「私に選ばれたのだから幸せだろう?」――貴族に見初められた姉は屋敷を逃げ出し、代わりに妹が乗り込みました
「お前のような冷たい女とは結婚できない!婚約は破棄させてもらう!」
華やかな夜会の中央で、一人の貴族令息が声を張り上げた。
その隣には、美しい平民の娘が立っている。
突然婚約を破棄された令嬢は、青ざめながら男を見つめていた。
「そして、私の隣に立つのは彼女だ!」
令息は平民の娘の肩を抱いた。
「身分こそ平民だが、優しい心を持つ美しい女性だ。私は彼女と結婚する!」
周囲がざわめいた。
平民の娘――ミリアは、その言葉を聞いて胸がいっぱいになった。
自分のために。
こんな大勢の貴族がいる場所で。
婚約者まで捨てて。
そこまで自分を愛してくれている。
幸せだった。
少なくとも、そのときは。
ただ一人。
会場の隅で姉を見ていた妹のセラだけは、小さく呟いた。
「……本当に大丈夫なのかしら」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
この世のすべてを創った創造神を祀る聖教会では、こんな教えがある。
運命は、自ら選び取ることができる。
けれど、人にはそれぞれ向いている生き方がある。
他人が幸せだという道を無理に歩くのではなく、自分に合った場所を見つけること。
それこそが、幸せへ近づく方法なのだという。
ミリアは、その教えを知っていた。
けれど。
自分には関係のない話だと思っていた。
なぜなら今の自分は、とても幸せだったからだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「今日から、ここが君の家だ」
貴族令息アルベルトに連れられ、ミリアは大きな屋敷へ足を踏み入れた。
今まで暮らしていた家とは比べものにならない。
磨かれた床。
大きな窓。
美しい絵画。
何人もの使用人。
「すごい……」
思わず声が漏れる。
アルベルトが笑った。
「当然だ。君は将来、この家の夫人になるのだから」
「わ、私が……」
「そうだ。私に選ばれたのだから、胸を張ればいい」
その言葉に、ミリアは頬を赤らめた。
頑張ろう。
この人にふさわしい女性になろう。
そう心に決めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
だが。
現実は、ミリアが思っていたほど優しくなかった。
「奥様、お茶でございます」
「ありがとう」
ミリアがカップへ手を伸ばす。
その瞬間。
侍女がカップをわずかに遠ざけた。
「失礼いたしました。まだ奥様ではございませんでしたね」
周囲から、くすくすと笑い声が聞こえた。
ミリアは手を止めた。
「……そうね」
「申し訳ございません」
侍女は頭を下げた。
形だけの謝罪だった。
別の日には、ドレスを着替えようとしたところ、用意されていたものが明らかに小さかった。
「これ……着られないわ」
「まあ。平民の方は、お体が丈夫でいらっしゃるのですね」
また笑われた。
食事の作法を間違えれば笑われる。
言葉遣いを間違えれば笑われる。
知らない貴族の名前が出てくれば、
「まあ、ご存じないのですか?」
と驚いた顔をされる。
ミリアは必死に勉強した。
文字。
歴史。
礼儀作法。
家同士の関係。
夜遅くまで本を読み、朝早く起きて作法を学んだ。
それでも。
「平民ですものね」
その一言で終わった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「アルベルト様」
ある夜。
ミリアは勇気を出して彼に相談した。
「少し、お話があります」
「何だ?」
アルベルトは書類から顔を上げた。
「屋敷の方たちのことで……」
「使用人?」
「はい」
ミリアは迷いながら続けた。
「私が平民だから仕方がない部分もあると思うの。でも、少し……その……」
「何かされたのか?」
「はい」
ようやく聞いてくれた。
ミリアは少し安心した。
「食事をわざと遅らされたり、服を隠されたり、それから――」
アルベルトはため息をついた。
「ミリア」
「はい?」
「君は将来、この家の夫人になるんだ」
「……はい」
「その程度のことで弱音を吐いてどうする?」
ミリアは固まった。
「でも……」
「使用人たちも、突然平民の女性が主人になると言われて戸惑っているんだろう。君が立派な女性だと分かれば、いずれ認める」
「……」
「私の妻になるなら、それくらい乗り越えてくれ」
アルベルトは笑った。
「大丈夫だ。君ならできる」
優しい言葉のはずだった。
なのに。
なぜだろう。
とても冷たく聞こえた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それからもミリアは頑張った。
もっと勉強した。
もっと我慢した。
もっと笑った。
けれど。
ある日。
大切にしていた母からの手紙が暖炉へ捨てられているのを見つけた。
「どうして……」
侍女の一人が、悪びれる様子もなく答えた。
「平民から届いた紙など、夫人のお部屋には不要かと思いまして」
何かが切れた。
ミリアはその場を飛び出した。
ドレスの裾を持ち上げ。
髪を乱し。
誰に止められても構わず。
屋敷を出た。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「お姉ちゃん!」
家に戻ってきたミリアを最初に迎えたのは、妹のセラだった。
「どうしたの、その格好!」
「セラ……」
妹の顔を見た瞬間、ミリアは泣き崩れた。
「もう嫌……」
「うん」
「頑張ったの」
「うん」
「本当に、頑張ったのよ……」
セラは何も言わず、姉の背中を撫でた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日。
アルベルトがやってきた。
「ミリア!」
家の扉が勢いよく開く。
「心配したぞ!突然いなくなるなんて!」
ミリアは妹の隣に座ったまま、静かに答えた。
「もう戻りません」
アルベルトが固まった。
「何を言っている?」
「あなたの屋敷には戻らない」
「なぜだ!」
「私はずっと、いじめられていたの」
「……またその話か」
その言葉で、ミリアの表情が変わった。
「あなたは、私が苦しんでいることに気づかなかった」
「だから、それくらい乗り越えればいいと言っただろう?」
「助けてもくれなかった」
「ミリア」
アルベルトは苛立ったように眉を寄せた。
「君は私に見初められたんだぞ」
「……」
「平民だった君が、貴族夫人になれるんだ。多少の努力が必要なのは当然だろう?」
「努力はしました」
「なら、もっと努力すればいい」
「……」
「いじめられたなら、いじめられなくなるくらい立派になればいい。私の隣に立つなら、それくらいの器は持ってもらわなければ困る」
その瞬間。
セラが立ち上がった。
「お姉さま、もういいです」
「セラ?」
セラはアルベルトをまっすぐ見た。
「お姉さまは嫌がっております」
「私たちの問題に口を出すな!」
「お姉さまは家族です。家族が困っているから口を出しております」
アルベルトが顔をしかめた。
セラは続ける。
「あなた様とお姉さまは、生きてきた環境があまりにも違います」
「だから何だ?」
「違う環境へ入るなら、本人の努力だけではなく、迎える側の助けも必要でしょう」
「……」
「お姉さまは必死に学びました。でも、あなた様は何をしました?」
アルベルトの顔が引きつった。
「私は彼女を選んだ!」
「それだけですか?」
「何?」
「選んだだけですか?」
セラの声は静かだった。
「お姉さまが困っているときに気づきましたか?」
「……」
「何を学べばよいのか教えましたか?」
「……」
「使用人との間に立ちましたか?」
「……」
「何もしなかったのですね」
アルベルトの頬が赤くなった。
「まるで私が無能だと言いたいようだな!」
「そこまでは申しておりません」
セラは首をかしげた。
「ご自身でそう思われたのでしたら、何か心当たりがおありなのでは?」
「なっ……!」
ミリアは思わず妹を見た。
昔から口の強い子ではあった。
だが。
ここまでだっただろうか。
アルベルトは怒りを抑えるように息を吐いた。
「どんな身分であろうと、私に認められたなら幸せになれる!」
ミリアは、その言葉を聞いた。
そして。
ようやく分かった。
この人は。
自分が私を幸せにしていると、本気で思っている。
私が幸せかどうかではない。
自分が選んだのだから、幸せに決まっている。
そう思っているのだ。
「アルベルト様」
「何だ?」
「私は、幸せではありませんでした」
「だから、それは君が――」
「それが答えです」
ミリアは立ち上がった。
「あなたが何と言っても、私は幸せではなかった」
アルベルトは言葉を失った。
すると。
セラが突然言った。
「でしたら、私が参りましょうか?」
「え?」
ミリアとアルベルトが同時に妹を見た。
「セラ?」
「お姉さまは嫌なのでしょう?」
「それはそうだけど……」
セラはアルベルトを見る。
「私なら、あなた様のお屋敷へ参っても構いません」
アルベルトは戸惑った。
「お前が代わりに来るというのか?」
「はい。少なくとも、お姉さまよりは向いていると思います」
ミリアほどの美貌ではない。
だが、セラの目には妙な強さがあった。
「……本気か?」
「はい」
「セラ!」
「大丈夫よ、お姉さま」
妹は笑った。
「ちょっと見てくるだけ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
セラが屋敷へ入った翌日。
早速、一人の侍女が言った。
「平民の娘がまた来たのね」
セラは振り返った。
「あなた、お名前は?」
「え?」
「お名前です」
「……マリナです」
「そう。マリナね」
翌朝。
「マリナ。昨日お願いした青いドレスは?」
「……用意しておりません」
「そう」
セラは頷いた。
そして、その日の夕方。
「アルベルト様」
「何だ?」
「侍女のマリナが、お願いした衣装を二度用意してくれませんでした」
「何?」
「あと、侍女長のクララは私の食事を三度遅らせています」
「名前まで覚えているのか?」
「仕事をお願いする相手ですもの。当然でしょう?」
セラは紙を一枚差し出した。
「それと、厨房のエレナは何も問題ありません。むしろ食事の時間を守ろうとしてくれていますので、注意なさらないでください」
アルベルトは紙を見る。
そこには。
誰が。
いつ。
何をしたか。
何度目か。
すべて書いてあった。
「……分かった。確認しよう」
「お願いいたします」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌日。
セラはマリナを呼んだ。
「昨日の件ですが、アルベルト様から指示が出ました」
侍女の顔色が変わった。
「わ、私は……」
「あなたを辞めさせるつもりはありません」
「え?」
「仕事はできる方でしょう?」
「……はい」
「でしたら、仕事をしてください」
セラは微笑んだ。
「私が平民なのが気に入らないのは構いません。ですが、その感情と仕事は分けてください」
「……」
「できませんか?」
マリナはしばらく黙ったあと、
「……できます」
と答えた。
「では、お願いします」
それから。
屋敷の空気が少しずつ変わった。
セラは誰かに嫌われても、泣かなかった。
怒鳴りもしなかった。
誰が何をしたのか。
どう困るのか。
どうしてほしいのか。
それを一つずつ伝えた。
仕事のできる者は評価した。
間違えた者には指摘した。
意地悪には毅然と対応した。
数か月後。
マリナがセラに言った。
「今日のドレスはこちらでよろしいでしょうか?」
「ええ。ありがとう」
「……似合うと思います」
「そう?」
「はい」
セラは笑った。
「ありがとう、マリナ」
いつしか。
平民だからという理由で彼女を馬鹿にする使用人はいなくなっていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
アルベルトは得意げだった。
「やはり私の考えは間違っていなかった」
「何がです?」
「身分など関係ないということだ」
「……」
「君は平民だが、立派にやっている」
セラは少し考えた。
「そうですね」
「そうだろう?」
「ただ」
「何だ?」
「私は、あなた様に選ばれたから立派にやっているわけではありませんよ?」
アルベルトが固まった。
「……何?」
「私が努力したからです」
「それは――」
「そして、今回はあなた様も話を聞いてくださいました」
「……」
「それがなければ、私も出て行っていたと思います」
アルベルトは黙った。
セラはにっこり笑う。
「少しは成長されましたね」
「君は私を何だと思っているんだ」
「お姉さまを泣かせた人です」
アルベルトは何も言い返せなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから一年後。
王城で大きな夜会が開かれた。
セラもアルベルトに伴われて出席していた。
そこで、一人の若い貴族が酒に酔い、王女へ無礼な言葉を吐こうとした。
「王女殿下、あなたは――」
その瞬間。
セラが男の前へ滑り込んだ。
「まあ!」
わざとらしく声を上げる。
「大変。お酒をこぼしてしまわれましたわ」
「え?」
男の手に持っていた杯を、さりげなく受け取る。
「ずいぶんお飲みになったようですね」
周囲の者へ笑顔を向けた。
「どなたか、この方を休憩室へお連れして差し上げて」
男が何か言おうとする。
セラは小さな声で囁いた。
「今なら、酔っていただけで済みます」
男の顔色が変わった。
そのまま連れ出される。
夜会は何事もなかったかのように続いた。
一部始終を見ていた王女が、セラを呼び止めた。
「あなた」
「はい、王女殿下」
「名前は?」
「セラと申します」
「うちへ来ない?」
「……はい?」
アルベルトも固まった。
王女は楽しそうに笑う。
「侍女になってほしいの」
「私が、ですか?」
「ええ。あなた、面白いし、気が利くわ」
「ですが……」
セラはアルベルトを見た。
彼は何か言おうとしていた。
すると王女が首をかしげる。
「婚約しているの?」
「しておりません」
「そう」
王女は笑った。
「なら問題ないわね」
アルベルトの顔が引きつった。
「少々お待ちください、殿下!」
セラは少し考えた。
そして。
王女へ深く頭を下げた。
「ぜひ、お仕えしたく存じます」
「セラ!?」
「アルベルト様」
「何だ!」
「これまでお世話になりました」
「君は私の妻になるのではなかったのか!?」
セラは目をぱちぱちさせた。
「そのような約束をした覚えはございませんが」
「なっ……!」
「私は『屋敷へ行っても構わない』と申し上げただけです」
王女が吹き出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数年後。
セラは王女の側近として頭角を現した。
王族や大貴族の間で起こる問題を巧みに処理し、時には厳しく、時には柔らかく人を動かした。
やがてその才覚を見込まれ、とある大貴族の嫡男と結婚した。
最初に婚約を破棄された令嬢もまた、のちに別の相手と結ばれた。
「あの婚約がなくなったことが、私にとっては幸運でした」
と笑っていたという。
一方。
ミリアは故郷の町で暮らしていた。
商店で働き。
近所の人たちと笑い。
休日には家族と食事をする。
華やかではない。
けれど。
「ただいま!」
「おかえり、お姉ちゃん」
久しぶりに帰ってきたセラを、ミリアは笑顔で迎えた。
二人で夕食を囲んでいたとき。
ミリアはふと尋ねた。
「ねえ、セラ」
「なあに?」
「どうして、あなたは平気だったの?」
「何が?」
「貴族の世界」
ミリアは少し寂しそうに笑った。
「私はあんなに苦しかったのに。あなたはどんどん偉くなって」
「……」
「同じ親から生まれた姉妹なのに、どうしてこんなに違うのかなって」
そのとき。
母親がきょとんとした。
「何を言ってるの?」
姉妹が母を見る。
「あれ?話してなかったかしら?」
「何を?」
「セラは養子よ」
沈黙。
「……え?」
ミリアが固まった。
セラは普通に食事を続けていた。
「セラ?」
「うん」
「知ってたの?」
「知ってたわよ」
「何で私が知らないの!?」
母親が困った顔をした。
「小さい頃に一度話したでしょう?」
「覚えてない!」
「そうなの?」
「そうよ!」
母親は頬へ手を当てる。
「昔、お父さんがお世話になっていた貴族の方から預かったの。事情があって表には出せない子だからって」
ミリアが妹を見る。
「じゃあ……」
母親は声を落とした。
「王家につながる血筋だって聞いているわ」
ミリアは目を見開いた。
そして。
しばらく考えたあと。
「あ」
思い出した。
確かに。
小さい頃、一度だけそんな話を聞いた気がする。
だが。
「……忘れてた」
セラが呆れた。
「よく忘れられたわね」
「だって、私の方が美人だったし」
「それ関係ある?」
「あると思ってたの!」
セラはため息をついた。
ミリアも笑った。
そして。
しばらくして言った。
「でも、やっぱり血筋なのかな」
セラは首を横に振った。
「違うと思う」
「え?」
「生まれや育った環境が影響することはあるでしょうね」
セラは姉を見る。
「でも、お姉さまが貴族の暮らしに向いていなかったからって、お姉さまが劣っているわけではないわ」
「……」
「私は、ああいう場所で誰かと交渉したり、問題を片づけたりするのが好きなの」
「好きなの?」
「好きよ」
「変わってる」
「よく言われるわ」
二人は笑った。
「お姉さまは今、幸せ?」
セラが尋ねた。
ミリアは少し考えた。
家族。
仕事。
友人。
静かな毎日。
「うん」
笑顔で答えた。
「幸せ」
「なら、それでいいじゃない」
ミリアは頷いた。
創造神を祀る聖教会では、こう教えられている。
運命は、自ら選び取ることができる。
人にはそれぞれ、得意なことも、苦手なこともある。
誰かにとっての幸せが、自分にとっても幸せだとは限らない。
大切なのは。
自分が何を望み、どこで生きたいのかを、自分自身で選ぶこと。
姉は、平穏な町で暮らす道を選んだ。
妹は、王侯貴族の中で生きる道を選んだ。
どちらが上でも。
どちらが下でもない。
二人はただ。
それぞれ自分に合った幸せを見つけたのだ。
ちなみに。
その後のアルベルトについて。
彼はしばらく、
「セラも私に選ばれたからこそ、王女殿下に認められたのだ」
と言っていたらしい。
それを聞いたセラは、一言だけ返した。
「まだ分かっていないのですね」
どうやら。
人が自分自身を理解することだけは、少し時間がかかるらしい。




