「愛が重すぎる」と捨てられた聖女、隣国の冷徹王太子に「その重さがちょうどいい」と拾われる
シャーロット・ファーレンは、その夜のために一ヶ月かけてドレスを選んだ。
淡い薔薇色のシルク。肩口を飾る繊細なレース。裾の小さな刺繍の連なり。
仕立て屋が「お嬢様の婚約者殿もきっと目を奪われますよ」と言ったとき、シャーロットは嬉しそうに頬を染めた。
*
王都の大広間は、すでに花で埋め尽くされていた。
魔王討伐を成し遂げた英雄・レクスの凱旋を祝う宴。百を超える蝋燭が天井のシャンデリアに灯り、光の粒が大理石の床を濡らしている。
各国の貴族が絢爛たる衣装を纏い、一夜の主役を讃えるべく集まっていた。
シャーロットは人混みの端に立ち、そっと絹の手袋の指先を合わせた。
胸の奥がじわりと温かい。それが彼女の魔力だった。相手を思うたびに溢れ出す、制御しきれないほどの光。
聖女としての力と、ひとりの少女としての想いが、分かちがたく混じり合ったもの。
二年前、魔王討伐の旅に赴くレクスを支えるため、シャーロットはレクスに請われ王宮付き聖女の職を辞した。
彼の魔力が枯渇するたびに傍らに立ち、自分の魔力を分け与えた。砂漠の渇きを潤すように彼女の魔力は常にレクスを満たしてきた。
「ねえ、シャーロット。今日はどのくらい注ぎ込んでくれるの?」と彼が尋ねるたびに、彼女は「全てよ」と答えた。
それが愛だと思っていたから。
「シャーロット」
低い声に振り向けば、人混みをかき分けてレクスが近づいてきていた。金髪を整髪料で固め、勇者の証である蒼い勲章を胸に飾っている。
しかし彼の隣には、見知らぬ女性がいた。艶やかな黒髪、涼し気な切れ長の瞳。シャーロットより少し年上に見える、美しい女性。
「話がある」
レクスは周囲の喧騒にもかかわらず、まるで天気の話でもするように軽い調子で言った。
嫌な予感が、シャーロットの背筋をゆっくりと撫でた。
「君の魔力は、重すぎる」
そのひと言で、大広間の喧騒がすべて遠のいた気がした。
「俺の魔力回路が、耐えられないんだ。君が俺を想えば想うほど、供給量が増えて……パンクしそうになる。依存されるのは、もううんざりだ」
シャーロットは口を開いたが、言葉が出なかった。
この世界において、聖女の魔力供給は、愛そのものだ。対象を愛し、慈しみ、心からの献身を捧げることで、初めて魔力は相手の魂に染み渡る。
シャーロットは今まで持てるすべての祈りと魔力を注いできた。
ただ、レクスが戦地で傷つかないように、苦しまないように、と。
「君の魔力は息が詰まる。悪いが、今日限りで婚約を破棄させてもらう。俺には彼女のような、適度な距離感で支えてくれるパートナーが必要なんだ」
傍の女性は、シャーロットを一瞥し、微かに唇の端を持ち上げた。同情とも優越とも取れる、歪んだ笑みだった。
レクスはもう用はないと言うように顔を背けると、女性の腰に手を回して歩み去った。宴の光の中に、二人の影がゆっくりと溶けていく。
シャーロットはその場に立ち尽くした。
周囲の貴族たちの嘲笑。ひそやかな声。
「供給過多の欠陥聖女」
「愛が重すぎて捨てられた哀れな女」
足元が崩れ落ちるような感覚の中、私はただ俯いた。
確かに欠陥品だったのだ、とシャーロットは思った。聖女として、女として、愛する者として。自分はずっと、欠陥品だったのだ。
踵を返そうとして、足がもつれた。
なんとか壁際まで下がり、柱に背を預ける。賑やかな宴の喧騒が、まるで別世界のことのように聞こえた。
目の前に、ひとりの男が立った。
シャーロットは顔を上げた。
年のころは二十歳前後だろうか。黒を基調とした軍服は、豪奢な宴の中でも存在感がある。
整った顔立ちは表情を持たず、長い睫毛に縁取られた瞳は、まるで研磨された鋼のように冷たく光っている。
胸元には、見慣れぬ紋章。鷹が翼を広げた、隣国ガルア帝国の紋章だった。
「あ……」
「勇者がそんなことを言い出すほどの魔力とは、どんなものか」と彼は言った。
声は低く、感情の温度を感じさせない。しかし不思議と、耳には優しく届いた。
「興味があった。少し分けてもらえるか」
シャーロットが何か言う前に、男の手がそっと彼女の手を掬い上げた。
次の瞬間、シャーロットは息を呑んだ。
胸の奥に溜まっていたものが、堰を切ったように流れ出す感覚。今まで向ける先を失い、行き場を探し続けていた膨大な魔力が、まるで大海に流れ込む川のように、男の掌に吸い込まれていった。
(全部……吸い込まれていく)
苦しくはなかった。むしろ、心地よいほどだった。長い間、胸の中に鬱積していた何かが、ようやく解放されていくような。
しばらく沈黙が続き、男は静かに手を離した。
「……信じられん」
彼は低くつぶやいた。先ほどとは明らかに違う声音。声には驚きの色が滲んでいた。
「これほど濃密な魔力を……あの男は『重い』と捨てたのか」
ゆっくりと、彼の目がシャーロットを捉えた。
「ならば」と彼は言った。
「私がすべていただこう。私の国へ来い。君のその重すぎる愛を、一滴も余さず私が受け止めてやる」
シャーロットは、すぐには言葉の意味が飲み込めなかった。
男は初めて、僅かに口角を持ち上げた。微笑み、と呼ぶには小さすぎたが、そこには温度があった。
「私はレオンハルト・フォン・ガルア。ガルア帝国の王太子だ。君の名を聞かせてほしい」
大広間の向こうで、歓声が上がった。宴は最高潮に達しようとしていた。
その喧騒の中で、シャーロット・ファーレンの人生は、静かに、しかし決定的に、変わったのだった。
*
ガルア帝国は、シャーロットが想像していたよりずっと、広かった。
王都ヴァルシュタットの宮殿は、彼女の生まれた小国の王城が三つは収まってしまうほどの規模を持ち、天高く伸びる尖塔が五つ、空を刺していた。宮殿を囲む庭園には、色とりどり花が咲き乱れ、朝ごとに鳥の声が絶えなかった。
「こちらがお部屋でございます、シャーロット様」
案内の侍女に連れられ、シャーロットは己の私室の扉を開いた。
「まぁ……!」
シャーロットは思わず声をあげた。
天蓋付きの大きなベッド。淡い水色と金で統一された壁紙。高い天井からは大ぶりのシャンデリアが下がり、陽光に縁取られた窓からは中庭の噴水が見える。棚には既に真新しい本が並んでいた。
「これが……私の部屋、ですか?」
「はい。殿下が直々にお選びになりました。何かご不満の点がありましたら、遠慮なくお申し付けください」
シャーロットは室内をぐるりと見渡し、ゆっくりと息を吐いた。
一週間前、彼女は手荷物ひとつで帝国へとやってきた。正確には「連れ帰られた」と言うべきかもしれない。
あの夜の大広間でレオンハルトに名を明かし、魔力を吸い上げられ、翌朝には帝国行きの馬車に乗っていた。逃げる間も、拒む間もなかった。
しかし不思議なことに、恐怖はなかった。
(この人は、私の魔力を「重い」と言わなかった)
それだけで、シャーロットは十分だった。
専属聖女として帝国宮廷に迎えられたシャーロットは、初めの数日をおそるおそる過ごした。レオンハルトに会う機会は朝夕の魔力供給の時間に限られ、その他の時間は己の部屋で本を読むか、侍女たちと話して過ごした。
魔力を渡す際、シャーロットはできるだけ量を絞るよう心がけていた。
(重すぎると、嫌われる。今度こそ、ちゃんとしなければ)
レクスの言葉が今も耳に残っていた。だから彼女は、胸の奥から溢れようとする感情を懸命に押さえつけ、細く、細く、魔力を絞り出した。
しかし、レオンハルトはそれに気づいた。
私室の執務机で書類に目を通しながら、彼はシャーロットの差し出した手を握り、魔力を受け取った。そして途中で、静かに手を止めた。
「抑えているな」
断言だった。問いではなく、確認だった。
シャーロットはびくりと肩を震わせた。
「あの……ご迷惑をおかけしないように、と思って……」
「迷惑?」レオンハルトは眉をかすかに動かした。
「私が困っているように見えるか?」
「いいえ!でも……重すぎると……」
「前の男の話はどうでもいい」
彼はそう言って、シャーロットの手をぐっと引き寄せると、目を見つめた。
普段は冷えた鋼の眼差しが、今この瞬間だけ、わずかに違う温度を帯びる。
「私の器はな、シャーロット」と彼は続けた。「歴代の王族でも最大と言われている。魔力量が大きすぎて、常に足りない状態にある。本来あるべき満ち方を、私は生まれてこのかた一度も知らない」
「…………」
「君が抑えれば抑えるほど、私の渇きは続く。それが君の望みか?」
シャーロットは唇を噛んだ。
「抑えるな」と彼は静かに言った。
「君が私を想えば想うほど、私は安らぐ。それは事実だ」
「……でも」
「もっと私を想え」
まるで命令だった。しかしその声には、奇妙な切実さがあった。
「私のそばから離れるな」
シャーロットは目を瞬かせた。しばらく沈黙してから、ゆっくりと息を吸った。
胸の奥の蛇口を、少しだけ緩める。
たちまち、温かいものが流れ出した。
レオンハルトの目が、微かに見開かれた。そして彼は静かに目を閉じると、呟いた。
「……これこそが、私に必要なものだ」
その言葉を聞いた瞬間、シャーロットの心の冷たく凍りついていた部分が、ゆっくりと解けていくのがわかった。
*
宮殿でのシャーロットの評判は、思いのほか早く広まった。
「殿下が最近、倦怠感を訴えなくなった」
「過去に例を見ないほど魔力が安定しておられる」
「あの聖女、ただ者ではない」
そんな声があちこちで聞かれるようになり、シャーロットへの視線は、好奇からいつしか尊敬に変わっていった。
他国から訪れた魔術師が「聖女様の魔力は、まるで春の光のようだ」と言った。
上級騎士たちが演習後に「少しだけ分けてもらえないか」と控えめに頼みに来た。
年老いた宮廷医が「これほどの供給ができる聖女は、三百年ぶりだ」と目を潤ませた。
シャーロットは、最初それが信じられなかった。
(欠陥品の私が、こんなに……?)
しかし侍女のマリーが「シャーロット様のおかげで、今年の演習では一人も魔力切れで倒れる者が出なかったんですよ」と嬉しそうに言うのを聞き、シャーロットは驚いた。
自分の「重すぎる愛」が、ここでは誰かを傷つけるどころか、救っている。
レオンハルトとシャーロットの二人の距離も少しずつ縮まっていった。
二人は、朝夕の魔力供給時間に限らず、気づけば常に寄り添うようになっていた。
そして関わりの中で、シャーロットは気づかぬうちに、笑顔を取り戻しつつあった。
ある夜、書斎でレオンハルトが難しい顔をして書類の山と格闘しているのを見て、シャーロットは黙って隣の椅子に座り、手を差し出した。
「……何だ」
「なんとなく、必要かなと思って」
レオンハルトはしばらく書類を見つめ、それから静かに手を握った。
「……そうだな」
その顔には、すでに出会った頃の冷酷さはなく、明らかな笑みが浮かんでいた。
その夜、書斎に灯った蝋燭が燃え尽きるまで、二人は共にいた。
レオンハルトの変化は確かなものとして積み重なっていった。
レオンハルトは、もともと感情を表に出さない人間だった。
生まれながらに「歴代最強の魔力の器」を持ち、その巨大すぎる器のせいで常に魔力不足に苦しんできた彼は、幼い頃から倦怠感と疲弊の中にいた。
それは傍目には「冷徹」「無感情」として映ったが、実際は——常に乾き続けていた、ということだった。
砂漠の土が雨を待つように。枯れた川床が水を求めるように。
彼の器は、シャーロットの魔力を得て、初めて本来の形で満たされた。
満たされた器は、自らの本来の機能を思い出す。
彼は少しずつ、変わり始めた。
書類仕事の合間に庭を歩くようになった。侍女たちへの言葉が、少し柔らかくなった。演習から戻った騎士たちをねぎらう場に顔を出すようになった。そして——シャーロットが部屋で他の侍女たちと笑い声を立てているのを、そっと確認するようになった。
侍女のマリーが「最近の殿下は、人間らしくなられましたね」と囁き、上官の騎士が「これが魔力補給の効果か?」と首を傾げた。
二人の間の変化を、宮廷中が静かに見守っていた。
*
数ヶ月後、平和な日常を切り裂くように、不快な訪問者が現れた。
帝国の謁見の間。
そこに立っていたのは、ボロボロの鎧を纏い、顔を歪ませたレクスだった。
彼の隣にいたはずの新しい恋人は姿が見えない。
「シャーロット!迎えに来たぞ。さあ、一緒に帰るんだ!」
レクスは、レオンハルト様の膝の上で大切そうに抱きしめられている私を見て、顔を真っ赤にした。
「な.....なんだその格好は!帝国に洗脳されているのか?」
レオンハルトは、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「洗脳?違うな。彼女はただ、自分を真に必要とする者のところにいるだけだ」
「ふざけるな!シャーロットは俺の婚約者に戻す」レクスは感情的に声を荒げると、シャーロットをじっと見つめて言った。
「また君のそばにいてやる。君の魔力が必要なんだ、シャーロット」
その言葉に、かつてのシャーロットなら手が震えたかもしれない。嬉しさに目が潤んだかもしれない。
しかし今は違った。
「お断りします」
シャーロットの声は、驚くほど落ち着いていた。
シャーロットは、レオンハルトの腕の中から、一歩前に出た。
今では、最高級のシルクのドレスを纏い、肌も髪も、レオンハルトの愛を浴びて輝いている。
レクスが目を瞬かせた。
「は?」
「あなたのもとには戻らない、と言っているの」
「なに……? 君は——」
レオンハルトが立ち上がり、シャーロットの肩を抱き寄せた。
その手には、いくつかの書類が握られている。
「レクス・ロードン」
レオンハルトが初めて口を開いた。
静かに、しかし場を支配する声で言う。
「君がシャーロットに行ってきた行為の証拠なら、手元に十分ある」
レクスの顔色が変わった。
「公衆の面前での侮辱。一方的な婚約破棄。二年間にわたる感情的な人格の支配、魔力の独占。どれも、国際的な聖女保護条約に抵触する可能性がある」
「そんなもの、大げさだ。俺はただ——」
「お前は、彼女の魔力を重いと切り捨てた。だがそれは、お前自身の器が、コップほどもなかったという証拠にすぎない。海を受け止めるには、海と同じだけの器が必要なのだよ」レオンハルトの放つ威圧感に、レクスは膝をついた。
彼は戦地での敗北により、すでに本国でも立場を失いかけていた。
「シャーロット、頼む.......!俺が悪かった!君の魔力がないと、俺はもう......!」
「もう、あなたに差し上げる魔力はありません」
シャーロットはきっぱりと告げた。
「私の魔力は、すべて、この方のためにありま
す」
カイルは衛兵によって引き立てられ、無様に叫びながら連れ去られていった。
*
嵐が去った後のバルコニー。
月明かりの下で、レオンハルトはシャーロットを背後から包み込んだ。
「よく言ったな、シャーロット」
「.....はい。でも、本当にいいのでしょうか。
私は、やはり、愛し始めると止まらなくなってしまいます。いつか、レオンハルト様でさえ、私の魔力が重すぎて嫌になる日が来るかも......」
シャーロットの不安を遮るように、額に口づけが落とされる。
「まだそんなことを言っているのか」
レオンハルトは、シャーロットの瞳を覗き込んだ。
「いいか、よく聞け。君の魔力が重すぎて溢れそうなら、私はさらに研鑽を積み、私の器をさらに広げるだけだ。君がどれだけ注いでも、まだ足りないと言ってやる」
レオンハルトはシャーロットの手をとり、自分の心臓の上に置いた。
そこには、ドクドクと力強い鼓動とともに、シャーロットから流れ込んだ魔力が渦を巻いている。
「一生かけて、私に愛を注ぎ続けろ。一滴も漏らさず、私が受け止めてやる」
声は低く、静かで、しかし揺るぎなかった。
*
婚儀は翌春に行われた。
帝国中が、かつてない祝賀に包まれた。
城下の市場では祝い菓子が配られ、五つの尖塔すべてに帝国旗が翻った。
招待された各国の使節が居並ぶ大広間に、白と金のドレスに身を包んだシャーロットが入場したとき、参列者の間から静かなどよめきが起きた。
花嫁の頬は健やかに輝き、その瞳は穏やかで、しかし揺るぎない光を持っていた。
誓いの言葉の時間が来た。
レオンハルトはシャーロットの手を取り、言葉の代わりに深く口づけた。
シャーロットはその瞬間、胸の奥の蛇口を——今度こそ全力で開いた。
溢れ出す光が、大広間を満たした。
それは壁を伝い、柱を包み、天井のシャンデリアをさらに輝かせた。
参列者たちは思わず息を呑み、その光の中で、誰もが奇妙な温かさを感じた。疲れが癒えるような、孤独が薄れるような、そんな感覚。
シャーロット・ファーレンの「重すぎる愛」は、大広間の全員を包んだ。
そしてレオンハルトは、その光のすべてを、ひとつも漏らさず、受け止めた。
供給過多の聖女と、無限の器を持つ王子。
二人の間に流れるのは、世界で一番重くて、一番甘い、永遠の魔力だった。




