姉弟
元々はしがないアラサーで、OLだった。
毎日怒られて、貶されて、それでも頑張れば報われるんだと信じて。何も変わらなかったかもしれないけれど、でも、同僚は労ってくれるようになったし、少しだけ生きやすくなった。
息が詰まるような世界で、私はストレスを発散しようとゲームにのめり込んでいった。社畜、ブラック勤務、そんな風に言って辞められていたら良かったのに。
世間はそんなに甘くなくて。
薄給の私にはそんな事すら出来なくて。
気が付いたら、トラックの前に飛び出した子どもを助けようとして、跳ねられていた。昔から何だかんだ言って子どもが好きだったから、守りたい一心だっただけ。
目の前が暗転しながら、痛みと睡魔に襲われて、私の意識は消えた。
そうして目が覚めたら、乙女ゲームの世界だったけれど。
「ああ、もう! 勘弁してちょうだい! エリック! わざわざ薔薇園まで来て、私を追い回すのは止めてったら!」
そう言って目の前のプラチナブロンドの少年を睨む。
「だ、だけど……姉様…………」
「いいえ、言い訳は聞かないわ。婦女子の事を追い回してはいけないと、お母様にも散々言われたのを覚えているでしょう?」
この泣きそうな顔のプラチナブロンドの少年こそが、エリック・フランソワ・ド・ユージェニー。ユージェニー侯爵家次期当主にして、リリアンヌの弟という訳だ。
まだまだ甘ったれた性格ではあるし、エリックは勉強も稽古も嫌い。だけど、このままではいけない。ユージェニー侯爵家を継ぐのなら、それに相応しい人間にならないと。あと、一応は君恋では攻略対象なのだし。こんな甘ったれた人間が攻略対象なんて私なら嫌だもの。せめて真っ当に育ってもらわなくちゃ。
本当なら、甘ったれた人間の方が操りやすいのだろうけど、生憎と私はそこまで優しくはない。こんなにもかわいい弟が操り人形になる様を間近で見るだけ、なんて真っ平御免だ。
エリックルートはある意味、君恋のバッドエンドとも言えるルート。甘ったれたエリックに母性を擽られて攻略した人も多いけれど、ハッピーエンドにはならなかった。国の中枢を担う立場になったエリックは、最後は主人公の為だけに上奏してしまっていたのだもの。そうなれば、勿論行き着く先は断頭台。
エリックにはそんなの、絶対させないんだから。
閑話休題。
かわいいエリックは泣きそうな顔で、先程からずっと私に謝ってばかりいる。だけど、私はそれを聞き入れない。聞き入れただけでは何も変わらないもの。
「姉様、ゆるしてください……! ぼく、ぼく……」
「あのね、エリック。あなたはユージェニー侯爵家次期当主なのよ、いつまでも子どもだからと甘ったれたままではいけないわ。ダメなものはダメ、やってはいけない事は、一度やってしまえば決して許されはしないの。婦女子を追い回してはいけないのは、あなたが男の人で、侯爵家という大変な地位にあるからこそよ」
まだ8歳、されど8歳。エリックだっていずれは社交界に出る身、ならば今からでも遅くはない。紳士の振る舞い、騎士の行い、そうしたものを身に付けさせて、お父様のように清廉なる人物に育ってもらわなくちゃ。破滅する未来なんて、絶対に嫌だ。それに、これはきっと、私が断罪イベントまでに出来る事だ。ゲームの中のリリアンヌには味方なんていなかったけど、リリアンヌとなったからには味方を増やしておきたい。だって、頑張ればいつかはきっと報われるんだもの。
やっぱり、エリックにはもっと厳しい家庭教師を付けてもらうべきね。来るべき断罪イベントに備えて、そして、エリック自身が破滅する未来を避けるためにも。
そんな私を、お父様が書斎から面白そうに見ているとは夢にも思わなかったけれど。
あの後、エリックはしばらく呆然としていた。それも無理もない。侯爵家次期当主とは言うものの、エリックはまだ8歳の子どもなんだもの。厳しく言い過ぎたかもしれないけれど、破滅する未来なんて御免こうむりたいもの。
エリックを近くにいたメイド達に任せた私は、お父様の書斎まで来ていた。理由は簡単。エリックの家庭教師を変えてもらうため。私は、いつか来る断罪イベントまでにできる事を精一杯こなすと決めたから。味方のいない断罪イベントなんて、何よりも私が耐えられない。だって、それってただの集団リンチじゃない。貴族の癖に集団リンチって、悪趣味だとは思わないのかしら。いや、思わないわよね。10代の頃って、洗脳されてたって気付かないんだから。そんなものよね。
今現在、一つ問題があるとすれば、エストリア帝国宰相という立場にあるお父様とは、ほとんど顔を会わせた事がないという点のみ。宰相として忙しくされているのだ、当然の事だった。だからこそ、お父様が書斎にいるというのは珍しい。いつもなら王城で執務をこなされているらしいのだもの。
コンコンコン、とノックをする。
「お父様、リリアンヌです」
「……入りなさい」
ああ、良かった。門前払いはされずに済みそうね。
「失礼します」
重たい扉を開けた先には、本や書類が慌ただしく行き交っていた。あっちの棚から、こっちの棚へ。お父様が判を押せば次の書類がやってきて、お父様が書類に何かを書けば瞬時に魔法でどこかへ──きっと王城だろうけど確信は持てないわね──と転送されていく。魔法で動いているのは分かったけれど、私は実際に見たのは初めてだった。
ああ…………本当に、ここは君恋の世界なんだわ。
思わずその光景に圧倒されていると、怪訝そうな顔をされた。
「…………何か、用があったのではないのかね、リリアンヌ」
「あ……す、すみません。つい……」
お父様の持つあまりの迫力に気圧され、縮こまってしまう。眉間に深く刻まれた皺に、厳しい表情を浮かべたまま私を見ている。まさか値踏みされているのだろうか。ユージェニー侯爵家の娘に相応しいか、否かを。
「今日は、お父様にお願いがあって参りました」
「願い、だと?」
ピクリ、とお父様の眉尻が動く。
「お前の誕生日はまだ先だろう。宝石もドレスも、この間新調したと聞いている」
「いいえ、今回のお願いはそういったものとは違いますわ」
「ほう?」
「エリックの家庭教師を、変えていただきたいのです」
ぎらりとお父様の双眸が煌めく。
「なぜだ?」
「エリックは、今のままではきっと甘ったれたまま育ってしまいますわ。それはユージェニー侯爵家次期当主としてあるまじき失態であり、ユージェニー侯爵家にとっては恥ずべき痴態にございます」
見定めるような視線を真っ向から受け止める。宰相としての威圧感もあって怖いけれど、それは私の言がエリックの教育、ひいてはユージェニー家の沽券そのものに関わる事だから。怒鳴られている訳ではないから大丈夫。ええ、大丈夫よ。
だって、これは私が私にできる事の最初の一歩だもの。
「今のままでは、ユージェニー家は勿論、エストリア帝国に相応しい人材とはなれないと思います。ですので、今と同じか、それ以上の知識を持ち、もっと厳しく指導を行える方を家庭教師に据えていただきたいのです」
返ってきたのは、沈黙。あまりにも重苦しいそれに、私は息が詰まりそうな錯覚すら覚える。
「…………なるほど、よく分かった。そうしよう。下らない戯れ言であれば一蹴していたが、お前はエリックをよく見ているようだな。そのまま審美眼を磨け、いずれお前に必要になる時が来る」
「! あ、ありがとうございます……!」
ああ、本当に良かった。これできっと、あの甘ったれたエリックも成長できるんじゃないかしら。
断罪イベントまでにできる精一杯、まずは一歩。小さくも大きなこれは、確かに私は踏み出せたんだと思わせてくれた。