8.もう一度
「母さん」
愛しい声がして振り向くと、そこに我が息子の姿があった。
「ライアン…!」
「母さん、ごめん…。
お祖母様の最期に立ち会えなくて…」
会って早々、なぜか申し訳なさそうに言う息子に、胸が痛む。
この子がすぐに動けなかったのは、私のせいなのに。
「いいえ、私の方こそ、リディア領をあなたに任せる事になってしまってごめんなさい。
あなたが領地を守ってくれたおかげで、クリスがここに来てくれて、最後に母にネクタリンを食べさせる事が出来たのよ。
だからこれが、あなたが最後に出来た、母様への恩返し。
母様も、今のあなたの立派な姿を見て喜ぶでしょう」
ライアンが困った様に微笑む。
納得していいのかどうか悩むその表情が愛しくて、私はそっと息子を抱き寄せた。
「あら、カリナとジェイは?」
ライアンの横でいつもニコニコと微笑む愛らしい花嫁と、可愛い愛しの孫。
辺りを見回すも、見当たらない。
「それが…カリナが妊娠したんだ」
「…まあ!」
まさかの朗報に、胸が躍る。
「本当は彼女も来たがっていたんだけれど、さすがに長時間の馬車移動は危険だと思って…」
「ええ、ええ、勿論よ。
そうなの、カリナが…」
また一つ、尊い存在から、尊い命が生まれる。
母の死ですっかり滅入っていた心に、光が差した。
「…赤ちゃんだけじゃない、ジェイも、今動き盛りで大変なんだ」
ライアンが私の手を取る。
「母さんの人生だから、好きに生きて欲しいと思った。けど、父さんだけじゃない、俺だってカリナだってジェイだって、母さんがいなくてやっぱり寂しいよ。
あなたは、まだまだ必要なんだ」
「ライアン…」
「…これくらい、父さんも素直に言えた?」
私の手をぱっと離して、窺う様に言う。
突然、彼の話が出て来て動揺してしまった。
そんな私の表情を見て、ライアンはため息をつく。
「まだちゃんと話し合っていないの?」
「……ええ」
本当に不器用な人達だ、と呆れ顔の息子に何も言えなくなる。逃げ続けた私も悪いけど、プレゼントなどで遠回しに伝えようとするあの人も悪いのだ。
ほぼ、八つ当たりに近いけれど。
「こんなプレッシャーかけといてあれだけど、母さんの素直な気持ちに従って、答えを決めてね。
どんな答えになっても、俺達は母さんを尊重するよ」
「…ありがとう、ライアン」
「…ちなみに。これだけは伝えておきたいんだけどさ。
父さん、母さんがいなくなって1ヶ月、それはそれは落ち込んでいたよ。
考えない様にするためか、食べる事も眠る事も惜しんで、机に齧り付いてた」
「え!?」
息子の心優しい言葉に胸がじんとしたのも束の間、さらりと衝撃な事を言われて驚愕する。
だから少し痩せた気がしたのかと、合点がいった。
「俺は自業自得だと思って放っておいたけど、またあんな感じになっちゃったら、もう手つけられないし、今度こそ死んじゃうかも」
「…あなた、私を尊重したいのか、脅したいのかよく分からないわ」
「どっちの気持ちもあるって事」
そう言ってライアンはにこりと微笑むと、マルクとカーラの方へ向かった。
息子のあの飄々とした性格は、一体誰に似たのかしらと頭を抱える。
でも、すっかり大きくなってしまった背中を見ていたら、思わず笑みが溢れた。
母の葬儀は、滞りなく行われた。
安らかに眠る母を棺に入れて、埋葬する。
神父の言葉に合わせてお祈りをし、母を送り出した。
葬儀にはたくさんの方が列席して下さり、埋葬が終わった後も、毎日人が訪れた。
母の人望を目にしている様で、どこか誇らしい気持ちになる。
だだ、私は未だに抜け殻の様だった。
こういった時のために帰省していた筈なのに、自分が驚くほど使い物にならなくて情けなくなる。
それはカーラも同じで、訪れて下さった方には、マルクとクリスが、全て対応してくれた。
あまりにも不甲斐なくて、寝る前に必ず私の顔を見に来てくれるクリスに、その旨を打ち明けると
『私の父が亡くなる頃に、君にはたくさん世話になったから。
今度は俺が手助けするのは当たり前だ。
気にせず、今は休んで』
と言ってくれた。
私が内緒で義父の所に通っていた事を、知っていたらしい。別に恩着せがましく義父と交流した訳ではないけれど、素直に嬉しかったし、安心した。
やっぱり彼は、こういう事に気づける人なのだ。
そして気付けば母が亡くなって1週間が経過し、いよいよクリスが領地に戻らなければならなくなった。
結局、意気消沈していた私に気遣ってか、彼と核心めいた話はしないまま、今日を迎えてしまった。
明日には彼はここを去ってしまう。
大分落ち着きを取り戻した私は、彼の部屋をノックした。
「ティアナ…もう、大丈夫なのか?」
「ええ、心配かけてごめんなさい」
「だが、まだ顔色が悪い気がするぞ」
「私達、話し合わなければならない事があるでしょう?」
彼の目を見つめてそう言うと、少し怖気付いたように身を引かせた。
(もしかしてこの人、怖がっているのかしら)
「…そうだな。さ、入って」
彼が私の入室を促す。前回と違って、私は臆する事なく足を踏み入れた。
窓際に置かれたベンチに、二人で腰掛ける。
部屋の隅に、まだ片付け途中の荷物が見えた。明日の朝には出発するため、準備していたのだろう。
ツキン、と胸が痛む。
「…私は、君に謝りたい事がたくさんある」
彼が先に口を開いた。
私は横にいる彼をじっと見つめる。
「いや、謝るとか、そういう次元の問題じゃない。
どう君に詫びればいいのか、ずっと考えていたけれど、どれも安っぽくて当てはまらなかった。
どんどん分からなくなって…結局、俺はまた君から逃げていた気がする。
こんなに君を困らせておいて、義母上にもあんな大口を叩いておいて、俺は、俺は…」
「クリス」
不器用というか、真面目というか。
どうして順序立てる必要があるんだろう。
まず言わなければならない事は、もっと簡単な事なのに。
「そうやって順を追って伝えようとする所は、あなたのいい所なのだけど、もっと単純で、私に伝えなければならない事があるのではないかしら?」
まるで子どもに諭す様に、彼に問う。
クリスが、ゆっくりとこちらを見た。
「さあ、言って」
私が神にでも祈る様に言うと、彼がベンチから降りて、私の前で片膝を突いた。
私が左手を差し出すと、彼がその手をとって、そこに口付ける。
そして、私の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「ティアナ…君を愛してる」
何十年間待ち続けた言葉が、今、やっと聞けた。
「そう、その言葉だけでいいの。
私はずっと、その言葉が聞きたかった」
私はベンチから崩れ落ちる様に、彼の胸に飛び込んだ。
彼も力強く抱き止める。
もしこれでも言ってくれなかったら、私は黙ってこの部屋を出て行くつもりだった。
「すまない…すまない、ティアナ。
こんな不甲斐ない男で…すまない」
「本当ね…こんな簡単な言葉さえ言えないなんて」
思わず涙ぐみながら彼を強く抱きしめていたが、しばらくすると、彼がそっと私の体を離した。
その顔は、重く、思い詰めた顔をしている。
「やっぱり、きちんと君に説明したい。
私にとって…この言葉は、簡単な事ではなかったんだ」
「……クリス?」
そして彼はぽつりぽつりと教えてくれた。
彼の両親の事、自分も両親の様に私を傷つけてしまうのではないかと怖かった事。
彼の家庭が複雑なのは勿論知っていた。
しかし、彼がここまで歪んでいた事に私は気付けなかった。全ての歯車が合った気がした。
その昔、義父の背中を拭いている時に、『君は、幸せかい?』と突然聞かれた事を思い出した。
その時はよく分からなくて、とりあえず返事をしたけれど、義父は責任を感じていたのだ。
「ごめんなさい、私何も知らなくて…」
「君は何も悪くない。君と向き合う覚悟がなかった、俺のせいだ」
彼は再びそっと私を抱き寄せると、こめかみあたりに唇を押し当てた。
彼から私を愛おしいと感じているのが分かって、頭がぼうっとする。
まるで若返った様な気持ちだ。二人とも、もう40を超えているというのに。
「…クリス、私達、もう一度やり直しましょう」
「ティアナ…いいのか?」
「私達は、すれ違ってばかりだった。
もっと、恋人らしい事したいわ。二人で出かけたり、旅行したり、たくさん思い出を作りたい」
「それは、帰ってきてくれる、という事?」
まだ不安そうな彼に、思わず吹き出してしまった。
愛に敏感なくせに、変な所で鈍感なのね。
「愛してるわ。あなた。
私はたくさん、あなたに伝えなくちゃならないの」
母が最後に教えてくれた事。
遅れてしまったけれど、これから先、私はずっと彼に伝え続けよう。
彼が勢い良く私の唇に口付けた。
あまりの勢いに思わず背中がのけぞったけれど、私もすぐに押し返す。
何度も、何度も、お互い愛してると言いながら、唇を、舌を、吸う。
「…ふふ…まるで獣ね」
「…あまり煽らないでくれ…今はさすがに我慢するけど、帰ったら、どうなるか、分からない…」
どんどん小さくなる声に、また私は吹き出した。
「もう何も考えずに私を愛する事だけ、どうかそれだけを考えていて」
彼は小さく頷くと、また唇を寄せた。