6.懺悔
まだ完全な冬ではないというのに、風が切る様に冷たい。
俺は馬を走らせながら、彼女が俺に頼み事をしたのはいつぶりだろうかと頭を巡らせた。
そして行き着いた答えは、何年か前に俺と離縁したいと言った時が最後。
しかも彼女の望みは、後にも先にもたったこれだけだった。
彼女と結婚して二十数年間。
俺はずっと避け続けた。
理由は一つ、馬鹿みたいに怯えていたからだ。
俺の父と母も政略結婚だった。
しかも母は別の人を愛していたのに、その人と別れさせられて、父と半ば無理矢理結婚させられた。
そういう訳で、母は表面上では父と仲良くしていたが、その実嫌がっていたと思う。
子どもの俺が母の本心に気付いていたのだから、父が気付かない筈がない。
厄介な事に、父は母を愛していた。
そしてその愛はどんどん狂っていく。
何年かけても振り向いてくれない母に、父はついに壊れてしまった。
母が外出する度に不貞をしているのではないかと疑い出した。そして次第に外出を禁止し、最終的には部屋に軟禁状態にした。
屋敷の使用人達への当たりも強くなり、酒に溺れる日々。
それでもリディア領の民が、うちの屋敷の異変に気付かなかったのは、全てシアンのおかげだろう。
しかしいよいよ限界、といった頃に、シアンが俺に当主を譲る様父に提案した。
すっかり母に疲弊していた父は二つ返事で了承した。
俺はそんな父に、可哀想な人、と心の中で同情してやった。
そして俺は齢17にして、リディア領の当主となった。
表面上の理由は、父の病気による早期の代替わりと説明した。あながち間違いではない。
父はもう病人の様だったから。
今までシアンの補助として携わってきていたが、いざ当主となると、全く違った。
まず、民からの信頼を得られない。
こんな若造にうちの作物を預けてもいいのか。
こんな若造に相談した所で、ちゃんとした答えは返ってくるのか。
最初の内はどの民も、出来ればシアンに話をしたい、と言って、俺は完全にお飾り当主だった。
俺の祖父はそれは優秀で、俺が生まれてすぐに亡くなってしまったが、今までその信頼でうちの家は成り立っていた。
それが父に代わり、どんどん姿を見せなくなって、最終的にまだ20歳も満たない若造に代替わりしたのだ。
民が不安を覚えるのも無理ない。
俺は信頼を得るために、力を注いだ。
そして少しずつ、俺の所に直接民の声が届く様になってきた頃、結婚の話が持ち上がった。
俺は心底嫌だった。
母の愛を求めて狂った父と、いつまで経っても過去の愛を引きずって父を見ようとしなかった母。
そんな二人を見ていれば、自ずと結婚なんて碌なものじゃない、と思うのは当たり前だ。
愛というそんな不可視的なものに狂わされて、人生を棒に振りたくなかった。
それに今は仕事に集中したかったし、本当は独身を貫きたいくらいなのに、残念な事に家督は世襲制だ。いつかは妻を娶り、跡取りを産んでもらわなきゃいけない。
その頃にはもう、母はこの屋敷を去っていた。
たまに手紙が届くが、どこかで修道女として暮らしているらしい。
俺は特に返事は書かず、もう彼女の人生だから、好きに生きて欲しいと思っている。
ただ、残された父は抜け殻の様になり、長年の酒浸りのせいで本当に病気になってしまっていた。
ティアナとの結婚の話は、シアンが持ってきた。
俺は渋々顔合わせに行ったが、ティアナを見て考えが変わった。
ティアナの第一印象は、気品に溢れていて、物静か。
夫の一歩後ろを歩く様なタイプだと思った。
彼女の両親もその様な雰囲気だったので、彼女だったらきっと俺を尊重してくれそうだと思い、積極的にこの結婚を進めた。
今思えば本当に最低な理由だ。
自分の言う事を聞いてくれそうな人間ならば、誰でも良かったのだから。
そんな事も露知らず、義両親は、俺がこの若さで領地を治めている事に信頼を置いて、この結婚で齎される双方の利益を了承した後、娘を送り出した。
こうしてこの混沌とした屋敷に、彼女は何も知らずに嫁いできた。
そして俺は、この結婚において一番重要な事を、結婚したその日の夜に、彼女に言った。
『俺は君に何も求めない。
この家を存続するための役目さえ全うしてくれれば、あとは好きにしてくれて構わない。
だから君も、俺に何も求めないでくれ』
彼女は驚いた表情をしていたが、何も文句は言わなかった。
予想通り、彼女は黙って俺について来てくれた。
やがてライアンが生まれる。
最初から男児を産んでくれるとは。
もうこれで、彼女を抱く必要もなくなった。彼女だって、こんな冷たい男に抱かれるのは嫌だろう。
良かった。これで愛だのなんだの言わずに妻を娶り、跡継ぎも生まれた。後はこの地を守るだけ。
しかし、俺にとって予想外の事があった。
ライアンだった。
血を分けた存在というものはこんなにも尊く、愛しいのかと知る。
俺は時間を見つけては、ライアンの元へ足繁く通った。
そうなると、必ず彼女と対面する事になる。
すっかり母親の顔になった彼女は、いつも俺を笑顔で迎え、今日はこんな事が出来ました、こんな物を食べましたと楽しそうに報告する。
この3人の時間は、特別だった。
今まで感じた事のない、ふわふわとしたむず痒い感情。
それに、彼女が来てから屋敷の空気も変わった。
すっかり使用人達の信頼を失っていたにも関わらず、どんな魔法を使ったのか、彼らはみんな彼女を慕い、笑顔が増えた。
しかも俺の知らない内に、彼女はライアンを連れて父の部屋に通い、背中を拭いてくれていたのだ。
それから間もなく亡くなった父が、最期の瞬間にその事を教えてくれた。
父は、お前はあの子と幸せになれ、そう言って旅立った。
愛しい存在を産んでくれた彼女。
使用人の信頼を取り戻してくれた彼女。
父が幸せになれと、願わせてくれた彼女。
何よりこんな冷酷な男を慕い、笑ってくれる彼女。
ある日、使用人達と仲良く話す彼女の姿を見て、どす黒い感情が湧き上がった時があった。
俺はぞくっとした。
やめろ。やめてくれ。
所詮俺も、あの父と同じ血が通っているという事だ。
いつの間にか彼女を独占したい、誰も彼女を見て欲しくないという感情が生まれている。
そしてその思いが溢れた時、父が母にした様に、今度は俺が彼女を傷つけるだろう。
愛は人を狂わせる。俺が一番よく知っている。
だから一層殻に閉じこもり、仕事に没頭した。
没頭しすぎて、どんどん彼女の笑顔が消えていっていた事にも気付かずに。
『離縁して下さい』
真っ直ぐな瞳でそう言われた瞬間、頭が真っ白になった。
俺はなぜか、彼女の愛は変わらないものと高を括っていた。そんな事はない、彼女はずっと傷ついていたのだから。
役目を果たせば、何をしてもいい。
そう言ったのは、確かに俺だった。
そう彼女にお願いした以上、何も言い返す権限はない。
動揺を隠す様に、あくまで事務的に、彼女の申し出を了承した。
書面に記すか問うと
『どちらでも構いません。
ただ、あなたが約束を破る様な人ではない事も、私との仲を覆されない事も、分かっていますから』
と、言い切った。
彼女は俺を諦めていた。そして疲れ切っていた。
俺に出来るのは、彼女を解放してあげる事だけ。
『父さん、お祖母様から手紙が届いていたよ』
彼女がこの屋敷を出て行ってから約1ヶ月。
俺は何かに取り憑かれた様に、仕事に没頭していた。
我が息子のライアンは、こんな歪な関係の夫婦だったにも関わらず、彼女のおかげで私の様には歪まなかった。
むしろこんな俺の事を尊敬してくれ、未来の当主として学ぼうと、日々尽力してくれている。
『…そんなに仕事した所で、母さんは帰ってこないのに』
ただ、易々と彼女の手を放した事だけは、許せない様だった。
俺が食べる事も眠る事も惜しんで、机から離れない事に、特段気にかける様子はない。
むしろ呆れている、といった感じだった。
ぽつりと呟いて出て行ったライアンを黙って見送り、もはや働かなくなってきた頭のまま、義母からの手紙を開いた。
そこには娘の我が儘でこの様な結果になってしまった事のお詫びと、自分が今寝たきりの状態であるという事が書かれていた。
彼女の我が儘では決してない。
俺が不甲斐ないからだ。そしてそれも、義母はよく分かっている。
ずっと義母は心の内に秘めながらも、俺達の事を見守ろうとしてくれていたから。
『あなたに話したい事があります。
余命いくばくもない老婆からの最後の頼みだと思って、どうかお越しくださいませ』
最後の文章で、義母が俺に最後のチャンスを与えてくれようとしている事を知った。
しかし、行った所でどうすればいいのか分からない。
何十年間も傷つけたのだ。きっと彼女は俺を受け入れてくれないだろう。
(…じゃあ、諦めるのか?)
彼女を失って、結局俺は父の様に抜け殻になった。
ただ父と違う事は、彼女に何も伝えていないという事だ。何も足掻く事なく、彼女の手を離した。
愛しているとさえ、言わずに。
そう思った瞬間、頭が冴えた。
行こう、彼女に会いに行こう。
受け入れてくれなくても、俺の話を聞いてくれなくても、彼女に愛していると伝えたい。足掻きたい。
『ティアナに会いに行ってくる』
俺はすぐにライアンの所へ行った。
ライアンは全て理解した様に、微笑んだ。
『うん、ここは任せて。
頑張ってね、父さん』
ライアンは砕けた言葉遣いをする。
再三注意したが、直る事はなく諦めていた。
しかしこの時だけは、この砕けた息子の言葉が、やけに胸に沁みた。
そうして意気込んで彼女の生家へと行ったのは良いものの、1ヶ月ぶりに再会して困惑してしまい、思わず彼女を責める様な物言いをしてしまった。
俺はすぐに反省して、労う言葉をかけたが、つくづく情けない男である。
そして義母から愛ある喝をもらい、俺は本格的に彼女と向き合う生活が始まった。
ここで予想外な事が起きた。マルクとカーラが応援してくれた事だ。
ここの滞在を快く許してくれただけでなく、彼女の好きな食べ物や、花、どうアプローチしていけばいいのかなど、いろいろアドバイスしてくれる。
なんと二人の娘のマリーまで、助言してくれた。
でも、これも俺のためではない。
彼らも、あくまで愛する姉のためなのだ。
彼らにとって、姉が俺の元に帰る事が幸せだと思っている気持ちが嬉しいし、俺だってそう願ってる。
時間の合間を見つけては、彼女を探した。
しかし、近づこうとすればする程、彼女は離れて行った。
当たり前だ。ずっと彼女も、俺に心を開いて欲しかっただろうに、俺は何も応えなかったのだから。
きっと、俺が足掻こうとしている事に彼女も気付いているだろう。
その上で避けられている、という事を知りながらも、馬鹿の一つ覚えみたいに、花を贈り続けた。
そして今日、彼女が俺に二度目の頼み事をしてくれた。
母想いの彼女は、プライドや色々な感情を捨てて、俺に相談してくれた。
こんな時に動かないで、いつ動くのだ。
愛する女のため、今こそ男を見せる時。
そうこう考えている内に、もう夜が明けようとしていた。
目的のネクタリンを栽培している農家まではあと少し。
ネクタリンを出来るだけ長く収穫するため、それぞれの農家に収穫までの工程の時期を少しずつずらしてもらっている。
そしてこの目的の農家が、一番最後に収穫する果樹園を担当していた。
そのため、もしかしたら粗悪品くらいなら余っているかもしれないと考えた。
出荷用に早めに収穫するので、今だと腐りかけの一歩手前くらいじゃなかろうかと推測する。
正直、自信はない。
けれど、愛する彼女のために、いや、こんな駄目婿に最後のチャンスを与えてくれた、心優しい義母にもう一度食べさせてあげたい。
俺は神に祈る様な気持ちで、走り続けた。