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除雪車が寄せた雪、そこに埋もれた「社会的共通資本」

作者: 仁

1.

除雪車が来る位の積雪があると、普段は死んでいる公共心が甦る感じがする。何をすれば自分の外部にとっても良いかがはっきり分かり、そしてその行為がこれといった苦もなく出来る事だからだろう。その行為とは雪掻きの事。除雪車が寄せた雪は歩道に当たる場所を埋めてしまう。それを例え自分の住居の前だけでも取り除いてやれば、登校する子供達が、また、疲れやすい年寄りが、自動車を避け得るゆとりになるかも知れない。それは、わずかながらも、凄惨な事故の起こる可能性を減らすかもしれない。運転手の苛立ちを緩和するかも知れない。

この「出来る事が課されている」という観点が、道徳心を、いやもっと広く心を育む上で大事なのではないか、と考える。教育、或いはその推進力となる良識や社会通念というものは、立派な人間を産み出したいという願いが空回りして、時として子供に無理や飛躍を課そうとしてしまう。その個性に関心も無くだ。

人から課されたか自分で課したかさえ、それ程重要な点ではないのかも知れない。過労死する程の無理は、いつも他人と自分が結託する時に起こる。

「自分で自分に課した」と思っていても、それは多かれ少なかれ社会に影響されていない筈がない。社会とは、あくまで主観的な他者達の総体。「皆はこう思っている」と自分で強く思うからこそ、自分を無視してまで自分を強く拘束してしまう。

その個人にできる小さな行為の幾つかで、我々が満足出来なくなってしまったのは何故だろうか?親は子に不満を持ち、子は親に不満を持つ。それぞれの側から見える「社会」というものを横目で見ながら。そしてその結果、時として文字通り殺し合ってしまうまでになってしまったのは何故だろうか?

きっとそこには恐怖が横たわっている。現行の資本主義的な価値観に基づく(それは信仰心と言ってもよい)、「努力の欠ける者は、人格や人権においても欠陥を抱える」という、恐怖心。お前は生き得る幅を奪われてもしょうがないんだ、世の習いだ、という恐怖心。

しかし、死にたくない苦しみたくないと奔走するが故に、全員が死ぬ危険や苦しみを底上げする結果になっている、と考える時、その馬鹿馬鹿しさたるや…悲劇なのか喜劇なのか分からなくなる。

「努力」の量を一元的に測る尺度がある、と暗に刷り込まれている事も、この無自覚な恐慌の重要な歯車だろう。広くは生活の根拠となる金銭が、未成年時に限定すれば将来の収入の根拠たる所の「学力」観念が、そこで実体を持った怪物であるかの様に振る舞い、我々の精神構造に結構な影響を与えている。


2.

宇沢弘文著『自動車の社会的費用』を読んで以来、家の前の道路の雪掻きに積極的になった。この本の序文は忘れられない。経済学の分野の本ではあるが、一人の子供の死の話から始まるのだ。都会の狭くなった路地を、社会承認の欲求に駆り立てられ、社会的責任に鞭打たれして暮らしている大人が駆る車が走る。車は、肉体に由来する自由と、社会性に由来する秩序との間のギャップを埋める様に加速する。細い路地も、その車が走れる様に舗装されている。そこは街であるからにはランドセルを背負った子供も当然歩く。或る道を急ぐ車は、或る当たり前に歩く子供に気付けなかった。その結果として、子供は石造りの塀と板金で固められた車体との板挟みにされ、まるで全身の血を搾り出されるかの様な壮絶な目に遭って死んだ。ほんの数十年前まで、路上は子供の遊び場として当たり前に活用されても何の注意すべき点も無い空間であった。

その本の発売は1970年代前半。『老人と子供のポルカ』のヒットはまだ記憶に新しい頃であり、まだ自動車という物の危害が、新奇の「公害」であるという自覚が忘れられていない時代の本だった。あれから随分長い時が経ち、その本の発売よりも遥か後に生まれて教育されてきた自分の様な人間にとっては、「自動車やその交通が公害である」という考え方さえ、何か一種の奇抜なものに見える感覚は否めない。

宇沢先生が旗印としたのは「社会的共通資本」という経済学の概念だ。社会通念として長年流布されている経済感覚(及び新古典派理論の経済学)は、多くの捨象に因って成り立つ。例えば天然資源の搾取とか。その勘定から切り捨てられてしまったものが未来に負債を残す事甚だしいという危惧の元に、勘定から切り捨ててはいけないものを意識的に汲み上げていこう、という考えを概念として確立したものがその「社会的共通資本」である、と自分は認識している。

『自動車の社会的費用』では、自動車交通の為だけにアスファルトで舗装する事によって、古来の「道」から消えてしまった「社会的共通資本」を、詳細に検討している。何故そんなことを検討したか?それは、切り捨てられたのが一つの命であったからだ。それも子供の凄惨な死であったからだ。子供には未来がある筈だし、子供に未来があるという事を考えない社会は文明と呼ぶに値しない。

或いはそれは、全ての自動車に轢かれた者、全ての自動車によって加害した者の人生だったからだ。誰かが言わなければ、それはただ「不運」の一言で片付けられてしまう。「運命」とは、生活に不自由を感じない者にとっては、夾雑物を捨てるゴミ箱としての利便性がある。そして、現実として今日まで片付けられてきたのだ、その無数の不運は。そして明日からも片付けられていくだろう。この社会の片隅に常に存在する、不運に見舞われる誰かを置き去りにしながらだ。例えばこの本の中に刻まれた様な思いだけが、それに抵抗する。常に忘れ去られながらも、完全に消え去る日まで抵抗し続けている。


除雪車に寄せられた雪。それは、ランドセルを背負いながら歩く子供らの通り得るスペースを小さくしてしまう。幸運にも融雪の為の側溝が近くにある立地に住む自分は、その寄せられた雪を、自分の家の前だけでもと片付ける。するとそこには、狭くなった道を行く車を躱す為の避難場所の様なものが出来る。そのスペースは、目に見える形で顕在化した社会的共通資本だ。それは何円分の資本か?幾ら期待をしてみても、無に限りなく近いものではあろう。しかしもしかすると、その僅かなスペースで誰かの命が、誰の意識にも上らないながらも、救われるかも知れない。可能性とはそういうものだ。小さくても一つの命を内包し得る領域がそこにある。

自分のつまらない小さな夢想と、社会の莫大な実利が懸かっている計画とを対比して、自分のものではないながらも自分が確かに足を着けていなければ在れない、この社会、世界というものについて、思い巡らす。そこには、もう誰も血を搾り取られる様な苦しみを抱かないで済む明日への切望がある。

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