープペンとかボールペンとか、きっと分解したいんだろうなあ。ジャックさんを始め、さっき筆記用具をいじっていた面々がガストンさんを睨むように見ている。けれど、そんな視線はお構いなしに、ガストンさんはこちらを見て返事を待っていた。
「でも、こちらのものに慣れてないと、自分のがいざ使えなくなったときに困ると思うんです」
「なるほどね。確かにその通りだ」
「こちらの道具にも慣れたいので自分で持っているものは、特に思い入れのあるものだけでいいです」
「自分の国に戻るつもりはないのか?」
次に口を開いたのはクラウドさんだった。食堂ではほとんど喋っていなかったから、ちょっと驚いた。
「どうやって戻るんですか?」
「それはわからないが、我々の知っているフォルダーは、皆帰る方法を探していたよ」
それはそうだろう。外国に行くだけでも結構勇気がいるのだ。誰だって、いきなり知らない世界やってきたらどうにか帰れないかと考えるはずだ。
「帰れた人はいるんですか?」
「残念ながら聞いたことはないね」
「それなら、ここで生きていくことを考えた方がいいと思うんです」
もうこちらに来て一年近く経つ。なんかの拍子に戻れるかも、なんて期待はもう持っていませんとも。日本人女性の平均寿命を考えたら、私はこの先軽く60年は生きるのだ。もちろん、いつか帰れることを願って方法を探す時間も十分にあるけど、その間はここで生きていかなきゃならない。だったら、ここで生きていける力を身につけなきゃ始まらないと思うんだよね。
無駄に一年近くもこの世界で過ごしてきた訳じゃないんです。いろいろ考えてたんだよ。
「ふむ、いいだろう。エリカ、君はここで働くつもりはあるかね?」
「働かせてもらえるんですか?!」
ダントンさんの台詞に、思わず大声を出してしまった。将来的には自立したいし、仕事もなにかできることを考えなきゃと思っていたから、ラッキーなことこの上ない。
「研究するにもここにいてくれた方がいいし、読み書きは出来なくても、これだけ意思疏通ができれば、作業の手伝いはできるだろう?」
「なんでもやります! でも、時間があったら読み書きを勉強しててもいいですか?」
「構わんよ。一日のうち、いくらかは誰か君に先生をつけよう」
「ありがとうございます」
どうやら交渉成立だ。これで胸を張ってフランドル家にお世話になることなができそうで安心した。もうオースティンさんに、「ただ飯は困る」的なことも言わせないんだからね。