9.愛してる
「ライアン、お義母様見なかった?」
「カリナ!もういつ産まれてもおかしくないんだから、あまりうろうろするなと…」
父に頼まれた書類を整理していたら、臨月となり、すっかりお腹が大きくなった妻がやって来た。
慌てて妻を労う様子を見て、俺の隣で一緒に作業をしていたシアンが和やかに微笑む。
「このくらい大丈夫よ。
それにお医者様には動きなさいと言われてるのよ」
「とうしゃ、あっこ」
そんな妻の横で、最近喋り始めたジェイが俺に手を伸ばす。俺は優しく我が子を抱き上げる。
「それに、お義母様がいるのだから大丈夫…そう、お義母様見なかった?
美味しいお菓子を頂いたから、一緒に食べようと思って」
その名を聞いて俺は、思わずうんざりした顔になった。
「カリナ様、奥様は出かけておられますよ。
いつもの様に」
そんな俺に代わって、シアンが説明をする。
彼女は察したのか、ぱっと表情を変えた。
「ああ!お二人でお出かけなさっているのね!
本当、仲睦まじい事」
そう嬉しそうに言う彼女と違って、俺はある不安を抱えていた。
「ほんと、仲睦まじすぎて、この子達に小さな叔父か叔母が出来ないか心配だよ…」
「はっはっはっ!」
「まあ!それは楽しそうね!」
「勘弁してくれ…」
やけに楽しげな二人と違って、俺は結構深刻に悩んでいる。
やっと思いが通じ合った両親。
ずっと側で見てきた俺にとって、それは大変喜ばしい事だった。
だが、あまりの仲良しっぷりに、息子としてはかなり恥ずかしい。いい歳して何やってんだか、と何度思った事か。
「旦那様は17でここの当主となって、ずっとこの地を守ろうと尽力して下さいました。
私としては、ようやく休息できる場所を見つけられて、安心しております」
「そうそう!
それにお二人とも、やっと恋人同士になれたんだもの。
今が一番楽しいのよ」
「いや、多分死ぬまでああだろうな」
あの両親を思って呆れている内に、いつの間にかジェイがうとうとし始めていた。
優しくカリナが頭を撫でる。
「私達も、あのお二人の様に、死ぬまで愛し合っていたいな」
そう言って優しく微笑む妻に、愛しさを覚える。
すぐに勿論だよ、なんて答えた俺も、二人の事を言えたもんじゃないな、と思った。
シアンはずっと、生暖かい笑顔で俺たちを見守っていた。
「あ、魚が跳ねたわ」
「本当?
食べられるかな。今度釣竿でも持ってこようか」
「あなた釣りできるの?」
「いや、やった事ない。
でも出来そうじゃないか?」
「ふふ、何それ」
今日は少し遠出して、美しいと評判の湖に訪れていた。
彼に後ろから支えてもらいながら馬に乗ったのは初めてで、道中もとても楽しかった。
今は湖のほとりの草むらに、大きめの布を敷いて、二人で足を投げ出して座っている。
やがて彼が寝転がった。
「ライアン、怒っていた?」
「まあ何も言わなかったが、あの目はまたかよ、という目をしていたな」
「ふふふ、申し訳ないわね」
自分でも分かるくらい、申し訳ないなんて思ってない様な言い方に、彼が鼻で笑う。
「優しい息子ね」
「君のおかげだよ」
さわさわと風がそよぐ。
もうすぐ冬を迎えようとしていた季節は巡り、今度は夏を迎えようとしている。
「…ねえ、ずっと聞きたい事があったの。
どうやってあのネクタリンを手に入れたの?」
月日は経とうとも、未だにあの頃の母の事を思い出すと言葉が詰まって今まで聞けなかった。
なのに、この美しい湖と、心地よい風に吹かれていたら、自然と口から出ていた。
「聞きたい?」
「ええ、あなたがどう頑張ってくれたのか、ぜひ知りたいの」
そう言うと、彼は私から視線を外して、空を見た。
「長くネクタリンを提供するために、工程を調整して、収穫の時期をずらしてもらっているんだ。
それで最後に収穫する農家に、もしかしたら余っているのではないかと行ってみた。
狙い通り、売り物に出せない粗悪品が少々残っていて、その中でもなるべく綺麗な物を何個か譲ってもらった」
「何個か?あなたが持って来たのは一つだけだったわ」
そう指摘すると、彼が気まずげな顔をした。
「…それが、途中で転倒してしまったんだ」
「えっ怪我しなかった!?
いや、怪我はしていなかったわね…やだごめんなさい、話の腰を折っちゃって…」
一人であわあわする私に彼が薄く笑う。
恥ずかしくなって、私は湖の方に視線を外した。
「幸い、俺も馬も怪我はなかった。
躓いたのは、なんて事ない小さな石だったんだがな、夜通し走ったから、馬も相当疲弊していただろう。
だが、ほとんどのネクタリンが潰れてしまった。
熟していたからね。柔らかかったから、しょうがなかった」
だからあんなに砂埃にまみれていたのね、とあの時の彼の状態を思い出す。本当に、怪我がなくて良かった。
「奇跡的に一つだけ助かったんだけど、そういう訳だから馬を休めなくちゃいけなかった。
すごくやきもきしたよ。間に合うかどうか、正直自信なかった」
「私もあなたが丸一日経っても帰ってこなかったから、途中で倒れているのではないかと怖かったわ。
でも、あなたを信じてた。絶対に持って来てくれるって信じてたの」
「ありがとう、信じてくれて」
彼が私の腕を引っ張る。
私も彼の方に近付いて、そっと口付けをする。
しばしお互いの唇を啄んで、ゆっくり離れた。
そしてそのまま私も、彼と一緒に横になる。
「こんな外で一緒に寝転がるなんて、40過ぎの男女がやる事じゃないわね…」
「ライアンに、またはしたないと怒られそうだ」
お互い顔を見合わせてクスクスと笑う。
そしてまたチュッと軽い口付けをした。
「…俺は、一体何に怯えていたんだろう」
彼はよくこう呟く。
私といて幸せと感じる度に、過去の自分を思い出して苦悩している様だった。
どこか不安な表情を浮かべながら、私の頬を撫でる。
「もういいのよ。
あなたの心の傷は、それくらい深かったという事。
治るのに、時間が必要だったのよ。
それに言ったでしょう?もう何も考えずに、私を愛する事だけ考えて、と」
「…すまない」
彼が優しく微笑む。
私は彼を優しく抱きしめた。
「こうして居られるのも、全て義母上のおかげだな…。
最後に、ネクタリンを食べさせてあげられて良かった。
俺に複雑な思いを抱えているだろうに、感謝までしてくれて…」
そう言って彼が目を閉じる。
あの時の母の言葉を、思い出しているのだろうか。
『あなたは、いいの?
一度も、彼に愛してると伝えなくても、いいの?』
母は、私が離縁してのこのこと出戻ってきた事に怒っていたんじゃない。
彼に何も伝えていないのに、全てを諦めた私に怒っていたのだ。
そして心の中では、ずっと私に申し訳ないと思っていたのに、私達が陰で想い合っている事に気付いて、自分を抑えて見守ってくれていた。
「今頃、父様と楽しく過ごしているかな」
そう言いながら、二人で空を見上げる。
今日の空は、どこまでも青く、澄んでいた。
「愛してるよ、ティアナ」
「私も、愛してるわ。あなた」
最後まで読んでいただきありごとうございました。