幸福の塔
幸福の塔
むかーしむかし、そうは言ってもつい最近のあるところに幸福の塔と呼ばれるものがありました。曰く、そこにはこの世全ての、ほんとうの幸福が詰まってるとか。それはただの噂話で、人間たちはバカにしたけど、たまには物好きもいるのです。物好きたちは身を寄せて、さんよにん、塔を求めて出発しました。
その冒険は彼らだけしか知らない話。5年はかかって、1人死んで、地図にもないようなその島に、おっきな塔は建っていました。泣いて喜ぶ旅のリーダー。ここにはおれたちも知らない、最上の幸福が溢れているにちがいないと!
塔に入って第一階、でもそれは高いだけの普通の建物で、そこには上向き矢印と
「この先、幸福の空」なんて看板が。どうやら彼らの冒険は、まだまだ始まったばかりみたい。
月曜日
3限の英語が終わって休み時間。教室を出るやつはトイレぐらいだが、そいつらにちょっとだけ気まずそうな顔を作って渡り廊下から隣の校舎へ。屋上への出入りは禁止されているがその階段、0.5階だけ上がった先の踊り場は当然誰も用がないので、サボりにはうってつけのスペースになっていた。
「数学の爺さん、やっぱ出席まともにつけてないんだよな」
当然留年も補講も勘弁なので出席数は把握してあるが、このままなら数学は受けないまま1年が終わってしまうかもしれない。まあそれならそれで──
「えっ、」
いつもの踊り場に着くと、そこには見知らぬ(いや、本当はよく知っている)女が1人、我が物顔で文庫本を広げていた。
「おい、ここは俺が先に使っていたぞ」
茶髪を雑にまとめただけのポニーテールは顔を上げて
「都合がいいね。マクロな視点でここは学校みんなのものだし、ミクロ的には私が先に使ってた。」
なんて楽しそうに返してくるから
「見解の相違だな。全くその逆を返してやる」
「まあまあいいじゃん。みんなで使うのは無理だけど、2人までなら許容だって」
橘はそう言って大袈裟に隣の床を叩いて見せた。
「でもいくら見つかりにくいからって、20冊以上持ち込むのはどうかと思うな。バレたら没収だよ?」
既にこの踊り場は、俺専用の本棚と化している。
「どうせそのうち返ってくるんだ。その間は別のを読むよ。というかなんでこの場所がバレたんだよ?」
まあ単に管理が杜撰なだけなのだが。
「だって拓也がここの階段登ってるの、反対の校舎から丸見えだよ」
「あっ、」
それはちょっと、考えてもなかったカモ…
橘鈴香はちょっとした学年の有名人で、まあ単に美人ってことなんだが。地毛が茶髪寄りで、シュシュでまとめてはいるが、横もかなり長いから結構雑な印象だ。目が大きいと思ったことがあるがよく見てみたらそれは誤解で、単にバランスがいいのと表情変化が豊かなだけだと考え直したことがある。
積まれた本から軽小説を取り出して壁に寄りかかる。最初は集中出来なかったが、単に、展開が面白くなってきたので話に入れた。そうすれば50分なんかはすぐにすぎて、昼時を伝えるチャイムが校内に響く。
「好きだよね、ラノベ」
「軽小説な」
「……、系小説?」
「なろう系じゃない」
「いや、好きなのはいいことだと思うけど。私は前読んでつまんなかったから」
「そりゃ読んだのが悪いんだよ。何百人も作者がいるのにひとまとめに分かるわけないだろ」
「そりゃそーだ」
橘はそんな一般論の一般論で興味を失ったみたいで
「そういうお前は何読んでんだよ」
「ん?これこれ」
そういってブックカバーを外して
「不思議の国のアリスか」
有名なイギリスの児童小説
「実際、アリスを翻訳で読むのってどうなんだ?それこそナンセンスだろ」
中3の時から温めてたギャクがようやく言えて、橘は笑ってくれたので、今日はそれだけで満足だった。
「でもなー。正直原作なんて読める気がしないし、それこそ高校レベルを完璧にしても、その手の文脈は掴めないんじゃない?」
「まあな。俺もその手のネタは好きだがわざわざ取り上げてくれないとついてける気がしねえ」
「でしょ?それにさ、いいじゃん。日本語」
その声色がいつになく優しかったから
「すごいよな、日本語。なんて言えばいいかな…表現の幅?クソ面倒な代わりに、なんでも表現できるような気がしてくる」
そんなでまかせの肯定を返してしまって
「私はそうは思わないかなー。
多分、この人たちは言葉を信じてないんだと思う。いいものを書く人たちは、み んな」
「それなのに文を書くのか?」
「嬉しいとか、悲しいとか。そんな言語の幅じゃ自分の中にあるもの、セカイの一 部分すら表現できる気が全くしなくって、だから、こんなに言葉を尽くして、そ の中和と中間を探してるんだと思う」
それが橘鈴香の文学感らしい
「にしてもさ、結構王道なの読んでるんだな」
「なに?なんか不満?」
ちょっとだけ責めるように聞き返された。
「いいや。でもこうゆうのはすでに読んでるのかと思った。それとも再読?」
「初見よ。私、中学まではこうゆうのしてなかったし」
こうゆうのとは、授業をサボって遊んでいることか、文学少女のまねごとの
真似事のことか。
「じゃあ何してたんだよ。部活?」
「私、中学の生徒会長してたから」
へえ、それはそれは。
あんまり楽しくなかったのか、高校になってグレたのか。ただ自分の話をする橘はどこか他人行儀で、事実しか口にしてくれなさそうだったから。
「じゃあな。サボってもいいと思うけど、ちゃんと単位は貰えるようにな」
「え?単位?単位とかあるの高校に」
「嘘だろお前、知らずに休んでたのかよ…」
概ね俺がサボってるのを見て、休んでも問題ないと誤解したのだろう。先輩として最低限の務めは果たしてやるか。
「3分の1、3回に一回以上のペースでサボったら単位出ないから、とりあえずそれだけ気をつけとけ」
橘は驚いたような感心したような顔をして俺が教室に帰るのを眺めていた。
火曜日
さて、これは本当に由々しき事態なのだが、あの俺たちの憩いの場がどうやらせんこー共に見つかったらしい。
30冊はゆうに超えていたでろう本積みは見事に全部回収されており、壁には「一般生徒使用禁止」の張り紙が。直接はなしをされてはいない以上、使用していた生徒は特定されていないのだろう。
「あーあ、流石に長居しすぎたか…」
読みかけの巻を失ったのは痛手だが、職員室に行ったところで素直に返して貰えるとはとても思えない。そもそも授業中に謝りに行ってどうする。
「とはいえ俺の所有物だしな。卒業までには返ってくるだろ」
そうだ、卒業式の感動ムードに包まれながら告白するというのはどうだろう。若気の至りということでお咎めなしで返却とはいかないだろうか。
とりあえずここに居座る用もないが、今更教室に帰るわけにもいかない。ほんの出来心で(手持ち無沙汰だったからだろうか)そばにある扉を捻ってみれば、そこに鍵はかかっていなかった。
誰かが閉め忘れたのかもしれないが、とにかく、学校の屋上にでられたわけである。
立ち入りを想定されてないからだろうか、屋上のフェンスは低く細く、浮遊への恐怖を覚えさせる。それでも空の解放感はなかなかのもので、自分が淡く思えるのは新鮮だった。
春の陽気、でいいのだろうか。暇と血糖低下に伴って自然と瞼が下がってくる。拒む理由もなかったので
「おやすみせかい……」
そんな壮大な独り言で、自然と意識を手放した。
「ん……」
まどろみの中で目を覚ますと、眼前には1人の少女が
「えっ、」
意識が焦るように覚醒してきて、ようやく事態がつかめてきた。つまりそいつは寝ていた俺を馬乗りの形で眺めていて。
(そっか、この子、俺が◼️した…)
軽い頭痛に見舞われて、それでようやく完全に目が覚めた
「あ、あの?」
「あの、とは?」
少女は気怠げに聞き返してきた
言うべきことは収まらないが、まずは目先の問題を解決しよう
「あなたがそこにいると、その、立ち上がれないのですが…」
少女は初めて気づいたという様子で驚いた顔をして、特に食い下がるとこもなく立ち退いた。
「私に、貴方の行動を阻害する権利はないから」
(いや、それ以前の問題ですよね?)
色々と突っ込むのは野暮らしいが、最低限の情報提供は求めなくては
「それで、君はなんでこんなところで?」(俺に馬乗りになってたんですか)
「個体識別名称、菊無彩音と呼んでくれる?」
(つっこまないつっこまない)
「う、うん。菊無さんはどうしてここで?」
「彩音と呼ぶべき。苗字では周囲に同一名称個体が存在し当該目的に不適合。ね?、静希くん」
「いいや、お前は名前で呼ばないのかよ、彩音」
「私、静希くんのご家族と話す予定はないけど…」
「いいや俺にもねえよ!!」
彩音はとにかく変なやつだった。屋上にいた理由も俺に乗ってた理由も不明。少女と言ったけど小柄なだけで、この高校の生徒なんだろう。目は垂れているが優しいようには見えず、むしろこちらを深く覗いてくるような気味の悪さがあった。口調はやや伸ばし癖がある低い声で、でも冷たいようには思えないけど。
そういえば俺のことを一方的に知られていたな。まあよくここに来てるんなら、いつも階段で屯してる俺のことを知ってても不思議じゃないか。
(鈴香に丸見えだとバカにされたことがあったな…)
「質問、どうして私達は睡眠をとるのか」
「なに、そんなこと考えながらここいたの?」
「ちょっと違う、寝ている静希くんがあんまりにも無防備だったから」
「なんでこんな機能が残ってるんだよってことか」
彩音は静かに頷いた。なんだが馬鹿らしい様な疑問だが、なんとなくこの方法でしか、目の前の少女とコミュニケーションが取れる気がしなかった。それなりに頭を使って3分後
「そもそも発想が逆なんじゃないか?寝てる状態じゃなくて起きてる状態が異常なんだよ。1番最初、もしくは最小単位で見てみれば寝てる側だろ」
あくまであえて二分するならだが、彩音はそれだけで話の概要を掴んだようで。
「なら道の途中で、起きることを見つけた?」
「そうそう。なすがままだった器官を統合して、意識的に動かせるようになった」
「でもその機構は24時間機能する必要はなかってことね」
「単にできなかったって感じもするけどな。最初は食料確保があって、そっからはまあ、住居とか子育てとかいろいろだろ」
彩音はそれなりには納得したようなリアクションだったが。
「うーん。あと付け足すとしたら、起床時間が広まりすぎなかった理由とかか。どう考えたって24時間起きてた方が有利だしな。単に俺たちが途中ってだけで1000年後は寝ないのがデフォルトになってたり」
「それは…どうだろう。充分な時間はあるように思うけど」
彩音曰く、概ねの生存要点は抑えていると、それでも拡張する余地があるとしたら…
「最後はリスク管理、単に、寝てる間は無防備だから。でも、それすら要らなくなった」
「住居が発展しすぎたからか。それなら俺たちは」
「うん、だからここで打ち止め」
別に人間でなくっとも、星の支配種なら睡眠時の安全確保ぐらいならできるだろう。
「でもさ、人間より前の段階なら起床時間を増やす意味はあったんじゃないか?」
彩音には先に答えがあったようで
「集団が、その役目を果たしたから」
確かに誰かが声をあげれば、アクションを起こせば多くの命は睡眠を理由に失われることはない
「でも末端は死ぬだろ、物理的な」
「うん。だからね、静希くん。───集団は集団しか守らないの」
それが菊名彩音の論理哲学、初めからここにいたのか、向かってたのか。どちらにせよ辺鄙な睡眠考証はここで打ち切りとなった。
6限の鐘が鳴って、ただ、建築物の上
「じゃあな、彩音。また今度」
低いフェンスに寄りかかって線を見ていた少女は驚いたように振り向いて
「静希くん、また来る気あったんだ」
なんて、俺の無自覚を突いていた。
水曜日
校庭の木々も枯れ込んで、だいぶ肌寒くなってきた。落ち葉と言うと風情があるような気がするが、実態は水と泥でぐちょぐちょになった、掃くと箒にくっつくアレなので、あんまり夢は持つもんじゃない。
文化祭が近づいてきて、学校全体が浮き足立っているのを感じる
「つまり俺の出席が咎められにくいと」
実際出し物の準備に追われてるクラスも多いので、授業時間をくれる先生は大変ありがたい。俺は体育館からパイプ机の搬入という大義名分の元教室を抜け出してきた。
いつもの踊り場に着くと鈴香は先んじて読書中で
「おいおい、文化祭の準備大丈夫なのかよ?」と目で問いかけると
「うっさいなあ、私は準備中なの!」と身体で訴えてきた。
よく考えると普通に口に出して抗議された気もするが、流石に準備中は言い訳にしても無理があるので勘違いだと信じたい。
銀色のケースに入ってる、赤一色の謎本を取り出して。
(うをーー。ボランティアじゃないってそうゆうことかーー)などと盛り上がっていたら1時間はすぐだった。まだ放課後には時間があるが、鈴香もひと段落ついたみたいで
「お前んところのクラス、出し物の準備がやばいって噂だけど、サボってて大丈夫なのかよ。無職?」
「へへーん、なんと私、劇の主役です」
あーあ、顔がいいからって安易に任せたクラス全体の責任だな…
「あのねえそこ、悟ったみたいな顔しない!言ったでしょう、準備中だって」
「?」
「うちのクラス、劇やるの、戯曲。だからその予習」
あー、準備中ってそうゆう
「それでなんの話するの?火垂るの墓?」
「なんで文化祭丸ごとお通夜にしようとしてんのよ。これよ」
ブックカバーを外してもらってそこにはエドモン・ロスタン作
「おお、シラノか。知ってるぞ、『さあ、取りたまえ!俺の羽根飾!!』だろ」
「いいや違うし何その知識の偏り」
てんてんてんてん
「てことはロクサーヌ役か」
鈴香は自慢げに頷いた。
本作のメインヒロイン、彼女の美貌も作中の重要な要素だし人選には納得がある。
「クリスチャン役は、うーん、高野とか?」
「おお正解、あいつ顔はいいけど馬鹿だしピッタリじゃない?」
うん、俺もそう思う。
「でもシラノ役がちょっと可哀想だな。揉めなかったか?」
このシラノという主人公は多才で魅力的だが、残念なことに致命的にブサイクなのだ。クリスチャンはこの逆。
ロクサーヌに恋したシラノとクリスチャンは、シラノが頭脳、クリスチャンが見た目役を分け合ってロクサーヌを口説いていく訳である。
「うーんちょっと?でも単に主役やりたがる子が居なかったのよね」
「俺が同じクラスならやってやったのにな」
「あんたにゃ無理でしょ。第一、みんなの前で演技とかできるの?」
「いいやできるね。『ボクたちは、ただ名ばかりでシャボン玉の様に膨らんでしまった……そんな空想の恋人に恋こがれている……』」
片膝をついた全力のプロポーズだったが、様になってはいなかったのか鈴香にはひどく笑われてしまった。鈴香はもう一度俺を見て
「うん。やっぱり拓也にはシラノ役は無理だね」
と納得されてしまった
「そーですか、大根役者には無縁な役がかりですよーだ」
結局のところ、シラノ役は高梨が引き受けることになったらしい。顔立ちは悪くない彼だが鈴香曰く
「別にほんとにブサイクじゃなくてもいいじゃない。というかシラノは鼻が大きいのがコンプレックなのよ。パーティ用の付け鼻ならコミカルだし、文化祭らしいでしょ?」
まあ落とし所としてはそんなものか。
意外だったのは、本番用のロクサーヌの衣装がまだ準備できていないらしいということ。
「縫製は春華がやってくれるの。だから私の仕事は生地探しだけ」
「一応聞いておくが…、裁縫じゃなくて?」
「縫製で合ってるわよ。彼女、天才なの。もうシラノとクリスチャンの分は1人で造ってしまったわ」
とんでもない才能が眠っているもんである。
「それなら生地選びまで任せればよかったのに。間違い無いだろ」
「そりゃあね。でもロクサーヌは私なの。せめてこれぐらいの責任は果たさなきゃ」
鈴香は意外に、ちょっと言葉に詰まって。いや、これが本題だったからだろう。
「だから、その生地探しに、ついてきて欲しくて…」
だなんて、極めて気丈に、なんてことない話題のように振る舞っって、そんなお誘いを口にした。
放課後、最寄りのショッピングモールに向かう道すがら、俺も珍しく話題に困って
「クラスのやつにお願いすればよかっただろ」と聞いてみたがみんな準備で忙しいのだと返されてしまった。
「そういえばさ、拓也のクラスは何やるの?文化祭」
「カフェだよカフェ、コンセプト付きのやつ」
「コンセプトって?」
「理系っぽい?でいいのかな。数学の問題が出されんだよ。それで、解けたら無料って訳」
「そういえばあんた達のクラス、特進だったね。発想が貧困」
「失礼な!第一、お前だってウチこれただろ。入試首席じゃねえか」
「私はもうそうゆうの辞めたの。それで、例えばどんな問題?」
「そうだなー。『自然数より数が多くて、実数より数が少ない無限集合は存在するか?』とか」
「へー。ちなみに答えは?」
「ところがな、分からないんだよこれが。これがこの問題の凄いところでな」
「ないって…、未解決問題ってこと?」
「いいや、そんなリスクは犯さないね。もし解かれちゃったらどうすんだよ。俺らタダ働きだぜ。
そう何を隠そうこの問題、現在の公理系ではあるということも、ないということも証明できないことが示されているのだ!」
不完全性定理様様である。
「そう…。せめてミレニアム懸賞問題を解かせて、解けたら代金の代わりに賞金ゲット、ぐらいに抑えていると期待してたんだけど」
鈴香はゴミを見るような目を俺に向けたかと思えば微笑んで。
「消費者金融に通報しておくね」
なんて禁止カードを切りやがった!
ショッピングモールに着くとすぐに生地屋さん(でいいのか?)に向かうのかと思っていたが、そんなに急いでもいないらしくのんびり店内を見回すことになった。コスメだとか文具だとか、よく分からないものを見せられては俺に感想を求めてきた。
「このリボンとかよくない?」とふりふりのピンクを共有されて
「鈴香がいいならいいんじゃないか?あんまり人の好みに口出しするもんじゃないだろ」
俺としては鈴香は素材がいいので、この白の髪留めぐらい地味なアイテムの方が似合うと思うのだが…
「うーん。拓也はこうゆうのがいいんだ。女の子慣れしてないなぁ」
「るっさい。なんも言ってないだろ!」
俺の考えなどお見通しだったのか、結局鈴香はこの店から何も買わずに出て行った。
何店舗かを冷やかして、極めて実用的なシャー芯の替えだけ購入して本命の店にたどり着いた。
「おお、これとかめっちゃいいじゃん!」
うん。この数店舗で勘づいていたことだが、鈴香のセンスには素人目に見て大きなはてなが点っていた。いいや、別にぼったくりを買おうとしてる訳じゃない。むしろ選美眼にはかなりのものがあって、よく考えられた芸術的価値の高そうなものを毎回選んでる。ただ絶望的に自分を見る目がないのだ。彼女のあり方と小物の芸術性が反発して、見事に最悪なハーモニーを描いている。自分の活かし方ってもんが分かってない!
ほら、なんだこの虎柄は!確かに表面の加工もよく施されているし、細かく不規則な紋様は機械仕事ではない人間の意思を感じさせる。でも!
「鈴香、おまえ縫製担当からなにか言われなかったか?」
「うん…?1人で選ぶなって。できれば私のことをよく知ってる人と選びなさいって」
こいつがいいクラスメイトに恵まれて本当に良かった。
「だよな。つまりおまえに任せちゃおれないってことだ」
「なんでよ!私、ものを見る目は悪くないって美術の先生からも褒められたのに」
「だからだよ!おまえはものを見てるだけで、それをつける自分のことが見えてない」
結局生地選びは俺が率先して行った。何着か身体に当ててもらって、白とベージュの2色の生地を組み合わせて造って貰うことにした。
「うーん。確かに素材は悪くないけどさ。ステージだと地味じゃない?」
「確かにな。普通にきたらちょっと迫力不足だ」
鈴香はでしょ?と不満を露わにする。
「いいんだよ。なんたっておまえが着るんだ。観客の目を引くにはそれだけで充分だよ」
なんて率直な感想を述べて店を後にする。鈴香は俯いてよく表情は見えなかったが、それなりには納得してもらえたと信じたい。
帰り道、別れ際の交差点でちょっとした疑問をぶつけてみた
「でもさ、意外だったよ、劇のヒロインなんて。そうゆうのはもう辞めたんじゃなかったのか?」
鈴香は中学時代生徒会長だったと言っていたが、それ以外の学校行事も率先して行っていたらしい。神山中のちょっとしたスターだったとか。でも高校入学以降、そうゆう行事ごとにはとことん参加していなかった。まあこういう話は本人はしたがらないので同じ中学のやつに話を聞いただけだが。
鈴香はちょっと戸惑ったように振り向いて
「ねえ、『幸福の塔』って童話、知ってる?」
なんて唐突に切り出した。
「知ってるよ。面白いとは思わなかったけど」
子供の頃に、軽く宗教的に流行った逸話だが、時間が経つにつれて聞かなくなった。何より旅人の1人がちょっとしたいたずらをきっかけに怪我を負い、弱って徐々に死んでいく様があんまりにも丁寧に描かれるもんで、悪趣味だと批判を受けるようになったからだろう。
「嫌なはなしだって思った。別にロステーヌが死ぬところは気にならなかったけど、その後」
「塔の看板?」
「そう。せっかく辿り着いても結局たらい回しみたいにされてさ。きっと幸福なんてものを馬鹿にしてるのよ。そんな塔は、御伽話の空想にすら居場所がないって」
それは些細なきっかけと、子供ながらの反骨精神。
「だからそれを見つけるの。見つけて見返して、私が存在を証明する」
確かにそれで納得した。
だから俺は最初っから、こいつのことが好きだったのか。
「具体的にって?簡単だよ。美味しいものを食べるとか、友達と話すとか。そんなところに幸福は転がってる」
でもそれだけじゃ、日々の営みは決定されないから。
「だから、最後に一個。時間にルールを設けるの」
そう言って鈴香は、中学と高校での、たった一つの違いについて語って聞かせた。
木曜日
全く期待はしていなかったが、某踊り場は例のごとく封鎖されていた。あえて言及するのなら前回の張り紙から、さながら工事現場のごとく三角コーンとコードバーに進化しており、その中央におんなじ張り紙が貼られているのである。
「いいや誰が持ち込んでんだよこのコーン一式」
そもそもいい加減犯人探しを始めるべきだと思うのだが、これも先生方の意趣返しなのだろうか。
本命の扉は期待通り開錠されており、屋上へと歩をすすめる。恐らくここも、誰かが気付けば全校に広まり、立ち入れなくなるのだろう。
「こういう先行者利益も悪くないな」
フェンス横にはやはり1人。でも一つだけのイレギュラー。これではこの前と立場が逆なので、俺も役目を演じなくては。
彩音はフェンスの端、日光がほとんど当たらない物陰にもたれかかって眠っていた。彩音は背伸びするようなところがあるが、寝顔は年相応の少女で安心した。むしろ小動物的な表情からは、世間に愛想を振り撒いているような突飛な想像を膨らませて、普段とのギャップで勝手に笑ってしまった。
いいや、そもそも年相応の少女の寝顔を堪能するのはどうなんだという批判はあるだろう。しかし
(そうだ!こいつが先にやってきたのだ!俺には正当な権利がある!!)
無論実際には性差とか、そもそもその言い訳が通るのかとか、この武器一本で闘うには限界があるだろう。でも相手はあの彩音。こいつは変なところで頑固で頭が硬いので、絶対にこの「等価交換」という枠組みからは逃れられない。自分の正しさを、世界には目もくれず、自分にだけは絶対に適応しなければ気が済まないというやつなのだから!
…と、そんな言い訳を考えていたら彩音がもぞもぞと起き出してきた。目を開ける前に予備動作があるのがまず面白かったが、ここで笑いだすと流石にタダでは済まなそうなので(彩音は俺のことを笑ったわけではなかったので)どうにか堪えた。
目を開けた彩音は驚いたように一度体をビクッと震わせ、しかしそれで目が覚めたのか状況を掴んだ数秒後に、少し顔を赤らめて、抗議の視線だけを送ってきた。
結論から言えば、彩音は俺を咎める事はしなかった。単に、俺の用意してる言い訳などお見通しなのだろう。
問題は彩音が全く口を聞いてくれないことで
「ごめんよー、ほんの出来心なんだよーゆるしてくれよーーー」
なんて情けない謝罪を繰り返してる。
「いいのよ。単に静希くんが、寝ている女子高生に馬乗りになって、寝顔を堪能する悪癖を持っていると分かっただけだから」
「お、おまえっ、この前の逆というだけで馬乗りになってることには言及しないことで、最低限の貞操を保つおれの叙述トリックを明かしやがってー!」
「そうね、確かに個人の観測で、外的存在を否定する事は難しいものね?」
なんだろう。俺の言い分がギリギリ伝わってる気がする。
「時にね、静希くん。例えば等価について、その大元となる認識をどう信じる?」
おお、1時間の謝罪が実ってついに話題を振ってくれたぞ!
「んー?つまり、客観的に見ておんなじ価値があるってこと?」
「そうね、確かに客観は強い認識。もし認めれば世界そのものにルールを敷ける」
「例えば、このクッキーとチョコレートはおんなじ価値だから、そこに100円ってルールを設けられるとか?」
「それは順序が逆でしょう?今日のルールは正しさではなく利便性によってできてるのだから。貨幣という代替とその日その日の市場のバランス。都合の良さを優先した結果、この2つは等価だと思い込まされている。だってそっちの方が自然だものね」
別にこれは陰謀でもなければ悪意でもない。個人レベルの小さな幻想。
話を聞いていくうちに、彩音の主張が見えてきた。
「つまり彩音は認めてないんだろ?客観的なものの指標ってやつを」
だからわざわざ皮肉を込めて、「今日」のルールと言ったのだろう
「そうね…。結局のところ、認められる主体が必要なのだから。言及を前提にする以上、その手のパラドックスに引っかかるもの」
つまり誰かがそれをオブジェクティブだと認めた時点で、その人の「これは客観的である」という主観が入るという言及矛盾。
「物理でいう、相対性理論みたいな主張だな」
彩音が理系の人はすぐそういう…と薄く睨んできたので付け加えよう
「つまり、観測を元に任意のものは在るものに相対的ってことだろ。運動や形状、時間に至ってもだ。こっちでいう静止点の否定が、彩音のいう客観性についての議論なんじゃないのか?」
彩音はふむと軽く頷いて
「そう…。じゃあ構造主義は物理学を先取りしていたと」
「いいや違うね、俺たちが!後から答え合わせしてやってるの!!」
「「むむむむむむむむ」」
目から出たビームが中間地点で打ち消しあったところで…
「んだよ、哲学史サイドの肩は持たないんじゃないのかよ」
「ええ、嫌いよ、歴史なんて。わたしがこの世で最初に考えたと思った議論が先取りされてるから」
なんだよ、ただの嫉妬じゃないか
「でもあなたたち相手ならたまには手を組むわ」
全く、嫌われたもんである。
「そもそも俺はどっちかっていうと数学系だぞ、帰納でしか語れない奴らと一緒にしないでくれ」
「この前知り合いの物理学者が『世界そのものを公理にして数学やってる』って言い訳してたわよ」
「いいや誰だよなんで知り合いにいるんだよ」
「嘘よ」
そっか、嘘か……
「それで結局、静希くん的にはどうなのよ。引用ばかりだとつまらないでしょ」
「うーん、順序を設ければいいんじゃないか。主観の存在についてなら、すくなくとも自分自身のものなら信じられるだろ。それこそデカルトからでも引用してくればいい」
我思う、故に我ありと
「客観は主観の集合体なんだ。つまりこの世全ての主観を集めてきたものの平均。それだとまだ有限集合だから、その極値って考えた方が強度は上かな」
「その極限に必ず向かう先があると?」
「さあな、少なくとも外れ値がある時点でεδは無理だけど、でもある程度の向かい先はあるだろ。真に客観であるものが極値になるのか、極値を客観だと認めるのかは個人の心情…。うーんやっぱり自己言及からは抜けられないな」
「いいえ、ありがとう。実際に「これが客観です」とお出しできるものを夢想した時点で実用性は確かだわ」
珍しく褒められてしまったが、あんまり彩音好みの解答にはならなかったようだ。
「そういえばさ、最初に言ってた等価交換についてだけど、あれは結構彩音の主観ってことでいいのか?」
「ええ、そのもの自分で敷いたルールだもの、監視も規定も自分でしなければ意味がないでしょう…?」
優しく答えた彩音の笑顔が今は怖い。それはつまり、この前の珍事と今日の醜態、その2つが釣り合っているか決めるのは彩音自信ということで…。
「静希くん…怯えてる?」
「ひっ、、、」
「そうね…。時間についても性差についても、社会的に不利なのは貴方の方よね?」
「………」
「いいわ、初対面だものね、あの時。初めましての分でぎりぎり等価としてあげましょう」
「あやねーー!!」
『ほんとうはあの時、貴方の顔を突いていたもの』と彩音の僅かな呟きは、この時の俺には、聞こえてこなかった。
帰り際、どうしても聞いてみたくて彩音に「幸福の塔」について聞いてみた。
「初めて聞いた時、宗教団体をバックにした新政権かと思ったわ」
などと小馬鹿にしていたが、結局、結末についての所感は語ってくれないようだ。
代わりに彩音は、鈴香の名前を口にした。
「知ってたのか、鈴香のこと」
「ええ…、わたし、あの人と同じ中学校だったから……」
街が太陽を追い越していく。暗がりの裏、少女は当たり前のようにそう言った。
「存在証明にはいつくかのパターンがあるの。最も原始的なのは次元を下げること。あの人は幸福の存在を認めるために、自分の生活に方針を立てた。
つまり簡単よ。幸福を行動選択の基準にするの。幸福であることのみを求めて、それによって日々の選択を決定する。『行動選択』事態は明らかに存在するのだから、その前段階、選択関数とでもいえばいいのかしら。その選択をするための幸福についても存在していると考えるしかないでしょう。だってその存在を否定したら、実存する行動選択について矛盾してしまうのだから」
やっぱり彩音はすごい。一年以上一緒にいた俺が分からなかったことを、意図も容易く見通してしまう。多くを考え、多くを疑い、多くの答えを見つめてきたのだろう。
だけど、それは孤独で、危うい事なのではないか。自分の指標の中で動く彩音もまた、何かを示したいと考えているのだろうか。なにか、取り返しのつかない選択をしてしまうのではないか。
そんな俺の想像も、やっぱり少女には当たり前のようなもので
「あと一回、もう一回だけ貴方と話せると思う。だから───また屋上に来てくれる?」
僕が小指を差し出すと、黙ってそれに答えてくれた。
哲の少女と小さな約束を交わして、彼女を屋上に残し、階段へと続く扉に手をかける。
金曜日
春休みに入ってから1週間、いい加減家に籠るのにも飽きてきた。存外人はある程度の忙しさがあった方が活動しやすいようで、それは勉学や読書趣味にも共通することのようだ。1日空いてる休日より、学校の合間を縫って読む方が進捗が芳しいようである。空間に縛られるという意味では図書館にでも行ってみようかなと考えていると、意外な人物から連絡が来た。
そういえば俺はこいつとLINEを交換してないのだった。というより学校外で会うことがほとんどないので連絡手段の必要がなく、唯一繋がってるのは秋頃に特定され勝手にフォローされたTwitterのみ。当の本人は言いたいことは特にないのか見る専という感じだが。
どうでもいいようなことを片隅に電車に乗って数駅、普段はわざわざ訪れる理由もない田舎だがこの季節は多くの人で賑わっていた。駅を降りると当の人、もとい橘鈴香が俺の到着を待っていた。
「おはよぉー、急な呼び出しでごめんね?」
「いいよ、まあその日に誘うようなことではないと思うけどな」
流石にその程度の自覚はあるのか、珍しく申し訳なさそうな顔をしていた。
「まあ事情は知ってるし、どうせ暇してたからいいんだけどな」
たまには珍しくて可愛いが、あんまりしょげられても困るのでフォローしておいた。次第に元気がでてきたのか
「でもよく起きてたね、意外と早寝早起き?」
「いいや全く、終業式から1週間だろ?ちょうど一周して早起きになった」
「おお、じゃあいいタンミングだ」
実際この誘いが3日前なら昼間は完全に寝てたな
駅から出て目的の広場まで向かうすがら。でもそこまでいくまでもなく、川沿いには満開の桜が、道ゆく人を歓迎するよに咲き誇っていた。
そう、つまり単純に、お花見に行こうと誘われたのだ。
花道を歩いていると、とめどないようでどこかに静止しているような、その程度の緩やかな思考の波に晒された。まず最初は綺麗だと思った。それは初めてみる光景で、でも次に初めてなのは桜ではなく画角だと思い返した。桜をテーマにしたような多くの作品を思い返した。それらの主張と相容れるとはいかなかったが、単に文脈が違うのだろう。一度自分を見返してみたら、努めて意識しないようにはしていたが、鈴香と2人っきり遊びに来ているということに、急にどぎまぎしてしまった。そんな思考を振り払うように考えたことは、結局、桜というのは適度に俺たちに関係があって、適度に全くもって無関係だから、好きに思考を載せる余地があるのだろうということだった。
鈴香の方も自分から誘ったというだけはあってモチベーションは高そうだ。聞いてみれば、ここに来たのは初めてらしい
「前から来てみたかったんだよねー。ほら、御原町の桜といったら、この辺だと結構有名じゃない?」
「みたいだな。そういえば中学の頃誘われたことがある」
「じゃあ来たことあるの?」
「いいや、結局予定が合わずに行けなかったからな。これが初めてだよ」
「へー、じゃあわたしとおんなじだ」
鈴香はその程度のことに少し喜んで、そんな話をしていたら目的の場所に到着した。
正直なところ、お花見と言われても何をすればいいのか分からなかったのだが、とりあえず鈴香はブルーシートを持ってきていた。あんまり余裕はないので2人づかいでぎりぎりというところだが、とりあえずこれに座れということらしい。
「にしてもなんで花見なんてしようと思ったんだよ」
「んーいくつか理由はあるけど…」
そういうと鈴香は1冊の本を取り出した。
「檸檬か、あの爆弾の方の」
「そうそう、でも私が今日読んだのはこっち」
短編集の表題にはよく有名な短編のタイトルが使われる。今回だとそれが檸檬だったみたいだが、鈴香が言いたいのはそれではなく
「聞いたことはあるんじゃないの?桜の樹の下には屍体が埋まってるって」
「屍体って…、櫻子さんなら聞いたことはあるけど」
「すごく不満だけどそれであってるよ。もちろん、元ネタはこっち。梶井著の方だけど」
「それでなに?実際に埋まってるか調査にきたわけ?」
流石にちょっと怒ったのか不満げに
「調査ってなによ…。単に興味があったから、そういえば御原町に行ってみたかったなって思い出して」
つまり今朝読んで思い立ってここまできたらしい。驚きの行動力という感じだがこれにはちょっとしたカラクリがある。俺は以前、鈴香が語っていたことを思い出して
「にしてもたまには不便なんじゃないか、今日のためにしか生きられないなんて」
「そうでもないわよ。そりゃー予定が立たないのはちょっと面倒だけど。それはそれで楽しみがあるし」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「やることは単純、単に自分が1番幸福だと思えるように行動すればいいの」
別れ際、鈴香はそんなふうに切り出した
「でもそれだけだと意外とうまく、どうするべきかってことが決まらないんだよね。どうしてでしょう?」
まず最初に考えたのは幸福の不定義ということだったが、これは鈴香には当てはまらない。彼女はすでに日常の多くのことを幸福と認めているからだ。
「目先のことだけだと上手くいかないからだろ。例えば勉強するより遊んだ方が、その時限りでは幸福だが、勉強して将来いい仕事につければ人生全体でみればその方が幸福だったと見ることもできる」
あまりに極端なモデルケースだが、こうゆうような思想はどこにでも転がっているからな
「そうそう、でもこれが厄介で、この目先と全体での幸福って規模が大きすぎて、どっちがいいかの判断がつかないんだよね。だからやることは単純、幸福の期限を決めちゃえばいいの。」
「その期間内の幸福が最大になるようにってこと?」
「うん。1番分かりやすいのは今から死ぬまでだけど、それだと可能性が広すぎてどう行動したらいいか分からないじゃん?」
「でも短すぎても困るよな。例えば俺なら1秒って決められると、朝ベットから起き上がる一瞬より寝続けることを選び続けてそのまま死んでしまいそうだ。」
うんうんと鈴香は頷いた。
「だからバランスをとることが大事。その時私が決めたのは中学生活全体の幸福を最大にすること。だからそのために初期投資として色々頑張ったんだよ?」
初期投資と言われるとイメージしずらいが、勉強だったりスクールカースト的なことだったり、最終的にその中学の代表もどきにまで上り詰めたんだろう。
「でも高校じゃそうじゃないよな。イベントごとだって今回が初めてだろ?」
そう聞くと鈴香は少しバツが悪そうな表情で
「うん…。まあそれなりには楽しかったけどね?結局色々考え直して、高校からは期間を1日に変えることにしたんだ」
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適当に言葉を交わした後、鈴香は当たり前のように読書を始めてしまった。思えば一緒にいる時は殆ど廊下の踊り場だからな、互いに本を読む時間の使い方が1番慣れているように思う。とはいえ俺は何も持ってきていないのでどうしようかと悩んでいると、鈴香が1冊貸し出してくれた。
「懐かしいでしょ、これ」
その本は、俺と鈴香が初めて会った時のもの。入学式に遅刻して体育館入り口で読んでいた俺に鈴香が話しかけてきたのだった。今思えば、鈴香は新入生代表挨拶の準備で、一度体育館外にきていたのだろう。
「びっくりしたよ、急に感想を求められたんだから」
「ごめんごめん。でも私も昨晩読んだばっかりだったからさ。」
「そんなに話したくて仕方なかったと…」
「へへ、でもいいでしょ。おかげで静希と知り合えたんだし」
「どーだかな、授業まともに受けてない同士。どうせ授業中の廊下にでもばったり会ってたりしてな」
「いえてるかも。その時は多分、縄張り争いでもしてたんじゃない?」
「踊り場の使用権をかけて数学バトルな」
「うわずる。得意分野でしか生きれないタイプ?」
「堂々と好きなことしかしない宣言してる奴にだけは言われなくないな」
どうでもいいような昔話をしながら、結局、あの時の話を再読することになった。
オチを知ってから読んでも、半分ぐらいしか理解できないのは、最大限譲歩すればこの作品の魅力なのだろう。
「まっ、そもそも未完だからねー。分からないのが普通でしょ」
頃合いを見て鈴香が話しかけてきた。
「旧版はもう少し分かりやすいんだよ。ジョバンニの成長物語ってのが見やすくなってるから」
「ふーん?具体的にはどんな?」
「導き役がいたんだよ、ブルカニロ博士って。鉄道から降りてきてジョバンニは確かに言ったんだよ『ほんとうの幸いを求めるって』」
でもそれなら、彼がいうような、ほんとうの幸福って。
「分からない、ううん。確かにそれは、最終稿の通りなんだけど」
俺が読んだ四次稿編で確かに、カンパネルラの「僕わからない」というところで議論が終わっている。
「順序が逆だって言いたいんだろ。お前がこの話をしたくてたまらなかった理由が分かるよ」
そうゆうと鈴香は不満そうに
「旧版で、宮沢さんは確かに、ほんとうの幸いってものを掴んでるように見えた。そこに向かっていく鉄道と切符があって、その道筋を、ジョバンニはあの夜見つけたの」
「だけど消した。その確かな確証を手放して。例えばその幸福について、別に否定したがってたわけじゃない。でも俺が読んだ銀河鉄道からはお前がいうような確証は得られなかった。」
「ずっと探してたんだと思う。真剣だったから、半端な結論は許せなかったのかな。でも───、死の床で、一度信じた幸福を手放したんだとしたら、それはすごく、悲しいことだよ」
そんな話をしていれば、時間は勝手に過ぎていった。いい加減お腹が空いてきたので鈴香の持ち物に淡い期待を寄せてみる。
「……なに?チラチラ見て」
ジーと睨まれてしまった
「いいや、そろそろいい時間だなと思って」
そんなに都合よくお腹は鳴ってくれないが、意図は伝わったようで
「ああ、そういうこと。そんなに気になるならこのバック持ってみる?」
ん?よく分からないが言われるままに手に取ると
「おっも!お前これ、中身ぎっしり文庫本かよ!」
「いいやー、これは単行本です。文庫ってのはA6サイズのちっちゃいやつね」
「どっちでもいいわ!お前こんなに持ってきて読み終わるわけないだろ」
「仕方ないでしょ、私もお花見なんで初めてだったし、何すればいいか分かんなかったの」
「そっか…。それは同感だが、お前のその準備の仕方は絶対に間違ってる」
というかお弁当は?花見といったら、女の子が作ってきてくれたお弁当でわいわいがやがやするもんだってラノベとエロゲで学んだぞ
「あのねー、私もお花見決めたの今日なんだから、お弁当の準備なんてできるわけないでしょ。コンビニ買いいくよ!」
そんなぁ………
俺たちは当然善良な一般市民であるため、同じおにぎりを2個以上買ってはならぬという法律を準拠しつつ、狭いレジャーシートで頬張った。
「うん、規格化された機械仕掛けの味がする」
「正直にいうわ、私が握ってるのより美味しい」
うーん。そういう問題じゃないんだけどな…
「鈴香自分で弁当作ってるの?」
「うーんたまに?お母さんが用事あったり、忙しい時はって感じ」
「前日に準備できないから面倒だろ」
「うんまあね。でも慣れたわよ。もう一年ぐらいこれだもの」
鈴香は自分の幸福論について、楽しいそうに話してくれる。誰彼構わずということはないが、それが彼女にとってのプライドなのだろう。だけど、その期間。中学と高校の違いについては、決まって話をしてくれないのだ。
「なあ、聞いてもいいのかな」
「ん、なに?」
「中学の時のお前の話はよく聞くよ。正直入学したての頃は、お前の有名人っぷりに驚いた。そんなやつに話しかけれたんだなって。」
「うーん。まあねー、私無くして宮糸中有らずって感じだったし」
「シラノの時にも感じたが、お前は人前を嫌うタイプじゃない。むしろなんかの代表として頑張ることに燃えるタイプじゃないのか?少なくとも俺にはあの時の鈴香が、とても、幸福に見えた」
「うん、そうだね。あれは本当に楽しかった。シラノの役に立候補できたのだって、その日のうちにリハーサルがあったからなんだよ。もし次の日に入ってたら、私は手を挙げられなかった」
「生きにくくはないのか?確かにその日暮らしは楽だし、俺みたいなのには向いてるかもな。でもお前は責任を楽しめる人間のように見える」
「生徒会長って重荷が嫌になったって、誤解してくれたら良かったのに…」
鈴香は意地悪そうに呟いたけど、それほどの余力はないようで
「いじめがあったの、生徒会室で。女の子同士の陰湿なやつ。私もその子のこと好きじゃなかったし…
私にはよく分からなかった。でも楽しんでもいたんだよ。こういうのだって、これまで積み上げてきたものだって」
もしくは単に、否定したくなかったのか。
「私は多分、あんまり性格良くないからさ。誰かを傷つけてはいけない。誰かが嫌がることをしてはいけないって。そんな当たり前を信じきれなかった。傷つけられたくないのは、それを言ってるあんた自身だって」
例えば幸福の園に、誰かの死体が埋まっている様な。
「カムパネルラはザネリを助けて死ぬ結末は変わらない。ほんとうにいいことをしたら、いちばんの幸いなんだって。さっきはあんなこと言ったけど、そこだけは最後まで信じてたよね」
鈴香の解答は不完全なものだった。だって結局、なんでいじめを辞めたのか。それを今はどう思ってるのか、そういう肝心なところがぼかされてる。
「拓也はどう思った?失望されたかな…」
狭いレジャーシートの上だが、向かい合ってする様な話でもない。先に顔を逸らしたのは鈴香の方だ
「分からないな、俺も、いじめは良くないことだとか、そういう主張に確信が持てない。でも…、もしお前が誰かをいじめてたら、それは少し悲しいな」
物の正しさなんて不確かなものより、口を出たのはその程度の感想。
「お前が中学の頃をどう受け止めているのか。何を思って考えを変えたのか。そんなことはお前にしか分からないのだろう。言ってたよな、『言語を信じないから言葉を尽くす』って。
別にいいだろ、1日だなんて面倒な制約かけてまで繰り返さない様にしたんだ。俺が知ってる橘鈴香は、高校1年生だぜ」
だなんて、全くもって無責任な言い訳だけど、大概俺も、こいつに負けず碌でもない性格らしい。
そのあとは公園の周りを見て回った。小さな池に掛かってる装飾みたいな橋を越えたり、100円の粒を鯉に食わせたりしていたら夕方になるのはすぐだった。そろそろ駅に帰る頃合いだ。
灯篭の櫻、行き交う道すがらに一度、手を惹かれた。
「今日はありがとう」と彼女は言った。それが何に掛かってるのかまでは分からなかったけど。
振り向けば、落ち葉の隙間からはっきりと窺えた。不満そうに手を引く様は子供みたいに見える。思わず笑い出してしまったら、これまた酷く怒られたものだ。
一度、風で花弁がひどく舞って、先に決心がついたのは彼女の方らしい。
「ほんとうはこんなこと、言うべきじゃないんだけど」だなんて。その一言で後悔した。
ほんとうは俺から言うべきだった。彼女の決心を歪めたくはなかった。だって俺が憧れたんだ。幸せなんて不確かなものの為に、走り続けた彼女の姿に。初めて会った時から、ずっと。
───幸福の塔に、辿り着いてはいけなかったのに。
だけど彼女は笑って、西空よりも真っ赤な笑顔でかしこまって。
「ずっと前から好きでした。付き合って下さい」
そんな風に、2人の誓いを口にした───。
土曜日
どうして休日の課外が全員出席なのか。そんなことはこの際重要ではない。単位取得に関わる出席じゃない以上、生徒への影響は微々たるものだからだ。それより俺は貴重な土曜日に当たり前の様に教鞭を取る先生方が不憫でならない。というより残業代が一律固定っておかしいだろ!誰が教員なりたがるんだよ。
そんな不満を溢しながらも、俺は当たり前のようにサボりに出ていた。というよりほんとうは学校来る必要なかったしな。偶然目が覚めて、適度に暇だったから遊びに来ただけ。本音を言えば踊り場で読書を続けたかったが、例の如く封鎖されていた。
青のビニールシートが天井から吊り下ろされ、踊り場の半分以上は外から見ることはできない。ビニールシートにはいつもの様に「一般生徒使用禁止」の張り紙が
「日に日に酷くなってるな。というかこれ、取り付ける方も一苦労だろ。なんの執着だよ」
結局いつもの様に屋上に逃げ込んだ。雨は降っていないが、風が強く、空模様は荒れていた。少しの不安で地上に手を伸ばしてみたけど、かえって転落のイメージを植え付けられた。
ドアから遠く離れた手摺りには、見慣れた少女が、フェンスの外側に、足を投げ入れるように座っていた。
一度体制を崩せばそれまでの行為に、「危ないぞ」と声をかけようとして、すんでのところでとどまった。そんなことは、少女が1番分かっているだろう。
代わりにフェンス越し、背中合わせから少しずらしたそのそばに腰を落とす。振り返れば、いつも薄いと思っていたその存在が、より不安定に感じられる。だって、ほんとにそのまま死んでしまいそうだったから。
「止めないの?」
彩音は静かに問いかけた。
「どうだろう。俺は彩音に生きていて欲しいけど、俺にはその資格がない様に思う」
彩音はそれに小さく頷いて
「死ぬことは、怖いことだとは思わなかった。」
彼女は自分を振り返る様に、そんな言葉を口にした。
「だってそれは、生まれたと言うことの等価交換だもの。どれだけ理由を探しても、私は死なない理由を見つけられなかった」
でもそれだけじゃ、人は生きていけないじゃないか。
「でも、今すぐ死ぬ理由もないんだろ」
「…そうね。たんに、高揚していただけなのかも。ここに居るとね、」
彩音は僅かに、俺の頬に手を伸ばした。
「ふるえてる」
「私がどんなに否定しても、身体は死にたくないみたい。こんなに空を恐れたことはなかったわ。」
一度風が強く吹いて、俺は酷く慌てていたけど、少女はその上で笑って魅せた。
「社会と同じね、だって、」
一呼吸おいて、まるで世界の欺瞞を暴く様に、『死は隠されている。』少女は確かにそう言った。
「意味のないことなのよ。私も貴方も、社会やこの世界全部。聞いたことはない?
『空の空 空の空、一切は空である』でも、それじゃあまりにも都合が悪いでしょ?」
そんな虚空を認めれば、社会を成り立たせることはできないから。
「人が死ぬということ、それすら十分に隠されている。文明が発達していればなおのこと。私たちは、人の死骸すらそうそう見れない。日常にはこんなに人が溢れてるのに」
思えば、今日の彩音はよく話す。そう言えば高揚といっていた。俺はその心当たりから、また少女が語る様に目を逸らす。
「宗教だっておんなじよ。例えばイエス•キリストの復活、輪廻転生、冥界の存在。死という空に意味を与えて、人々はまた動き出す。自分たちの生存に意味があると思い込んで。」
そういって、また彩音は、空の境界に足を揺らす。
次は助からない、そういう確信があって声をあげそうになる。
人は死んではいけないとか、自殺は誤った殺人だとか、そんなとこは俺には分からない。
彩音に死んでほしくない、またこうして話をしたい。だけど、そんな願いで彼女の正しさを汚すことだけはできなかった。だから
「彩音はまた、空の中に帰っていくの?」
一般論じゃなくて、彼女自身の向かう先を聞いてみたくなる。
「分からない、分からないのよ、ずっと。だって誰も観測できないものだもの。死は虚無だって、それは矛盾なく都合がいいだけの思い込み。だけど納得は必要でしょう?」
やっぱりな、彩音は自分が経験できないことを、虚構だなんて決めつけられるほど、何かを信じるということをしていなかった。俺はそんな事実に安心して──
「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。そんなつまらないものが、私たちが探していたものの、一つの結論。死ぬということ、存在すること。語り得ようとする者たちでは、この結論に対抗できない」
だったら、語り得ようとしてこなかった俺が、一言突いてあげようか。
「矛盾だな。語り得ぬものについて、沈黙すべしと語っている」
「ええ、彼もその矛盾には気づいていた様よ。ハシゴを登ったら、そのハシゴを投げ捨てるようにするの。そうすれば、自己言及のパラドックスから逃れうるもの」
結局、彩音は語りたいと言った。語り得ないものについて、それでも騙りを続けるのだと。そういう風にしか生きれないと少女は語った。
1人、フェンスからバランスを崩す。倒れるように空に投げ出された身体は、世界そのものと見分けがつかなかった。
「いっったー!おい、何考えてんだよ。そっから落ちたらどう考えても俺にぶつかるだろ!!」
上から降ってきた菊無彩音に潰されて、腕と肩が悲鳴をあげている。今日最大の抗議を送ると、少女は悪びれもせず。
「静希くんこそ。そこにいたら、どう考えても邪魔」
だなんて俺の膝下で言い返された。
それはどうみてもあっち(落下死ドボン)側に落ちる雰囲気しか醸し出してなかった彩音の責だと思うのだが、流石に口にするのは憚られた。
むしろ細身の彩音のことだ。骨が折れても不思議じゃない様な落ち方だったが、俺が良い様にクッションにされたらしい。
「意外だった?」と振り向きざまに聞かれた。こくんと頷くと
「まだやり残したことがあったから」
なんて答えが返ってきた。
少女は屋上の扉に手を伸ばす。帰り際、何かを飲み込む様に息をついて
「この場所に、お昼寝に来てくれてありがとう」
なんて、数ヶ月前の、小さな思い出を振り返った。
俺の返しは間に合わずに、彼女は既に扉の裏側。大粒の小雨は、こんなところじゃ終わらないぞと主張してるみたい。
あーあ、今日はまた一段と、酷い夕立になりそうだ。
s.t.
思えば、屋上に先にいるのも、後に残るのもいつも彩音の役割だった。
1人残された屋上。意味のない思考で時間を潰す。うん、そろそろあいつの仕事も終わった頃かな。
手には白く輝く髪飾り、これ、一緒にショッピングモールに行った時のものだ。
綺麗だったから、汚したくなかったからと彩音から渡された。あの時は何も買わなかったくせに。もし、俺の視線に気付いて、後から買い直したんだとしたら、なんて健気な───。
扉の奥、踊り場からは青のビニールシートが撤去されていて、その裏だったところには、
橘鈴香の、誰かに首を絞められた様な、冷たい死体が転がっていた。
日曜日
彼岸の丘、山月峠のその裏に、小さな1人の生活空間。
やっと見つけた。
旅のリーダーなんてのも、案外こんな気持ちだったのか。
結局大学には行けなかったけど、一つ、車の免許を手に入れた。菊無彩音の消息を追ってはや2年。まあ、ここに至るまで色々あったけど、俺だけしか知らない話ってことでここは一つ。とにかく、ようやく居場所を掴んだんだから。
こんな山奥で1人、生活が効くとも思えないし匿ってくれる人がいたのか。でもそうだな、少女はやり残したことがあると言ったのだ。だったらこんなところでは死なないだろう。単に、責任を取らねば気が済まないのだから。
橘鈴香を殺したのは菊無彩音。それは疑いようもないことだ。彼女は等価交換と言っていた。
宮糸中のやつに話を聞いたことがある。曰く、菊無彩音の人格は、俺がよく知るものとは異なっていた。少し内気で、口数は少なかったが。人を信じ、心を信じ、例えば、昨日見たテレビが面白かったということを、気を許した友人に笑顔で話す様な、そんなどこにでもいる少女像。でもそうだ、正義感は人一倍強かったらしい。生徒会を目指したのだって、そんな小さな理想に焦がれてか。
少女にとっての殺人がどんなことを意味するのか。俺には分かりようもないことだ。結局彼女が頼ったのは、正しいということを疑う様な正しさだけ。
事実に目を向ければ、彼女は中学の仕打ちと人殺し、その2つを持って等価としたのだ。そこで彼女らの交換は済んでいる。だから後は俺と彩音。恋人を殺された俺は、彼女に対してどんな交換を持ち掛ければいいのだろう。
山奥に入って生活の跡を辿っていけば、彩音の場所は容易に特定できた。大降りの雨は草木が受け止めてくれて、案外ここは過ごしやすい。その中で、少女は小さな息遣いと共に、大木にもたれかかって眠っていた。
それはほぼ死に体のようだった。痩せ細った身体に白色の顔。2年も生きながらえたことは奇跡としか言いようがない。一度呼吸を整えて、右手の包丁に目を向ける。実家のキッチンから持ち出してきた料理包丁。人の殺し方なんて全くだが今回のは簡単だ。だって足の筋肉にちょっと傷跡をつければ、食料不足でそのまま死んでしまうだろうから。
自分がどうすべきか思い悩んで、どうしてここに至ったのかを思い出した。結局、いつの日かの屋上の再演。少女が目を覚ますのを待つこととしよう。
覚醒前の前動作は2年前から変わっていないらしい。でもその動作が少し弱々しくなってることが気になって、笑い出すとはいかなかった。
彩音は驚いた様な表情は見せずに、起きて1分、状況を把握すると「待っていたわ」と幸せそうに笑ったのだ。
彼女が警察にも捕まるでもなく、自死するでもなくここにいる理由。彩音は、俺に殺されるのを待っていた。それが俺と彩音の等価交換と考えて。でもそんなのは彩音の事情だ。だって俺は、等価交換なんて信じてない。俺がかっこいいと思ったものはそんな自暴自棄の責任論なんかじゃなくて、きっと───。
彩音の前で、何を語るべきか悩んでると、彼女から問いかけを振ってくれた。2年間の雑談みたいに自然と。
「人殺しはいけないこと?」
ずっと、考えてきたこと。人は人を殺してはいけない。それは当たり前の正しさだ。人が、社会がその様に力説してきた。人はもはや同種でなければおいそれとは殺せない。法律にあるからじゃない。もっと根本的なところで、俺たちは殺人を否定してきたんだ。
人を殺してもいい。彩音の行為は許されうることだって、そんな暴論を語る気はない。だけどじゃあ、誰が、何のために、「人を殺してはいけない」なんて誓いを立てたのか。俺は誰かの言葉を思い出す様に。
「死は、隠されている。そして集団は集団しか守らない」
そんな言葉を拝借した。だってあいつらが求めたのは、俺でも彼女でもなくて、人が人を殺さない社会の方じゃないか!
彩音は少し驚いて、モノマネ芸をやりに来たのではないのでしょ?と皮肉を返した。なんだ、思ったより元気で安心した。
「なら、どうしてこんなところに来たの?」
正直にいえば、彩音を殺す。彩音と話す。彩音と会う。そういう目的があってここにきたわけじゃない。でもそうだな、どうしてここまで来れたのか、なら説明ができる気がする。
「だってこの丘は、俺にとっての、幸福の塔だったから」
ここに来たかっただけなんだ。辿り着いて何があるかは、その時になって知ればいい。これを俺から彩音への、優しい言葉だと誤解してくれれば、どんなに気持ちが楽だっただろう。
だけど彩音は、今まで1番の困り顔で、震える様な声を辿って
「なら、あなたは見つけられるの?その続きを。幸福の空とその先を」
不設の問いかけ。
木々の合間を縫って、雨粒が、彼女の涙を流してく。俺たちはあまりに自然的。
だけども俺はどうしても、その質問に答えることはできなかった。
彩音を車に乗せて山道を下る。でもそうだな、どこに帰ればいいんだろう。情景が人々を追い越してくそのすがら、嫌な音にかちあった。
どうにも今日だけは、こんな半端な結末では許してくれないらしい。
ずれる車輪と空中浮遊。その中で、ふと、あなたは生きてと言われた様な気がしたんだ。
報告書:静希拓也
菊無彩音への殺害容疑で拘束。発見当時、左半身の強い打撲により意識不明の重体。現在まで警察病院で治療を受けている。
菊無彩音には2年前、同高校の女子生徒、橘鈴香への殺害容疑がかけられている。
容疑者と橘は親密な関係にあり、此度、心中を目論んだと考えられる。
被害者を車に乗せたのちに崖から転落。救急隊到着時、既に菊無は死亡していた。
現在は意識が回復。命に別状はないが、脳を強く打撲したことによる記憶の混乱が見られる。担当医曰く、過去の出来事と、現在の出来事の区分けができず、例えば数年前の出来事を、今日のことの様に思い出し、明晰夢を見ているような状態が続いているとのこと。取り調べができる精神状態ではない。
また、ある(存在事象的)月曜日
俺にとって鈴香と鈴香と付き合うことは、言ってみれば幸福の塔みたいなものだった。なんて明言したら酷く恥ずかしい話だが、つまり、辿り着いてみなければ見えないものもあるってことだ。全く、嫌になるほどに惚れてしまったものである。
「ねえねえあの時言ってたじゃん。幸福の塔に、辿り着いてはいけないって」
無邪気に鈴香が話しかけてくる。数日前の出来事が、俺にはまだ信じられない。
「着いちまったらそれまでだと思ってたんだよ。たらい回しなんて、それこそ嫌になる話だろ」
うんうんと元気に頷かれた。鈴香もきっと、同じことに思い至ったのだろう。
「でもさ、結局簡単な話だよね。だってさ私、拓也と付き合うまでの時間も、それまでずーと幸福だった」
そうだ、幸福の塔は、辿り着いた先に幸福があるというものじゃない。
「塔を探す道すがら、それがね、ぜーんぶ幸福なの。塔には何があるんだろうって期待して、努力して、そういうのが全部幸せ」
だからあれは優しい寓話。旅人達はまた、幸福の空っていう、新たな目標を見つけられる。
「きっと続いていくんだよ。空に着いても。うーん。次はきっとお星様とか?
塔の上の空の先に宇宙船が停まって「この先、幸福の星」だなんてえらそーに書いてあるとか」
なんて、やっぱりこいつは夢みがちだな。
「そうかもな。きっとその先も続いていくんだ。彼らの旅は終わらない。幸福を求めて、求めることが幸福である。
でも───、
鈴香となら、幸福の空もその先も、ずっと探していける様な気がするよ」