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諸葛孔明物語~「偽史三国志」  作者: 珍寿
青年諸葛孔明物語
8/29

江東謀略戦

「おぉおぉぉおぉぉぉおぉぉぉぉ~!美しひぃぃ…美しいぃ~ではないかぁ~孔明ぇぇぇ~!」


男は、恍惚とした表情を浮かべ、感動に震える声でそう嘆じた。


「くふふっ、お気に召されたようで何よりです」


私は今、監視役の陳到とともに、江東でも一番の名将と名高い周都督の幕舎を訪れている。

曹公との決戦を間近に控え、これに勝つ作戦を相談するためだ。


当初、持久策を押す周都督は曹公との決戦を渋り、私の言葉に耳をかたむけようとすらしなかったが、劉備から預かってきた贈物を披露すると、この有様となった。


「流石は荊州中から選りすぐっただけの事はあるぅ~この子もぉ~!この子もぉ~!ふおおぉ~!?これはまた何とも美麗な()の子やぁん!」



徐々に鼻息を荒らくさせ、肥えた出っ腹で円を描く様に揺さぶり、手に持つ羽扇を羽ばたくように上下させながら、まるで舞っているかのように喜びを表現する周都督の目の前には、極薄の絹で織られた衣を身に纏った五十体の年少者達がいる。通常なら、怯えたり泣いたりする筈が、皆、無表情・無感動で、ただその光の灯っていない瞳で虚空をみつめている。それらは整然とした顔貌も相まって、人形のように美しかった。

そう、この子達はいずれも長阪の戦いの前に劉備が選別し確保していた流民の子供達だ。


親兄弟を失い心を狂わしても、猶、その美貌を劉備に利用された哀れな少年少女たちは、今、新たな主に物として贈られることになるのだ。

この子達を救おうと決意した私が、まさか、この子達を道具として利用する側に立つとは、何とも皮肉な話だが、劉備の下で地獄を味わうよりは、周提督の下で芸術品としてその短い命を散らした方がまだ救いがあると断腸の思いで割り切った。この無念、おそらく誰も理解してはくれぬだろう…


それはさておき、今もまだ我らの贈り物に関心を示している目の前の周都督であるが、この人は決して愚劣な男ではない。加齢に加え豪勢な食生活を送っている為、今でこそ弛んだ体型をしているが、眉目秀麗で文武両道、若かりし頃は美周郎とあだ名され、まさに才色兼備を地で行った男だ。殊に美に対する拘りには凄まじいものがあり、自分自身だけでなくその要求は他者、果ては自分を取り巻く環境にまで及ぶ。宴席であるにもかかわらず楽士が少し音を間違えただけで振り向いたとは、その執念ぶりを表す有名な話だ。


暫くすると「ふーん、ふーん」という荒い鼻息が急に聞こえなくなった。


「それにしても孔明ぇ~。此度の戦〜、決戦するとして~…貴様はどのようにして勝つつもりや?」


それまでの、贈物への関心が嘘のように、周都督が不意にそう投げかけてきた。不意とは言っても、こちらとしては周都督の趣味に関心はなく、本題に入ることを待ちわびていたので、特に動揺はしていない。


「おそらくは、周都督と同じ考えであると思いますが…」


「ほぉ〜、貴様にも美がわかるか〜?」


こちらを覗き込むように周都督は顔を近づけてきた。

口臭とともに香の甘い匂いが漂う。

私は不快感から一歩後ろに下がり距離を置いた。


「はい、わかりますとも」


大量殺人の手段に美さを求める快楽犯の感覚など、到底理解出来る筈もないが、それでも、私は満面の笑みでそう答えた。


「ふぅふぅふぅっ、それならええわ!」


そう言うと、周都督は私と目線を合わせたまま、強く手拍子を打った。

すると、何故か上半身裸の屈強なる男達が幕舎の奥から続々と湧いて出て来た。幕内の温度と湿度は急激に上昇し、()せ返るような汗の臭いが充満する。男達の人数は凡そ五十有余…最後尾の八人は巨大な巻物を肩に担ぐようにして運び込んで来ていた。


「ふぉおう!」


周都督が怪鳥のような奇声を上げると、それを合図に上半身裸の屈強なる男達が八人がかりでその大きな巻物を広げていく。銅鑼がけたたましく打ち鳴らされ、巻物を担いでいない残りの上半身裸の屈強なる男達は、私の面前で自らの筋肉美を誇示するかのような姿勢を次々とキメている。


「「覇っ!!」」


巻物が全て広げられると、一際強烈に銅鑼が打たれ、上半身裸の屈強なる男達が一斉に吼えた。


一瞬で幕内が静まり返った。


五十有余の上半身裸の屈強なる男たちは、股を割り胸の前に掌底を合わせた両手を突き出すという姿勢を、唯の一人も狂わすことなく決めている。

その背後では広げられた巻物が紐に吊され高々と掲げられる。


これまでの見事な演出にも感動したが、私はそれを見上げ刮目することとなる。


そこには朱墨によって、流れるような、それでいて起点や払いに力強さを感じる字体で「火」と大書されていた。


初め、曹操との決戦を渋ったのも、結局は我々から贈答品を強請りとる為だったということか…やはり、この御方は食えない…

幕内は、依然として静まり返っているのものの、私の心の奥底ではメラメラと込み上げてくるものがあった。


視線を巻物から下げると、そこには目を細めうすら笑い、いかにも得意満面といった表情の周都督がいた。


しかし、それはすぐに困惑に、そして驚きの表情へと移り変わっていく。


何故なら、私がしたり顔で後ろで組んでいた右手を周都督の顔面に向けて勢いよく突き出し、握り拳をゆっくりと開いてその手のひらを見せたからだ。

当然、そこには事前に私が書いていた「火」の文字がある。


「んふふ、ふははははははは」


「ふぉ、ふぉ、ふぉ、ふぉ!ふぉぉぉぉ〜!!」


お互い顔を見合わせて大いに笑った。

その後、細かい段取りを周都督とその参謀の黄蓋を交えて取り決め、私は周都督の幕舎を出た。




外に出ると陽はとうに暮れていて、月も出ていない闇夜だった。

正午より前には中に入ったというのに予想以上に遅くなってしまった事に疲れを覚えつつ、子供達が心配するといけないので、私は陳到に灯りを持たせて帰路を急いだ。


「つけられている…」


周都督の陣営を出て帰路も半ばまで来た所で、それまで終始無言だった陳到が突然そう耳打ちしてきた。


「それがどうしたというのです?…ここが江東である以上、我々は常に見張られています。結局、貴殿が居ようが居まいが、私が自由に動くことなど出来はしない…」


私は、当然に察知していたので嫌味を交えて平然と返すと、陳到は「そうか…」とだけ呟き、また寡黙の人となった。


夜道に再び静寂が戻り、私は思考に入る。

周都督との作戦会議で曹公を北へ返す策は立てた。劉備への献策で、江東の勢力拡大を抑制する策も成功するだろう。後は、劉備を、奴を止める策を施すことが出来れば、海内に平和を取り戻すことができるはずだ。


ここで視線を横に歩いている男に向ける。


もしこの先、奴の野望を阻止するためには、やはり、この男は邪魔になる。懐柔するか排除するかは今の内から判断しておかなければならない。


《少し揺さぶりをかけてみるか…》


決した私は進行方向より顔だけ陳到に向けて話しかける。


「陳叔至殿…劉将軍のもとへ帰られては如何かな?」


「…それは出来ない…」


陳到は進行方向を向いたまま此方を一瞥しただけで、私の提案を一顧だにする様子もなく拒否した。しかし、私は口を休めず追撃をしかける。


「任務だから?それとも貴殿には帰る場所が無いからかな?」


「!?」


最初、私が何を言ったのか理解できなかったのだろう。これまで平静を装っていた陳到に初めて困惑の色が見えた。仮面から覗く瞬きの回数は徐々に増え、歩調にも僅かな乱れを生じさせており、まさに仮面で顔を覆うことで心に隙を作ってしまっている人間の典型的な反応だ。

しかし、これは仕方ないこと…所詮この男は武人だ。腹の探りあいは不得手であろうし、はじめからそれに期待はしていない。重要なのは、その将才を私の下で、存分に発揮してくれるかどうかなのだ。

それを確かめる為に、私はいよいよこの男の持つ不満の核心を突く。


「趙子龍…」


「!!」


その名を上げた途端、陳到の口元が強く結ばれた。


「近年、劉将軍の親衛隊長に任じられ大変な重用を受けていると聞きます……何でも、将軍は趙子龍との関係を水と魚の交わりとまで喩えているとか…」


「…」


反応はない。だが先程とは違い明らかに動揺している。何故分かるかといえば、歩むこと以外の動作が見られないからだ。目は瞬きすることなく開かれたまま。鼻腔は膨らんだまま。口は(つぐ)んで動く事が無い。

僅か十秒に満たない時間だが、それでこの男が必死に感情を押し殺そうとしている事は十分に察する事が出来た。


「劉将軍が旗揚げされて以来、ずっと劉将軍の近くに侍ってお守りしてきた貴殿にとって、面白い話ではない…違いませんか?」


「軍師殿、戯れは止めていただきたい。我はただ与えられた任務を忠実にこなす事のみを誇りとしている。新参者が重用されようとも、我には関係の無い事だ」


言葉では否定しているが、わざわざ趙子龍を「新参者」と言い換えるあたり、趙子龍に対して少なからぬ悪感情を抱いている様子。延いては劉備に対してもその忠誠は揺らいでいるに違いない。ならば、私は劉備との決着を付けるべくその揺らぎに乗じさせてもらうまでだ。


ここで、初めて私は背後を振り返った。追跡者は一人・二人…いや、十数人か…注視すれば知らぬ間に周囲を囲まれていることがわかった。


ふふっ、周都督め…こう来たか…


つまるところ曹操との決戦に勝利すれば、今度は我々が邪魔になる。ならば今のうちに身柄を拘束し、しかる後に始末するといったところか…


「陳叔至殿。走りますよ」


私は両手を左右に大きく広げ、そのままの体勢で前方へ疾駆する。


「はあ?……承知!」


私の唐突な言葉と動作に陳到は一瞬呆けたようだったが、すぐにその意を理解し、利き手で抜剣しつつ、もう片方の手で自分のマントの端を掴み、私に続いて駆け出した。


陳到の心が揺らいでいるのに乗じて一気にたたみかけても良かったが、今のままでは断られる可能性が高いだろう。それに我らを尾行している者の中に劉備の間者が紛れ込んでいるとも限らない。

ここは欲を出さずに含みを持たせるだけにして、我々は行く手を遮る周都督の追っ手を皆殺しにしてから帰路を急いだ。


孫権を説得して劉・孫同盟を締結させてからひと月余り、こうして周都督との会談も無事に終えた。季節は、絶望の秋から希望の冬に移ろうとしていた。




「ただいまー」


「「父上、おかえりなさい!!」」


孫権に用意してもらった邸宅に帰ると、彊と達が出迎えてくれた。

二人共、貴族の子弟相応しい身なりを整えた為、彊は利発そうな美少女、達は英雄を志す凛々しい少年の風貌となっている。〈衣食足りて礼節を知る〉というが、まったく人間とは外見だけではその本性をつかめぬものだ…今やこの二人に流民だった頃の面影はない。しっかりと栄養を摂った為か、肉が付き、血が通って顔色も良くなり、全体的に大人びて見えるようになった。そして何より、彊は学問、達は武芸において非凡な才を発揮し、私を支える存在になるべく着々と力をつけてくれている。私が留守の合間でさえ互いに切磋琢磨して高め合おうとしているのだから、その貪欲なまでの向上心は敬服に値する。我が子ながら実に将来が楽しみで仕方がない。


その夜は、周都督の幕舎での土産話や留守中の話で盛り上がり、久々の親子の会話を楽しんだ。




翌朝、寝起きに庭の井戸で水を汲み顔を洗っていると、冷たい水によって肌が敏感になったためか、心地よい微風が吹いていることに気が付いた。気温は肌寒いが、雲は無いので日が当たればそれほど苦にはならないだろうと確信する。


「彊、達、せっかく江東に来たのだ。どうだ?釣りにでも行かないか?」



朝食を摂った後、私は日々鍛錬に励む二人へ気晴らしとばかりに、釣りへ行こうと誘った。


「「わかりました!!」」


二人とも喜んで承諾したので、道具を揃えて近くの穴場へと向かった。監視役の陳到もちゃっかり釣竿を用意して付いてきているあたり、この男にも、案外、図太いところがあるのだと感心した。




その日は、私の見立て通り釣りをするには絶好の日和だった。皆、思い思いの場所に床几を置き、腰掛けて、釣りを楽しんでいる。


釣りは良い。釣りは…ゆったりとした時の流れの中で自己を見つめ直す絶好の機会となる。…何事も根を詰めすぎるとうまく行かぬものだ。たとえ順調でも立ち止まって省みる時間を作ることの大切さを私は二人にも教えたかった。


…………のだが、


「うわあ!陳老師すごい!」


達に武芸の指導をしている陳到が真っ先に大物を釣り上げた。


「おお!俺もかかったぞ~!!!」


達も負けじと続いて大物を釣り上げた。


「うっ、す、すごい引き!!達、手伝って~」


「わははっ、まっかせろ~」


彊が達の加勢を受けて一番の大物を釣り上げた。


私はそれを横目で確認しながらも、自分の竿から下がっている糸をずっと見つめそれが来るのを待っていた…


その後も、三人は順調に大物を釣り上げていく。私以外、皆、時間を忘れたように釣りに熱中し、時は夕刻に迫っていた。


「父上!釣りって本当にたのしいですね」


「こ、こら達!父上はまだ一匹も釣れていないのよ!」


「ふふ、彊よ、私のことは気にするな…」


そうだ、たまにはこんな日があっても良い。自省を促すための釣りであったが、やはり、人生は楽しんでこそ甲斐があるというものだ…『

そう私が感慨に耽っていると、私の釣り糸に大きな変化が表れた。

それまで、微風に揺らされながらも、水面に先端を浸けていた糸は、ふわりとその先を川上の方へと揚げていった。


「あれ?父上、針が付いてな…」


ービュオオオオオ~ー


突如、強風が音を立てて吹き寄せ私の巾を飛ばして達の横っ面にへばりついた。


「ようやく来たか…」



彊が僅かに反応を示したが、それくらい聞き取れない声で私はつぶやき、床几から立ち上がった。


初冬のこの時期、この地域では急に強風が吹くという。決まって肌寒い朝に生暖かい微風が吹けば、その日の夕刻には強い東南の風が。

この風が、天下万民を救う希望の風となる。その確信を得た私は、口元を綻ばせたまま、全く止む気配の無い水面の風紋を眺め続けるのだった。


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