第三話 遅刻
3.
翌朝、クロウとリーゼロッテは王都ギルスの繁華街であるドラッズ街をギルス大拝言堂に向かって走っていた。
「……寝坊するなって言ったでしょうがッ! この、バカクロウッ!」
リーゼロッテがそう言うと、隣を走っていたクロウは、
「……仕方がねぇだろうがッ!」
と、声を荒らげた。彼は両手にポルナックを持っていた。
「仕方がなくはないでしょッ! 単純に寝坊した貴方が悪いんだから、」
リーゼロッテがそう言うと、クロウは不機嫌そうに顔を顰めながら、
「なんだよ。……だいたい、昨日の夜、お前が調子に乗って俺の――」
と、言いかけた。しかし、その言葉はリーゼロッテの、
「ちょっと、こんなところで言わないでよッ!」
と、いう声にかき消されてしまった。
ふと、
――プップーッ!
と、自動馬車の警笛の音が聞こえてきた。振り向くと、イヅナとフェリがこちらに向かって手を振っていた。
「フェリッ! それにイヅナも」
「二人共どうしたのよッ⁉︎」
クロウとリーゼロッテが驚きながらそう言うと、フェリは、
「どうしたもこうしたもないよっ。……リーゼロッテ、クロウを迎えに行ったっきり戻って来ないんだもん」
と、言った。
「……ごめんなさい、」
「とりあえず、先にギルス中央駅で待ってるからッ!」
「えっ⁉︎」
「アルテメスの所には行かなくていいのかよ?」
クロウがそう言うと、イヅナは、
「大丈夫、内容については僕らが聞いてるからさぁ、」
と、言った。自動馬車が走り出す。
「……先に待ってるから、遅れないでよねぇーッ! ……ちなみに出発時刻は一一時だからーッ!」
そういうイヅナの声は、渦を巻きながら自動馬車と共にギルス中央駅に向かって走り去っていった。
「……ああ、もうッ! ちょっと、クロウッ。貴方の所為で無駄足踏んじゃったじゃないッ!」
リーゼロッテがクロウに向かってそう言うと、クロウは、
「……俺の所為かよッ⁉︎」
と、言った。
「そうよッ! とにかく、」
リーゼロッテはそう言うと、ギルス中央駅方面に向かって走り出しながら、
「早くいくわよッ!」
と、言った。
「お、おい、待てよッ!」
クロウはそう言いながらリーゼロッテを追って走っていった。
――しばらくして……。
「おーい、リーゼロッテ。何やってんだよ、」
クロウは、後ろを振り向きながら一区画向こうでへばっているリーゼロッテに向かってそう言った。
「……ね、ねぇ、少し休まない?」
リーゼロッテはそう言った。息も絶え絶えといった様子だった。
「……別にいいけどよ、」
そう言うと、クロウは懐中時計を取り出しながら、
「……あんまし、時間ねぇぞ」
と、言った。
「どれくらい?」
「んー、そうだなぁ……。あと、二、三〇分で一一時ってとこか?」
「……あー、少しなら大丈夫よね? とにかく、休憩にしましょ、ね?」
リーゼロッテがそう言うと、クロウは頭を掻きながら深いため息をついた。
「……ったく、しゃあねぇなぁ、」
「そうそう。まだ時間があるんだし――」
クロウは、腰を落としてそう言うリーゼロッテの背中と脚にそっと手を回しながら彼女をヒョイっと抱きかかえ上げた。
「……ちょ、な、何すんのよッ!」
「……わっ、バカッ、暴れんじゃねぇッ!」
抱えられたまま暴れるリーゼロッテに顔を顰めながらクロウは、そう言った。
「暴れるわよッ! ……早く下ろしなさいッ!」
「やだよ。……だって、お前、足、遅えんだもん」
「はっ? だからって……」
リーゼロッテがそう言いかけると、クロウは近くの路地まで歩いていった。路地には怪しい露天商やヲサンクの物売りなどがいた。
「……ち、ちょっと、なに――」
リーゼロッテが不安げな表情を浮かべながらそう言うと、クロウは地面を勢いよく蹴って高く跳躍し、路地の壁と壁を交互に蹴り上げながら屋根の上まで登っていった。
「……え、ちょ、うわッ」
突然の事にリーゼロッテは、思わず悲鳴を上げた。クロウは、
「ほっ、」
と、言いながら屋根の上に着地すると、
「……このまま駅まで突っ走っから、しっかりつかまってろよ?」
と、言った。
「え?……なんでゅわッ!」
リーゼロッテがそう言いかけると、突然、クロウが向かい合う建物の屋根目掛けて飛び出した。「……え、ちょ、うわ、ち、ちょっとおぉーッ⁈」
クロウは、リーゼロッテを抱き抱えながら広い通りを軽々と飛び越えていった。下では、大勢の人々が彼らを見ていた。
「舌噛むからよ、少し黙ってろって、」
クロウはそう言うと、向かいの屋根の上に着地し、そのままギルス中央駅に向かって屋根の上を、タン、タン、タン、と軽快な足取りで駆けていった。
クロウ達がギルス中央駅に着いたのはそれから数分後の事だった。
「よっ、」
クロウは、屋根の上からギルス中央駅北口近くの広場に降り立つと、リーゼロッテをそっと降ろした。
「ほら、着いたぜ」
「……あ、ありがと……」
リーゼロッテは、ふらつきながらそう言った。
「大丈夫か?」
クロウがそう聞くと、リーゼロッテは
「大丈夫――」
と、溜めたあと、
「なわけないでしょッ!」
と、唸るような声で怒鳴り散らした。
「まっ、文句が出んなら大丈夫そうだな。……さっさと行くぞ?」
「……まったく、もう、」
クロウ達は、広場から横断歩道を渡ってギルス中央駅北口に向かっていった。
ギルス中央駅はエラローリア法王国との定期航路がある西部の港町コルアを起点に風光明媚な東部の港町アヌミへと至る総延長約一二二〇ロキグルードに及ぶ王立フルビルタス縦断鉄道の主要駅の一つであり、王都ギルスの陸の玄関口の一つでもある。
国の威信をかけて作られたこの鉄道は当時の最新技術だった魔素機関で動く列車と絢爛豪華な駅舎が特徴で、その駅舎全てにフルビルタス王国の歴史とその地域の伝説、地場産品などが絵画や彫刻で表されていた。
「……相変わらず混んでんなぁ、」
駅の中に入るなりクロウはそう言った。
王立フルビルタス縦断鉄道の切符売り場は全部で二ヶ所あり、クロウ達のいる北口の他に南口にもあった。南口は比較的新しい駅舎で、地場産品を扱う売店や喫茶店などがあるのはこの南口の方だった。
「……本当ね」
リーゼロッテは、切符売り場に連なる列を見ながらそう言った。近くの壁に掛けられた時計は午前一〇時四五分を差していた。
「……んで、イヅナ達は何処にいんだよ?」
クロウが辺りを見回しながらそう言うと、
「おーい、こっち、こっち」
と、声が聞こえてきた。振り向くと、一等客車専用の改札口の前でフェリが手を振っていた。隣にはフマウとイヅナの姿もあった。
王立フルビルタス縦断鉄道は、各路線ごとに乗降場が分かれていた。これは、混雑を解消するためや貨物や食堂車等で使う食材の搬出入を迅速に行うためという名目で導入されたが、実際には一等客車を利用する貴族や資産家などの上流階級に対する配慮であった。民主化に伴い、領主制と身分制が撤廃されてから四五年が経つが、単に支配者層が変わっただけであって、未だにこの国は身分制の国であった。
「……一等客車にしたのか?」
クロウがそう言うと、フェリは、
「うん、そうだよ」
と、言って切符をクロウとリーゼロッテに手渡した。
「随分と奮発したのね、」
リーゼロッテがそう言うと、フマウは、
「個室の方が気兼ねなく話せるだろうからと、教区長が、」
と、言ったあと、付け加えるように、
「もちろん、お金は第二教区持ちですけど、」
と、言った。
「……へぇ、さすがはアルテメスってカンジだな」
クロウがそう言うと、リーゼロッテは、
「そうね。……たしかに一等客車なら私達の話も聞かれにくいし……。でも、よく取れたよね。切符、」
と、言った。
「さ、おしゃべりはそこまでにして……、早く行こうか?」
イヅナがそう言うと、クロウ達は切符を持って改札口に向かっていった。
「……切符を拝見いたします」
改札口に立つ駅員は、細い目でクロウ達を訝しげな視線で見つめた後、低い声でそう言った。
「……ほらよ、」
クロウがそう言って切符を見せると駅員は、
「……どうぞ」
と、言って退いた。
「ありがとな、」
クロウはそう言うと階段を上がっていった。乗車場に出る。一等客車という事もあってか、列車を待つ人々の姿はまばらだった。
「……えっと、乗るのは……あの車両か」
クロウは切符に書かれた車両番号を見ながらそう呟いた。クロウ達の乗る車両は先頭の一号客車だった。
「結構、距離があるわね」
リーゼロッテがそう言うと、クロウは悪戯っぽく、
「……なら、さっきみてえに抱えていってやろっか?」
と、言った。
「……お断りよ、」
リーゼロッテは、そう言うと口を尖らせた。
一号客車の搭乗口の前には紺色の制服を着た乗務員が立っていた。
「……こんにちは。切符を拝見いたします」
クロウが切符を手渡すと、乗務員は、
「はい。たしかに……」
と、言いながら切符に搭乗した事を示す判子を押すと二つ折りにした紙に包んで返した。
「それでは、良い旅を……」
そう言って頭を下げると乗務員は、すっと横に移動し、客車の入り口を手で指し示した。
「それと、お食事券の方は後ほどお部屋の方にお持ちさせていただきますので、」
乗務員がそう言うと、クロウは、
「ありがとな」
と、言って列車に乗り込んだ。黒で統一された車両間の連絡通路の左右には客車へと続く木象嵌が施された重厚な扉があり、その向こうは列車の中とは思えない豪華さだった。
床には臙脂色の縁取りの中に鉄道路線図が織り込まれた絨毯が敷かれていて、壁には目の覚めるような美しい青色が特徴の人工顔料アルストゥリア・ソーラの地に細い金箔で幾何学模様を描き、その上から空押しで、国営鉄道の紋章と王室の紋章を立体的に施した贅沢な壁紙が貼られていた。さらに、各客室の扉は全て木象嵌で精緻な風景画が描かれていて、青銅製の持ち手には細かな点が隙間なく打たれていて、そこに金象嵌が施されていた。
「うはぁ……。すっげぇなぁ……」
クロウが、その豪華さに目を輝かせながら感嘆の声を上げていると、リーゼロッテは軽く笑いながら、
「一等車に乗るのは……、その様子だと初めてみたいね」
と、言った。
「……ああ、そんな金なんてねぇからな」
クロウは、辺りをキョロキョロと見回しながらそういった。
「……ふふ。どう?たまにはこういうのに乗るのも悪く無いでしょ?」
リーゼロッテが得意な笑みを浮かべながらそう言うと、クロウは、
「……まあな」
と、言った。
その後、クロウ達は切符に書かれた一〇一号室に入っていった。
部屋の中も廊下と同じで列車の中とは思えない豪華な作りになっていた。扉を開けてすぐ目の前は居間のような作りになっていていて、入って左手にはトイレと洗面所に続く扉が、右手には寝室に続く扉が二つあり、その全てに木象嵌が施されていた。
正面にある車窓の下には木象嵌で幾何学模様が施されたテーブルと向かい合うように椅子が置かれていて、床には彩度が低い赤黒い色の絨毯が、壁には金銀箔を漉き込んだ色の異なる紙を一枚に撚り合わせてそこに布目模様を空押しで施した紙が貼られていて、壁際には細長い背の低い棚が置かれていた。
どれも廊下側と比べると地味な印象のものだったが、そのどれもが手間暇が掛かっている最上級品だった。
「へぇ、すごい」
フェリがそう言うと、イヅナも頷きながら、
「……だね。噂には聞いていたけど、まさか、ここまでとは……」
と、言った。
「……んじゃ、俺は先に寝っから」
クロウは、そう言うと寝室に続く扉を開けた。
「え? 早くない?」
フェリがそう言うと、クロウは、
「……寝不足なんだよ……、」
と、言いながら、ふあっとあくびをした。
「……これから任務について説明したいんだけどな、」
イヅナがそう言うと、クロウは、
「……あとで聞くからよ、」
と、言って、寝室に入っていった。
寝室も豪華な造りになっていた。壁紙は肌触りの良い光沢のある紙で、金銀泥で様々な植物と野山を駆け回る鹿が表されていた。図柄は二、三種類の凸版を使って表されていて、印刷機を使わずに紙裏から手で軽く押して摺られた図柄は、奥行きを感じさせる柔らかさの中に金銀の鮮やかさが同居しており、画面全体に華やかな雰囲気を与えていた。
ベッドは二つ置かれており、クロウはそのうち、一番手前のベッドに飛び込んだ。
「……あー、すっげぇ、気持ちいい……」
予想以上の寝心地の良さにクロウは、まるで、野生の勘を失った飼い猫のように空きだらけのだらしない笑みを浮かべながら深い眠りについた。薄れゆく意識の中、微かに列車が発車する音が聞こえた。