「六月の雨」
作──猫介。この物語はフィクションです。
寝不足だ。
そして家を出た途端にひどい雨。
寝不足の訳は、昨日、久しぶりに訪ねてきた学生時代の友人と夜中まで語り合っていたからだ。
親元を離れた俺は、アパートで一人暮らし。この街に友達はいない。週末どこかへ出掛けに行く訳でもない。仕事の疲労を蓄えた体を転がし、ただ寝て過ごすだけの日曜日を送るはずだった。
そんな俺の所へ突然の来客。迷惑どころか歓迎の嵐で出迎えをした。こっちは暇潰しの気分だったし、近くを通りかかったという理由で押し掛けてきた向こうも、多分同じ気持ちだったろう。
その辺のコンビニで適当にあつらえたであろう手土産を引っ提げ、有無を言わさず上がり込んできた神経には見習いたいぐらいだ。
歓迎の嵐の後、これまた嵐のように過ぎ去っていった友人は、食い散らかしたゴミの残骸をご丁寧にも残して帰っていった。
回想から戻る。今日は朝から雨が降っていたんだ。しかもどしゃ降り。アパート二階の外廊下で、俺は柵にもたれながらため息をつく。家から仕事場まで15分ぐらいとはいえ、ダッシュでこのどしゃ降りをやりおおせるには無理があるか。
「ああ、ほんと面倒だな……」
玄関の傘立てに一つだけ刺さった濃紺の傘を仕方なく掴み、足早に家を出た。
俺は北原紘行(きたはら、ひろゆき)。就職の為、生まれ育った田舎町を離れることになり、五年が経った。未だに都会の街と肌が合わず、どこか息苦しさを感じる。
それが、この梅雨のせいか、コンクリートで覆われた街のせいなのかは分からない。
もっと言えば梅雨が嫌いだ。身体中べたつき、空気までどんよりと重苦しい。この鬱陶しさ。
こんなことを考えていたら、昨日友達を部屋にあげなければよかった、という気持ちにまでなった。
色々と考えているうちに仕事場に着いていた。
苛々を抑えるため頭をかきむしると、平静を取り戻せた気がした。
中に入る時、いつものように外の傘立ての一番奥の穴に自分のを差し込んでおいた──。
黙々と帳簿をつけていたら、今日も陽が暮れかかっていた。雨は昼過ぎには止んでいて、今は薄い雲間から光が射し込んでいる。
辺りを見渡すと、上司と自分以外は皆すでに帰っていて、部屋はがらんとしていた。
「主任、書類ここに置いておきますね」
「ああ、わかった。今日はもう先にあがっていいよ。お疲れ様」
「お疲れ様でした。主任はまだ帰らないんですか?」
「あんまり早く家に帰るとね、奥さんに怒られるんだよ。『夕飯まだできてないのに、まったく』てね。遅そけりゃ遅いで怒られるんだけどね。ははは」そう言って軽く笑い飛ばす。
「夫婦ってそういう物なんですかね。私はまだ独り身なので、よく分かりませんが」
「君も家族を持つといい。私の話を聞いていたらいいこと無さそうに見えているだろうがね。ははは」
「ははは」とりあえず自分も笑っておいた。
俺は主任に一礼すると部屋を出た。
いざ会社を出ようという時、玄関に置いておいたはずの自分の傘が無くなっていた。
「おい誰だよ全く!」
幸い雨はあがっていて傘を差さずに済んだのだが、朝に続いてまたもや憂鬱モードになってしまった。
結局、会社を出る頃にはすっかり陽が落ちていた。帰り道は大分暗い。湿った歩道は足音を吸い込み、普段より町は人気が無いように感じる。気持ち悪い。
道を左に曲がった所で、カッパを着た小さな女の子がしゃがみこんでいるのが目に入った。何か独り言を呟いている。困った様子だったので、つい俺は声を掛けてしまった。いつもはこんなことしないのだが。
「どうしたんだ。もう暗いし、家の人が心配してるんじゃないか?こんな所にいつまでもいないで早く帰りな」
「うん……。でも猫がね……、ここに居たんだけどね──」泣きながら言う。
重そうなランドセルを背負ったまま、この子はずっとこうしていたようだ。顔を見たがどこの家の子か分からなかった。人付き合いは無くても毎日仕事で通っていた為か、この辺の近所の子供達なら大抵、どこの家の子か分かる程になっていたのだが。
女の子の視線の先には、家の塀と塀に挟まった子供用の傘があった。そこは細い路地で、大人が通るには狭すぎる。子供用の小さな傘でも差して通るには狭すぎる。女の子が路地に無理矢理押し込んだのだろうか、傘の骨が折れていた。
女の子はまた喋りだした。
「朝、学校に通う途中でね、ここで子猫を見つけたの。箱に入っててね、でも、凄い雨だったから私の傘を置いてったの」
よく見ると、傘の下には雨でひしゃげた段ボールがあった。中にはタオルが入っていたが、猫は居ない。
「きっと近所の人に拾われたんだよ。この辺には野良猫を飼っている人がたくさんいるからな」
「そう……なの?」
「ああ。だから、心配しないで家に帰りな」
「えっ、でも……」女の子の顔はまだ曇っていた。
「わかったよ……。ここで少し待ってろよ?」
俺はそう言うと、野良猫を飼っていそうな家を一軒ずつ訪ねて回った。
自分でもなんでこんなことをしているのか分からないが、女の子の顔を見たら何とかしなければいけないような気持ちになった。
五件目で捨て猫を拾っていてくれた人を見つけられたのは救いだった。
女の子に状況をざっと説明した。
「……だとさ。子猫も無事元気そうだし、お前も安心したろ。これで帰れるな」
話終わる頃に突然雨が降りだした。瞬く間にどしゃ降りになる。
「悪い。じゃあもう行くな。ちゃんと気を付けて帰るんだぞ。いいな」
俺は傘を無くしていたことを忘れていた。慌てて自分の鞄を頭上に抱え、走った。女の子が気になり、途中で一回振り返ってみた。女の子は少し名残惜しそうだったが、さっきまでと違いまっすぐ佇んでいた。多分、もう大丈夫だろう。また僕は走った。
俺は突然声を掛けられた。振り返ると、視界が一面、黄色く染まる。
「どうぞ」
「え?」
「傘あげます」
よく見ると、さっきの女の子だった。黄色くて、骨がちょっと折れた傘を俺に差し出している。
「いや、その……」色々な意味で気が引けた。
「いいの。私はカッパ着てるから平気」
「子供の傘を差すのは恥ずかしいし……。俺は大丈夫だから」傷つけないよう断わるのは難しい。
「遠慮しなくていいよ。でも、本当はね、壊れた傘を家に持って帰ったら、お母さんに怒られると思うの。傘は無くしたってお母さんに言った方が、怒られないかなって。だから貰って欲しいの。」さっきとは違う、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
気付くと俺は有無を言わさずに傘を預けられていた。女の子は勢いよく走り出し、遠くの方へと消えていった。仕方なく、残された傘を差して家に帰った。
梅雨は明けた。
今度は、熱い日射しが降り注ぐ日々。雨傘を差す機会はぐっと減った。
忘れた頃にふと目に入る。家の玄関の傘立てには、大人の黒っぽい傘の影に隠れた、子供用の黄色い傘。壊れた傘を何故捨てなかったかのか。その理由は忘れてしまった。
玄関にある黄色い傘を見掛ける度に、俺は思わず笑ってしまう。少しだけ梅雨が好きになった。
おわり。──最後まで猫介の作品を読んで下さりありがとうございました。作品のご意見、ご感想をもらえると嬉しいです。メッセージは出来る限り返させていただきます。