たすけてほしい
夜の帳が降り切って、収容施設が眠りに包まれた頃。
僕は周囲に気づかれないよう、部屋を後にした。
そしてそのままゆっくりと移動する。
息を潜めて、足音を殺す。
狙いは厨房の包丁。
その包丁でもってあの少女をーーめった刺しにする腹づもりだった。
☆
彼女は一つだけ思い違いをしていた。
確かに1万人の中に凶悪犯なんて紛れ込むケースの方が稀なのかもしれない。
そして1万人の中に凶悪犯がいない場合は、確率的に100人の無実の人間が、凶悪犯のレッテルを貼られてここへ収容されることになる。
そこは正しい。
間違ってはいない。
けれどもし、1万人の中に凶悪犯が1人でも混ざっていたとしたら?
ーーその凶悪犯はやはり、99%の確率でこの収容施設に収容されることになるのだ。
そう考えるとこの施設で凶悪犯と出くわす可能性は非常に高いといえるわけでーー彼女からすれば、例えば"この俺が凶悪犯"である可能性を危惧してしかるべきといえる。
しかし彼女はその危険性に気付く素ぶりすら見せなかった。
ましてや僕がその"凶悪犯"であるとは夢にも思っていないようだった
さっき彼女が語っていた数字のマジックとは違って、少し考えれば誰にでも分かる理屈なのに。
何故利発な彼女が凶悪犯の僕に対しああも無防備だったのか、何故僕が凶悪犯である可能性を歯牙にもかけなかったのか、理由は明白だ。
自分の身近に悪人などいるはずがないという思い込み、見るもの全てを善良な者として受容する瞳、人は人を傷付けて悦を得ることをまだ知らぬ五体ーー少女が聡明であればあるほどに、彼女の"人の良さ"が浮き彫りになる。
少女はあまりに無垢で、純真で、穢れを知らなかったのだ。
その明瞭な思考回路を鈍らせてしまうほどに。
そんないたいけな少女をーーこれから僕は滅多刺しにする。
しかも彼女自身が僕に教えた厨房の包丁によって、である。
つまり少女は"自分の善良さ"に全身を串刺しにされ、喘ぎ、苦しみ、絶望の果てに殺されることになるーー理不尽極まりない死の在り方だ。
僕はこの世の不条理さに、ある種の怒りと興奮を覚え、笑みを顔に貼り付けた。
ああ、もう我慢できない。
急がないとーー
ようやく厨房に辿りついた。
そこでふと違和感を覚える。
夜中だというのに電気がついている。
いったい誰が、どんな理由で、こんな時間に厨房にいるんだ……?
僕は不審に思い、ゆっくりと顔を覗かせるとーー"いた"
「ふぇっ!?」
そこには、中腰で厨房の包丁へと手を伸ばす、怪しい男が立っていた。
……あっ、よく見ると昼間共用スペースにいた一人じゃん、こいつ
「……」
「ち、違うんだ! 『お腹がすいたなー』と思って、厨房にふらっと立ち寄ったら包丁があったもんだから『料理しようかなー』って感じに包丁をとろうとしただけなんだ! 絶対……ぜーったいにここにいるやつ皆殺しにしてやろうなんて考えてないぞ!」
「……」
語るに落ちるとはこのことだった。
「ぐおっ!」
背後から大きな音がしたので振り返ってみると。
青バケツ型のゴミ箱にすっぽりハマった男が転がっていた。
抜けないらしい。
「え、えっと……違うんだ! 俺はただゴミ箱のバナナが食いたくてゴミ箱に隠れてただけで……決して隙を見て包丁を奪ってやろうなんて考えてないからな!」
ズンガラガッシャーンッッ!!
天井から人が落ちてきた。
ビビる。
「ち、違。俺はただスパイごっこがしたくてーー」
ズコーッ!!
「だ、誰だよこんなところにバナナの皮おいたやつ!せっかく後少しでーー」
バーーンッ!ガチャーーンッ!バキーーッ!ズドドドーーーンッ!!グチャッ!!ズギャギャギャッーー!!グニューンッ!!ズドド(以下略
音が鳴るたび友達増えるね!
「「「「………………………………」」」」
……気がつくと、厨房周辺には99人の収容者が勢揃いしていた。"彼女を除く"全員が包丁求めてここへやって来たらしい。
……訂正させてもらおう。
さっき彼女は一つだけ思い違いをしていると言ったが、正確には二つだった。
確かに確率的にはこの収容所に収納されている犯罪者の数は0なのかもしれない。
けれど確率の話である以上、例えば当初俺が考えていた通り、実際に凶悪犯の数が99人である可能性も、極めて低いもののありうる訳だ。
そして極めて低いとはいえ、可能性がほんのわずかにでもあるのならーー"起こってしまうのが現実"だ。
……最後に、一言だけ言わせて欲しい。
「……確率なんてあてにならねぇ」
★
『昨日深夜。X県A区の収容施設で収容者同士が殺傷し合う事件が発生しました。収容されていたのは100人で、内99人が死亡したとの情報が入っております。警察は原因究明を急ぐとともにーー』
二日後。
テレビに映るニュース番組をつまらなそうに眺める少女の姿があった。
そんな少女に、一人の老人が近づいていき、声をかけた。
「お嬢様、ご無事で何より。犯罪者の巣窟に出向かれると申されたときには何事かと思いましたが……ひとまず安心しました。以後お戯れもほどほどにお願いいたします」
「うーん」
「どうかしましたかお嬢様?」
「いやね、たしかに極めて低い確率でも可能性があるのなら起こり得るわよ? そういう考え方も大事よ?」
「は、はぁ……」
じぃは何を言っているのか分からないといった風に首を傾げたが、少女は構わず続ける
「だけどね、あんまりにも不自然に結果が偏っていたのなら、"仕組まれてる"ことを疑ってみるのも手だから、覚えておいてね?」
彼女はいたずらっぽく笑ってそう締めくくった。