Episode0 alea iacta est
――賽は投げられた。
盤上に駒は揃った。
物語に呪われた少女たち。
幻想の遊戯が今幕を開けようとしている。
それは蕾。
それは鏡。
それは月。
それは炎。
それは星。
それは歌。
それは夢。
あるいは、罰。
色とりどりの物語は、ひとつの真実に向けて収斂する。
これは、少女たちが真実を目指す御伽噺。
「やあ、首尾はどうだい」
「白々しいわね。どうせ見つからないって知っているんじゃないの」
御伽噺の北方に位置する黄昏の森。
月と太陽が正常に回らないこの世界には珍しいことではないのだが、常に夕暮れの色が葉を染め上げている。
梢を縁取る影は木漏れ日の輪郭を地面へと投げ落としていた。
ゆるく吹き付ける風は気まぐれに木々を揺らし、ざわざわとした音が静かに散っては消えてゆく。
軽薄な声色で少女に話しかけたのは、細身の人物。
清潔そうな白いワイシャツを黒いスラックスと燕尾服で包み、頭部に飾るシルクハットには目立つ兎耳と薔薇のコサージュがあしわらわれている。
銀糸の髪を靡かせて少女の隣へと降り立ったが、果たしてどこから湧いて出てきたのかは定かでない。
モノトーンの色彩の中、紅玉のような瞳と薔薇がただ紅く、森のそれとはまた異色な鮮やかさを持っていた。
「そうつれないことを言わないでよ。僕だって君を助ける義務があるんだから。ね? 親愛なるハリエット」
「白々しさもここまでくるといっそあっぱれね? 義務だなんておまえの口から出てくるとは思わなかったわ。おまえのほうこそ首尾はどうなの? 義務があるんでしょう、ハクト。ならわたしに関わっていないでその義務とやらを果たしたらいい。わたし以外のね」
ハリエット、と呼ばれた少女は兎を睨みつけた――ように思えるが、その双眸は目枷に覆われていた。
深碧を基調としたドレスに身を包んでいるものの、それに似つかわしくない目枷と棘の付いた首輪は強烈な違和感を放っている。
澄んだ高い夜空のような髪はさらりと背中へと流れており、後頭部にはワインレッドのリボンを結んでいた。
そしてなにより彼女の特徴は、頭頂部からぴんと伸びた1対の犬のような耳。
凛とした声ははっきりとした嫌悪を滲ませて、非常に冷たい響きとなって空気に溶ける。
兎をハクト、と呼びつつも刺々しい言葉を投げかけると、これ以上の会話を拒絶するかのように無視して奥へ進もうとした。
「待って、待ってくれよ。なにも僕だって無意味にキミに声をかけたわけじゃない。伝えたいことがあるんだ」
「ああそう。ならとっとと要件を済ませてここから消えてちょうだい。おまえの声はとても不快なの」
ハクトは慌ててハリエットを追いかけ、早足で進む彼女と歩調を合わせていく。
小柄なハリエットの足であれば、並ぶのはさほど難しいことではない。
明らかに人の足ではない、獣の足で踏み慣らされた細い道を歩きながら、二人は会話を続けた。
紅の森に朝も昼も夜もない。
あるのはただ夕焼けだけだった。
ハクトから視線を逸らしたハリエットの顔に夕影が落ちる。
「揃ったんだ。駒が」
「ふうん」
「キミを入れるなら11。僕を入れるなら12」
「随分半端なのね。あと、おまえは絶対に駒に入らないでしょう。そしてきっとわたしも入らない、入れないのね」
ハリエットが嘆息を漏らす。
そこには少なからず落胆の色が含まれているように思えて、ハクトは目を細めると喉の奥でくつくつと笑った。
彼女の顔を覗き込むように上体をかがめ、わざとらしいほど明るい声色を投げかける。
「そう落ち込まないで? この世界に喚ばれたのなら『資格』はあるということ。惜しむらくは、キミが半分しかないことくらいか」
「落ち込んでなんかいないわ。勝手に決めつけるのはやめて。おまえのそういうところが不快だと常々言っているでしょう」
「手厳しいね。……少なくとも僕よりは素質があると思うけど。主人公が太陽なら僕は月。あくまで添え物、脇役だと最初から解っているし? 僕と比べたらハリエット、キミは全然『太陽っぽい』よ」
その言葉を受けて、ハリエットは少しだけ顔をハクトに向けかける。
が、結局はっきりとした返答がその唇から放たれることはなかった。
再び顔を背ければ、代わりに出てきたのは悪態に近い暴言。
「……よくもまあそんな口から出まかせがぺらぺらと出てくるものね。励ましを装った罵倒を続けるのならおまえのことも喰い殺す」
「物騒だなあ、談笑を楽しむ余裕もないのかい? 僕は鬼ごっこでも隠れんぼでも、君が望むのであればなんにだって付き合ってあげるつもりだっていうのに」
ハクトの声に、僅かながらの侮蔑が滲み始める。
それはハリエットのどこか思いつめた部分を軽んじるものであった。
あくまで自分はキミを助けてあげるつもりなのだという大前提で喋りつつも、その本質が配慮や心配といったものから程遠いのは火を見るより明らかなもの。
余裕ぶった態度でからかうハクトに、ハリエットは嫌悪感をさらに強く露わにした。
「おまえに気を許したつもりはないし今後許すつもりもない。あまりにも馴れ馴れしいと本当に殺すわよ」
「ふふ、可愛らしいね。そんなことできっこないって解っているくせに強がっちゃって」
その言葉を受けてハリエットの歩調が遅くなり、やがて立ち止まる。
夕焼けの木々が風を受けてざわめくのと同時に、しかしそれにかき消されることなくはっきりとした声で、研ぎ澄ませたナイフのような冷たい言葉を投げつけた。
「……殺すわよ? 本当に」
剣呑な宣言を受けても、ハクトの軽率な笑みが崩れることはない。
むしろ唇は弓形を描き、上がった口角を隠そうと手を遣るくらいであった。
冗談めいて跳ねる声は、余裕と自信の表れのようで。
「どうぞどうぞご自由に? そうなるとボクとしてもキミに好意的でいられなくなっちゃうけどそれでもよろしいのでしたら」
「まるで自分からの好意に価値があるような言い方をしないで。不愉快だわ、とても」
はあ、とため息をついてハリエットは再び歩みを進め始めた。
地面に転がる枯れ枝がぽきぽきと軽快な音を立ててハリエットとハクトの歩調を示すが、それを遮るように目の前にのっそりと黒い影の塊のようなものが音もなく現れる。
――魔女。
御伽噺において、主人公たちの存在を害そうとする謎の存在。
どろどろとした黒いヘドロのようなものに無数の目が付いた、スライム状の魔女だった。
汚れた軌跡を地面の枯れ葉に残しながら、ハリエット達に気付いたのか小さな唸りを上げ始める。
低級のものらしく、知的な行動を取る気配はない。
「邪魔ね」
ぽつりと、感情の載らない声でそれだけ呟くと、ハリエットは右腕を魔女へと向けた。
次の瞬間、ハリエットの右腕が弾ける。
地を蹴って跳躍し、距離を詰めるとそれを魔女へと振り下ろした。
刹那、巨大化し、堅牢で鋭い爪を携えたハリエットの右腕は、一瞬にして魔女を切り刻む。
形容しがたい断末魔を上げながら、魔女は泥のように弾け、霧のように空気と混じって消えた。
ぱちぱちぱち、と乾いたハンドクラップが響く。
にっこりと笑みを浮かべたハクトが賞賛の意図か拍手をしていた。
「うーん、相変わらず強い。キミの能力は貴重だ。なにせ魔女を喰えるなんて、この御伽噺を守るに相応しすぎる」
「……結果的にそうなっているだけで、守るつもりはないわよ」
右腕を元の大きさに戻したハリエットは、汚れたものを触ったとでも言いたげに数度右手を振った。
魔女を喰える、というハクトの言葉は否定しない。
実際、ハリエットの右手にかかれば大抵の魔女は喰える。
「結果的にそうならキミはちゃんと役割を果たしていると言えるんじゃない? そこは胸を張っていい」
「わたしからすればおまえも魔女も大差ない。あまりにも目障りならいつでも殺してやるから。いい? わたしの物語にはおまえを殺すというエピソードがあること、ゆめゆめ忘れるんじゃないわよ」
徹頭徹尾、ハリエットはハクトに対して冷たかった。
嫌悪、忌避、拒絶、それらを隠しもせずにハクトに対してぶつけ続けている。
ハクトの言葉が彼女の忌諱に触れたとしても、ここまでの殺意には説明がつかないだろう。
それにハリエットはひたすら『殺す』を連呼しているが、ハクトに対してはっきりと攻撃する行動を示してはいない。
そのせいか、ハクトは彼女の鋭い態度に不快感は示さなかった。
まるで子どもが強がって虚勢を張っているのを適当にあしらうかのごとく、ハリエットからの殺意を本気にしていない。
殺すと言われても絶対にハリエットが自分を殺すことはないのだと確信しているかのように。
ぽつり、と。
頬に冷たいものが落ちる。
視線を空に向ければ、色濃い影が落ちた雲が天を覆っていた。
ほどなくしてそれは無数の雨粒となって2人へと降り注ぐ。
「通り雨だ。どこかで雨宿りをしないと風邪を引いてしまう。『箱庭』を出すから、ハリエット、キミも……」
「神経を逆なでするセンスもここまでくると見上げたものね。断るわ。とっとと目の前から消えなさい。箱庭にでもなんでも、一人で勝手に閉じこもっていればいい」
それだけ言い放ち、ハリエットは雨を意に介すこともなく森の奥へと歩みを進めていった。
ハクトはやれやれと肩を竦める。
「ま、伝えることは伝えたしね。さて、あとは僕も他の主人公に挨拶しておかないと」
虚空から金色のステッキを取り出し、軽く降るとハクトの姿は搔き消える。
『箱庭』に消えたハクトを捕捉するすべはない。
森の奥へ消えたハリエットを追う者ももういない。
静かに濡れた世界に、時計の針は始まりと終わりの12時を示す。
――賽は投げられた。
もう、止まれない。