父、娘の幸せを願う
ついに、この日が来てしまったのか。
「では、行ってまいります」
妻にそっくりの微笑みを浮かべながら馬車に乗り込みローゼンス帝国へと旅立っていった愛おしい娘を、ランゼット・レルフィン公爵は涙を堪えながら見つめていた。
「他人の悪意に触れたこともないあの子が、ローゼンス帝国の後宮でやっていけるのだろうか…」
遠くなる馬車の影を目で追いながらそう呟くと、隣に立っていた妻のリファーシャが慰めるように背中に触れる。
「きっと、大丈夫ですわ。
しっかり者のナタリーが側についてますもの。
それにあの子は貴方に似て、強く賢い子ですから」
マイペースなところも貴方に似てしまいましたけどねと小さく笑う妻の言葉に、確かにそうかもしれないと思わず笑みをこぼす。
幼い頃から「お父様と結婚する!」と笑みを浮かべ、自由気ままにのんびりと育った可愛い娘。
社交界はおろか外へ出ることさえ滅多にしない子で、このまま手元に置き続けるのも一つの選択肢だと思っていた。
(そんな娘を、まさか遠い異国に嫁がせることになるとは……)
どんどん遠くなる馬車に苦々しい気持ちを抱えながら、ランゼットは婚約が決まった日のことを思い出していた。
〜〜〜〜
王宮からの緊急の知らせに、ランゼットは目を見開いた。
「…なに?
ローゼンス帝国から使者が派遣されただと?」
早朝にベッドの上で侍従からその知らせを受けた彼は慌てて支度を整えはじめる。
「急いで王宮へ向かう馬車を用意しろ」
その日は月に一度1週間かけて開かれる貴族会議の最終日の翌日で、王都での仕事がひと段落したランゼットは久しぶりに愛おしい家族の顔を見るため公爵領へ帰ろうとしていた。
だが帝国から使者が送られてきてしまった以上、帰宅は先送りにするしかないだろう。
(内容次第ではしばらく帰れないかもしれないな…)
知らせを受けて30分もしないうちに馬車に乗り込んだランゼットは可愛い娘たちや美しい妻と会う日が遠くなってしまったことを悲しむ。
しかしそれも王宮へと向かう短い道中だけでの話で、馬車を降りてからランゼットは完全に気持ちを切り替え、厳しい表情で緊急会議へ向かった。
「皆よくぞこの短時間で集まってくれた。
色々と気になることがあるだろうが、まずは宰相からの話を聞いてくれ」
緊急招集から1時間後。
集められた13人の侯爵以上の高位貴族たちを前に、どこか疲れた様子の国王は側に立つイスゲン公爵に手を振る。
すると彼は心得たように頷き、一枚の資料を配布した。
「使者からはローゼンス帝国が西側諸国に対していかなる侵略も行わないという条件の代わりに、こちらにもいくつかの条件を提示されました。
一つ。魔石の輸出量を大幅に増やし、価格も今より下げること。
二つ。同盟国すべてにおいてローゼンス帝国に対し関税優遇措置を設けること。
三つ。優秀な魔道具師育成のため、両国に交換留学制度を設けること。
四つ。バロット王族の血を引く姫を、ローゼンス帝国皇帝へ嫁がせること。
以上があちら側の要求であり、各所と相談した結果、我が国は全て条件を飲むことにしました」
そんな宰相の言葉に、集められた者たちがざわつく。
しかしそのざわめきも、国王が口を開いたことによって一斉に静まった。
「…みなも知っている通り、現在直系王族には適齢期の王女がいない。
私の子はすでにみな嫁ぎ、王太子の娘は生まれたばかりでまだ幼いため嫁ぐに適さない。
そこで帝国側と交渉した結果、三親等内に王族がいる令嬢から帝国は嫁ぐ者を選ぶこととなった」
その言葉によって、部屋の中により一層の緊張感が走る。
高位貴族の中で3親等以内に王族がいる年頃の娘は決して少なくない。
しかし、一体この中の誰が帝国への生贄に等しい状況下で娘を差し出すのか。
あまりに当然のことに困惑した貴族たちが沈黙し互いを見やる中、ランゼットの妻の兄であり、先代国王の第一王女を母に持つロッセン公爵が口を開いた。
「陛下、それは婚約者のいる令嬢を含めてでしょうか」
リファーシャによく似た落ち着いた声のトーンで冷静に尋ねるロッセン公爵に、国王は首を振る。
「いや、婚約者のいる令嬢は条件から外そう。
年齢は15〜18歳くらいを考えているが…宰相、条件に一致する令嬢は何人いる?」
「その年齢でまだ婚約者がいない令嬢となると……
レルフィン公爵の娘 ルシュカ嬢
ファルセ公爵の娘 アイシャ嬢
ユティカ侯爵の娘 ナルシー嬢
の3人ではないでしょうか。
どの方も三親等内に直系王族の方がいらっしゃいます」
(やはり、そうきたか……)
話の流れから予想はしていたが、この場で候補者として呼ばれてしまった娘の名前に、冷静を装っていたランゼットはその場で頭を抱えたくなった。
そして、ついつい娘を甘やかして婚約問題を先延ばしにしたことを心の底から後悔していた。
(あぁ、こんなことになるくらいなら適当に見繕っておけばよかった!)
どうやらそう思っているのは他に名を呼ばれた2人も同じようで、呼ばれた者を互いに見つめるその目は明らかに動揺していた。
「お、恐れながら陛下、実はアイシャは近々婚約を結ぶ予定でして……」
「なっ……それを言うなら、ナルシーも16歳になったら婚約を結ばせようと考えていたんですよ!」
一番に抜け駆けしようとしたファルセ公爵に、置いてかれまいと必死に食いつこうとするユティカ侯爵。
どちらも男兄弟ばかりの家系に生まれた一人娘で、彼らが自分の娘をひどく溺愛してることは有名な話だ。
そもそも、貴族令嬢は幼い頃から積極的に婚約相手を探すものであり、適齢期になるまで婚約していない令嬢は滅多にいない。
いたとしたら、よっぽど条件が悪いか…もしくは、父親が手放したくないほど溺愛しているかだ。
そうでない限り、15歳の貴族令嬢には婚約者がいるのが普通なのである。
だからランゼットも当初はルシュカに婚約者を見繕おうとしたのだが、"引きこもり姫"と称されるほど公爵領から出ようとしない娘に良い縁談は中々こないうえ、当の娘には「お父様以上の方でないと嫌です!」と可愛い顔で泣きつかれてしまい、ついつい先延ばしにしてしまった。
……そして、その結果が今の状況だ。
後悔先にたたずとは、まさにこのことを言うのだろう。
「2人とも落ち着きなさい。
陛下の御前ですよ」
宰相に釘を刺され、言い争いのように主張し合っていた2人はようやく口を閉じた…が、その顔には"絶対にローゼンス帝国なんかに娘は嫁がせない"という強い意志が現れている。
ファルセ公爵もユティカ侯爵も大きな穀倉地帯を領地に持つ貴族で、国に与える影響力は凄まじい。
だからこそ、彼らが王族と怨恨を残すような事は決してあってはならないのは周知の事実だった。
(これはどうしたものか……)
正直、ランゼットとて娘を遠い異国へなど嫁がせたくない。
それも相手はローゼンス帝国の皇帝。
古くから魔道具の開発中心地であるレルフィン公爵領には様々な国から人が集まることもあり、遠い国とはいえど色々と帝国の噂は聞いてきた。
その噂によれば、今の皇帝は非情で冷徹かつ血を好む残忍な性格で、その後宮には東大陸中から集まった多くの妃がいるという。
普通そんな魔窟のような場所に娘を喜んで送り出したい親がいるはずがない。
正直、そんなことをするくらいなら自分の手足を差し出した方がまだ良いと思えるくらいだ。
…だが、この話はそんな単純ではない。
娘を差し出さなければ、奪われるのは数百万の命かもしれないのだ。
帝国が王族の血を引く娘を皇帝の妃に求めたのは、その妃が両国にとって意味のある人質になるからだろう。
(いっそそんな役目を負えないほど愚かな子であれば拒否できたものを……)
ルシュカは幼い頃から妙に大人びた子で、貴族としての礼節は教わる前から弁えていた。
教養だって授業から逃げ出してばかりだったとは思えないほど身についていて、社交もまともにしてこなかったはずなのに何故か他者の考えを読み取るのにも長けている。
なにより…あの子は直系王族ではないのに、バロット王族の特徴である黄金の瞳を珍しく受け継いでいるのだ。
より王族らしい見た目の娘が望まれているのだとしたら、ルシュカ以上の令嬢は存在しないだろう。
「ファルセ公爵とユティカ侯爵の意見は分かった。
…それで、レルフィン公爵。
其方はどのように考える?」
期待するような眼差しと意味深な笑みに、もう陛下の中ではルシュカが嫁ぐことは確定事項なのだろうと悟る。
それもそうだ。
ランゼットは決して娘を遠い異国の地に送り出したいわけではないが、この3人の中で最も送り出すに相応しい令嬢は自分の娘であるという自負もあった。
「私は………」
ふと「お父様!」と満面の笑みでこちらに走ってきた幼い時のルシュカの顔が頭をよぎる。
子供たちはみな、宝物のような存在だ。
できることなら一生手元に置いて大事に守りたい。
……しかし貴族として生きるということは、時に大事をなす為にその宝物さえも犠牲にしなければいけないということだ。
豊かな生活は国民への義務と責任をもって享受できるもの。
名門レルフィン公爵家に生まれ育ったランゼットは、そのことをよく理解していた。
「陛下の、仰せのままに」
ランゼットはほぼ反射的にその場に跪き、王の命令を受ける体制を整える。
「レルフィン公爵…その忠義、感謝する。
ここに王命を下そう。
レルフィン公爵が娘ルシュカ・レルフィンは、ローゼンス帝国皇帝と婚約を結ぶように」
「ランゼット・レルフィン。
その命、謹んでお受けいたします」
娘の婚約が正式に王命として下され、宰相から王命の書かれた巻物を手渡される。
それをギュッと両手で受け取ったランゼットは、その重さをしばらくの間跪きながら噛み締めていた。
「では、次の議題は………」
しかし、公爵という立場はいつまでも感傷に浸ることを許される立場ではない。
婚約の王命が下された後も続いた会議では帝国から提示された他の条件についてあらゆる関係先と時間をかけて話し合って調整することとなり、結局会議が終わったのは2日後の深夜だった。
会議が終わった後、すぐにでも公爵領へ帰りたかったランゼットは多くの貴族に捕まり娘の婚約について賞賛された。
流石公爵らしい私情を挟まない冷静沈着な態度だと感嘆されたり、ファルセ公爵やユティカ侯爵に「この恩は忘れない」と過剰に感謝されたり…その度にランゼットは娘への申し訳なさで気が滅入った。
そしてトドメと言わんばかりに、王宮を出る直前には娘への溺愛っぷりをよく知る人物にも言葉をかけられてしまった。
「馬鹿め。こうなる前にレザリアスと婚約させればよかったのだ」
義兄であり、同じ学園で学んだ友でもあるルティアス・ロッセン公爵に嫌味のようにそう言われたランゼットは、人前では隠していた落ち込みを露わにするように重いため息を吐いた。
「仕方ないだろう、ルシュカはレザリアスのことを兄のようにしか思っていない。
そもそも、嫌がるレザリアスを無理やり外遊に行かせて2人を引き離したのはお前じゃないか」
「後継者は20歳になったら外へ行かせるのが我が家の決まりだ。
外務大臣が他国のことを知らないなど話にならないからな。
こればかりは本人が嫌がろうと関係ない」
レザリアスとは、ルシュカにとっては従兄弟にあたるロッセン公爵家の長男だ。
今年で21歳になる彼は代々外務大臣を務めるロッセン公爵の跡を継ぐべく、父であるルティアスに命じられて1年前から西側諸国を外遊している最中であった。
そんなレザリアスだが、実の妹がいない彼は幼い頃からルシュカを妹のように可愛がってくれていた。
お菓子を与えたり、人形をプレゼントしたり、花冠を作ってあげたりと、側から見れば本当の兄妹よりも仲の良い2人だった。
しかし、レザリアスはどうやら最初からルシュカのことが好きだったようで…やがて子供に対する扱いからレディーに対する扱いへと徐々に変化し、ルシュカが14才になる頃には分かりやすく好意をアピールするようになった。
その姿を見て当初はランゼットやリファーシャも彼がルシュカにとって一番条件の良い相手だと思ったのだが、何故か肝心のルシュカが彼の好意に全く気づいておらず、「レザリアス兄様はロバーツ兄様よりもお兄様らしい人よね」とまで言い出す始末だった。
だからランゼットたちも、ルシュカが自ずと気づくまでゆっくりと見守っていこうとしていたのだが……
「私はきっと、レザリアスにも恨まれるだろうな」
「何を言う、あのバカ息子にお前を憎む資格などない。
自分の想いをはっきり伝えなかったのはあの子の過失だ」
「それはどうだろうか…私にはアイツの気持ちが痛いほど理解できる。
私だってお前が背中を押してくれなければ、リファーシャは今頃別の男の妻になっていたかもしれないのだから」
若い頃の妻との焦ったい関係を思い出し、ランゼットは苦笑いを浮かべる。
レザリアスは過去の自分のようで、ついつい同情してしまうのかもしれない。
しかし、今となっては彼に同情するのもおかしな話だ。
結局自ら王命を受け取ることを選択し、結婚するかもしれなかった彼らを引き裂いたのは紛れもなく自分なのだから。
「レザリアスに自分の過去を重ねるのはいいが、今一番優先すべきは帝国に嫁ぐお前の娘だろう。
ルシュカは私にとっても可愛い姪だ。
せめて、万全の状態で嫁がせてやれ」
「…あぁ、言われなくてもそのつもりだ」
とくに慰めるわけでもなく、言いたいことだけ言って去っていったルティアスを見送ったランゼットは、急いで公爵領へ帰るべく馬車に乗り込む。
そして、先に馬車で待機していた専属侍従のエルン・アステルに声をかけた。
「急いで手紙を書きたいのだが、用意できるか?」
「はい、既にご用意しております」
幼い頃からずっとランゼットに仕えてくれているエルンは不思議とランゼットの行動が読み取れるようで、彼はしっかり手持ちのトランクケースの中にレターセットとランゼットが愛用しているペンを入れていた。
「すまないな、ありがとう」
エルンから素早く差し出されたレターセットとペンを受け取ったランゼットは、馬車に備え付けられた簡易机を広げてその上で妻や娘にあてた手紙を書く。
帝国から来た使者のせいで仕事は山積みだったが、まず何よりも大事なことは婚約についてルシュカや家族に伝えることだろう。
そう考えた彼は、手紙で婚約を結んだということを簡潔に伝え、追伸で公爵領に帰ることなどを書き記す。
娘に嫌われたくないという気持ちが現れたのか追伸部分が少し小さく弱々しい文字になってしまったが、どうせ何度書き直しても同じなので諦めてそのまま早馬を飛ばした。
また、ランゼットは少し悩んだ末、王宮で働いている息子にも急いで公爵領へ帰ってくるよう知らせを送った。
王宮勤めをする以上息子もこれから忙しくなるだろうが、今ならまだ少し余裕があるはずだ。
きっと、こういうことは家族全員が揃った場で直接言った方がいいだろうと考えた末の行動だった。
そして、その後ランゼットは王都の屋敷からの帰宅道中で娘に嫌われる覚悟を決めて公爵領へと戻り……
思っていたよりすんなりと婚約を受け入れるほど成長した娘の姿を目の当たりにして、涙することになったのだった。
〜〜〜〜
出発してからあっという間に見えなくなってしまった馬車の轍に、ランゼットは何とも言えない寂しさを感じる。
婚約当初はもっと余裕があると思われた準備期間は蓋を開けてみればたったの4ヶ月で、様々な書類の決裁や調整、嫁入り道具の準備に時間を割かれたランゼットが娘と過ごせる時間はそう長くなかった。
ルティアスを通してレザリアスにもルシュカの婚約を伝えてもらったが、彼が帰ってこれるのはルシュカがちょうど帝国に到着するであろう2ヶ月後らしく、残念ながら直接別れを言うことは叶わなかった。
(本当に、レザリアスには申し訳ないことをした)
あれほどルシュカを大切に思っていた彼がこの知らせを聞いて何を思ったのかは分からないが、かなりショックを受けたのは間違いないだろう。
しかし当の娘は、レザリアスに会えなかったことは特に残念がっている様子はない。
それどころか、別れの際には両親よりも妹との別れを酷く悲しみ、涙ぐむ父の抱擁は綺麗に躱して大事な頼み事があると早口で捲し立ててきた。
「お父様、早くリグリスの婚約者を見つけてくださいませ。
あの子を私の二の舞にしてはいけませんからね。
…ですが、婚約相手は慎重に検討してください。
リグリスに相応しい経済力と、見た目と、性格を持ち合わせた完璧な青年を、お父様の命をかけて探してくださいませ!!」
ルシュカに血走る目でそう言われた時、流石にランゼットも少し引いてしまい、悲しみの涙はいつの間にか消え去ってしまった。
そして同時に、自分がこれから遠い国に嫁ぐというのに、何よりも先にリグリスの婚約を気にかける娘はやはり少しズレているのではないかと心配になってきた。
「どうしてルシュカはあんなにリグリスを溺愛しているのだろうな?」
別れたくないとまるで恋人同士のように熱烈に抱きしめ合う姉妹を見て首を傾げたランゼットに、妻はクスリと笑う。
「ルシュカはリグリスが私のお腹にいる時からずっと可愛がってましたよ。
『この子は私が一生守る』とまで言って……
生きる気力が薄かったあの子を繋ぎ止めてくれたリグリスは、まさに宝物のような存在なのでしょう」
そんな妻の言葉に、ふと昔のルシュカを思い出す。
赤子の時からあまり泣かず、何に関心を持つわけでもなく何もかも面倒だと投げ出して眠ってしまうあの子を心配し、私たち夫婦は何人もの医者に診せた。
しかし結局どの医者も言うことは同じで、それはルシュカの生まれ持った個性なのだと言われたが…リグリスに対しては心から愛おしそうに接する姿を見ていると、本当にそうだったのだろうかと思うと同時に、ある疑念が生じる。
(私たちは、本当のあの子をまだ知らないのかもしれない)
思えば、幼い頃のルシュカはいつも何かを恐れるような目で私たちを見ていた。
だからこそ「お父様と結婚する!」と言われた時は嬉しかったが、そんな時でさえあの子はこちらの反応を伺うように一線を引いていて、それがとても悲しく寂しかったことを思い出す。
あれから子供たちには溢れるほどの愛情を注いできたつもりではいるが、それが伝わっているのかを知る術は親にはない。
『この国のため…そして愛する家族のために、精一杯頑張ります』
旅立っていくあの子の言葉を、固い決意を秘めた眼差しを…私たちはただ信じるしかないのだ。
「…さて、あの子に早く手紙を送る為にも早速リグリスの婚約者を探し始めようか」
「そうですわね。早く探さないとルシュカのお眼鏡にかなう候補が居なくなってしまうかもしれません」
「確かに、良い相手は早くから売れてしまうからなぁ…」
とはいえ、そもそもルシュカの厳しい目にかなう人など最初からいるのだろうか……
そう思いながら横に立つ妻を見ると、妻も同じことを思っていたのか、互いに目を合わせて困ったように笑う。
おそらく、ルシュカはリグリスが好きな相手と結婚できれば満足するだろう。
あの子にとってはリグリスの幸せが一番だから。
私たちはその時に備え、相応しい相手と機会を提供するだけだ。
(どうか、幸せになってくれ)
どうやらルシュカは人質として死ななければいいとだけ思っているようだが、私たちは違う。
できれば、あの子にはローゼンス帝国の地で幸せな人生を歩んでほしい。
それがどれだけ困難なことだと知っていても……
親としては、願わずにはいられないのだ。
「慈愛の女神よ。
ルシュカが彼の地でも幸せを感じられる生活を得られますように」
自分が妻や子供たちと過ごした時のように。
ふとした時に幸せを噛み締めて笑みが溢れるような、そんな人生を送れますように……
そう祈ったランゼットは妻と寄り添い、馬車の消えた方向を静かに見つめ続けた。