5.動揺
大変な事になった。
それはもう、大変な事になりました。
別れた筈の夫が突然訪問してきて、母に水をかけられ、うちでしばらく過ごすと言い出しました。
しかも知らなかったのは私だけで、マルクもカーラも、知らぬ間にクリスの滞在を許していたというではありませんか。
みんな、私達が別れている事を知っていますか?というぐらいに、気まずさも何もなく彼を迎え入れているこの状況に、私はかなり困惑している。
特に同じ当主同士のマルクは大変嬉しそうで、ずっとあなたの意見を聞きたかったのです、と毎日クリスを引っ張り回している。
そして何より一番困惑している事は、
『これ、マルクと視察に行った時に売っていたお菓子だ。美味しそうだったから買ってみた』
『君、この花が好きなんだってな。
カーラが教えてくれた』
『マリーがお茶の練習をしていると聞いた。
ぜひこれを使うと良い』
彼が毎日何かしらの贈り物をしてくる事だ。
今までそんな事、当たり前に一度もなかった。
他にもやけに話しかけてくるし、ちらちらと私を窺う様な視線を向けてきているのにも、私は気付いている。
すっかり人が変わってしまったあの人に、私は驚きを通り越してもはや恐怖を覚え、最近は避ける様になってしまった。
きっかけは知らないが、彼は今まで私にしてきた行いを、償いたいのだと思う。
そのために色々な贈り物を使って、私と何か接点を作ろうと躍起になっている気がする。
でも正直困る。
私はもう何年も前から、あなたとの事は諦めて、この道を進む事を選んだのだ。
私達はもう、終わったのだ。
(何よ、今更…!)
先程彼とばったり会ってしまい、いつもの様に贈り物を渡された、一番登場回数の多い小さな花束。
結婚していた時は知らなかったであろう、私の好きな花の種類がもちろん入っていて、私はそれを地面に叩きつけたくなった。
なぜ全てが終わった後にこんな事をしてくるのか。
あんなに私の事を避けていたくせに。
あんなに素っ気なかったくせに。
あなたの自己満足に付き合っている暇はない、そう何度も口から出そうになった。
なのに言えないのは、結局絆されそうになっている自分がいるから。
なんてずるい人なの。
私はもう、前に進みたいのに。
もうこれ以上、私の心を掻き乱さないで。
「…心ここに在らず、といった感じですね」
母の小さくなった背中を拭いていると、母がぽつりと言った。
母はあれから一層弱っていた。
ほぼ食事を食べず、ベットで横になったまま入室を許可する様になった。
「母様が、お食事を摂ってくださらないから…」
母は多分、というか絶対クリスの事が嫌いだ。
彼もあれから母の部屋に行かないし、母からも彼を気にする様な言葉を聞かない。
だから私も彼の話は避けていた。
「…はいはい、言ってなさい」
しかし、私の心はお見通しらしい。
本当は彼の事を考えているのだろう、とでも言いたげな返事に、私は口を噤んだ。
でも、何も食べなくなった母は本当に心配だ。
いつ儚くなってしまうのではないかと、気が気でない。
その時ふと、母がネクタリンを食べたい、と言っていた事を思い出した。
ただの私への当てつけだったのかもしれないが、本心からという可能性もある。
最後にもう一度食べる事が出来たら、喜んでくれるのではないか?
(“最後”、だなんて)
じわりと溢れてきそうな涙をぐっと堪える。
正直気が進まないが、当主の彼に聞いてみようと心に決めた。
母の部屋を後にし、通りがかったジルに聞くと、彼は自室に戻っているとの事。
ジルは私がリディア領に戻る事を熱望しており、それはそれは嬉しそうな顔をした。
聞く人を間違えたわ、と思いながら、そそくさと彼の部屋へ向かう。
多分、母と私以外は、彼との復縁を応援している。
じゃないと知り得ない情報を、私の事など何も知らなかった彼が知っている訳ないからだ。
どこか憂鬱な気持ちになりながら、彼の部屋の扉をノックする。
「クリス、ティアナです。折り入って相談が…」
どたどたと騒がしい足音と共に、言い終わらない内に扉が開いた。
こんな余裕のない彼は初めて見た。
「え、ええと…今、大丈夫ですか?」
「あ、ああ。すまない、まさか君から訪問してくれるとは思わなくて」
彼は私に入室を促したが、何となく部屋で二人きりになるのは嫌で、短いからここでいいと断った。
「その、母にネクタリンを食べさせてあげたいのです。まだもう少し元気だった頃に、何を食べたいか聞いたら、そう答えたので…」
「………そう、か」
そう言って、考え込む様な仕草を見せるクリス。
一抹の不安が過ぎる。
「もしかして、難しいのでしょうか」
「単刀直入に言うと、もうシーズンは終わってしまった」
よく考えたらネクタリンが出回るのは、秋の始め。
今はもう冬に入ろうかとしているので、出回っていないのは当たり前だった。
「すみません、知識不足でした
リディア領の名産品でしたのに…」
「別に気にする事はない。
そういったものは、私の役目だから」
そう言いながら彼は部屋に戻り、何やら身支度を始め出した。私は首を傾げる。
そしてある程度の防寒着に身を包むと、またこちらにやって来た。
「シーズンは終わってしまったが、一つ心当たりがある。マルクに馬を借りてくる」
「う、馬を借りてくるって、今から行く気ですか!?
もう夕方です!
リディア領まで行って帰ってくるのに、丸一日はかかるのですよ?」
「義母上のご容態が、かなり悪いと聞いている。
手紙や馬車なんか頼んでいたら、いつになるか分からない。私が直接行った方が話も早いし、もしあれば快く譲ってくれるだろう」
そして彼は私の話なんか一切聞く耳を持たず、すぐにマルクの所へ行ってしまった。
別にないならないで諦めようと思っていたのに、何だか大事になってしまったと一人おろつく。
夜道の早馬は危険だ。獣だって出てくるかもしれない。
しかも行った所で、あるかどうかも分からないのだ。
そんな不確定要素の多い事には、手を出さないイメージがあった。だから彼に相談したのに。
こんな姿を見せられたら、彼が私に信用してもらいたいという強い想いを、ひしひしと感じてしまう。
でももうこれ以上、私のために頑張るのはやめて欲しい。
帰って来たら、はっきり言おう。
ここまでされたって、私の心は変わりませんから、と。
自室に戻り、窓の外を見る。
馬に乗り、颯爽とこの屋敷を去って行く彼の姿が見えた。
私はその姿が見えなくなるまで、窓から離れなかった。