エピローグ・ヒーローの名前
重い瞼を開いて、飛び込んでくる白っぽい光。
わずかに動かしてみた指先に、固いシーツの感触が伝わる。
「……生きてる?」
ぼんやりとしたつぶやきを掻き消すように、傍らでガタンと音が鳴った。
「モリヤマ!」
「ふぐぉっ!?」
鼻先をふわり掠めた長い黒髪。その柔らかな感触に浸りきらないうちに、腹部に強烈な痛みが走った。
「んんぉ……っ、離せおい! そこたぶんダメなとこ! 患部! 患部!!」
「あ、ごめん」
圧迫される痛みが退く。額と背中にドッと噴き出す脂汗を知覚しながら、守山は荒い呼吸を繰り返した。息を吸う度に痛む内臓。腹に添えた手に、包帯の感触が触れる。
守山はひとつ息を吐いて、全身を見た。
上半身は裸で、肩から腹にかけて何重にも包帯が巻かれていた。
ズボンもところどころ溶けたような穴が開き、擦り切れている。
包帯の端から覗く肌には、濃い紫色の痣が残っていた。ちょっとカッコイイ、などと思ってしまった本音は胸にしまっておく。
少なくとも、涙目で唇を噛んでいる少女の前でこぼすのはご法度だ。
「俺、どんくらい寝てた?」
「……丸一日くらい」
「そっか……意外と早かったな」
「はやくないっ!」
アウロラの腿の上で虹剣イリスが跳ねる。
彼女は揃えた膝の上でギュッと強く拳を握り、今にも掴みかかりそうになる身体を押さえつけているように見えた。
守山は力の抜けた笑みを浮かべて、アウロラを見る。
アウロラは白い喉を引きつらせて、微かにしゃっくりを上げた。
「モリヤマが持ってた薬草で応急処置して、宿も貸してもらって……それでも、お医者さまは……明日になっても目を覚まさなかったら、諦めろって」
「あー……結構やばかったか」
「やばいに決まってるでしょ!? なんの防御もなしに突っ込んでいくとか、無謀すぎる……!」
「んまあ、防御は無理だけど、勝算がなかったわけじゃねえよ。相手は瀕死の状態での一発だったし、狙いも定まってなかった。俺の身体ででも受け止められるって思ったから」
「俺の、身体でもって……! 簡単に言うけど……怪我しないって言ったのに……もう、もう……っ!」
震えていた涙の膜は壊れて、紅玉石の瞳から次々とあふれ出す。
アウロラの傷だらけの指先が何度も目元を拭った。腫れてしまうだろう乱暴な拭き方に苦笑して、守山は泣きじゃくる彼女の頭にそっと掌を乗せる。
「そうだったな。約束破ってごめん」
「ごめん、とか……謝るとか、ちがう。モリヤマは、わたしのもことも、子供たちのことも守って……それに、わたしに最強のアイテムもくれた」
「まあ、歓声ってのはヤラレありきだからな。あんたにはまだ技術が足りないし、俺が担うべきところだろ」
「うぐぅ……」
アウロラは目元を真っ赤に腫らして、不満げに頬を膨らませた。
「文句あるか?」
「……ないわよ。そんなもの見ちゃったら、わたしがまだまだだってこと、十分わかるもの」
「そんなもの?」
首を傾げて聞くと、アウロラは背後の窓を指さした。
窓ガラスの向こうはすっかり夜の色の染まっていた。あれから一晩経って、また次の夜を迎えているということだろう。
守山は異世界で目にする二度目の夜に目を細めて、そこに映る自身の背中を見た。
――傷だらけの背中を。
「傷……そんなに、たくさん。あなたがわたしよりもすごい戦士だってことは、十分分かった」
「傷なんて名誉じゃないだろ……でも確かに、これは俺が戦ってきた証だな」
ヒーローとして負った傷はない。どれも「ヤラレ」の中でついた傷だ。
それでも。
守山はそっと、包帯に包まれた腹を撫でた。
そこに刻まれた傷は、ヒーローを守ってついた傷だ。
「……まあ、こんだけ大けがしといてなんだけど、俺は負けてないぜ」
「え?」
正義は勝つ。ならば、負けたら悪なのか。
その答えがようやく出た。
「生きてるからな」
負けてない。やり直しの人生でも、その答えだけは確かだった。
晴れやかな笑顔につられるように、アウロラも首を傾けてはにかんだ。
アウロラは眦に残った雫を拭い、ひとつ息を吐く。
涙の余韻に少しだけ引きつる息の音。
もう一度淡い息を吐いて、アウロラは紅玉石の瞳をチラリと持ち上げた。
「ねえ、モリヤマ?」
「おぅ、なんだ?」
「わたし、がんばったよね?」
窓から差し込む月明り。アウロラの赤眼は光を抱いて揺れる。
「んぁ? おう、まあな……あんたアレすげえよな。串刺し一発。虹天穿ってエフェクト見えたもんよ……俺も食らってたらヤバかった」
「それはいいの」
「いいんかい」
守山は、巨大なモンスターを切り裂いた一撃必殺の技を思い出す。
避けられる自信はあったとはいえ、知らなかったからこその油断にブルッと背筋が震えた。
「がんばれたから……ご褒美がほしい」
「……あ?」
ピタリ、静止する空気。
無意識に瞬きが多くなる。
潤んだ瞳。恥じらうように熟れた頬。小さく食まれる唇。
それ以上下に視線を向けることは、断固として自制する。
「教えて欲しいの」
「な、なにを……?」
ゴクンと大きく喉が鳴る。瞬きのし過ぎで目の前に星が飛ぶような幻覚が見えた。
背中をだらだらと冷や汗が流れ落ちて、わざと大きく洟を鳴らす。
「モリヤマの名前」
最高潮まで達しかけた緊張がシュウと音を立てて萎んでいった。
「あんたまだそんなこと気にしてんのかよ」
「気にするに決まってるでしょ!? あなたはわたしに自分の命を預けたんだろうし……これからもそうなら、ちゃんと知っていたい」
アウロラの瞳は真剣だった。彼女の中に根付く王家の血がそうさせるのか、彼女自身のプライドなのか。いずれにせよ、「名前」はおそらく、信頼の証のようなものだろう。
確かに、差し出さないのはフェアじゃない。
「……条件がある」
「なによ」
「呼ばないって約束するなら、教えてやってもいい」
「なにそれ……まあ、別にいいけど。そんな恥ずかしい名前なわけ?」
守山は瞼を伏せて、恨めしげな視線をアウロラに据えた。アウロラは腕組をして「早くしろ」とでも言いたげな表情でいる。
低く息を吐き、短く吸って、告げる。
「……一路だ」
アウロラの瞳が、大きく見開かれた。
「ヒイロ……?」
口の中で小さく発音される音。守山は耐えきれずに視線を逸らした。
「ヒイロ……ヒーロー」
重ねられた言葉に、カッと頬が燃える。
こぼれかけた舌打ちを飲み込んで、無意識に強く拳を握った。
ズキン、と。音を立てて胸が軋む。
「……わたし、わかった」
「なにが」
「ヒーローが、なんなのかってこと!」
弾んだ声を上げるアウロラ。守山はサッと顔を青ざめさせて身体を引く。
彼女の真意は分からない。けれども、嫌な予感だけははっきりと感じる。
「な、おま……っ、なあ、ぜったい分かってない! ちがうぞ、それは!」
「なにも言ってないでしょ? でもわたしはわかったの! わたしも別の部屋借りてるからそっちで寝るね。じゃあね、おやすみ。また明日!」
「待っ……」
バタンと閉じる扉。軽やかな足音が遠ざかっていく。
「くっ、そ……」
守山は深く項垂れ頭を抱える。
自分の名前が嫌いだった。
「ヒーロー」と聞こえてしまう名は、ヒーローが常にいる場所にいたからこそ、守山の心を頑なにした。
絶対に、自分に向けられることのない呼び名だから。
「俺は、ヒーローになれない」
深く項垂れた内側にポツリとつぶやく。分かりきった事実なのに、いまだに胸を深く抉られることに呆れたため息が漏れた。
でも、と。顔を上げる。頬を叩く。
これまで生きてきた中で身につけてきた全部を、無駄にはしない。
守山は顔を上げ、包帯の巻かれた腹の上で固く掌を握る。息を整えて、ひとり静かに宣言した。
「俺があんたを、ヒーローにする」
誰よりも知っているから――人々に希望を与えるヒーローの作り方を。
守山一路はヒーローになれない。
けれども誰よりもヒーローである男が、ひとりの英雄を作り上げるまでの物語。
《END》




