黄昏時、時計店
1.
日が翳りはじめ、役場の伝言機から物悲しい旋律が流れ出す。往来を歩く人々の数はそれほど多くはない。鍬を背負った農夫、犬の散歩をしている男、二、三ロキグルード先の三叉路に向かって歩いている婦人が赤と緑の日除けの幕が張られた一軒の時計店の前を通り過ぎていく。通りに面したショーケースには、船の形をした鈍い銀色の時計と《時計・宝飾・雑貨の店アンロット時計店》と書かれた看板が置かれ、その向こうには壁一面に掛けられた古時計に囲まれながら冴えない眼鏡の男、この店の店主であるアンロットが時計を弄っていた。幕越しの柔らかな夕陽に照らされた店内に、ちっくたっく、と時を刻む音が響く。まったく売れずに誰の手にも渡ることなく店の中でただひたすらに虚しく時を刻む時計達。それはまるで、時間という監獄に無理矢理押し込められた虜囚のようだった。
カランコロン、と鐘が鳴る。アンロットは時計を弄る手を止め、目の窪みに拡大鏡が嵌ったままの顔を上げた。入ってきたのは草臥れた背広姿の男だった。
「ああ、あんたか、」
野太く、もそっとした声で言う。男は穏やかな笑みを浮かべながら、
「やあ、こんにちは、アンロットさん。約束の物を取りに来ましたよ、」
と、言って、宝飾品や腕時計のベルト、懐中時計用の金、銀鎖が並べられたショーケースの前に立った。この棚はカウンターとしても使われており、その証拠に作業台から見て左側にはレジスターが置かれていた。
アンロットは軽くため息をついたあと、裏蓋が開いたままの時計と工具を作業台の上に置き、目の窪みに嵌めていた拡大鏡を取ってからゆっくりと椅子から立ち上がった。
「相変わらず、仕事熱心ですね」
男がそう言うと、アンロットは、
「別にこの仕事が好きとか、人一倍の熱意を持っているとか、そんなんじゃねえよ。……俺にはこれしか出来ねえって、ただそれだけの話なんだからよ」
と、言いながら年季の入った眼鏡用の研磨機と時計の部品を納めた棚の間にある金庫を開けて中からビロード張りの台の上に恭しく置かれた金無垢の腕時計を取り出すと、文字盤が男から見て正面になるようにしてショーケースの上に置いた。
「……ほら、確認して、」
アンロットがそう言うと、男は時計を取って舐めるように丹念に見たあと、ニッと、笑いながら木兎のように目を細め、調子の良さそうな声で、
「……うん、いい仕事だ」
と、言って頷いた。
「……アンタに一体、何がわかるっていうんだよ、」
アンロットが鼻で笑いながらそう言うと、男は大袈裟な身振り手振りを交えながら、
「いやいや、わかりますって。……馬鹿にしないでくださいよ」
と、言うと、続けて、
「本当、元通りって感じです。……いや、ありがとうございます。貴方に頼んでよかった」
と、言った。
その言葉にアンロットは、ぶすっと、不機嫌そうに顔を顰めながら、
「ふんっ、馬鹿にしてんのか? ……覆いを変えただけなんだ、元通りになって当然だよ。……まっ、大方、褒めて俺の気を良くさせた上で修理代をまけさせようって、魂胆なんだろうけどよ、お生憎様、その手にゃ乗らねぇよ、」
と、言った。
「やだな、そんなつもりはありませんって……。それに、今のはお世辞じゃなくて本心ですから、」
男は軽く笑いながらそう言ったあと、ポケットから財布を取り出して、
「それで、修理代はいくらになりますかね?」
と、聞いた。
「あー、そうさねぇ、金貨八カラトルってとこだけど……、七……、いや、六……、うん、六カラトル金貨一枚でいいにしてやるよ」
アンロットがそう言うと、男は怪訝そうな顔をしながら、
「……えっと、覆いガラスの交換ってだけなのに、……その、随分と高いんですね?」
と、言った。
「……九割は輸送費だよ。アンタが壊しちまったこの覆いガラスはアディア水晶を使って作られたものなんだよ。……まあ、時計好きのアンタなら知ってるとは思うけどよ、材料であるアディア水晶自体がすでに生産中止になっている代物でね。ほうぼうを回って、やっとこさ帝都にある問屋から仕入れた代物なんだよ」
「なるほど、それは大変でしたね」
男の呑気な態度にアンロットは、ぶすッと不機嫌そうに顔を顰めながら、
「ふん、他人事みたいな言い方じゃねえか。……言っておくけどな、常連さんのア、ン、タ、だから多少は色付けてやってるんだからな? ……常連さんのア、ン、タ、だ、か、ら。……他所じゃこうはいかねえからな? ……わかってんのか?」
と、言った。
「はいはい、わかってますよ」
「……それで、払うのか? ……それとも払わねえのか? ……払わないっていうんなら、この時計はラスダンのババアん所に行くことになるぜ?」
アンロットがそう言うと、男はため息混じりに、
「ああ、払いますよ、払いますって。……だから、あんな強欲ババアの質屋なんかに売らないでくださいよ。……えっと、今、持ち合わせがないんで手形でもいいですかね?」
と、言った。
「……手形、ねぇ……。まっ、常連のアンタの頼みだ。仕方がない、それで良しとしといてやるよ、」
アンロットは万年筆を手渡しながらそう言った。
「……ああ、どうも、」
男は万年筆を受け取ると、ポケットから小切手を取り出して万年筆を走らせた。
書き終わると小切手をビリッと、破いて万年筆と一緒にアンロットに手渡した。紙には口座番号と金額が書かれており、その下にラトウィル・ウィトスと流れるような文字で署名が記されていた。
「……はい、確かに」
アンロットは手形を確認すると奥にある金庫に仕舞った。
「……ああ、そうだ。アンロットさん、」
ふと、男は思い出したようにそう言った。
「あ? ……なんだよ? ……また、なんか修理すんのか?」
アンロットは金庫の扉を閉めながらそう言った。「……言っておくけどよ、この前みたいなクッソ古い時計を直せってんなら、四割、いや、五割増しだからな?」
「いや、違いますよ。……えっとですね、不審者についてなんですが、」
「不審者?」
「ええ。最近、不審者の目撃が相次いでましてね。……まあ、アンロットさんは関係ないとは思いますが……、一応、は、」
男がそう言うと、アンロットは口をへの字に曲げながら、
「……そりゃ、どういう意味だよ?」
と、言った。
「ああ、その……。変な意味じゃないんですよ」
男はなんともいえない表情を浮かべながらそう言うと、続けて、
「……目撃された時間帯が夜だったんですよ。それも、深夜。……その時間、アンロットさんは外に出たりはしていないでしょうからね。だから、関係ないと言ったんですよ」
と、言った。
「なんでそう決めつけるんだよ」
アンロットがずいっと詰め寄ると男は、
「いや、だって……。アンロットさん、前に六時から『ミトゥルスレーヌ姫諸国漫遊記』を聴きながら晩酌して、その後に寝るって言っていたじゃないですか……」
と、歯切れ悪くそう言った。
「まあ、そうだけどよ。……けど、ちげえかもしれねえだろ?」
「え? そうなんですか?」
男がそう言うと、アンロットは、
「例えだよ、例え」
と、言った。
ふと、カランコロン、と鐘が鳴り、ぬぅっと大柄な紳士が入ってきた。山高帽を深く被り、ピシッとシワひとつない背広に身を包み、砂糖で覆ったようにピカピカとした革靴を履いている絵に描いたような紳士で、左手には黒いポルナックを持っていた。彼は徐に被っていた山高帽を取った。髪は燃え盛る炎のように赤く、絹のように艶やかな光沢を帯びていた。
「こんにちは、アンロットさん」
紳士は満面の笑みを浮かべながらそう言った。顔は異様に青白く、病気か病み上がりのようにも見えた。瞳は青く、左目には何かで切ったような痕が付いていた。年齢は二〇代くらいに見えた。
「……あんたは、」
アンロットはそう呟くと、男に向かって、
「悪りぃけど、今日はもう店じまいだ。……帰ってくれ」
と、言った。
「……えっ、ああ、はい。わかりましたけど……」
男は紳士を一瞥した。すると、アンロットは、
「ああ、アイツは時計の部品の行商さ。……たまにこうして色々と売りに来るんだ」
と、言った。
「なるほど」
男はそう言うと、時計を腕に嵌めてから、
「……それじゃ、アンロットさん。物騒になり始めましたからね。戸締りとか忘れずに、」
と、言って、外に出ていった。
カランコロンと、鐘が鳴り、アンロットは軽くため息をついた。
「商売繁盛何よりです」
紳士がそう言うと、アンロットは、
「……はっ、閑古鳥だよ」
と、返したあと、
「……んで、用件はなんだ?」
と、言った。
「……私が来る理由は一つしかないでしょう?」
紳士が軽く笑いながらそう言うと、アンロットは、
「仕事、か?」
と、言った。
「ええ、それも大口です。……報酬は五カラトルオルキアス五〇枚、」
「大金だな、」
アンロットがそう言うと、男は、
「ええ、相手が相手ですから。……このくらいは」
と、言った。
「……まっ、とりあえず奥に上がっててくれ」
アンロットはそう言って外に出ると、日除けの幕を下ろしたあと店の入り口の天井付近にある穴に棒を差し込んで、ガラガラ、と木戸を引き下ろしてから、店の脇を通る細い路地の先にある勝手口の扉をギイッ、と、開けて家の中に入った。細長い土間から家の中に上がる。階段の前を通って客間へと向かう。
客間の扉を開ける。先程の紳士は背筋をビシッと伸ばしながら椅子に座っていた。
「待たせたな」
「いえ、お気になさらずに」
紳士がそう言うと、アンロットは椅子に座りながら、
「で、その相手ってのは?」
と、言った。
「上院議員のオルスロット・ミルリートです」
「……オルスロットっていうと……、確か、与党の大物で……、」
アンロットがそう言うと、紳士は、
「はい、我々の仲間……でした」
と、言った。
「……口封じか?」
「まあ、そんな所です。……本来なら王都で仕留める予定でしたが、別件でヘマをやらかした男がいましてね。彼の所為で王都の警備が厳重になってしまったんですよ。……面倒なことをしてくれましたよ、まったく、」
「ヘマって、アレかい?……元大臣襲撃事件の」
アンロットがそう言うと、紳士は頷きながら、
「ええ、そうです。……もうお耳に入っていましたか」
と、言った。
「まっ、あれだけ派手にやりゃあな。……んで、決行日はいつだ?」
アンロットがそう言うと、紳士は、
「まだ、わかりません」
と、言った。
「わからねえって。……おいおい、どうしたんだよ。いつもとちげえじゃねえかよ」
「……意外と用心深いんですよ、彼。……まあ、お待ちください。時期が来たら連絡を差し上げますから、」
紳士はそう言ったあと、続けて、
「ところでアンロットさん。……最近、体調はどうですか?」
と、言った。
「……体調?」
「ええ、異端の力は使うたびに体を蝕んでいきますからね。……あまり、お楽しみが過ぎますと――」
「体を乗っ取られちまうんだろ? ……わかってるよ」
アンロットがそう言うと、紳士は、
「そうですか。……なら、いいのですがね。……くれぐれもお気を付けを、」
と、言って軽く笑った。
「……わかってるよ」
アンロットがそう言うと、紳士は何かを思い出したように、
「ああ、それと、」
と、言って、鞄の中から薬入りを取り出すと、
「これを渡しておきます」
と、言って、テーブルの上に置いた。
「……なんだよ、これ?」
「薬です。……万が一の場合に備えてみなさんにお渡ししているんです。……もし、不測の事態が起きた場合に飲んでください」
紳士がそう言うと、アンロットは、
「……要するに死ねって、ことか?」
と、言った。
「いえいえ、違いますよ。……これはみなさんの異端の力を強化し、完全なる存在へと導くための……、いわば、標となるものです。……最近、アイツらが活発に動いているのを受けて首領様がみなさんにお配りするように、と。……ですから、いつでも飲めるように持ち歩いていて下さいね」
紳士がそう言うと、アンロットは、
「……へぇ、首領様が、ねぇ……。そいつは有り難え話じゃねぇかよ」
と、言った。
「……ええ、まったく」
紳士はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、
「……では、ご武運をお祈りいたします」
と、言って、軽く頭を下げた。