陛下のプロポーズ大作戦
この日をどんなに待ちわびたことか。
二年だ。二年待った。
今夜こそ決める。
富と権力を駆使し、ありとあらゆる手を尽くし、この日のために準備してきた。抜かりはないはず。
上着のポケットに忍ばせた小さな箱の存在を、隣の彼女に気付かれないようそっと触れ、確かめる。
きっと彼女は感激のあまり滂沱して彼の胸に飛び込んで来るに違いない。
その瞬間を思い描き、彼はもうすぐやってくる幸せを、いち早くかみしめた。
「はじまったわ」
夜の闇に抱かれる王都を照らしているのは、海岸線から打ち上げられる、魔術師達による花火の光。
次々と光の玉が上がっては、上空で大きな破裂音とともに弾け飛び、無数の光の粒子となって都中へ降り注ぐ。
十年に一度、五日間かけて催される建国祭の、感動の締めくくりである。
都中の魔術師たちが何年もかけて準備した三万発に及ぶ光の魔術。祝福と護りの力をこめて練り上げた光魔法を凝縮させ、展開した時の光の散り方や色を魔力で調整する。打ち上げた上空で解放させれば、闇に様々な形を描き、夜空を彩る鮮やかな花火となる。途中、建国神話にちなんだモチーフで古代叙事詩を演出し、この国の礎となった遥か先人達の志と愛国心を、今この夜空を見上げる国民と共に分かち合う。
十年に一度月の隠れる深闇の夜と建国記念日が重なるこの日、祭の最後を飾るにふさわしいイベントだ。
高台にそびえる王城のテラスから、遠く離れた海岸線から打ち上がる花火は良く見えた。遮るものは何もなく、高さもあるので然程見上げる必要もなく、楽な角度で眺めることができる。
夜空に光が弾ける度に、都の街並みと黒い海が照らされて、浮き上がって見える。この時ばかりはどんな店も家も灯りを落とし、壮大なキャンパスの一部に徹するのだ。老いも若いも男も女も関係なく、みなが空を眺めていることだろう。
「綺麗ですね」
手摺に両手を乗せテラスから僅かに身を乗り出すようにして彼女が呟く。ほう、と感嘆の吐息を洩らすそのほっそりとしたかんばせを、青と白の光が照らす。
おまえの方が美しい。
などと、口に出しては言えない。
ほかの女になら歯の浮く科白も躊躇いなく吐けるのに、だ。彼女に対してだけはどういう訳か喉の奥でつかえたまま言葉にできない。
代わりに出て来るのは、そんな己に呆れを含んだため息のみ。
「陛下?」
ほんの小さな嘆息を耳聡く聞き付けて、彼女が振り向く。
「どうかなさいましたか?」
「いや。あまり身を乗り出すと、落ちるぞ」
「その時は、陛下が支えてくださいますわ」
悪戯っぽく笑う彼女を、今度は赤やピンクの光が照らす。
どうしてくれよう。
それは、誘っているのか。
誘っているのだな。
身動きできない程きつく抱きしめてしまおうか。きっと柔らかくて温かい。かき抱いてぽってりとした果実のような唇を貪り弾む肌の感触をーーーーいや、待て。落ち着け。
それはまだだ。まだだめだ。
あの本にも書いてあったではないか。成功の秘訣は、サプライズと演出力だと。相手を驚かせ、感動させ、甘い気分にさせて、否と言えない雰囲気をつくるのだ。一気におとせ。そう、『プロポーズ大作戦〜成功の秘訣(マリク・リシャール著)』に書いてあったではないか。
こうなると、今日のために彼女に贈ったドレスの選別を間違ったかもしれない、と彼は少し後悔した。
小さな顔に瞳の大きな彼女は、いわゆる童顔の、愛らしい顔立ちをしていて、いつもは可愛らしいデザインのドレスを好んで着ていた。彼がドレスを贈る時も、毎回彼女の好みを知り尽くした仕立て屋に任せていたので、似たような印象のものが多かった。
だが今日のドレスは、彼が仕上がりのイメージを仕立て屋に伝え、あつらえたものだった。
身体のラインがくっきりとして、いつもより露出も多い。さすがに着てくれないのではないかと心配したが、杞憂だった。それを着て現れた彼女を見た時の衝撃たるや。予想以上の仕上がりだった。
いつの間にか少女からおとなの女性へと成長していた彼女を、青を基調にした優美なドレスが、上品に包み込んでいた。むき出しになった肩の白さが艶かしく、官能的ですらある。だが決して下品な色気ではなく、気品ある色気だ。彼は、生唾を飲むのを堪えるのに苦労した。
そんな彼女が傍らで誘うように微笑めば、理性も飛ぶというもの。
だが、彼の理性は強靭だった。
今までだって、触れずに我慢して来たのだ。
否、触れたくても触れられなかった、というのが正しいが……。
とにかく彼は、今までのことを思えばあと数刻我慢するなど容易いことだ、と冷静を取り戻した。
彼がその本を手にしたのはいつだったか。
まだ即位する前の、王太子であった頃、彼はよく変装して偽名を語り、幼少からの友人二人を引き連れて、城下町で遊んでいた。単純に酒を楽しむ日もあれば、仮初めの愛を囁いて色に溺れる夜もあった。欲情過多なお年頃だったのだ。
そんな彼にも幼い頃から婚約者がいた。
大人になって行動も落ち着き、王位を継ぐ時彼は言った。そろそろ結婚しよう、と。すぐに式の段取りを、と彼が思考に更けっていると彼女は言った。
「結婚はいたします。けれど条件がございます。わたくしが納得いく求婚をしてくださいませ」
まさか断わられるとは思わなかった。
いや、完全に断わられたわけではないのだろうが、納得のいく求婚て何だ? 逆にこちらの方が納得いかない。
「花街でたくさんの女性と戯れてらしたのでしょう? 女心はよくご存知のはずですわ」
彼女の笑顔が怖かった。
確かに遊びはしたが特定の相手は作らなかったし、公の場には必ず彼女を伴った。昔から結婚相手には彼女しか考えておらず、彼女以外に自分の子を産ませたいとも思わなかった。ほかの女なんて無理だ。
素直にそう言うと、彼女は悲しそうに首を振った。そういうことではないのだ、と。
「わたくしのただひとつの我儘なのです」
儚げに言われてしまえば、強引に進める気にもなれず、彼女の条件を承諾した。
それから時を変え場所を変え言葉を変え、時に花や宝石を添えて、結婚しよう王妃になれ共に国を支えよう、と迫ってみた。禁欲だってした。なのに彼女は首を縦に振らない。ばかりか、頑なになっていくだけだ。
どうしていいか途方に暮れかけた頃、王佐が一冊の本を寄越した。
「あの子はロマンチストだから。参考にしてみれば?」
そういえば王佐は彼女の従兄だったか。
なんとなく癪に障るが背に腹はかえられないため受け取った。
それが『プロポーズ大作戦〜成功の秘訣(マリク・リシャール著)』である。
花火は一段と華やかに、畳み掛けるように矢継ぎ早に大輪の華を幾重にも重ね、見上げる何万という人びとの上に光の粒子を降り注いでいく。
最後に一際大きな、七色に輝く光の玉が打ち上がり、はじけて、王都を包み込んでしまいそうなほど大きな王家の紋章を描く。光がちって行く間に、彼は王の顔で力強く、この国の王としての誓いを言葉にした。毎年建国記念日に、彼が自分自身に立てている誓いだった。
「国民のため、一千年続く王国のため、我が治世が平和であるために、余は力をつくす。先人に恥じぬよう、常に正しく、強く、誇り高くあろう。後人の標となるよう、賢く、慈悲深く、曇りのない目で行く先を見定めると誓う」
はい、と頷いた彼女のどこか誇らしく慈愛に満ちた微笑みは、真っ直ぐ顔を上げて光の行く末を見つめていた彼には見えなかった。
やがて最後の光がゆっくりと消えて行った。
幻想的で華やかな音と光の競演の幕切れである。
これで、この先十年はまた王都の護りは強固になるだろう。
全てつつがなく終了したことを見届けた。国王としての責務は果たした。本来なら、これで五日間続いた建国祭における、国としての行事は終了である。
そう、本来なら。
だがしかし、国王としての仕事は終わっても、彼個人にとっては、これからが本番である。
厳かな雰囲気を纏っていた彼は、瞬時に気持を切り替えた。切り替えの速さは、統治者に必要な要素である。もっとも、この場で発揮するのがふさわしいかは別問題だ。
気持ちを切り替えた途端、彼は緊張感に襲われた。政治の中枢で培われたポーカーフェイスによって、表情にこそ出なかったものの、鼓動は速まり、手に汗が浮かび、意識しなければ呼吸もままならない程に、全身が固くなっていく。
そこに立っているのは、王ではなく。これからする一世一代の告白の前に、緊張に圧し潰されてしまいそうな、ただの男だった。
さあ、いよいよだ。
照らす物がない深闇の夜の空に、光の玉が連続していくつか上がった。
花火の余韻に浸っていた彼女が、驚いて光を追う。
「まああ! 素敵!」
夜空に文字が浮かび上がっていた。
『結婚してほしい』
ほんの数秒、宙に留まっていたその文字を、彼女はうっとりと眺めていた。
続いて祝いの花を振りまくように白い花火がいくつも上がり、やがて消えて行った。
「返事は?」
蝋燭の灯りだけがふたりを照らす。彼はそっと彼女の肩に手を回し、傍らに引き寄せた。
「陛下……?」
彼女が期待に潤む眼差しで見上げてくる。
彼はコクリと唾を飲み込み、掠れそうになる声を必死に抑えて言葉をつなぐ。
「今のが余の気持ちだ。あの花火はそなたのためのものだ。どうか受け入れて、これを嵌めてほしい」
懐から小さな箱を取り出す。
「これは……?」
「王妃の指輪だ」
箱を開けて見せる。代々王妃に受け継がれてきたダイヤモンドの指輪だ。子に恵まれるようにと、ダイヤモンドの中にダイヤモンドが内包されている、稀少な子持ちダイヤがあしらわれている。
彼女はじっと指輪を見つめ、再び彼を見上げた。
さあどうだ。早く応えを。早く、是と言ってくれ。
時がやたらと長く感じる。さながら裁きを待つ罪人の気分だった。
「まるで物語りのような求婚ですわね。ここまでしてくださってありがとうございます」
なぜ俯く。
どうして無理に笑おうとする。
「……陛下は」
違う。
そんな顔をさせたいんじゃないのに。
「全然ダメです!失格です!」
泣かれると思ったら怒られた。
彼もついカッとなる。
ここまでしたのに。一体何が気に入らないんだ!
「そなた結婚するつもりないのだろう! したくないなら始めからそう言え!」
「違います! 結婚はすると言ったはずです」
「だったら何が気に入らない、好きな男でもいるのか? おまえの浮気を認めてやればいいのか?」
「なっ……」
「図星か? 残念だがそれは認めてやらんぞ」
冷ややかに見下ろせば、大きな目に涙を溜めて唇をわななかせていた。
しまった、と思ったが今更引けない。
彼女が浮気するはずないとわかってるのに。いつだって彼女の瞳は彼を追いかけていたのだから。
勢いに任せて彼女を切り裂く言葉が滑り出す。
「どうしてもと言うなら後継ぎを成してからするんだな」
とうとう雫がこぼれ落ちる。彼女は泣きながら訴えた。
「ひどい方……! わたくしの気持ちを知りながら仰るのね。わたくしには貴方しかいないのに。貴方を愛してるのに! 陛下のばか! 今夜こそ貴方の妻になれると思ったのに! 陛下なんて不能になって禿げてしまえばいいんですわ!」
可愛い顔に不似合いな不吉な呪いを吐いて彼女は走り去った。
いろいろ衝撃的すぎて後を追えなかった。
『今夜こそ貴方の妻にーーーー』
彼女もそのつもりだったなんて。禁欲の果て逃がした魚は大きい。
後に残るのは苦い後悔のみだった。
後日。
彼は執務室で憮然と頬杖をついて不貞腐れていた。
そんな彼を少しだけ気の毒そうに二人の男が見ている。
「賭けは俺の勝ちな」
にんまりと笑ったのは筆頭近衛騎士。
「……もう一押しだったのに」
苦い顔をしたのは王佐だ。
「はっはっは! 詰めが甘かったな。王佐のくせに」
ほれほれ、と掌を差し出す筆頭近衛騎士に、王佐は懐から財布を取り出し、金貨を五枚渡した。
王佐にとってたいした金額ではないだろうが、目の前の筋肉馬鹿に負けた屈辱が大きいらしく、眉間に深い皺を刻み、三勝四敗で負け越しだと嘆いている。
「詰めが甘いのは陛下の方だ、王なのに」
「まったくだ。国主としては申し分ないのにな。男としてはヘタレだ」
「せめて純情と言ってやれよ」
「知ってるか? あのドレス脱がしやすいようにって作らせてたの」
「……ヘタレだな」
「しかもむっつりなヘタレだ」
「王なのに」
「王なのにな」
執務室に微妙な沈黙が落ちた。ふたつの視線が痛い。
「お前らいい加減にしろ! 用がないなら出て行け!!」
好き勝手に貶されてそれまで黙り込んでいた彼が、苛立ちと羞恥と悔恨と落胆と諸々の混じり合った不快な感情を叩き潰すように怒鳴りつけ、ふたりを部屋から追い出した。
扉の前でふたりが振り返る。
「次こそはちゃんと口説き落とせよ、ヘタレ陛下」
「後継ぎだって必要なんだから早くしてくださいね、ヘタレ陛下」
「さっさと行け!!」
引き出しにあった本『プロポーズ大作戦〜成功の秘訣(マリク・リシャール著)』を投げつけたが、いち早く扉が閉まり、本は扉にぶつかって虚しく落ちた。
「くそっ」
役に立たん本だ。
あの中でも最高にロマンチックと書かれていた一例を実行したのに。甘い雰囲気もサプライズも演出したのに。
なぜだ。
何が気に入らないんだ。
愛してるなら結婚できるだろう。
ますますわからん。
愛し合ってるのに何が問題だというんだまったく!
『……とまあいろいろなプロポーズを提案してきましたが、大事なのはいかに愛してるか伝えることです。どこが好きのか。どんな風に愛してるのか。結局はそれが一番心に響くのかもしれませんね。私の提案はそれを彩り演出するためのものですから、本末転倒しないように気を付けてくださいね。愛あふれる笑顔のために、勇気を持って踏み出しましょう。皆さんに幸ありますように!ーーーーーーマリク・リシャール』
彼女が欲しいのはたった一言。
必要なのはただそれだけ。
彼が気付くのはいつになるのかーーーー。