婚約破棄された私を救ってくれた公爵様は、「幸せになれよ」と言い残して死んだ前世の最愛の人でした。~実は前世でも両片想いだったなんて聞いてません! 幸せすぎるので今世こそ『生きて』彼と結ばれます~
前世の記憶は、後悔と共に蘇った。
私には、片想いしていた男性がいた。
兄のように、心から慕っていた。
けれど、その想いは永遠に告げられることはなかった。
彼は病に倒れ、病院のベッドの上で冷たくなっていったからだ。
『……幸せになれよ』
最期に残された言葉が、呪いのように私を縛り付けた。
彼がいなくなった私の世界に、何の意味があるというのだろう。
何もする気が起きなくなり、抜け殻のように日々を過ごし、自暴自棄になり……気づけば死んでいた。
孤独死だったのか、過労死だったのか。
死因なんて覚えていない。
ただ一つだけ、魂に刻み込まれた想いがある。
生まれ変わるとき、私は強く願った。
――今度は、大切な人を死なせたくない。
――もう二度と、あんな思いはしたくない。
その願いだけを抱いて、私は新しい生を受けたはずだった。
それなのに。
「アメリア! 貴様との婚約は、この場で破棄する!!」
耳をつんざくような怒鳴り声で、私の意識は引き戻された。
目の前には、顔を真っ赤にして叫ぶ金髪の男。
この国の王子にして、私の婚約者であるコンラッド殿下だ。
そして彼の腕の中には、勝ち誇ったような笑みを浮かべる侯爵令嬢。
周囲を取り囲む貴族たちの、嘲笑と蔑みの視線。
ああ、そうだ。
私はアメリア・フォン・ルーベリア。
この学園の悪役令嬢として、今まさに断罪されている最中だった。
皮肉なものだ。
人生最悪の瞬間に、前世の記憶を取り戻すなんて。
前世で大切な人を失い、絶望の中で死に、今世では濡れ衣を着せられて婚約破棄。
(この人生でも、私は幸せにはなれないんだ)
胸の奥が冷えていくのを感じた。
抵抗する気力すら湧かない。
もう、どうにでもなればいい。
私が瞳を閉じ、全てを諦めようとした、その時だった。
「ありがとう。無能な弟よ」
凛とした低い声が、静まり返ったホールに響き渡った。
驚いて顔を上げると、いつの間にか私の隣に、一人の長身の男性が立っていた。
夜闇のような黒髪に、深淵を覗き込むような紫紺の瞳。
「ハインリヒ、公爵様……?」
コンラッド殿下の兄だが、妾の子として生まれたが故に、王位継承権を持たない「公爵」。
彼が、私の肩を優しく抱き寄せた。
その手は驚くほど大きく、温かかった。
「あんな男のために、君が悲しむ必要はない」
彼は私を庇うように立ち、子供をあやすように、ゆっくりと私の背中をさすった。
「よしよし。大丈夫だ。大丈夫」
心が、熱くなった。
その優しさが、どうしようもなく懐かしくて、私の心の奥底にある琴線に触れた。
(……あ)
涙が、溢れた。
前世の記憶にある、あの優しい手。
私を慈しみ、守ってくれた彼の手と、重なった。
「兄上とはいえ、正当な王位継承者であるこの僕に向かってその態度は何だ!」
殿下が声を荒らげる。
ハインリヒ様は冷ややかな瞳で弟を見下ろした。
「婚約者がありながら、侯爵令嬢とも付き合い、自らの不貞は棚に上げて彼女を断罪するなど、貴様こそ何様だ?」
「なっ……!?」
「彼女は私が貰っていく。貴様が捨てたのだから、文句もないだろう?」
ハインリヒ様の言葉に、会場がざわめいた。
殿下が何か言い返そうとした時、彼の腕の中にいた侯爵令嬢が、扇子で口元を隠しながらクスクスと笑った。
「よいではありませんか、殿下。どうせあの方は、もう『長く』はないのでしょう?」
ピクリ、とハインリヒ様の肩が震えた。
「……どういう、ことですか?」
私が問いかけると、侯爵令嬢は憐れむような目つきで私を見た。
「ご存知ありませんの? ハインリヒ公爵は、かつて魔女討伐の折、死に際の魔女に『致死の呪い』をかけられたのですわ」
『致死の呪い』……聞いたことがある。
その呪いはその身体を蝕み、数年のうちに確実に死に至る。
(死ぬ……?)
この人が?
私を今、こうして温めてくれているこの人が?
「なぜ……私を」
私の唇が震えた。
自分自身の命さえ危ういのに、なぜ私なんかを助けるのですか。
ハインリヒ様は、私の涙を親指でそっと拭うと、切なげに微笑んだ。
「ここでは話したくない。こんな者共に、私が君を愛している理由を明かしたくなんてないから」
そう言って、彼は私を軽々と横抱きにした。
いわゆる、お姫様抱っこだ。
「きゃっ!?」
「行くぞ、アメリア」
彼は堂々と歩き出す。
「ま、待て! 勝手に行くな! 不敬罪にするぞ!」
殿下が叫ぶが、ハインリヒ様は止まらない。
そこへ、威厳ある声が降ってきた。
「よい。好きにさせよ」
階段の上に、国王陛下が立っていた。
「ち、父上!?」
国王陛下は王子を一瞥もしない。
その瞳は、ただ真っ直ぐにハインリヒ様と私に向けられていた。
「……お前には、辛い思いをさせてきた。せめて残り僅かな時は、思うままに、心穏やかに過ごせ」
ハインリヒ様は足を止め、深く頭を下げた。
「……陛下、お心遣い感謝いたします」
しかし、殿下は納得がいかない様子だった。
「僕の気持ちは無視するのですか! 父上!」
「……彼女の気持ちを無視した貴様がよく言うな」
横から、ハインリヒ様がそう呟いた。
その覇気に押され、会場が静まり返る。
「ハインリヒの言う通りだ。アメリア嬢。愚息の非礼を詫びよう。お主さえよければ、ハインリヒと共に生きてはくれぬか」
私は、ハインリヒ様を見上げた。
彼の瞳が、不安そうに揺れている。
まるで、捨てられることを恐れる子供のように。
ああ、この人は。
こんなにも強そうに見えて、本当はずっと孤独だったんだろうな。
前世の私が、彼を失って孤独だったように。
あの時の、鏡の向こうの私と同じ目をしてる。
「……わかりました」
私は彼の首に腕を回し、はっきりと答えた。
「ハインリヒ様と共に参ります」
ハインリヒ様が、心底安堵したように息を吐くのがわかった。
抱きしめる腕に、ぎゅっと力がこもる。
その幸せな光景が、殿下の癇に障ったのだろう。
「僕が捨てた女が! 他の男にそんな顔をするな!!」
狂乱した王子が、近くのテーブルにあったフルーツナイフを掴み取り、私たちに向かって駆け出した。
「なにをしておる!? 衛兵! 止めよ!」
陛下の怒声が飛ぶが、衛兵たちの動きは遅い。
銀色の刃が、私の顔めがけて振り下ろされる。
「――ッ!!」
私は目を閉じた。
けれど、痛みは来なかった。
ドスッ、という鈍い音と、温かい飛沫が頬にかかっただけ。
「ハインリヒ様!!」
目を開けた私は、悲鳴を上げた。
殿下のナイフは、ハインリヒ様が素手で握って止めていた。
白刃を、肉の掌で強く握りしめている。
その拳からは、ボタボタと赤い血が床に滴り落ちていた。
「……ハインリヒ! 貴様……!」
殿下が青ざめて後ずさる。
ハインリヒ様は、痛みを感じていないかのような顔で、ナイフを握り潰さんばかりに力を込めた。
「……情けない。私は、どこまでも情けない。貴様のような……愚かな弟がいることが」
「なんだと!」
「消え失せろ。二度と、私と彼女の前にその顔を見せるな」
「黙れ! 僕に命令するな! 妾腹の分際で!」
殿下は逆上してハインリヒ様の顔を殴ろうとするが、ハインリヒ様の瞳が紫に輝いた瞬間、見えない力に拘束されたように動けなくなった。
これは魔法だ。
「これで済ませてやる。コンラッド。怪我をしていないだけありがたく思えよ。……さあ、行こう、アメリア」
彼は血まみれの手を隠すように背後に回し、私に微笑みかけた。
「ですがハインリヒ様……手のお怪我が」
「……君を守れた。これは私の勲章だな」
屈託のない、少年のような笑顔。
その笑顔が、私の胸を締め付ける。
(守られた……また、私は)
前世でも、何もできずに好きな人を死なせた。
今世でも、こうして彼を傷つけてしまった。
「……嫌」
私はハインリヒ様の手を無理やり引き寄せた。
「アメリア?」
「治します」
「……治す……?」
私は両手を彼の手のひらにかざした。
意識を集中させる。
私には大した魔力はないけれど、それでも、この血を止めたい一心で祈った。
淡い光が私の手から溢れ、彼の手を包み込む。
傷口がふさがり、血が止まっていく。
けれど、完全に傷跡を消すまでは至らない。
「……っ、止血くらいしか……できませんが」
自分の無力さに唇を噛む。
けれど、ハインリヒ様は愛おしそうに目を細めた。
「……ありがとう。優しい力だ」
二人の間に流れる、穏やかな空気。
それを、またしても耳障りな声が引き裂いた。
「くっ! 僕の前でイチャつくな! 不敬罪で捕らえてやるからな! ハインリヒ! お前は牢に入り、アメリアとは離れ離れだ!」
魔法の拘束が解けたのか、コンラッド殿下が喚き散らす。
「僕がもう一度アメリアを飼って、ペットにしてやる! 這いつくばって許しを乞えば、餌くらいは……」
「……貴様、それ以上声を発するな。二度と話せないようになるぞ」
ハインリヒ様の周囲からドス黒く、凄まじい魔力が放たれる。
殿下はその魔力にあてられて子鹿のようにガタガタと震えている。
「……ハインリヒ様、私のことは、私でケジメをつけます」
私は小さく呟いた。
「アメリア?」
私はハインリヒ様の腕から降りると、真っ直ぐに殿下へ歩み寄った。
「なっ……なんだ!? 僕の元に戻ってくる気になったか!?」
そして。
パァァァンッ!!
会場中に響き渡るほどの音を立てて、殿下の頬を思いっきり平手打ちした。
「……え?」
殿下が目を白黒させている。
手が痺れるほど叩いた。
私の掌が熱い。痺れて、痛い。
「アメリア……」
ハインリヒ様も驚いている。
私は無様に尻もちをつく殿下を冷ややかに見下ろした。
「……これで、私も殿下に仇なす罪人ですね?」
「……貴様……正気か……? この僕を殴るなど……」
「……貴方のペットとして生きるくらいなら、私は彼と死ぬ道を選びます」
私の言葉に、殿下の顔が怒りで歪んだ。
「く……ははは! 滑稽だな! そうか! 傷の舐め合いか! なら、望み通り殺してやろう! 衛兵! この二人を即刻、この場で処刑せよ!」
殿下の命令に、衛兵たちが困惑しながらも槍を構える。
ハインリヒ様が素早く私の手を握った。
その手は、もう血が止まっている。
「アメリア、私から離れるな。今から少し、馬鹿な弟にお仕置をする」
「……いいのですか……?」
「いいさ。君と一緒にいられるなら」
迷いのない瞳だった。
「ハインリヒ様……」
彼が殿下に手をかざしたその時。
「待たぬか。馬鹿者共が」
国王陛下の地響きのような声が、衛兵たちの動きを止めた。
「ハインリヒ。ここでコンラッドに手を出せば、余はそなたを追わねばならなくなる。本意ではなかろう」
「私はアメリアのためなら、国を敵に回しても構いませんが」
ハインリヒ様は表情ひとつ変えずに、毅然と陛下に答えた。
「……それでは、余が困るのだ。衛兵! ハインリヒ、アメリア嬢、両名に一切手出しをすることを禁じる」
「なっ……!? 父上!?」
国王陛下はゆっくりと階段を降りてきた。
「……コンラッド。ここまで愚かだとはな。アメリア嬢のような女性と婚約した時は、お前がついに改心してくれたと期待した。だから、これまでのお前の悪行にも目を瞑ってきた。……だが、その結果がこれか」
「何を仰っているのです……父上!?」
「……ハインリヒ、アメリア嬢。こやつに対するそなたらの行為も全て不問に処す」
「こ、国王陛下!? なにを!? 彼らは……」
侯爵令嬢が震える声で口を挟む。
「黙らぬか。部外者が口を挟むな」
「ぶ……!? 私は、コンラッド王子から正式に婚約を申し込まれたのです! 今夜、婚約破棄を宣言した後、私との婚約を発表すると!!」
「黙れと言ったのが理解できぬのか?」
陛下の一瞥。
それだけで、侯爵令嬢は喉を引きつらせて失神しかけている。
「……人を蹴落として、何かを得ようなどと、浅ましい。バカ息子も、お主も、ここに立つ資格はない」
陛下がパチンと指を鳴らすと、影から暗部の兵士たちが現れ、コンラッド殿下を取り押さえた。
「父上!? これは何のつもりですか!?」
「……お前には、生まれ変わるチャンスを何度もやった。だがお前はその全てを踏みにじった。己の欲を優先させてな。……もう、余を父などと呼ぶな」
「は……?」
突き放すような冷たい宣告。
「連れて行け。誰の声も届かぬ地下牢へ」
「な……なぜ! 私は貴方の血の繋がった息子です!」
「……私にコンラッドなどという息子はもうおらぬ。それは今、死んだ。……いるのは、ハインリヒだけだ」
その言葉に、ハインリヒ様が息を呑んだ。
「いやだ! いやだぁ!! 父上ぇぇぇ!!」
「わ、私は!? 私はどうなるのですっ!? 国王陛下ぁ!」
侯爵令嬢も泣き叫ぶ。
「どうもせぬ。この場から出ていってもらうだけだ。その後は、好きに生きよ」
好きに生きろとは言うが、これほどの醜態。
ゴシップ好きの社交界ではあっという間に広まるだろう。
彼女の実家である侯爵家も、殿下の失脚と共に終わりだ。
彼女は恐らくもう、表舞台には出てこられない。
断末魔のような叫び声を残し、二人は引きずられていった。
静寂が戻ったホールで、陛下が疲れたように息を吐く。
「さて、ハインリヒ、アメリア嬢。出口はあちらだ」
「……陛下」
「何も言うなハインリヒ。……お前の呪いさえなければ……あのバカの代わりに王位を継いで欲しかったが」
陛下の声は震えていた。
不遇な息子への愛と、どうしようもない運命への悔恨が滲んでいる。
ハインリヒ様が『不遇』である理由も、きっと、私の考えが及ばないようなものがあるのだろう。
二人の信頼し合うような視線を見れば、それがすぐに分かった。
人は皆、何かを抱えてる。
私が転生者であるという秘密を抱えているように。
彼と、陛下もまた。
「……感謝します」
ハインリヒ様は深く頭を下げると、私を抱え直し、出口へと歩き出した。
「アメリア嬢よ」
後ろから、陛下の声が聞こえる。
「……息子を、よろしく頼む」
それは王としての命令ではなく、一人の父親としての願いのようだった。
私は彼に抱きかかえられたまま、深く一礼した。
「……はい。陛下」
私の答えに、陛下はとても安心したような顔で微笑んでいた。
小さく、手を振って。
衛兵によって重厚な扉が開かれる。
外には、冷たく澄んだ空気と、満天の夜空が広がっていた。
◇◆◇
王宮を出て、しばらく経った。
石畳を走る馬車の規則的な振動が、心地よく響いている。
けれど、私の心臓はまったく落ち着きを取り戻していなかった。
理由は明白だ。
ハインリヒ様が、まだ私をおろしてくれないからだ。
「あの……ハインリヒ様。そろそろおろしていただきたいのですが……」
私の顔は、きっと真っ赤になってる。
けれど、ハインリヒ様は困ったような、それでいて愛おしそうな瞳で私を見つめるだけだ。
「……アメリア。どうして私を受け入れてくれたんだ?」
「えっ……?」
唐突な問いかけに、言葉が詰まる。
どうして、と問われると。
なんて答えればいいのだろう。
前世の記憶があって、貴方に触れられた時、懐かしいフィーリングを感じたから?
いや、そんなことを言ったら、ただの頭のおかしい女だと思われてしまう。
私が答えに窮していると、ハインリヒ様が静かに口を開いた。
「……私が君を想っている理由は、後で説明すると言ったね」
「はい……」
「私は、見てしまったんだ。二年前に」
「……見た?」
心臓が跳ねる。
何を見たというのだろう。
ハインリヒ様は、私の不安を打ち消すように優しく微笑んだ。
「君は、性悪な女だと、皆が言う。学園の裏で、誰彼構わずいじめているだの、人を蹴落すことを生き甲斐にしているだのと」
「……はい」
それは事実だ。
社交界でも、学園でも、私の悪評は広まりきっている。
「それは、事実であって真実ではない。真実はこうだ。君は、誰かを蹴落としたりなんかはしない。蹴落とされる側だった」
「皆が広めている悪名は、全て君への裏返し。君がいじめてたのではなく、やられていたのは君自身。皆、王子の婚約者である君に嫉妬していただけの、子供だ」
目頭が熱くなる。
そうだ。
私が悪役令嬢のように嫌われているのは、否定しようのない事実。
けれど、それは私が何かをしたからじゃない。
他より少しだけ見た目が良くて、他より少しだけ爵位が高くて、王子に見初められた。
それだけの理由で、私はそういう扱いを受けてきた。
誰も信じてくれなかった「真実」を、この人は知っていてくれた。
「……私は、ずっと見てきた。君を」
「えっ?」
「二年前に見たと言っただろう? それは、君が学園の校舎の裏のベンチで、寝ていた姿のことだよ」
「み……見られてた!?」
私は思わず声を上げてしまった。
校舎裏のベンチ。
そこは、人が滅多に来なくて、日当たりが良くて、お昼寝するのに最適な場所だった。
いじめられて、教科書を隠されて、一人ぼっちになった時、私はいつもそこで心を癒していた。
それを……見られてた?
「あそこは、私も好きな場所でね。気に入ってる小説を読むのに、よく行っていた。あのベンチは私の特等席だったんだが……」
「ご、ごめんなさいっ! 知らなくて! 私、勝手に……」
「いいよ。私も『いい思い』をさせてもらったから」
「……え? それってどういう……」
ハインリヒ様が、ようやく私を膝の上からおろし、隣に座らせてくれた。
そして、自分の肩をポンポンと叩く。
「ここ、頭乗せてみて」
「……で、でも……」
「いいから。必要なことだ」
「……わ、わかりました」
言われるがまま、恐る恐る体を傾ける。
私が彼の肩に頭を乗せると。
…………あ。
これ。
知ってる気がする。
記憶の底にある、温かくて、硬くて、安心する感触。
私がベンチに座ってお昼寝してる時、いつもこの感覚があった。
前世では、電車で寝てしまった時や、机で寝た時は、カクカクと落ちた頭の反動で目を覚ますことがあった。
けれど、あのベンチでお昼寝している時は、何故かそれが一度も起きなかった。
いつも何かに支えられているようで、すやすやと寝られた。
「……ほら。いつもと同じだ」
彼が言った。
私は彼の肩に頭を置いたまま、顔の角度を変えて視線を彼に向けた。
彼は少し照れくさそうに、でも嬉しそうに微笑んでいる。
「……もしかして……いつも……」
「これが、私の『いい思い』だ。私は、君の寝息や寝言を聞きながら、君の温もりを肩に感じて、小説を読むあの時間が大好きだった」
「……二年間も……ずっとですか……?」
「ああ。私の『片想い』だね。君からすれば、気持ち悪いかもしれないが」
彼は苦笑いしながら、頬をポリポリとかいた。
その仕草が、表情が、事実が、愛おしくてたまらなかった。
「……気持ち悪くなんかないです。……でも、少し恥ずかしくて……。その……寝言って、なんて言ってたんですか……?」
「ん? あー……。それは……」
「な、何か変なことを言ってましたか!?」
「……人の名前を」
彼がボソッと呟いたが、馬車の音にかき消されて私にはよく聞こえなかった。
「……まあ、大したことじゃないよ。とにかく、私にとってあの時間はとても心地よくて大切なものだったんだ。気持ち悪がられなくて、少しホッとした」
「ハインリヒ様……」
……むしろ、嬉しい。
彼が私の枕代わりになって、私の頭を支えてくれて、ただ静かに本を読んでいたという事実が。
……心臓が熱い。
顔も熱い。
「君を好きな理由は、これで十分だろ?」
「……はい」
私は自然と、彼の手を握ってしまっていた。
彼は驚いた顔で私を見た。
「アメリア……」
「……私がこれから話すことを、信じてもらえますか?」
理由はない。
ただ、話そうと思った。
聞いて欲しいと思った。
……彼と真剣に向き合いたいと思ったから。
「もちろん。信じるよ」
「……私は……別の世界から来ました」
私は淡々と、私の状況を彼に説明した。
前世の記憶があって、この世界に転生してきたこと。
前世で、慕っていた片想いの人がいたこと。
その人を病で失って、私は何もできずに後悔だけを抱えて死んだこと。
だから今世では、その後悔から、少しだけの治癒の力を得たこと。
その力で、彼の血を止めたこと。
包み隠さず、全てを話した。
「……」
話し終えたあと、彼はしばらく無言だった。
馬車のガタン、ガタンという音だけが響いた。
こんな突拍子もない話を、やはり信じてはもらえないかもしれない。
でも……隠して彼と一緒にいることは罪だと思った。
これでダメなら……それは仕方ない事だと。
…………嘘だ。
割り切れない。
信じてほしい。
受け入れてほしい。
彼となら先に進める気がしたから。
だからこの沈黙は……私にはとても辛かった。
……彼の手が少し震えているのが分かる。
「……それ……」
彼が声を発した。
その声は震えている。
私は……諦めた。
次に出てくる言葉がなにか分かっていたから。
『気味が悪い』とか、『妄想だ』とか、そう言われると思っていた。
彼が私を見つめる瞳が、酷く揺れていた。
唇も、微かに震えている。
私は彼から目を逸らさず、彼の言葉を待った。
「……そうか……」
彼はそう言い、私の手を強く握った。
その力強さに、私はハッとする。
「アメリア」
「……はい」
「君の気持ち、よく分かるよ」
「え?」
「片想いって、辛いよな」
彼はふっと視線を外し、窓の外を見た。
流れる夜の街並みを見つめるその横顔は、どこか遠くを見ているようで、切なげだった。
「……でも、誰かを想えることは、幸せな事だ」
「ハインリヒ様……」
「君が誰でも、別にいいじゃないか」
彼は再び私を見つめた。
その瞳には、拒絶の色など微塵もなかった。
「……『今は』ただのアメリアだ」
……その言葉を聞いた瞬間。
救われた気がした。
前世の私も、今の私も、全てを受け入れてくれた気がして。
「私だけを見てくれないか? これからは」
「……よろしいのですか? わたしがそばにいても」
「君がいてくれたら、私の世界は輝くんだ」
ハインリヒ様の手が伸び、私の頬を優しく撫でる。
その指先は温かくて、私の涙腺を刺激した。
「……木漏れ日や、木々が揺れて擦れる音、風の音、君の頭が肩に乗る重みと、君の寝息。あのベンチで君と過ごした二年間の、その全てが……私にとっては、世界なんだ」
「ハインリヒ様……」
「君と一緒にいたい。まだこれからも」
「……私は、鈍感な女です。二年間、ハインリヒ様が肩をお貸しくださっていたことにすら気付けないような……」
「……だから私はまだ、貴方との二年間を知らないのです。……教えてくださいませんか? 私に、これから。貴方との日々を」
「もちろんだ。アメリア」
彼と私の唇が、優しく重なった。
彼の唇は少しだけ震えていたけど、私たちの手は強く握られていた。
涙の味がする、温かいキスだった。
唇が離れると、彼は私のおでこに自分のおでこをくっつけてきた。
至近距離で見る彼の瞳は、夜空のように美しく、そしてどこか懐かしかった。
「……私にも、秘密があるんだ」
「……どんな、ですか……?」
「……時が来たら、話すよ。その時まで待っていてくれるかい?」
「……はい」
彼のその悪戯っぽく、けれど慈愛に満ちた瞳に吸い込まれそうになって、ドクン、と心臓が大きく跳ねる
「愛してる、アメリア」
「ハインリヒ様……」
私たちは再び、唇を重ねた。
今度は、さっきよりも熱く、甘く。
◇◆◇
公爵邸での生活が始まって、数日が過ぎた。
ここにあるのは、穏やかで、甘い時間だけ。
天気の良い午後。
私たちは、庭園を見下ろす広いテラスにいた。
「……ん……」
私は、ハインリヒ様の隣に座り、彼の肩に頭を預けて微睡んでいた。
ぽかぽかとした陽気と、ハインリヒ様の体温。
そして、彼がページを捲る規則的な音が、最高の子守唄になっていた。
「……起きたかい? アメリア」
頭上から、優しい声が降ってくる。
私が顔を上げると、ハインリヒ様が読みかけの本を閉じて、微笑んでいた。
「あ……ごめんなさい。また私、寝てしまって……」
「いいんだ。君が眠るまで、こうしているのが私の幸せだから」
彼はそう言って、私の髪を愛おしそうに撫でた。
学園のベンチで過ごしたあの頃と同じ。
違うのは、ここに確かな両想いがあるということ。
「重くありませんか?」
「羽のように軽いよ。……もっと、寄りかかっていてくれないか」
彼が私の肩を引き寄せ、さらに密着する。
触れ合う部分から伝わる温もりが、私の心を満たしていく。
「……こういうことを、幸せと呼ぶのですね」
「ああ。……世界が、もっと輝いて見えるよ」
私たちが穏やかに笑い合っていると、執事がテラスへやってきた。
「旦那様。主治医のランツ先生が、定期検診にいらっしゃいました」
「ああ、もうそんな時間か。……通してくれ」
ハインリヒ様の表情が、少しだけ曇る。
毎週の定期検診。
それは、彼を蝕む「致死の呪い」の進行を確認するための、残酷な時間だ。
すぐに、白髪の老医師が現れた。
彼は長年、ハインリヒ様を診ている信頼できる医師だという。
「失礼します、公爵閣下。……本日のご気分はいかがですかな?」
ランツ先生は慣れた手つきで道具を広げながら、問診を始めた。
ハインリヒ様は、私の手を握ったまま答える。
「すこぶる良いよ」
「ほう? ……胸の痛みは?」
「ない」
「……ない? 呼吸の苦しさは?」
「全くないな」
先生の手が止まった。
彼は怪訝そうな顔で眼鏡の位置を直し、ハインリヒ様の顔を覗き込んだ。
「……発作は? 前回の検診から今日までの間、一度も?」
「ああ。ここ数日は一度も起きていない。それどころか、体が軽いくらいだ」
「……馬鹿な」
医師は信じられないといった様子で首を横に振った。
「失礼ながら、呪いの進行度からすれば、発作は数度起きていなければおかしいはず……。少し、魔力痕を診させていただきます」
先生がハインリヒ様の胸元に手をかざし、診断魔法を展開する。
淡い光が彼の体を包み込んだ。
数秒後。
「な……っ!?」
先生が驚愕の声を上げ、後ずさった。
「先生? どうされたのですか?」
私が心配になって声をかけると、先生は震える指でハインリヒ様を指差した。
「う、薄れている……。あれほど強力で、解呪不可能と言われた呪いの刻印が……薄くなっている……」
「ありえん……。医学的には説明がつかん。一体、どんな治療を……? いや、どんな高位の聖職者に祈祷を頼んだのですか!?」
先生の興奮した様子に、ハインリヒ様はきょとんとした後、ふっと柔らかく笑った。
そして、握っていた私の手を、さらに強く握りしめた。
「いや……誰にも祈祷など頼んでいないが……。変わったことと言えば……そうだな。幸せになったことくらいだろうか」
「幸せ……ですか?」
「ああ。彼女が、そばにいてくれるから」
ハインリヒ様が、私を見つめる。
その瞳には、熱い愛情が宿っていた。
「アメリアが来てくれてから、私はずっと満たされているんだ。……不思議とな、彼女に触れていると、胸の奥の冷たい氷が溶けていくような気がするんだよ」
先生は目を丸くして私たちを見比べ、しばらく考え込んでいたが、やがてハッとしたように顔を上げた。
「……アメリア様。少々、貴女様にも鑑定魔法をかけさせていただいても?」
「わ、私ですか? 構いませんが……」
「はい。失礼いたします」
私が頷くと、先生は私に手をかざした。
すると、私の体から、柔らかく温かい金色の光が溢れ出した。
それは、ハインリヒ様の呪いを包み込むように揺らめいている。
「おお……なんと……!」
先生は感嘆のため息をついた。
「こ、これは……『治癒』の魔力ですが、ただの治癒ではありませんな」
「どういうことだ?」
「これは『祈り』の力です。……誰かを強く想い、守りたいと願う心が、魔力そのものの性質を変質させている。……言うなれば、『慈愛の聖なる力』です。『聖なる呪い』です……」
先生は確信を持って告げた。
「アメリア様。貴女のその力は、旦那様の呪いにとって、唯一無二の特効薬となっています」
「私が……特効薬……?」
「ええ。貴女が旦那様に寄り添い、心を通わせるたびに、その温かい魔力が呪いを中和し、浄化しているのです。『幸福な呪い』で上書きして」
私は、自分の手のひらを見つめた。
前世で、私は何もできなかった。
大切な人が弱っていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
『今度は、大切な人を死なせたくない』
転生の時に願った、たった一つの想い。
神様は、それを聞き届けてくれていた……?
彼を救うための力を、私に授けてくれていた……。
彼と出会わせてくれたことですら……神様の奇跡だと信じていたのに……。
「……よかった……」
安堵の涙が、ポロリとこぼれた。
「アメリア」
ハインリヒ様が、優しく私の涙を拭ってくれる。
「君は、私の命の恩人だな」
「違います……。貴方が私を見つけてくれたから……」
先生は、そんな私たちを見て、満足そうにカルテを閉じた。
「処方箋は不要ですな。……お二人がこれからも、こうして穏やかに、仲睦まじく過ごされること。それが何よりの治療です」
「……そうか。ならば仕方ないな」
ハインリヒ様は悪戯っぽく微笑むと、私の肩を抱き寄せた。
「医者の指示だ。……これからもずっと、私のそばにいてくれるかい?」
「……はい」
私は彼の胸に顔を埋めた。
「貴方が嫌だと言っても、離れません」
「それは最高に幸せだな」
「やれやれ……お熱いですな」
◇◆◇
呪いの進行が止まり、体調が安定してきたハインリヒ様と共に、私たちは街へ繰り出した。
デートだ。
「お、おいアメリア! あまりはしゃぐと転ぶぞ!」
「転ばないように、ハインリヒ様がちゃんと手を握っていてください!」
私が彼の手をグイグイ引くと、彼は目を丸くしながらも、嬉しそうに従ってくれる。
素敵なドレスを見たり、彼の好きな本を探して書店を巡ったり、おしゃれなカフェで休憩をしたり。
恋人同士がする普通のことを、私たちは噛み締めるように楽しんだ。
そして、広場のベンチ。
「はい、アメリア」
「ありがとうございます」
私は彼が手渡してきたクレープを受け取る。
甘い香りが鼻をくすぐる。
「ん……おいしい! クリームたっぷり!」
私がかぶりつくと、ハインリヒ様がふっと微笑んだ。
そして、自然な動作で私の顔に手を伸ばす。
「クリーム、ついてるよ」
彼の親指が、私の唇の端を優しく拭う。
「あっ」
そして彼は、その指についたクリームを、自分の口元へ運び、ペロリと舐めとった。
「は……っ!?」
顔が一気に沸騰する。
「は、恥ずかしいですよ……それは……っ」
「そうか? もっと凄いことをみんなやっているが?」
彼が顎でしゃくった先には、噴水の陰で堂々とキスをしているカップルがいた。
この街の人たちは情熱的だ。
「わ……わお……」
「負けていられないな」
彼がいたずらに笑って、自分のクレープを食べる。
わざとなのか、不器用なのか、クリームがたっぷりすぎて、彼の頬に少しついた。
「……ふふ」
私はそのクリームを指で取り、自分の口に運んだ。
「お返しです」
「ふっ。やるな。……なら、私はこうだ」
ハインリヒ様が、ぐっと顔を近づけてきた。
「んっ!?」
重なる唇。
クリームの甘い味と、彼の熱が広がる。
「ちょ、ちょっと!? みんな見てるよ!?」
私が慌てて離れると、彼は涼しい顔で周囲を見渡した。
「見てないさ。みんな、自分の大切な人を見るので精一杯だから」
私が恐る恐る周囲を見回すと、確かに彼の言うとおり、誰も私たちのことなんて気にしていなかった。
みんな、隣に座る大切な人だけを見て笑い合っている。
「アメリア」
彼が私の手を握る。
その力強さに、ドキリとする。
「初めて、素で喋ってくれたね」
「えっ?」
あっ……。
「それでいいんだ。堅苦しい敬語も、敬称もいらない」
彼は私の瞳を真っ直ぐ見つめる。
紫紺の瞳に、私が映っている。
「ハ……ハイン……リヒ」
呼び捨てにするだけで、心臓が跳ねる。
恥ずかしい。
これ、めちゃくちゃ照れる。
私が顔を真っ赤にして、恐る恐る彼の顔を見ると。
彼もまた、耳まで真っ赤にしていた。
「アメリア……」
「ハインリヒ……」
「…………」
「「……ぷっ……あははは!」」
二人の笑い声が、面白いくらいに重なった。
周りのカップルたちが愛を囁いている中で、大きな声で笑いあっている私たちは完全に浮いていただろう。
さっきまで無関心だった皆の視線が、一斉に集まるのを感じる。
「見られてるね」
「ああ、見られてる」
「……ねぇ」
私は彼を見つめて、小悪魔のように微笑んだ。
「ん?」
「……キス、しちゃおっか」
「……アメリア」
彼が真面目な顔で私を見つめる。
そして、ニヤリと笑った。
「それはいい提案だ」
彼が大袈裟に私を抱きかかえ、人目も憚らずにキスをした。
今度は甘いだけのキスじゃない。
私たちの愛を見せつけるような、深くて長い口づけ。
周囲のカップルたちの視線を独り占めだ。
「……私たち、性格悪いね」
唇を離し、私が笑うと、彼も満足げに笑った。
「構うもんか。好きという気持ちを隠して生きたくはない」
「うん。大好き、ハインリヒ」
「私の方が好きだけどな。アメリア」
「いや、私の方が好き」
「忘れたのか? 私は二年分リードしてるんだぞ? 君の肩枕になった実績があるからな」
「一歩間違えば、ストーカーだよ?」
「失礼だな。これでも一応、君が寝ている時にイタズラをしようとする親切なご令嬢たちから君を守ってあげてたんだが?」
「そ、そうなの!?」
「ふふ。どうかな」
「なにそれ……!?」
「………………」
「「……ぷっ」」
真剣に言い合って、そしてまた馬鹿らしくなった。
お腹が痛くなるくらい笑った。
一生分笑ったかもしれない。
そして、一生分の幸せを、もう感じてしまっている。
◇◆◇
それから、数ヶ月後の夜。
私はハインリヒの寝室のベッドの上にいた。
窓からは月明かりが差し込み、満天の星が見える。
「綺麗だね」
「ん? 君がか?」
「ち、ちがう! 星!」
「んー……まあ、綺麗だな」
「……なに? それ。興味なさそう」
「いや。こんなに綺麗な星が、私の隣にいるから」
彼は私の顎をクイッと持ち上げ、鼻と鼻をくっつける。
彼の体温が心地いい。
呪いの痕跡は、もうほとんど消えかけている。
「……ねぇハインリヒ」
「なんだい?」
「……私、凄く幸せ」
「奇遇だね、実は私もそうなんだ」
「……ハインリヒ」
私はベッドから起き上がり、彼の広い胸に手を当てた。
トク、トク、と力強い鼓動。
生きている音。
「アメリア?」
「私と、結婚してください」
自分でも驚いた。
口から勝手に言葉が出ていた。
前世では、絶対プロポーズされたい側だったのに。
彼は瞳を見開いて、固まった。
「……どうして、先に言うかな」
「えっ?」
「私から言いたかった」
「……あ、ごめんなさい……でも……あまりにも幸せすぎて……この幸せを手放したくなくて、あなたと本当の家族になりたくて……」
言い訳をする私に、彼は慌てふためいた。
「ま、待ってくれ! 全部言うつもりか!?」
「あ……」
「私のプロポーズの言葉が、どんどん奪われていくんだが!?」
こんなに焦るハインリヒ、初めて見た。
なんだか、子供みたいで可愛い。
「やれやれ……。全く。君には敵わないな」
彼は苦笑しながら起き上がり、ベッド横の棚の引き出しから小さな箱を取り出した。
「アメリア」
彼は私を横抱きにしてテラスへと出ると、私を椅子に座らせた。
月明かりの下。
彼は、片膝を地面に付け、私に目線を合わせた。
まるで、お伽噺の王子様のように。
「ハインリヒ……」
「アメリア。私の大切な役目を奪ったらいけないよ?」
彼は私の前に箱を差し出し、パカッと開いた。
そこには、美しい青色の宝石がはめ込まれた指輪があった。
宝石は月明かりと星に照らされて、キラキラと輝いている。
「かなり、頑張ってみたんだが……なかなか難しくて」
「頑張った? なにを?」
「公務の合間を縫って、ドワーフの工房を借りてこっそり作っていたんだ」
「え……あなたがこれを……? 自分で?」
「不格好だが……。……変……か? 喜んでもらえると嬉しいんだが……」
彼は不安そうに私を見上げる。
「……ううん」
私は首を横に振った。
変なわけない。
喜ばないわけがない。
この歪な形の指輪は、綺麗な丸じゃない分、私への愛が詰まってる証だから。
「……最高の指輪だね。ハインリヒ」
私は涙ぐんで微笑んだ。
彼も、ホッとしたように表情を緩める。
そして、彼が私の左手を取る。
その手が、小刻みに震えているのがわかった。
「君が好きだ。アメリア。何よりも、誰よりも」
「……はい」
「私は、君がいなければ生きていけないからね」
彼が自分の胸に私の手を当てる。
鼓動が、早くなっている。
「……君を一人にしてごめん」
「えっ?」
「……以前、馬車の中で、君に秘密を話すと言ったのを覚えているかい?」
「はい……」
彼は、無言のまましばらく私を見つめた。
その瞳には、言い表せないような色々な覚悟が詰まっている気がした。
「ハインリヒ……?」
「……由奈」
「えっ……?」
その響きは、もう二度と呼ばれることはないと思っていた、遠い日の記憶。
私の魂に刻まれた名前だった。
彼に前世の話をした時、私は名前までは言っていなかった。
色んなことが頭をよぎった。
時が、止まったようだった。
数秒、数十秒が、永遠のように感じて、私の頭の中にはまるで走馬灯のように、前世の記憶が駆け巡った。
「……学園のベンチで君の寝言を聞いた時、ドキッとした」
ハインリヒは困惑する私に構わずしゃべり続けた。
「この世界の住人であるはずの君が、どうしてその名を出したのか。ずっとモヤモヤしてた。……馬車の中で君が転生者だと言うことを聞いて、君が由奈なんだと確信した」
え……?
嘘でしょ……待って……。
こんなこと……。
有り得るの?
「俺は……ハインリヒとして、由奈とアメリアの……二人の人生を背負いたい」
「……あなた……奏介……なの……?」
私が呼ぶと、彼は泣きそうな顔で笑って小さく頷いた。
どんな巡り合わせだろう。
転生というだけでも、奇跡のような出来事なのに。
その転生した先で、私を救ってくれたこの人が……。
神様って、いるんだな。
「……言うなら、この時だと思ってた。……俺と、結婚してください」
「…………でも……私はずっと……片想いで……」
「違うよ」
「……違う?」
「俺も、ずっと『片想い』だって思ってた」
彼の瞳が震えていた。
揺れる水面のように。
そして、私の心は、それ以上に激しく震えていた。
「……勇気を出して、言えばよかった。『好き』ってたった二文字を。……だから、もう後悔したくない。死に際に見た、君のあの絶望の顔を……もう、あんな顔はして欲しくない」
「……そう……すけ」
「……由奈と、アメリア。奏介と、ハインリヒ……。四つの人生と、四人分の幸せ」
「……四人分の幸せ……」
「全部、背負わせてくれ。君の全てを」
そっか……。
私が片想いだと諦めてたあの気持ちは……。
すれ違ってただけだったんだ。
お互いに勇気がなくて、踏み出せなくて。
宙に浮いたまま。
「……幸せにしてくれる……? 『私』と、『私』を……」
「……必ず幸せにする。『俺』と『私』が」
薬指に、ひんやりとした感触が伝う。
少し歪な、けれど愛情たっぷりの指輪が、私の指に収まった。
「愛してる」
「私の方が……愛してるよ」
月明かりの下、誓いの口づけを交わした。
星がキラキラと輝いて、私たちを祝福してくれているようだった。
報われなかったあの頃の『片想い』は『両想い』になった。
……そして、私たちは、ふたりしてかかってしまった。
厄介な、『恋の呪い』というやつに。
この呪いだけは、一生解けそうにない。
二人が結ばれて、良かったです。
明日はバレンタイン短編を投稿します。




