『イシューイシュー言ってる君たちへ──それ、日本語で説明できますか?』
白坂リサが「イシュー」「ワンイシュー」と繰り返しているのを見て、なるほどと思った。
中身を深くしたいのではない。
中身が深そうに見える席を、先に取りたいのだ。
少し前まではマニフェストだった。
そのあとアジェンダが流行った。
それからエビデンスが来た。
そして最近はイシューである。
時代ごとに、必ずこういう言葉が出てくる。
短くて、横文字で、賢そうで、しかも便利だ。
意味をきちんと説明しなくても、分かっている側の顔だけは作れるからである。
不思議なのは、そういう言葉が流行るたび、それを使う人間まで一緒に増えることだ。
しかも、だいたい似たような顔をしている。
意味を理解している顔ではない。
賢そうに見えている自分に、うっすら酔っている顔だ。
別にイシューという言葉自体が悪いのではない。
問題は、その言葉を置いた瞬間に、何か本質的な整理をした気になれる、あの軽さだ。
日本語で言えば済む話なのである。
何をいちばんの争点としているのか。
何を後回しにするのか。
何を優先して決めたいのか。
何を捨てて、何を残すのか。
そこまで降りてこないまま、「イシュー」「ワンイシュー」と繰り返されると、こちらはだんだん嫌な気分になる。
中身を詰めているのではない。
中身を詰めているように見える位置だけ、先に取りに来ている。
そう見えるからだ。
マニフェスト。
アジェンダ。
エビデンス。
イシュー。
並べるだけで、なんとなく“分かっている側”に立てた気がする。
口にした瞬間、少し上から物を言う資格を得た気がする。
聞かされた側も、うっかりすると押される。
何か本質を見ている人なのかな、と。
だが、たいていは違う。
本当に分かっている人は、そこで止まらない。
言葉を出したあとに、ちゃんと降りてくる。
何を意味しているのか。
何が問題なのか。
何を決めたいのか。
何を根拠にそう言うのか。
どこまで言えて、どこから先はまだ言えないのか。
そこまで日本語で言う。
逆に言えば、横文字を出した瞬間に説明を終えたことにする人間は、かなり怪しい。
というより、かなりの確率で薄い。
横文字そのものが悪いのではない。
専門用語が必要な場面はある。
分野によっては、日本語に無理やり直すほうが不自然なこともある。
問題は、横文字を道具ではなく、煙幕として使う人間だ。
マニフェストと言えば、公約を語った気になれる。
アジェンダと言えば、整理した気になれる。
エビデンスと言えば、理性的な側の顔ができる。
イシューと言えば、相手より一段深いところを見ている顔ができる。
便利すぎる。
便利すぎる言葉は、人間を賢くするのではない。
考えなくても、考えている顔だけ作れるようにする。
たとえば、エビデンス。
言っていること自体は正しい。
根拠は必要だ。
だが、この言葉は雑に使うと、ひどく卑怯な武器になる。
「エビデンスありますか」
これだけで、相手の話に穴があるように見せられる。
こちらが何を立証したいのか。
どの程度の根拠を要求しているのか。
自分は何を前提にしているのか。
そういう面倒な部分は全部棚に上げたまま、理性派の顔だけは作れる。
しかも便利なことに、エビデンスという言葉は曖昧なままでも使える。
数字でもいい。
統計でもいい。
事例でもいい。
論文でもいい。
一次情報でもいい。
要するに、なんとなく根拠っぽいものを指差せば成立した気になれる。
こんな都合のいい言葉を、思考の浅い人間が好きにならないわけがない。
要するに、責任ある説明をしているように見せながら、実際には説明責任から逃げているだけ、という場面が山ほどある。
そして、その次に来たのがイシューである。
これがまた、エビデンスよりさらにいやらしい。
エビデンスは、まだましだ。
少なくとも根拠に降りる余地はある。
だがイシューは違う。
あれは土俵そのものをいじれる。
「それはイシューではない」
「イシューが違う」
「本質的なイシューは別にある」
こう言った瞬間、相手の話は入口で不採用になる。
事実関係を点検しなくてもいい。
数字を見なくてもいい。
相手の主張が正しいかどうかを検討しなくてもいい。
「そもそも論点が違う」で追い返せる。
実に楽だ。
中身で勝たなくていいのだから。
反論を処理したのではない。
問題設定の支配権を奪って、勝ったふりをしているだけだ。
これほど怠け者に優しい言葉はないだろう。
使う側にとっては。
だから最近イシューが流行るのは、よく分かる。
エビデンスより強そうに見えるからだ。
エビデンスはせいぜい「根拠を出せ」でしかない。
だがイシューは、「お前は入口にも立てていない」と言える。
説明する前に、格付けだけ済ませられる。
ずいぶん楽な知性である。
本来、考えるとは面倒なことだ。
何が争点なのか。
何を優先するのか。
何が分かっていて、何がまだ分からないのか。
どこまで言えて、どこから先はまだ言えないのか。
そういう面倒な仕分けをして、やっと議論は形になる。
だが横文字は、その面倒を飛ばせる。
少なくとも、飛ばしたように見せられる。
「エビデンス」
「イシュー」
そう言った瞬間、考えた気になれる。
何も整理していなくても、周囲にだけは“整理している人”として映ることがある。
その甘さに、人が飛びつかないわけがない。
だから私は、横文字を多用する人を見ると、まず中身を疑う。
失礼だとは思う。
だが経験上、その疑いはだいたい当たる。
本当に分かっている人は、もっと地味だからだ。
「今回決めたいのは何ですか」
「今必要なのは事実確認です」
「その数字だけでは、そこまで言えません」
「論点を広げず、まずここを整理しましょう」
これで済む。
全部、日本語で済む。
そして、それで済む話をわざわざ横文字で飾る人間は、たいてい飾りが本体だ。
逃げ場がない分だけ、日本語は残酷だ。
何を言っているかがはっきりする。
何を言っていないかもはっきりする。
だから責任も発生する。
横文字好きが嫌っているのは、たぶんそこだ。
意味の明確さと、責任の発生だ。
だから本当に頭を使っている人ほど、実は言葉が地味になる。
逆に、抽象語と横文字ばかりが前に出る人は危ない。
なぜ危ないのか。
簡単だ。
言葉の強さで、中身の弱さを補っている可能性が高いからだ。
話の中身で勝てない。
だから話し方で勝とうとする。
具体で詰めると粗が出る。
だから抽象で包む。
説明すると責任が発生する。
だから横文字で滑らせる。
要するに、知性ではなく、知性っぽさを売っている。
中身ではなく、雰囲気を売っている。
思考ではなく、ポーズを売っている。
最近は、この手の話し方が言論の場で露骨に増えた。
テレビでも、ネットでも、演説でも、討論でも、コメントでもそうだ。
まず大きな言葉を置く。
誰も反対しづらい言葉を置く。
ダイバーシティ。
サステナブル。
レジリエンス。
ガバナンス。
そういう言葉を置けば、とりあえず高い視点の人の顔ができる。
だが、そのあとが空っぽだ。
何をやるのかが曖昧。
何を切るのかも曖昧。
何を優先するのかも曖昧。
責任の所在も曖昧。
期限も曖昧。
曖昧なくせに、口ぶりだけはやたら強い。
中身はふわふわしているのに、態度だけは硬い。
あれを見ると、知的なのではなく、知的に見せる練習だけ上手くなったのだなと思う。
そして、あえて言う。
最近は、そういう“強そうに見える話し方”を身につけた若い女性論客をよく目にする。
ここで雑に「女性差別だ」と騒ぐ人が出るのは分かっている。
だが、その逃がし方には乗らない。
問題にしているのは女であることではない。
短く切る。
横文字で輪郭だけを作る。
具体は後ろに逃がす。
断定口調で主導権だけを取る。
そういう話法が“有能そうに見える型”として流通していることだ。
そして、その型に乗って前に出てくる人間が、最近かなり目立つということだ。
もちろん、男にも山ほどいる。
ただ、今の言論空間では、あの手の滑らかな抽象語話法を武器にしている若い女性論客が妙に目につく。
たぶん、切れ味よく見える。
たぶん、堂々として見える。
たぶん、賢く見える。
実際に賢いかどうかは別として。
某都知事あたりを思い浮かべる人もいるだろう。
短く切る。
抽象語を置く。
否定しづらい空気を先に取る。
具体と責任はなるべく後ろに送る。
あの手の話し方だ。
もちろん、問題は本人ひとりではない。
むしろ、ああいう型が「有能そうに見える語り口」として量産され、複製されていることのほうが気持ち悪い。
内容よりも口当たり。
説明よりも印象。
意味よりも雰囲気。
そこに全振りしても、ある程度は通ってしまう。
ずいぶん安い言論空間になったものだと思う。
なぜそんなものが幅を利かせるのか。
理由は単純だ。
話し方で勝てる環境では、中身を詰める誘因が消えるからだ。
本来なら、中身を詰めるのは苦しい。
具体に落とすのは苦しい。
優先順位を決めるのは苦しい。
何かを捨てれば反発が来る。
数字を出せば検証される。
期限を切れば責任が発生する。
だから普通は、できればそこへ行きたくない。
その点、横文字と抽象語は優しい。
言っただけで高級感が出る。
意味をぼかしたままでも深そうに見える。
反対されにくい言葉を選べば、場も取りやすい。
しかも短い。
頭が切れるように見える。
中身がなくても。
要するに、苦しい中身の作業をせずに、“考えている人”の席だけ先に取れるのだ。
そんなものが流行らないわけがない。
怠けたい人間、賢く見られたい人間、責任を負いたくない人間にとって、これほど都合のいい道具はない。
だが、その代償は大きい。
会話が痩せる。
議論が痩せる。
政策も痩せる。
言論全体が、言葉の強さだけを競う空間になる。
そこで勝つのは、よく考えた人間ではない。
よく見せた人間だ。
かなり悲惨である。
だが、今起きているのはたぶんそれだ。
なぜなら、見せ方だけが強い人間は、具体に下りた瞬間に弱いからだ。
抽象では滑るように喋れる。
だが、「で、何をやるんですか」「で、誰が責任を取るんですか」「で、その根拠は何ですか」と日本語で詰められると、とたんに足が止まる。
それでもまた横文字に逃げる。
逃げて、逃げて、逃げた先で、“なんとなく正しい感じ”だけを残す。
あれを知性と呼ぶのは、知性に失礼だと思う。
はっきり言えば、あれは中身の薄い人間が身につけた防御技術である。
賢さではない。
空疎さを見えにくくする技術だ。
もちろん全員ではない。
だが、多用する人間ほど疑われて当然だ。
なぜなら、分かっている人は日本語で言えるからだ。
これが結論である。
エビデンスと言うなら、何を根拠と呼んでいるのか、日本語で言え。
イシューと言うなら、今どこを問題として扱っているのか、日本語で言え。
ワンイシューと言うなら、何を唯一の争点として扱い、何を切り捨てるのか、日本語で言え。
レジリエンスと言うなら、何に耐える設計で、何を維持するのか、日本語で言え。
サステナブルと言うなら、何を持続させ、何を諦めるのか、日本語で言え。
ダイバーシティと言うなら、具体に何を変えるのか、日本語で言え。
そこまで降ろせないなら、その言葉は思考の道具ではない。
飾りだ。
隠れ蓑だ。
化粧だ。
中身の薄さに、知的っぽい粉をはたいているだけだ。
難しい言葉を使うことと、頭がいいことは別である。
むしろ、難しい言葉に頼るほど、頭の悪さが透けることすらある。
本当に賢い人は、相手に伝わる言葉を選ぶ。
本当に考えている人は、言い換えを嫌がらない。
本当に責任を持つ人は、抽象のまま逃げない。
だから、見分け方は一つでいい。
その言葉、日本語で言うと何ですか。
ここで説明に降りてこられないなら、その言葉は思考ではない。
飾りだ。
威圧だ。
雰囲気だ。
中身の薄さを、大きく見せるための道具だ。
できないなら、もう喋らないほうがいい。
賢くないことより、賢いふりのほうが見苦しい。
横文字が悪いのではありません。
横文字で止まるのが嫌なのです。
本当に考えているなら、その先を日本語で言えるはずです。
何が問題で、何を優先し、何を捨て、どこまで言えるのか。
そこに降りてこないまま、賢そうな空気だけが前に出る話し方は、どうしても信用できません。
流行語はまた変わるでしょう。
でも、見る場所はたぶん変わりません。
言葉ではなく、その先に中身があるかどうかです。




