あなたの影、私の気持ち
駅のホーム、ベンチに座っている。
私、さっきから何をしているのだろう?
もうかれこれ一時間はここにこうして、ベンチに座って、あの人を待っているのだ。
自分に質問してみる。
『待っているの?それとも、私は一人で居たいだけなの?』
胸一杯に溢れて張ちきれそうな、狂おしいこの気持ちには温度がある。
とても静まらない。
『どうしたらいいのか、本当にわからないよ。』
また、あの人に会えたら聞いてみたい。
もしも今日会えたなら、私はどうしたって泣いてしまうだろうな。
声は声にならないだろうな。
でも、きっとあの人なら、私に一目会えば、今の私の素直な気持ちを話す事が出来そうなんだ。
全てわかってくれるかなんて分からないけど、きっと大丈夫。
あの時に二人で聴いてた曲を、私は毎日のように繰り返し聴いて、あの人との時間を忘れないように過ごしてきた。
楽しい時間が記憶から消えないように、何人もの私が重なる様に囲んで守っている。
今、あの人に触れた指先の感触を思い出してみる。
『時間が止まってしまえば良かったのに。』
私の中で私の声が騒つく。
『二人はずっと一緒に居たかったのでしょう?』
『もしかしたら、私だけがそう思っていたのかな?』
『ううん、違う。あなたは何時も私に笑いかけてくれたから、私は何時だって励まされて安心できた。』
『ずっと一緒に居て欲しかった。』
『私のことを、もっと強く抱きしめて欲しかった。』
『朝、目がが覚めて、睫毛が濡れているのを毎日の様に感じているの。』
『叫びたい気持ちは…だってそうでしょう?取っておくから早く此処に来て。』
Zzzzzx
携帯が光る。
応答の文字をスライドさせて無言で耳にあてる。
「ゆき?もう帰ってきてるの?お父さんが心配しているわよ。もう8時になるって、ねえ、今何処にいるの?」
母の声に、はっとして、
「あ、駅に今着いたの。電車が遅れていたみたいで。
ごめん、今すぐ帰るから。」
「そうなの?大変だったわね。」
「うん。」
「お夕飯、ゆきの好きなエビフライ作って待ってるから。じゃあ気をつけて帰ってきてね、ってパパが言ってるわよ。」
「うん、わかった。」
笑顔で携帯を鞄にしまいながら、ベンチから立ち上がった。
瞬間に真横によろめいた。
「…う、あぁ。」
側に居た、年配の男性に私は抱えられた。
「あなた、大丈夫?」
私はその場に倒れ込んだ。
目の前にあるもの全てが溶けて消えてゆく。
不思議と快楽を感じながら瞼を閉じた。
真っ暗になった。
「うん、今ね駅に着いたよ。残業断れなかったの。うん。え、牛乳?わかったコンビニで買って帰るよ。えー?スーパーのが安いって、そんな変わらないから、うん、はい。じゃね。はーい。」
足早に改札へのエスカレーターに乗った。
携帯の写メで自分をチラッと確認した。
『ちょっと明るくし過ぎたかな?』
前髪を撫でつけて自分で自分に睨みつけた。
首に垂れ下ったイヤフォンを耳に当てた。
『ん?今週のヒットソング集か、どれどれ…』
ふと、何かに引っ張られるようにして顔を上げた。
『え?』
スローモーションで、私は彼女の姿を捉えた。
ホームへ降りる方のエスカレーターに居た。
ゆっくりと、とてもゆっくりと唇が動く。
時間が止まるかと思うくらいにゆっくりだったから、生温い湿気が強い夕方の空気の中を深海魚になって泳いでいるかの様に感じた。
「栄ちゃん?」
声は電車の音にかき消されて、私はその場に置き去りにされた。
私は、折り返して栄の行く方のエスカレーターに乗った。
時計を見た。
18:45 。
ホームの電車は行ってしまった。
私は何も出来ずに、呆然と其処に立ち尽くした。
『栄ちゃん…。』
また次の電車がやってきて、降りる人の群れに押されて我に返った。
改札を出てコンビニに向かった。
「牛乳頼まれたんだっけ。」
私は幼少から極度の人見知りで、引っ込み思案な大人しい性格だった。
外出して人に会う事が苦手だから、近所に同じくらいの歳の子供など居たのかも記憶にないほどに、毎日家の中に居て本を読んだり絵を描いたりして過ごした。
一日中、部屋の中で過ごす為、外で走ったりする運動は大体苦手であった。
そんな私には兄弟がおらず一人っ子だったために、両親の愛情を一身に受け育った。
話し相手といえば、母かリカちゃん電話か、空想の中のお友達だった。
音楽好きな両親の影響で、レコードを聴いて過ごす事も多かった。
クラッシックや洋楽邦楽に加え、子供向け動揺や世界の昔話など数々のレコードが壁一面に揃っていた。
レコードで聞くイソップ童話やアンデルセン童話の世界を想像し、その世界に自分を住まわした。
物語を思い出して、一人でおままごと遊びを楽しむ日々であったから、現実の生活にはとんと無関心になっていた。
昼間から夢を見ているような、捉え所のない、子供のあどけなさが欠けた風変りな子供であったらしい。
幼稚園に入る歳になると、それはあからさまに現れた。
お友達がなかなか出来ずにいた私は、園内で飼っていたインコやうさぎ達と仲良くした。
動物の前では、私はお喋りだった。
『はい、ご飯ですよ。そら、今日もね、抱っこしましょうね。』
人と話しをすることが、すっかり苦手分野になった。
小学生に上がると当たり前に孤立した。
そして、当たり前に皆んなからイジメられる対象となった。
学校に行くことに恐怖を覚えたのは、三年生の頃からだっただろうか。
私はまたズル休みをする理由を考えて朝を迎えた。
「ママ、お腹いたい。」
「困ったわね、ゆきちゃん、今日は、お腹いたいから学校休みたいの?」
「うん。」
「昨日も頭が痛いって言ってお休みしたわよね?」
心配そうな母の顔を、私は上目使いで見つめ返して、
「お腹いたい。」
母は、今度は眉を潜めて困り顔になり、
「今日ね、ママ仕事休めないの。どうしようかな。じゃ、昼から帰って来れるか会社に電話してみようかな?」
私の頬を優しく撫でて、母は電話を片手に部屋を出て行った。
子供部屋のベッドの上で、私は兎のぬいぐるみに話しかけた。
「だって、学校行きたくないんだもん。わかるでしょ?たかしくんもけいこちゃんも意地悪なんだから、楽しくない。嫌なの。」
兎のぬいぐるみには、幾つも名前を付けていて、その時々に合わせて役を与えていた。
「ウサミちゃんは、私の親友だから、わかってくれるでしょ?ね。」
ガチャっとドアが開いて、にこやかな母が入ってきた。
「じゃ、ママね、お昼過ぎにはお家に帰って来れるように電話したからね。」
「ありがとう、ママ。」
「ゆき、学校お休みするのは今日で最後だからね。」
「…。」
「ほんと、お願いだから、ね。学校には今電話したから。風邪引きましたって、あ、ほんとにお熱は無い?」
母は私のオデコに手を当てて、一瞬真剣な表情をした。
直ぐに、また元の困った顔戻って、
「お熱はないみたいね。よかったわね。ねぇ、明日は学校行くのよ。きっとよ。ママ、そんなに休めないから、ごめんね。」
「ごめんなさい。」
パジャマの袖で涙を拭った。
欠伸で出るくらいのちょっとの涙で充分だった。
母は、私を抱き寄せて、髪を撫でた。
「ママも一人っ子だったからね、ちょっとわかるの。でも、早く仲の良いお友達を作ってほしい。」
「好きな子いない…。」
「学校はね、本当は楽しい所なのよ。ゆきなら、たくさんお友達出来るから。」
玄関のドアに鍵をかける音を確認してから、私はベッドから起きだして、本棚の横にあるガラス扉を開けて、レコードを一枚選んだ。
出張の多い父と、昼間はパートの母、一人っ子の私に専用のレコードプレーヤーを買ってくれたのは昨年の誕生日だった。
長靴を履いた猫
ベッドの横にある、薄いピンク色の傘を被ったスタンドの横に、小さく輝くクリスタルガラスで出来た猫の置物は、父が仕事で行ったイタリアからのお土産だ。
「いつか、貴方も後ろ足で立ち上がって話しだすわ。そうしたら、私のキツくなった長靴をあげるからね、いいでしょう?」
小窓を開けたら、気持ちの良い風が吹き込んできた。
カーテンが荒波のようにバタバタと揺れた。
「わ、風さん、今日は元気すぎますよ。」
慌てて窓を閉めた私の髪はボサボサだ。
気にも止めずに、頬杖をついてレコードを聴いていた。
この物語はお気に入りで何度も聴いていたから、暗唱出来るほどだった。
「心配いりません。まず私に、長靴と袋を用意してください。あなたがもらったものがそんなに悪いものでないことが近いうちにわかります。」
ベッドに大の字に仰向けになった。
『ママが私に学校を休んで欲しくないと言うのは、自分が仕事を休みたくないからなのかな?』
『友達が出来ない私を心配して、それでも学校に行って欲しいのかな?』
「ねぇ、ウサミちゃんは、どう思う?」
片耳が垂れた薄ピンク色のぬいぐるみは、何時でも優しく笑いかけてくれる。
「そうだよね、ウサミちゃんが一番好きな友達だよ。ねえ。」
車の止まる音が聞こえたから、もうママが帰って来たのかと思って窓の下を覗いた。
車庫には、車は無い。
『あれ?』
と思っていると、お隣に一人で暮らすお爺さんが、玄関の前に立っているのに気づいた。
見知らぬ黒い車が止まっていて、人が降りてきた。大人が二人、子供が一人。
『男の子…。』
髪を短く切って襟付きシャツにショートパンツ、白いスニーカーを履き、青色のリュックを背負っていた。
三人は、お爺さんの家に入って行った。
暫く私はベッドの上に座って、窓からお隣の家を眺めていた。
すると、いつも開いたことが無い二階の窓がバタンと音を立てて開いた。
さっきの男の子がそこにいた。
睨みつけるような視線で私と目があったから、びっくりして素早くベッドにしゃがみ込んだ。
ウサミちゃんを抱き抱えて、薄眼を開けて、またお隣さんの窓を見た。
まだ、あの子はそこにいた。
良く見ると、睨みつけているのでは無かった。
太陽の光が眩しいのか、今度は両手をオデコにかざして大きな目を見開き、大声を出した。
「おーい。」
私は、恐る恐る窓を開けた。
ウサミちゃんは、脇に抱えてあの子から見えないように隠した。
まだ、時折強い風が吹いていた。
長い髪が口に入ってきたから、私は舌を出してぺっぺっと言いながら髪を払った。
「あはははっ、邪魔な長い髪だ。」
と、あの子は笑って私に向かって舌を出した。
「べーっだ。」
心臓が口から飛び出してしまうかと思うほど驚いた。
男の子と思っていたあの子は、たしかに女の子だったのだ。
後編です。
刹那です。