引きこもり姫、婚約を結ぶ
その叫び声は、公爵家の屋敷中に響き渡った。
「ふっ、ふざけんなぁぁぁぁ!!」
先ほど王都から速達で届いた父親の手紙を放り投げ、床に膝と手をつき項垂れる薄緑色のふんわりとした髪の毛を持つ令嬢に、近くで控えていた茶髪の侍女は冷静に声をかけた。
「お嬢様、『ふざけんな』は貴族令嬢として相応しくない言葉遣いですよ」
「いや今はそんなこと気にする場合じゃないんだけど!?」
「いいえ、言葉遣いを軽視してはいけません。
お嬢様は由緒正しき公爵家の一員なのですから、いついかなる時も淑女として完璧に振る舞うべきと先生方も仰って…」
「それ以上はやめて、耳にタコができそう。
ただでさえお父様の知らせにクソムカついてるってのに!」
「その『クソムカついてる』もダメですよ」
「なっ………」
ささいな罵りさえも見逃さず注意し、しれっと主人が放り出した手紙を拾うナタリー。
ルシュカはそんな彼女のそつのなさに苛立ちを覚えつつも、ひとまず冷静になろうと一旦深呼吸をする
(ふぅ…落ち着け、私。問題は口うるさいナタリーじゃなくて手紙の方なんだから)
そう自分に言い聞かせたルシュカは、見間違いかもしれないと淡い期待を抱いてナタリーから手渡されたクシャクシャの手紙を開いて再び読む。
しかし、ゆっくり丁寧に読み直したからといって手紙の内容が変わるわけではなかった。
『愛する娘ルシュカよ。
すまない、お前の婚約が決まってしまった。
不甲斐ない父を許しておくれ』
そう簡潔に書かれた父からの手紙を握りしめたルシュカは悔しさのあまり下唇を噛む。
(結局こうなるのか…っ!)
結婚だけは嫌だとせっかく3才の頃から『お父様と結婚したい』とかなんとか言って必死に婚約の話を避けてきたのに、まさか公爵という高い地位にいる父にも断れない縁談が来るとは……
「私の独身貴族計画はどうしてくれるわけ!?」
生まれてこの方恋愛をしたこともなければ、結婚したいなどと一ミリも思ったことはない。
なんなら、結婚せずにこのまま裕福な実家を頼って独身生活を謳歌する気満々だった。
なのに…なのに、こんなことになるなんて!
そんな人生計画がすっかり崩れ去ったと知ったルシュカはもう全ての事象にイライラして、とりあえずこの場にいない父に怒りをぶつける。
「大体お父様もこんな大事なことを私に直接相談もせずに手紙で一方的に伝えてくるなんて卑怯だわ。
王都から公爵領までたった一日の距離じゃない、こんな大事なことならせめて自分の口で伝えるべきでしょ!」
「言いづらかったのでしょう。
旦那様はお嬢様のことを溺愛なさってますし、お嬢様が婚約をとても嫌がっているのは旦那様と奥様が一番ご存じですので」
そんな侍女の言葉を聞き、確かにそうかもしれないと少し落ち着きを取り戻す。
父は政略結婚の多い貴族にしては珍しい愛妻家であり、そんな妻が生んでくれた3人の子供も溺愛している。
そんな愛に溢れた両親は、貴族としての責任は果たしながらも子供の意思をできる限り尊重する形で育ててくれた。
だからこそ、本来ならば婚約者がいて当たり前の年齢であるルシュカには今の今まで婚約者がいなかったのである。
「それにお嬢様、よくお手紙を読んでください。
一番下の方に追伸が書かれていますよ」
「え…本当だ」
ナタリーに促されて手紙の一番下を見ると、本文と違って小さく弱々しい字で『追伸: 手紙が届く日の夜、公爵領に帰ります。どうかお父様を嫌わないでおくれ…』と書かれていた。
どうやら娘の反応に怯えながらも、自分の口で伝える気はあったらしい。
(…まったく、仕方がない人だな)
情けない父の字を見て怒るに怒れなくなってきた私は、今頃泣きそうになっているであろう髭を蓄えた中年男の姿を思い浮かべる。
どうせ今ここで一人文句を言ったところで何も覆りはしないのだ。
だったらいっそ、考えるのをやめよう。
そう思った私は再び手紙を宙に放り出し、そのまま倒れ込むように近くのベッドへ身を投げる。
「あぁ…これよ、これ!」
幼い頃から愛用するベッドはいつだってフカフカの状態で優しく私を迎え入れてくれるのだ。
「お嬢様、まさかまた寝るつもりですか?」
そんな主人の奇行に、ナタリーは"またか"と呆れたようにため息を吐く。
「だってお父様がいないのに今焦ったって仕方ないじゃない」
「…そうは仰りますが、お嬢様は結局手紙が無くても昼寝するつもりでしたよね?
朝からベッドの方をチラチラと見ていましたし」
流石ナタリー、良く観察してる。
私の「もうちょっと寝たいなぁ…」を見抜いていたなんて。
沈黙は金とはよく言ったものだ。
ルシュカはどこか他人事のようにそう思いつつ、笑顔で黙って布団を被った。
「じゃ、夕食までには起こしてね」
「ちょっ、お嬢様……あぁ…」
言いたいことだけを言ってすぐ眠りについた主人を、傍らに立つ侍女は諦めた様子でいつものように呼吸ができるよう主人の顔をかけ布団からそっと出す。
「まったく、寝顔だけは天使みたいなんですから」
一度目をつむってしまったら中々起きてくれない主人のことを熟知しているナタリーは、ベッドの上でスヤスヤと眠る主人を見て呆れたように頭を振った。
…ルシュカ・レルフィン16歳。
生まれた頃から好きな物はベッドで、好きなことはベッドの上でゴロゴロすること。
だから彼女は領地はおろか、屋敷の外にすら滅多に出てこない。
そして人々はそんな彼女のことを『公爵家の引きこもり姫』と呼んでいた。
⭐︎✴︎⭐︎
夜が訪れたレルフィン公爵家では、家族全員が揃って夕食をとっていた。
公爵家の食堂にある無駄に長い食卓の端に集まって食事をとる5人の家族は、一番奥の席の父を中心にして、左側に母と兄、そして右側にルシュカと妹が座っている。
公爵家の使用人達は食事の時間だけは給仕をする時以外は下がっているため、この家族にとって食事の時間は貴重な家族だけの時間なのだが…
実は、こうやって食卓に家族全員が揃うのは約1年ぶりのことだった。
というのも、公爵家という地位もあってか、レルフィン公爵家の人々は基本的に忙しいからだ。
まず、父のランゼット・レルフィンは公爵と魔道具の流通を管理する大臣としての仕事のため、昼夜問わず王都と領地の屋敷を頻繁に行き来している。
しかし、彼が領地にいる間は仕事の都合でほとんど研究所の方に滞在しているか、書斎に籠りきりになるかなので、あまり顔を合わせる余裕がないのだ。
続いて、ルシュカより3つ歳上のロバーツは、10歳で王都の寄宿制の騎士学校に入り、卒業した後は父の跡を継ぐにあたり王都で後継として地盤を固めるべく魔道省で必死に働いているらしく、そもそも領地には年に数回しか帰ってこない。
兄妹仲は別に悪くないのだが、公爵家の後継としてやる気に満ち溢れるロバーツと、できるだけサボりたいルシュカはそもそも性格的に合わないので、今のように年に数回会話するくらいでちょうどいい関係だ。
そして母のリファーシャはというと、まだ妹が幼いこともあってか基本的に領地の屋敷に滞在している。しかし、父が領地へ帰ってきた時は共に研究所の方に滞在したり、公爵夫人としての社交や慈善事業を行いに外出したりと何かと家を留守にしがちだ。
そのため、結局今のところこの大きな屋敷に常時いるのは年頃の令嬢のくせに家に引きこもっているルシュカと、まだ9歳の可愛い妹リグリスだけだった。
そんな日々を送っているからこそ、家族愛の強い両親はいつもなら家族との久しぶりの再会を喜んで各々の近況を聞き出そうとするのだが……
今夜はルシュカのこともあってか、妙な緊張感と沈黙が流れていた。
「…それでお父様。
私の婚約の話は一体どういうことでしょうか」
婚約の話をするために帰ってきたはずなのに、悲壮な表情を浮かべて一向に話をし始めてくれない父に痺れを切らし、ルシュカは肉を切るナイフを置いて鋭い視線を向ける。
するとランゼットはビクリと肩を震わせ、自らもナイフを置いて気まずそうに口籠った。
「そ、それはだな、なんというか、オ…というやつでだな……」
何を言っているか、全くわからない。
今更何を口籠ることがあるのか。
父への苛立ちがさらに募ったルシュカは、責めるような口調で言葉を続けた。
「何です?もう、ハッキリと仰ってください!」
「お…王命が、出てしまったんだ」
娘の剣幕に押される形でようやくハッキリと喋ったランゼットの言葉に、ルシュカは思わず驚いて大声を出す。
「王命!?」
そんな娘の様子に、リファーシャは微かに眉を顰めた。
「ルシュカ、そんな大声を出してはしたないですよ。リグリスも驚いているでしょう」
「あっ、申し訳ございません」
「お姉様、私は大丈夫だよ」
「うそ、天使だわ………」
姉を気遣うようにニコッと微笑むリグリスに、ルシュカは顔を両手で押さえて悶える。
もう!!我が家の天使はなんて可愛いの!?
母譲りの金髪に父譲りのエメラルドカラーの瞳をもつリグリスは、生まれた時からまるで人形のように美しい顔をしている。
それだけじゃなく中身も天真爛漫でまるで天使のような子だ。
抱き込めば包めてしまうほど小さな身体に、真っ白でモチモチのほっぺも思わず頬擦りしたくなっちゃうような、間違ってこの世に産まれちゃったんじゃないかと思うくらいの天使が私の妹だなんて…なんて罪深いの……
(…ハッ、いけない!今はそれどころではなかった)
つい愛しの妹可愛がりモードに移行しかけた私は、なんとかデレデレと緩みそうになった表情を引き締める。
するとちょうどその時、ずっと黙っていたロバーツが真剣な表情で口を開いた。
「それは、先日から王宮で緊急で開かれていた会議と関係があるんですよね。
王命として婚約が下されるとは…お相手はいったいどなたなのですか?」
そんな兄の問いに、父は苦虫を噛み潰したような表情をする。
「…お相手は、ローゼンス帝国の皇帝だ」
あまりに予想外の相手の名前に、部屋がシーンと静まり返る。
"ローゼンス帝国"
久しぶりに聞いた馴染み深い名に、ルシュカは呆然としながら口を開く。
「そんな、なぜ我が国から最も遠いはずの国の皇帝と……」
ルシュカが住むバロット王国は西大陸の中心に位置する国であるのに対し、ローゼンス帝国は海を越えた遥か先の東大陸の中心に位置する国だ。
両国は1000年を超える長い歴史を持っているだけでなく、それぞれが西側・東側諸国の中心的な存在となる大国であることから『西のバロット、東のローゼンス』とそれぞれの大陸の象徴とするように呼ばれている。
しかし東大陸と西大陸は互いに大きな海で隔たれているがゆえに、この二つの国は長年互いに干渉することは殆どなく、春夏の期間が長い西大陸と秋冬の期間が長い東大陸はそれぞれの気候に合わせて独自の文化を育みながら発展してきた。
近年では航行技術も進化し、2つの大陸を行き来する貿易船もあるが……物資補給などの関係で海を超えて攻め入ることは依然として難しく現実的ではないため、ローゼンス帝国とバロット王国は特に争うこともなく、政治的な付き合いも無いに等しい。
だからこそ、ルシュカには何故急にローゼンス帝国の皇帝がルシュカと婚約を結ぶことになったのか意味が分からなかった。
「残念ながら、最も遠い国だったのはもはや過去の話だ。
少し前に皇帝が代替わりしてからというもの、ローゼンス帝国は急速に軍事力を強めている。
東側諸国は帝国を恐れ、もうほぼ属国になっていると言っていい状況だ。
そのこともあってか、次は西側に手を出そうとし始めているようでな……
我が国も周辺国と警戒を強めていたのだが、先日ついに帝国から使者が派遣されてきた」
そう言って、ランゼットは頭痛を耐えるようにこめかみを抑える。
そんな珍しい父の様子を見たルシュカは、帝国の使者が何を言ったのか容易に想像できてしまい、ポロッとこぼすように呟いた。
「…もしかして、全面戦争か和解かを迫られたのですか」
間違いであって欲しい。
そう願いながら吐き出した言葉に静かに頷くランゼットを見て、やっぱりかと思わず舌打ちしたくなる。
「なっ、何故ローゼンス帝国が急に我が国へそんなことをするのですか!?」
あまりに急な話に動揺するロバーツの声を聞きながら、ルシュカは冷静に考えを巡らす。
西側諸国は宗教も関連して昔から平和主義的な国が多く、"平和を守るため"という共通の理念を掲げた同盟をバロット王国を中心として結んでいる。
そのため、どこかの国が攻撃されればバロット王国を含む多くの国がその国のために戦場へ兵を送らなければいけない。
(きっとそこを突かれたに違いない)
ローゼンス帝国の策士たちは大量の物資や兵を投入して全面戦争するよりも、同盟の代表国であるバロット王国に対して事前に戦争をチラつかせて、自国に有利な条件の和解を選ばせた方が得るものが多いと踏んだのだ。
もちろん、バロット王国を含む西側諸国は資源が豊富だし、帝国と戦う余力は十分ある。
しかし平和主義が根強いこともあって長年戦争らしいことをしていないため、王族も国民も戦争で多くの命を失うことに大きな抵抗感があるのだ。
もし戦争をしなくて済む条件が国民生活に大きな影響を与えない程度のものなら、きっとどの国も条件を飲むにちがいない。
ーーそれが最も平和的な解決方法だから。
(クソ、なんて小賢しい真似を……)
大国であることに胡座をかき、内外問わず人々を利用したり踏み潰すことになんら躊躇はない。
頭ではわかっている…ローゼンス帝国は昔からそんな国だと。
しかし、まさか海を越えてまで侵略を続けるとは……
俺はまた、あの国に振り回されるのか。
もう2度と関わることはないと思っていただけに、沸々と何かが湧き上がってくるのがわかったルシュカは、それを抑えようとギュッと拳を握りしめた。
「それで、和解の条件は何だったのですか」
決して婚約だけじゃないはずだと確信を抱きながら尋ねると、ランゼットは重くため息を吐き出した。
「使者は和解の条件として、魔石の輸出量増加や関税優遇措置などいくつかのことを要求してきた。
我が国としても大きな犠牲を伴う戦争は出来る限り避けたいということもあり、提示された条件をほぼ飲む形となったのだが……最も大事な条件として、"バロット王族の血を引く姫をぜひ後宮に迎えたい"と言われてしまったんだ。
しかし、現在の王族には適齢期の令嬢がいない。
それで三親等内に王族がいるルシュカに白羽の矢が立ったのだ」
そんな父の話に、ロバーツは怒りの感情を露わにして席から立ち上がった。
「父上、三親等内に王族の血を含む貴族令嬢は他にもいるではないですか!
何故よりによってルシュカが人質同然として嫁がなければいけないのですか」
「おやめなさい、ロバーツ。
こういったことは、高位の貴族から選ばれるのが道理です。
適齢期の令嬢の中で最も相応しかったのがルシュカなのでしょう」
見かねた母が冷静に兄を諌めると、兄は悔しそうにしながらも大人しく席に座った。
兄のその行動は母に注意されたからというよりも、本当は誰よりもこの事を悲しんでいる母の様子を見て気遣ったからだろう。
(お母様………)
母は自身も由緒正しき公爵令嬢だったこともあり、とても上品で穏やかな人だ。
気遣いを怠らず、どんな時も余裕を持って微笑みながら他者に接し、生まれ持った高貴さで他者を圧倒してきた。
しかし今の母にその余裕の笑みはなく…ただ、ルシュカを見つめる瞳に悲しみが色濃く現れていた。
「せめて、ルシュカに婚約者がいれば良かったのだが……」
父が頭を抱えながら呟いた言葉に、ルシュカは密かにダメージを受ける。
(ウッ……確かにその通りだ)
遠い国…それも敵国同然の場所に嫁ぐことになるならば、この国で婚約者を見つけた方がはるかにマシだったに違いない。
それもまさか、よりによってローゼンス帝国とは。
自分とあの国にはどんな因縁があるというのか……
ルシュカは苦々しい前世の記憶を思い出し、つい遠い目をしてしまった。
⭐︎✴︎⭐︎
ルシュカは古くから続く名門レルフィン公爵家の第二子であり、父方の血筋もさることながら、母方の血筋も先代国王の王女が降嫁した公爵家という、バロット王国では非常に高貴な存在として生を受けた。
しかしルシュカ・レルフィンにはその高貴さをはるかに凌駕する欠点が存在した。
不思議なことに、彼女は生まれながらにしてとても怠惰な人間だったのだ。
「お父様以外と結婚なんて絶対したくない!」
ルシュカは幼い頃からそんなあざとい言葉と態度で父の溺愛を上手く利用し、面倒な婚約の話を全て蹴ってきた。
貴族の女性はどれだけ高貴な身分でも、一度結婚をしてしまえば夫を支えるために領地管理や社交界での付き合いを任され、実質働くのと同じことになってしまう。
幼い頃に公爵夫人として忙しそうにする母を見てすぐさまそのことを学んだルシュカにとって、多くの女性が憧れるそのような生活は絶対にお断りだった。
一般的な貴族令嬢は結婚する前から社交界に関わることで、ある程度は貴族としてのスキルを高めることを求められる。
つまり、幼い頃からマナー教育や社交参加に縛られてしまうのだ。
しかし、一度そのレールに乗ってしまえば婚約まで一直線……
そう思ったルシュカは事あるごとに仮病を使い、『病弱だから』とそれらしい理由をつけてずっと屋敷にひきこもり続けた。
その結果、社交界でついたあだ名が"公爵家の引きこもり姫"である。
ちなみにルシュカは屋敷の中にいたとしても基本的にリグリスと遊ぶ以外、自主的に何かをすることは滅多にない。
時間の許す限り、ずーーーーーっと自室のベッドでダラダラしている。
とはいえ、流石に周囲は四六時中寝ていることを良しとはしておらず、ルシュカはお経のように延々と続くナタリーの小言に辟易として、渋々貴族令嬢として最低限の教養や礼儀作法を学んだ。
他にも、本を読んだり、空をぼーっと眺めたり、ティータイムを楽しんだり、庭園で花と妹を愛でたり…何故か実の兄よりも構ってくる母方の従兄弟と話したりといった、特に生産性のない活動を送るのがルシュカの日常だ。
そしてそんな日々を過ごした結果、ルシュカは高貴な令嬢に相応しいほっそりとした身体と日差しの強いバロット王国では珍しい真っ白な肌を手に入れ、見た目だけは立派な公爵令嬢に育った。
どうやら母方の祖母から引き継いだバロット王族の特徴である黄金の瞳と父から受け継いだ薄緑色のふんわりと緩やかに波打つ長い髪が、上手く儚げで美しい令嬢っぽい雰囲気を作り出しているらしく、ナタリーは「お嬢様は見た目だけは完璧です」と褒め言葉とも悪口ともとれるようなことをよく言っている。
それはさておき。
このように、ルシュカは幼い頃から人一倍「働きたくない」という強い信念を持って生きてきた。
そんな彼女を心配した両親は幼い頃何人かの医者を頼ったようだが特に異常はなく、結局は生まれながらの気質ということに落ち着いた。
まぁ確かに、生まれた時から怠惰なだけだという医者の意見は概ね間違っていない。
しかし、もっと正しく言うのならば……
生まれてすぐにダラけたくなるくらい、前世の記憶のせいで疲れ果てていたのである。
それは16年以上時を遡り…ルシュカ・レルフィンが誕生する前のこと。
ルシュカはかつて、ローゼンス帝国騎士団に所属する騎士クライヴ・アレントとして生きていた。
クライヴは貴族生まれのルシュカとは全く違い、アル中+賭博狂いというクソみたいな両親の元に生まれたせいで、最初からかなりハードモードな人生だった。
幼い頃から親の借金の代わりに人売りに売られるわ、命からがら逃げようとして妹を失うわ、スラム街で飢え死にしそうになるわで……今とは比べ物にならないくらいキツい幼少期を過ごしていた。
当時のスラム街には孤児が溢れかえっていたこともあり、クライヴのように外部から来た者がまともに稼げるはずもなく…当時7歳だったクライヴはスラムで生き抜くため剣を握り、買春のためにスラム街へ通う裕福な身なりをした奴らを脅して金を奪い取るようになった。
クライヴは運良く運動神経が良かったため大人相手でも上手いこと渡り合うことができ、とりあえずそれで飢えることはなくなった。
しかし、どうやら悪い大人たちが縄張りを持ち合うスラム街で俺は悪目立ちしてしまったようで、目をつけられてからはあっという間に売春宿の護衛として雇われていた傭兵のオッサンに捕まえられてしまった。
今まで渡り合ってきた奴らとは比にならないそのオッサンを前にし、流石にその時ばかりは死を覚悟したのだが…そのオッサンは何故か自分を殺そうとしたクライヴのことを面白がり、とても気に入ったようだった。
彼と出会った時に言われた一言は衝撃的で、いまだに覚えている。
「使えそうなガキじゃねぇか」
"哀れ"ではなく、"使えそう"とクライヴを形容した初めての人間は彼だった。
ファルコと名乗ったこのオッサンは、良くも悪くも実にスラムの住人らしい考え方を持つ人間だったと思う。
彼にとって大切なのは、自分の役に立つかどうか。
そしてそんな強者の気まぐれで生かされたクライヴは、ファルコから頼んでもいないのに剣術をたまに教わるようになり、その代わりに違法じみた傭兵業で働かされるようになった。
まぁその報酬は"授業料"とかいって大部分を奪われ、もれなく酒場行きになっていたが。
アル中だし、戦闘狂だし、子供にも容赦ないし…今振り返っても、ファルコは面白いくらい駄目な大人でクソ野郎である。
しかし、なんだかんだ言って仕事をくれるファルコとは持ちつ持たれつの関係を築けていたこともあり、クライヴの中に彼に対する恨みのような気持ちは全くなく、むしろ家族に近いような親愛の情すらあったかもしれない。
…でも、そんな情を抱いていたのは所詮自分だけで。
結局、ファルコはクライヴが12才の頃に突然何も言わずにどこかへ消えてしまった。
彼は恨みを買いやすい危険な仕事をしていたため、彼が消えて数日間はクライヴの中に"死"という言葉が一度も頭をよぎらなかったかというと嘘になる。
だがファルコは簡単に死ぬような奴ではないし、根っからの金の亡者だ。
だからきっと、金食い虫のクライヴのことが面倒になって、1人で他の良い仕事を探しに旅立ったのだろう。
そんなこんなで、再びひとりぼっちになり収入源も失って、行先もなく適当にスラム街をふらついていた時……クライヴは、スラム街へ密かに視察に来ていたローゼンス帝国の第二皇子レルマン・ローゼンスに偶然出会った。
「クライヴ・アレント。
私についてこい、お前に相応しい場所を与えよう」
生まれてからずっと自分の居場所を求め続けてきたクライヴの願望を見透かすように自信に満ち溢れた笑みを見せた第二皇子。
そんな彼にまんまと魅了されてしまったクライヴはほぼ無意識に差し出されたその白く美しい手を握り、その日から彼の忠犬となったのだ。
それからのクライヴはというと、皇子に言われるがままアレント子爵という第二皇子派の地方貴族の養子となり、貴族として最低限の礼儀と教養を叩き込まれてから16才の頃に帝国の第一騎士団に入団した。
5つある師団のうち、本来なら高位貴族かつエリートしか入れないはずの第一騎士団に捻じ込まれたのは、紛れもなく第二皇子の権力によるものだっただろう。
当然、皇子がクライヴに対してそんなことをしてくれたのにはちゃんと理由がある。
当時のローゼンス帝国は一部を除く近隣諸国と関係が良くなかったことから、しばしば領地を奪い合う小競り合いのような戦争が生じた。
しかし帝国では身分の高い者は皇族を守る近衛騎士団や戦争の指揮に流れて前線に立つことなどはほとんどなく、兵士の統率が上手くとれていない戦場では平民が無駄死にしていくこともあり、国民は分かりやすい英雄を求めていた。
そんな状況下で国民の人気を得ようと企んだ第二皇子は自ら戦場に立って指揮を取り、自身のお気に入りであるクライヴを前線に送り出したのだ。
「お前が働けば働くほど、私の名声は高まる。
クライヴ・アレント。
お前がここですべきことは分かるだろう?」
そんな皇子の期待に応えるため、クライヴはひたすら前線で剣をふるい、どんな厳しい戦況でもたった一人で帝国に有利な方へとひっくり返した。
すると、気づいた時には第二皇子は戦争の英雄として国民に褒め称えられるようになっていた。
一方のクライヴはというと、同じく戦場に立っていた兵士の話によって"最恐の黒騎士"という変なあだ名がつけられ、民衆の間では戦場に棲む恐ろしい悪魔のように扱われていた。
今思えば、あれも殿下の采配だったのかもしれない。
それにクライヴは民衆に厭われるどころか、本来仲間であるはずの騎士団の人間にもかなり嫌われていた。
突然現れたアレント子爵家の養子でありながら第二皇子に気に入られて異例の出世をしているということもあり、最初から育ちのいい坊ちゃんまみれの騎士団の中では歓迎されていなかったのは肌で感じていた。
まぁ、クライヴも組織に馴染むつもりが全くなかったうえ、騎士道のきの字もない人間だったから仕方ない。
命令に従っただけとはいえ、第一騎士団の立場を利用していくつかの悪事にも加担していた。
我ながら死んだ後地獄に堕ちなかったのが不思議なくらいには最低な人間だ。
しかしそのくらいのことが出来ないと、クライヴみたいな最下層の人間は皇城に足を踏み入れることすら無理だったのも事実だ。
『レルマン殿下だけが俺に居場所を与えてくれたんだ。あの方のためなら俺は何でもやる』
あの時のクライヴはそんな歪な忠誠心に囚われていて、周囲に何を言われようともひたすら皇子のために働き、惨めに死んでいった。
そして今、死によって第二皇子への忠誠心という呪いから解き放たれた今ならハッキリと言える。
第二皇子はとんでもないクソ野郎だったし、クライヴはそんなクソ野郎に都合よく利用された愚か者だ。
きっとクライヴの死さえも、彼は利用したのだろう。
ーーだけど、全てはもう過去のことだ。
過去は決して変えられないし、死人も生き返らないのだから悔いても仕方がない。
だからこそ、私はバロット王国の貴族令嬢として産声をあげた時に誓ったのだ。
「今世は誰にも縛られず、絶対にダラダラして生きてやる!」と。
…残念ながら、その誓いが今になって自分の首を絞めてるんだけどな!!
過去の自分を引っ叩きたいと心で咽び泣きながら、ルシュカはなんとか引き攣った笑みを浮かべる。
「それで、そのローゼンス帝国の皇帝というのは一体どのような方なのです?」
正直1番可能性が高そうなのは第二皇子だが、頼むからせめてアイツ以外であってくれ。
たとえ名目上だけだとしても、あんな奴の妻になるなんてありえない。
そんなことになるくらいなら、今すぐ身体中突き刺されて死んだほうがまだマシである。
そう強く願っていると、ランゼットは持ち前の髭を撫でながら何とも言えない複雑そうな表情をしていた。
「それがだな…今のローゼンス帝国の皇帝はクーデターで皇位についた人物なのだが、皇帝としては非常に優秀な為政者だと聞く」
「クーデターですか?」
なんだそれ、初耳だ。
自分の記憶には無い出来事に、ルシュカは軽く頭を傾ける。
「お前が知らないのも無理はない。
今から15年前のことだからな」
そう言って父はそのクーデターについて簡単に説明をしてくれた。
それは15年前のこと。
ローゼンス帝国は前皇帝が突然病で亡くなり皇室が混乱している中、"国に蔓延る腐敗を断ち切る"と宣言し現れた今の皇帝とその支持者たちの手によって、当時の皇族及び皇族と深い繋がりを持つ貴族たちが一斉に粛清された。
国外に逃亡した皇族もいたが、結果的にその殆どが新皇帝の怒りを恐れた他国によって"首"だけになって帰ってきたらしい。
あまりに突然起こされたその反乱は内外から反感を買い、当時の帝国はひどい混乱状態に陥るかと思われた…
が、実際は他国に勝るとも劣らない圧倒的な武力と素早い処罰、法整備によって徹底した汚職などの腐敗政治からの脱却を行った結果、帝国の治安や景気は良くなり、現皇帝は民衆に深く慕われているとか。
信じられない。
あの封建的な国家でそんなことが起きるなんて嘘みたいだ。
クライヴが死んだのは今から16年前だから、そのクーデターはクライヴが死んだ1年後に起きたということ。
まさか自分が死んだ後にそんな大きな変化が訪れるとは。
(腐敗政治の排除ね……)
ルシュカの頭の中に外面だけはやたらといい第二皇子とクライヴには平然と鞭打っておきながら皇子に豚のように媚びへつらっていたアレント子爵の姿が浮かぶ。
他の派閥事情は詳しくないが、第二皇子派閥は貴族との贈賄だけに留まらず、他国との違法薬物や人身売買などを行う腐敗政治の塊のような存在だった。
しかし、そんなアイツらも今頃は骨になってるってことか……
ジワジワと沁みてくるその事実に、ちょっぴり口角があがるのが分かった。
(誰かは知らないが、今の皇帝には感謝だな)
そう心の底から安堵したその時。
父の口からなんだか危なそうな言葉が聞こえてきて、ルシュカの意識は一気に引き戻された。
「しかし…今の皇帝は先代以上に気まぐれで、非情かつ残忍な性格を持つ人物だと聞く。
自身に逆らうものには容赦がなく、帝国からの要求に従わなかったことを理由に滅ぼされた国もあるくらいだ。
それに現在の帝国の後宮は各国の姫を含めた50人ほどの側室を抱えているのだが、よく顔ぶれが変わるらしい」
「…よく、顔ぶれが変わるとは?」
それは一体どういうことだろうか。
後宮って、そんな簡単に入ったり出られたりするものじゃないはず……
不思議に思っていると、父は頭を抱えて何故かこの世の終わりのようなどんよりとした雰囲気を漂わせた。
「どうやら、今代の皇帝は女性に全くの無関心らしく……
"最初に子を産んだものを皇后とする"と後宮が作られた4年前に議会で取り決められたそうなのだが、一向に後継が生まれないせいで今の後宮は権力争いでかなり荒れているらしい。
妃の中には年齢などを理由に臣下に下げ渡された者もいるそうだが、自殺者や皇帝に対する不敬罪や反逆罪で処刑される者が出ることも決して珍しくないようなんだ」
「…え」
父の言葉に、一瞬で食卓が凍りつく。
母や兄の顔は一気に青ざめ、リグリスに至っては「お姉様が…そんなところに?」と今にも泣きそうな表情でこちらを見ていた。
そして、当の私はというと…テーブルに肘をつき、両手で頭を抱え込んでいた。
(おいおい、嘘でしょ!?
死人がゴロゴロ出る後宮!?)
なんとなく話を聞いてさっきまで思い描いていた後宮で可愛い女の子に囲まれてのんびり暮らす姿が、一気に血塗れの後宮で日々神経をすり減らしながら暮らす姿に切り替わる。
別に、大勢の側室を抱える皇帝の後宮内で争いが起こることは珍しいことではない。
ローゼンス帝国の先代皇帝も皇后以外に後宮で15人くらいの妃を抱えていて、その中では後継者の座を巡った激しい派閥争いが起きていた。
とはいえ、流石に他国で噂になるほどゴロゴロ死人が出ることは無かったし、あからさまに危害を与えるようなことをしたらちゃんと裁かれていたはずだ。
何故なら、後宮にいるのは国内外問わず身分の高い女性ばかりで、下手したら大きな政治問題になりかねないから……
いくら皇帝とはいえ、後宮を通して多方面の顔色は伺い続けなければいけない。
本来ならばそれは普通のことなのだ。
(ーーでも、今の皇帝はそんなのも気にする必要もないってことか)
「まるで地獄のような場所ですね」
特に、バロット王国で育った者にとっては……
小さくそう呟きながら、ルシュカは顔を上げる。
国王も一夫一妻制であるバロット王国の価値観を持つ令嬢たちにとって、後宮に数多いる妃の一人として生きることはまさに生き地獄に等しいだろう。
それも話を聞く限り、帝国での生活は女性の幸せから程遠いだけでなく、命の保証すらも危うい人質生活といえる。
妃の内部争いで殺される危険があるだけじゃない。
もし皇帝の気が変わったが最後。
不敬罪などと適当に理由をつけられて殺された挙句、バロット王国とローゼンス帝国の戦争の火種になるのだ。
普通の令嬢なら、間違いなく裸足で逃げ出す婚約に違いない。
ーーしかし、ルシュカはその"普通の令嬢"には当てはまらなかった。
「とにかく、私はそこで死ななければいいのでしょう」
嫌々ながらも覚悟を決めたルシュカは、驚いたように目を見開く父をまっすぐ見つめる。
仕方がない。
子は生まれる家を選べないとはいえ、ルシュカは今まで公爵家でたくさん贅沢をさせてもらったし、両親も沢山の愛情を与えてくれて、貴族令嬢とは思えないほど自由に育ててくれた。
クライヴとして生きた記憶があるルシュカは、これが当たり前ではないことを十分理解している。
貴族として生まれて恵まれた環境で育ててもらった以上、国の平和のためならこの身を捧げるのが道理というものだろう。
(ま、ルエンもそう言ってたしな…)
ふと、前世で貴族に嫌がらせをされた時に庇ってくれた友人の言葉が頭に浮かぶ。
彼は騎士としての腕はいまいちだったが、とても賢く優しい奴だった。
『貴族なら好き勝手していいなんて間違いだ。
高貴な身分には、それなりの義務と責任が伴うんだよ』
まぁまぁ高位の貴族だった彼はクライヴがスラム出身だと知ってからも対等に接してくれた貴重な存在だ。
今も生きていれば40代になっているはずだが、彼は元気にしているのだろうか……
そこまで考え、ルシュカは意識を現在へ引き戻す。
ついつい過去の記憶に引きずられるのは自分の悪い癖だ。
今は目の前のことに対処しなければいけない。
「もう既に決定事項なのでしょうが…その話、謹んでお受けいたします」
そう改めて言葉にすると、なんだか頭の中でピースがどこかにピッタリとハマったような感じがした。
そうだ。
よくよく考えてみれば、案外帝国へ嫁ぐのも悪くないかもしれない。
私からすると帝国はかつて生まれ育った勝手知ったる土地だし、両親のような愛に溢れた家庭を築けと言われているわけでもなく、死なないようにひっそりと後宮で生き延びればいいと言われているのだ。
…うん、悪くないのでは!?
なんなら、これ以上自分に相応しい役割はないとさえ思えてきた。
(護身のために、久しぶりに剣でも練習してみようかな)
長らく握っていなかったけど、あの頃の感覚はまだなんとなく覚えているからどうにかなりそうだ。
この際だからお父様にお願いして、この身体に合う大きさの木刀でも作ってもらおう。
既に腹を決めたルシュカには、そんな呑気なことを考える余裕さえあった。
「本当にいいのか?
どうしても嫌なら断ることも…」
突如婚約受け入れの姿勢を見せた娘に対し、ランゼットは戸惑ったようにこちらを見る。
今まで婚約を死ぬ気で嫌がっていた私が思っていたよりすんなりと受け入れたのが不思議なのだろう。
話を持って帰ってきたのは自分のくせに…王命にまで意思を尊重する姿勢を見せるなんて、本当に子供に甘い父親だ。
そんな父の態度になんだか温かい気持ちになった私は、お葬式のように沈んでいる家族を安心させるように微笑み胸を張った。
「えぇ、心配せずとも大丈夫です。
完璧に役目をこなせるか分かりませんが、私なりに頑張ってみます」
私の役目は生き延びること。
そして、もし皇帝がバロット王国を侵略するために私を殺そうとしたら刺し違えてでも件の皇帝を殺すこと…といったところだろうか。
侵略時に自ら軍を率いている皇帝が死ねばそれだけで指揮系統はかなり崩れるはずなので、バロット王国にとって戦況は有利な方に傾くはずだ。
そのことを含めると、なおさらそこらの令嬢より私が嫁ぐのが一番合理的だと思うので全く異論はなかった。
「そ、そうか…では、そのように進めよう」
そう言って、何故か私よりも泣きたそうな顔をした父は早々に席を立ってしまった。
どうやら使者が来たせいで仕事が山積みだったらしく、王都へとんぼ返りするらしい。
「お姉様…本当に大丈夫?」
父が去った後、ずっと横にいたリグリスが不安そうな表情でこちらを覗き込んでくる。
(あぁ、うちの子はなんでこんなに可愛いの…)
その場で悶絶しそうになるのを耐えた私は、両手でクシャクシャっと妹の頭を撫でた。
「大丈夫、リグリスは何も心配しなくていいの。
全てこのお姉様に任せなさい」
「もう、お姉様ったら!
子供扱いするのはやめてください!」
そんなルシュカの反応にすっかり安心したのか、いつものようにくすぐったそうに笑うリグリスの顔に、不意に過去の影が重なる。
『っ、子供扱いはやめろ!』
ーーいかにも貴族の子供といった金髪蒼眼に、女の子と見紛う美しさを持っていたあの子。
小さい子供のくせに無理して背伸びする姿が可愛くて頭を撫でると、すぐにキレてクライヴの身体を魔法で氷漬けにしようとしてきたものだ。
…だが、なんだかんだ彼はクライヴにとても懐いていた。
そしてクライヴもまた、彼を実の弟のように可愛がり……
『俺は、お前を決して許さない』
身勝手な理由で、深く傷つけてしまった。
(…あぁ、ダメだ)
よりによってアイツの姿がリグリスに重なるなんて、今日はよっぽど感傷的になっているらしい。
ルシュカは一瞬自嘲するようにフッと笑い、すぐに何もなかったように明るく振る舞う。
「リグリス、お姉様に貴女を抱きしめさせてちょうだい!」
「こらこら、まだ食事の途中でしょう」
「そうだぞ、ルシュカ。
せめて食べ終わってからにしろ。
それと、あとで私にもお前たちの頭を撫でさせ…いや、抱きしめさせてくれ」
「あら、あなたたちは本当に仲良し兄妹ね。
私も混ぜてくださいな」
ようやく普段通りの食卓に戻ったと思いきや、どうやら感傷的になっていたのは私だけじゃないらしい。
母はともかく、とりわけシスコンというわけでもない兄の珍しい言葉を聞いた私は、勿体ぶるように「しょうがないなぁ」と言って笑ったのだった。