ジャック・鏖・ランタン
夕暮れの街を、私は俯きながら一人歩いていた。
足取りは重く、肩は無意識に内へとすぼめられている。鏡を見なくともわかる。今の私は、疲れ切った顔をしている。
本来なら艶やかだったはずの長い髪は、手入れを忘れたまま傷み、まとまりなく広がっていた。昼間はまだ温かさが残るものの、朝夕は急に冷え込む。私は腕にかけていたカーディガンを羽織り、ボタンを留める。
日が沈み始めると、街は一斉に光を灯した。
まるで闇に向かって咲き誇る花のように、イルミネーションが視界いっぱいに広がる。思わず顔を上げた。
「……きれい。もう、そんな季節なのね……」
視界に飛び込んできたのは、街を彩る鮮やかな光と、至るところに溢れる南瓜、蝙蝠、蜘蛛の巣、ゴーストたち。
この時期の日本でも、街はすっかりハロウィーン一色だ。当日になれば、ここは仮装した人々で溢れるのだろう。――私には、縁のない話だけれど。
ふと横を見ると、レストランの入口に黒猫の置物が置かれていた。魔女の帽子を被った可愛らしい黒猫が、ワインボトルを抱えている。
「最近、全然ゆっくりしてないな……。たまには、こんなお店でお洒落にディナーとか……」
そう思ったものの、すぐに首を振る。
窓に映った自分の姿を見た瞬間、店に入る気は完全に萎えてしまった。
ボサボサの髪。目の下の隈。皺の入った白いブラウス。
とてもじゃないが、こんな洒落た場所に足を踏み入れられる状態ではない。
大きく息を吐き、私は再び歩き出す。
街を吹き抜ける風が、私の髪を揺らした。行き交う人々は皆、華やかな服装で、明るい声を弾ませている。
それを見聞きするたび、胸の奥が沈んでいく。
私は深く俯いたまま歩き続ける。
誰も私なんて見ていない――頭ではわかっているのに、どうしても視線が気になった。まるで、どこからか無数の目玉がこちらを覗いているような錯覚さえ覚える。
「……惨めだ……」
気づけば、私は逃げるように早足になっていた。
そのとき――ふいに、足が止まった。
一軒の雑貨屋。
白を基調とした清潔感のある外観。
ここは、私のお気に入りの店だ。
売っている物が特別好みというわけでもない。店員と親しいわけでもない。入店した回数だって、指で数えられるほどしかない。
それでも惹かれる理由は、ただ一つ。
店の正面にある、弓型の「出窓」だ。
横幅三メートルほどのその出窓は、季節ごとにディスプレイが変わる。その時々のテーマに合わせて、丁寧に飾り付けられる。
そんな出窓を眺めるのが、たまらなく好きなのだ。
私は足を止め、ゆっくりと出窓を眺める。
並べられた無数の南瓜。
一つひとつ、手彫りで顔が彫られている。中に灯された蝋燭の火が揺らめき、南瓜の顔を内から照らす。
「ジャック・オー・ランタン……」
南瓜の周囲には、蝙蝠やゴースト、ランタンが所狭しと飾られている。
「……私にも、作れるのかな……。これ、全部手彫りよね……?」
私は窓に近づき、ランタンを凝視する。
穴の奥から溢れる蝋燭の光が、私の顔を淡く照らした。
「……よく見ると、全部顔が違う……。個性みたいなのがある。鼻が長かったり、目が大きかったり、口の開き方まで……。一つ一つ全部特徴がある。すごい作り込み……」
その瞬間だった。
――違和感。
目の大きなランタン。その奥に、何かがある。
何か、入っている。
疲れているせいだろうか。見間違いかもしれない。
それでも、私は抗えない衝動に駆られ、吸い込まれるように顔を近づけてしまう。
ガラス越しに、映る自分の顔。
距離が縮まり、やがて自分の顔が視界から消え――中が見えかけた、そのとき。
「どうか、されましたか?」
横から声がした。
びくりと身体を震わせ、恐る恐る顔を上げる。
そこに立っていたのは、三十代前半ほどの背の高い男性だった。
切れ長の瞳。陶器のように滑らかな肌。
人間離れした美しさと、どこか妖艶な雰囲気。
そのあまりの美しさに、一瞬、意識が遠のく。
「だ、大丈夫ですか?」
「あ……は、はい……」
視線を合わせられない。
こんな美青年と話した記憶など、二十数年という人生を振り返っても一度もなかった。
「窓にぶつかりそうでしたので」
「あ……違うんです。私、ここのディスプレイが好きで……」
その言葉に、男性の表情がぱっと明るくなる。
「そうでしたか。それは嬉しい。全部、僕が作っているんですよ」
私は「えっ?」と驚き、顔をあげたが、目に飛び込んでくる美青年の笑顔に圧倒され、再びすぐに目を伏せる。
そして、そのまま胸元のバッジに視線が落ちる。
「……店長……? 店長さんなんですか?」
「あ、申し遅れました。僕はこの雑貨店のオーナー兼店長のルタと申します。以後、お見知りおきください」
ルタと名乗った青年はそう言うと、もう一度、柔らかく微笑んだ。
あまりにも眩しいその笑顔を、私は正面から受け止めきれず、反射的に視線を落とす。
「て、店長……さん。あの……少し、お聞きしてもいいですか?」
「構いませんよ。何でしょう?」
俯いたままの私に、ルタは変わらぬ優しさを含んだ声で応じる。その声音だけで、胸の奥がざわついた。
「ジャック・オー・ランタンは……わたしでも、作れますか?」
言葉を選びながら、どうにか絞り出す。
ルタは「これをですか?」と、出窓の中を指さした。私は小さく頷き、「それです」とだけ答える。
彼は一瞬だけ思案するように視線を宙に泳がせたが、すぐにこちらを見た。
「作れると思いますよ。くり抜くのに少し力は要りますが、女性でも問題ありません。制作途中のものがあるので……よろしければ、見ていきますか?」
「……いいんですか?」
「ええ、もちろん。お時間が許せば、お教えしますよ。一緒に彫ってみましょう」
「一緒に……。やりたいです……。ぜひ、教えてください」
気づけば、深く頭を下げていた。
そんな私の様子に、ルタは小さく苦笑しながら「どうぞ」と店のドアを開ける。
促されるまま、私は店内へ足を踏み入れた。
アンティーク調で統一された空間。
蝋燭の灯りを基調に、電気照明も色味と明るさが抑えられている。そのせいか、外の喧騒が嘘のように遠のき、空気そのものが落ち着いて感じられた。
「……わぁ。久しぶりに入ったけど、今はこんな感じなんですね……」
「ええ。ハロウィーンに合わせて、少し手を入れてみたんです。どうですか?」
「とても素敵だと思います……。なんだか、落ち着きます……」
「ありがとうございます」
そう言って微笑むルタを前に、胸の鼓動がやけに大きく響く。
何か話さなければと思うのに、言葉が見つからない。こんな時に自然な会話ができる人間だったら、私はもっと違う人生を送っていたのかもしれない。
「……落ち着いてください」
まるで心を読んだかのように、ルタが穏やかに言う。
「それでは、ランタン作りへ参りましょう。あちらが作業場です」
そうして彼は、店の奥へと私を導いた。
ルタの指し示す方へ視線を向けると、一つの扉があった。
店舗の正面側にあたる位置に、壁と扉が設えられている。
――そういえば。
あの出窓のディスプレイの奥には、確かに仕切りがあった。
その向こう側が作業場なのだろう。そう考えれば、何もおかしくはない。
ルタはドアノブを握り、ゆっくりと回して扉を引く。
ギイィィィ……。
耳に残る軋み音と共に、扉が開かれた。
中は、真っ暗闇だった。
表のランタンにはあれほど温かな灯りが灯っていたのに、ここには一切の光がない。
「少々お待ちくださいね」
ルタはそう言い、入口付近の壁に手を這わせる。
迷いのない動きでスイッチを探し当て、カチリと音を立てた。
ぼんやりとした橙色の光が灯り、部屋が姿を現す。
壁際には、大小さまざまな南瓜がサイズ別に積み上げられていた。
まるで出荷を待つ倉庫のように、圧倒的な量だ。
部屋の中央にはテーブルが一脚と、向かい合うように置かれた椅子が二脚。
その脇には、大きなゴミ箱が据えられている。
中を覗くと、南瓜をくり抜いた際に出た種や繊維が、湿った塊となって詰め込まれていた。
テーブルの上には、彫りかけの大きな南瓜。
その傍らに、小刀、スプーン、マジックペンが一本ずつ、きちんと並べられている。
「さぁ、こちらに座ってください」
ルタは変わらぬ笑顔で椅子を勧めた。
私は「ありがとうございます」と答え、腰を下ろす。
改めて、ゆっくりと周囲を見回す。
南瓜。
右を見ても南瓜、左を見ても南瓜。
視界の端から端まで、南瓜しかない。
「いやぁ……お恥ずかしい」
ルタが苦笑混じりに言う。
「ランタン用に南瓜を注文したんですが、どうも数量を間違えてしまったようでして……」
「間違えたって……。そんなレベル、遥かに超えてますよね」
「ははは」
照れくさそうに頭を掻く姿に、思わず力が抜ける。
完璧そうに見えた人にも、こういう抜けた一面があるのかもしれない。
――そう思った自分に、私は小さく驚いていた。
いつの間にか、彼に親近感を抱いていた。
ルタは私の隣に椅子を置き、腰掛けると、テーブルの南瓜を手に取った。
「こちらをご覧ください。これが作成途中のランタンです。順を追って説明しますね。まずは……」
和やかな口調で、丁寧に工程を説明してくれる。
私の拙い質問にも、嫌な顔一つせず、終始穏やかな笑顔で答えてくれた。
気づけば、胸の奥が少しずつ温かくなっている。
――惹かれているのかもしれない。そんな考えが、ふと頭をよぎった。
ルタは壁際から中くらいの南瓜を一つ取り、私に差し出す。
「では、実際にやってみましょう。道具はこちらを使ってください」
いつの間に用意したのか、必要な道具一式がテーブルに並べられ、私の前へと滑らせられる。
私は礼を言い、教わった通りに南瓜の上部を切り開き、中身をくり抜き始めた。
背中越しに、視線を感じる。
振り返ると、ルタは変わらぬ笑顔で、私の手元を見守っていた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
鼻の形を彫っていると、ルタが声をかけてくる。
「一度、休憩しましょう。意外と疲れているはずです」
言われて初めて、手のだるさに気づく。
道具を置き、頭の後ろで手を組んで大きく伸びをした。
「あぁ……凝った……」
「ふふ。ご苦労様です。慣れないと、すぐにこりますからね。よろしければ、こちらを」
差し出されたコップを、両手で受け取る。
手のひらに伝わる温もり。
立ち昇る湯気と、甘い香り。
一口飲むと、身体の奥までじんわりと温まっていく。
沈んでいた心まで、ほぐれていくようだった。
「……ココア。ほっとします……。おいしいです……」
「それは良かった」
隣で同じようにココアを飲むルタを見ているうち、視界がゆっくりと霞んでいく。
頭が重い。
瞼が、やけに重い。
「……眠い……」
抗えない睡魔が、意識を包み込む。
「大丈夫ですか?」
慌てた声が、遠くから聞こえた気がした。
コップを机に置いた、その瞬間――
私の意識は、静かに闇へと沈んだ。
◇
――うーん……。
……あれ?
わたし、眠ってた……?
頭が重い。
まぶたの裏が、妙に熱を帯びている。
何してたんだっけ……。
必死に記憶を手繰り寄せる。
……あ。
ジャック・オー・ランタン。
そうだ、作り方を教えてもらって――。
「……ルタさん……?」
その瞬間、意識が一気に覚醒した。
――まずい。
眠ってしまった。
人様の作業場で、勝手に。
迷惑をかけてしまった。謝らなければ。
そう思い、椅子から立ち上がろうとして――
――動かない。
「……え?」
身体に力を入れても、びくりともしない。
「……なに、これ……」
視線を落とす。
両手は背中に回され、椅子の背もたれに固く縛り付けられている。
足首も、椅子の脚に固定されていた。
頭の中が、真っ白になる。
「……おや。お目覚めですか?」
前方から、落ち着いた声。
恐る恐る顔を上げる。
そこには、椅子に座り、テーブルに向かって作業を続けるルタの後ろ姿があった。
手元は見えないが、南瓜をくり抜く、規則正しい音だけが部屋に響いている。
「……ルタさん……」
喉が、ひくりと鳴った。
「……これは、どういうことですか……」
「どう、とは?」
手を止める気配はない。
「……わたしを……縛って……」
そこまで口にしたところで、言葉が途切れた。
――見えて、しまった。
視線の先。
部屋の隅に並ぶ、完成したランタンたち。
その中に――
髪。
見覚えのある、長い髪。
「……ル、ルタさん……。あの、ランタン……」
「ランタン?」
彼は、楽しそうに言う。
「ああ。貴女が好きだと言ってくれた、ジャック・オー・ランタンのディスプレイです。わかりますか? 素晴らしいでしょう?」
「……ちが……」
「個性を再現するのが難しいんですがね」
ようやく、ルタが振り返る。
「でも、よく出来ていると思いませんか? 貴女も『すごい』って、褒めてくれていましたよね。あれは嬉しかったなぁ」
声は穏やか。
けれど、その瞳には、何の感情も宿っていなかった。
「……そういう……ことじゃ……」
「あれ、違うんですか?」
小さく首を傾げる。
「てっきり、理解者が現れたと思ったんですが……。そうですか……貴女も…」
一拍。
「……残念です」
彼は立ち上がり、こちらへ向き直る。
そこに、あの優しい笑顔はなかった。
笑ってはいる。だが、張り付いたような歪さと、背筋が凍るほど冷え切った瞳。
身体が、勝手に震え出す。
歯が、かちかちと噛み合わない。
ルタは、ゆっくりと歩み寄ってくる。
手には、小刀。
「……おや」
視線が、私の足元に落ちる。
「漏らしてしまいましたか。仕方ありませんねぇ」
「あ……あぅ……」
涙と鼻水で、視界が滲む。
ズボンに、温かい感触が広がっていく。
「ごめんなさい……!
ごめんなさい……!
ごめんなさい……!」
「なぜ、謝るんですか?」
不思議そうに、首を傾げる。
「謝ることは、何もありませんよ」
「……許して……ください……!
お願いします……!」
にっこりと、ルタが微笑んだ。
――あ。
その瞬間、私は思ってしまった。
許された。助かる。
だが――
「……ダメです」
静かな一言。
「……そんな……」
「ハッピー・ハロウィーン」
横薙ぎに振るわれる刃。
視界の端で、無数のジャック・オー・ランタンが揺れている。
それが、私の見た――最後の光景だった。
◇
一人の男が、出窓のディスプレイに新しい作品を並べていた。
ハロウィーン用の南瓜の飾り。
いくつも並ぶジャック・オー・ランタンの列に、また一つ、新しい仲間が加えられる。
男は配置を微調整し、しばし出窓の向こうを眺めた。
通りを行き交う人々。立ち止まり、微笑み、写真を撮る者たち。
その光景に、男は満足そうに口元を緩める。
「……いい出来だ」
小さく呟き、背を向ける。
部屋の灯りが落とされ、扉が静かに閉じられた。
暗闇に包まれた作業場。
出窓に並ぶジャック・オー・ランタンの内側で、蝋燭の火がゆらゆらと揺れている。
橙色の光が、歪んだ笑顔を照らし出す。
その一つの南瓜の中で――
切り揃えられていない、ボサボサの髪が、微かに揺れている。




