表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
諸葛孔明物語~「偽史三国志」  作者: 珍寿
青年諸葛孔明物語
7/29

江東大舌戦

 夜が明けるのを待たずに野宿していた水場を出立し、小休止を挟みつつ昼夜を馬で駆け徹せば、通常は5日はかかる行程を2日で踏破して、夏口に着いたのは翌日の陽が傾き始めた頃だった。

 低い丘陵の合間を抜けた漢水と長江の合流部に位置するこの(みなと)は、いまだかつてない多くの人と物を押し入れたために、活気とは違った異様な熱気に包まれており、今もまだ、兵糧や兵器、家畜、財物、大甕、木材、藁束、そして、奴隷など荊州中から略奪したであろう物資が次々と運び込まれて、その許容限界を遥かに越えようとしていた。


 城壁とは呼べない版築製の粗雑な囲いの内側に入ると、改めてその混雑ぶりには驚嘆させられる。

 あちらこちらで起こる人間達の喜怒哀楽が喧騒となって私の耳を聾させ、体臭や糞尿、或いは家畜が原因なのか吐き気を催すような酷い臭気が鼻を自らの手で覆わせる。羽虫が群れをなして臭いの原因の一つであろう生肉や果菜にたかる光景は、この上、視覚までをも奪われかねない程におぞましい。

 極めて不快で、これ以上奥に入るのを躊躇ってしまう程に過酷な環境だった。それでも、自分の心を叱咤して歩を進めれば、行き交う人ごみの中で雨のように飛び散る汗や飛沫を受け、体をもみくちゃにされながらも津の奥へと進み、目的の場所へとたどり着くことができた。


 劉備の本営は、津の主要部となる船着場近くに設けられていた。

 この津に停泊する船は大小様々で、その総数は100艘に満たない。その内、大型の船は6隻で、小型の船と隔絶するようにそれらは揃って一カ所に停められていて、その近くの本来なら積荷を置くための空き地に巨大な天幕を張って劉備の本営が設置されていた。

 そこは周囲の喧しさとは打って変わった様に静寂そのもので、どす黒い妖気に包まれたそれは、まるで伏魔殿のような威容を放っていた。


「彊、達、お前たちはここで待っていなさい」


「「はい!」」


 無茶な強行であったにも関わらず少しの疲れも見せない二人の威勢の良い返事を背後にして、私は力強く前進し陣営入口の幕を捲った。








「軍師殿、我等は此度の曹操の侵攻に際し、江東の孫仲謀殿と組んでこれに対抗する事にした。就いては、軍師殿には我が軍の使者として、この魯子敬とともに江東へ赴いてもらいたい」


 長阪という死地を乗り越えて帰還してきた私を目の前にして、劉備は他に何の労いの言葉もかけてくる事なくそう言い放った。


 天幕の内は、簡素な燭台と、褐色の敷物とで小綺麗に纏められていて、目が冴えるような爽快な香りを放つ香が焚かれている。そして、何故かまだまだ残暑の季節であるのに、内部は冬のように冷えきっていた。

 劣悪な環境から至極快適な場所に入ったというのに気分は相変わらず悪いままだ。いや、それまで以上に心的重圧が私の身に強くのしかかってきている。何故なら、劉備とその両脇には張飛を始め劉備軍の名だたる将や文官30人程が列を作って並んでいて、その大多数の視線が悪意・嘲りをもって私へと向けられているからだ。


「畏まりました。この諸葛孔明、謹んでその任をお引き受け致しましょう」


 しかし、それらに対して、私は努めて平静な態度で拱手し、その任務を承る言葉を述べた。

 頭を下げつつ上目で劉備を覗き見ると、その表情に微かな戸惑いの色が見て取れる。それはそうだろう。数日前の私しか知らない奴は、今の私の秘めたる決意を窺い知る事など出来ないのだから。おそらく、今の奴の胸中には、なぜ私が従順に江東への任務を受けたのかという懐疑の念が宿っているに違いない。



「孔明はん〜随分と簡単にお引き受けなさいますなぁ~、長阪坡では残念な結果やったんでしょ〜?こんどこそ、なんかごっつい秘策があるんでしょうなぁ~?」


 劉備と私の間に沈黙が流れる中、居並ぶ文官達の末端に立っていた恰幅の良い男が嫌みたらしく声を掛けてきた。


 劉備陣営では見慣れぬ顔であり、その頭には派手で大きな冠を被り、身には華美な装飾がされた衣装を纏っているので、一目で外交官である事が窺える。早口ながら語尾を伸ばす発音は江東域に住む者達独特のもので、聴く者に、話し手の心理的優位を感じさせるものがあり。鬱屈としたこの空間に於いて、その表情からは常に笑みを絶やす事が無く、まるで葬式の様な暗い顔つきの当陣営の文官達と比べて異彩を放っていた。

 横目で観察するに、この男は鈍重そうな外見とは裏腹に自己に対して相当の自信を持っていると分析する。


「貴殿が魯子敬殿ですか…(そもそ)も主君の命に難易などありません。たとえ先の任務で失敗を犯そうとも、此度、私ならば出来ると判断されて命じられた以上、全身全霊を以てその信頼に応える事が臣下の務めです。そういう貴殿こそ、何の用向きがあってこちらに参られたのか?」


 体面を劉備に向けたまま一礼し、一切、相手の顔を見ることはしない。そんな私の態度を目の前にして、魯子敬は眉一つ動かさず、また、笑みを消す事もなく、ただ私に向けて恭しく拱手をしてきた。おそらく、この場に私が来た当初はそれまでの私に対する劉備達の扱いを見て私を見下していたのだろうが、私の態度に少し思うところが変わったのかもしれない。


「私は我が主の名代として劉荊州様の弔問に参っただけなんです~。その途上〜、偶然にも漢の皇叔と誉れ高い劉将軍が、此処、夏口にいらっしゃると聞いて、御挨拶に伺った次第です~」


 拱手を終えると魯子敬は自身が此処を訪れた理由についてそのように説明してきた。

 なんとも胡散臭い理由だ…

 魯子敬が仕える孫権は十数年前に父親を荊州攻めで亡くしており、それ以来、仇討ちと称して劉表様の支配下である江夏を攻め続け、父親を返り討ちにした仇の黄太守を殺害して市街を荒らしたのはつい最近の事だ。

 つまりは、劉表様と孫権の関係は断交状態であり、孫権が劉表様の弔問の使者として魯子敬を遣わすにはあまりに時が経っておらず、不自然が過ぎるのだ。


 まったく、素直に劉備に会いに来たと言えばいいものを…


 だが、私はこういう人間を嫌いではない。本来ならば私自身もその類であったからだ。それが、ここ数ヶ月間の私を取り巻く状況の変化によって、あの様な虚勢が如何に無様な結果をもたらすものかをこの身で知った今となっては、私の目には唯々この男が哀れに映ってしまう。

 そうやって相手を観察することで自信を取り戻す事に成功した私は、魯子敬の腹の内をこの場にて暴き出すべく、まずは、用意された相手の矛盾を突く形で揺さぶりをかけることにした。


「ふん…親の仇とばかりに連年荊州に攻め入り、つい最近では江夏太守を殺害したばかりではありませんか?それにも拘わらず劉表様の弔問とは…いやはや得心がいかぬ!」


「いやいや、誤解や誤解。そもそも先々代様の仇はあくまで黄祖で、劉荊州様とは争うつもりなど無かったんや~我々は再三に渡り劉荊州様に、黄祖を引き渡す様に申し入れたんやけど、聞き入れてもらえんかったんですわ~」


 揚足を取らせた魯子敬は、俯いて首を横に数回振りそれが仕方なかった事だと強調する大袈裟な演技をしながら弁明してきた。こういう場合、とぼけるか、法螺を吹くかで分かれるところだが、口達者の多い江東に住まう者の性か魯子敬は後者を選択した。それは、意図的に弱みを見せ不用意に付け入った者を丸め込み、或いは論破するという、恥知らずな自信家が多用する論法であり、魯子敬が私を嘗めきっているという確信にもなった。そんな男に遠慮はいらない、私は主導権を握るべく一気に攻勢をかけることにした。


「それは詭弁ですな!」


 毅然と言い放つことでそれは威圧感を増し、衝撃を持って対する者に届く。途端、魯子敬はそれまでの薄目薄笑いの表情から一転して、此方を睨めつける様な態度をとってきた。


「何やと?」


 表情は醜くこちらを威嚇しているが、僅かに上ずった声から、この男が動揺していることを察することができるため、この状況ならば容易に墓穴を掘らせることが出来るだろうと確信する。


「そもそも、孫破虜様を殺害したのは黄太守配下の呂公の手勢と聞いております。もし孫破虜様殺害の責をその主に押しつけるのであれば、黄太守ではなく劉表様こそ仇ではありませんか?」


 否定せざるを得ない問いをすることで相手に負担をかけて追い詰める。その効果は魯子敬の顔に表れてきている。


「ナハハ、それは流石に無理やり過ぎますわ~。先先代様は荊州征伐で亡くなられたとはいえ、その時もそれ以降も、我々の荊州攻略の前には必ず黄祖が立ちはだかり邪魔をしてきたんや、黄祖との戦闘で父兄を亡くした者も多いんよ〜。つまり、これは感情の問題であって理屈では説明しようもないんですわ〜孔明はんはもう少しそういう人間の心情というものを勉強するべきやなぁ〜ナハハッ」


 露骨に嫌味を言い、無理に勝ち誇った様子で笑っているこの男は、やはりこちらの意図する罠に気づかなかったようだ。

 最初からこの男が取るべき選択肢はひとつだった。曹操という脅威を前にして、弔問をきっかけにそれまでの蟠りを解くべく謝罪に来たと述べるしかなかったのだ。


「失礼ながら、貴殿こそ何もわかっていない。荊州という地はここ十数年、劉表様の治世下によって中華で最も安定した地でした。脅威といえば連年にわたり攻め込んでくる東側のみ、そしてその脅威を一身に背負って荊州の盾となり荊州を守られた方こそ黄太守だったのです。そんな荊州にとって至宝とも言える御仁を殺害しておいて、よくもまあ、その事から心痛を発して亡くなられた劉表様の弔問にまでこられたものですな!」


「むぅ…そ、それはやなあ…」


 私の追求に、魯子敬は顔色を悪くし言葉に詰まってしまった。私の意図することに漸く気づいたらしい。もし、魯子敬が本気で修好のために荊州を訪れていたならば、先の私の問いに対し、荊州側に配慮した回答を出せていただろう。しかし、この男は、私の罠にまんまと嵌り、黄太守にそれまでの諍いの責任を全て押し付ける発言をしてしまったのだ。あくまで、自らを正当化させる人間に、修好の使者など務まるはずがない。いくらこの男が弁舌に優れようが、かの禰正平のように傲岸不遜な使者の行く末など破滅しかない。それが弔問の使者ならば尚更だ。


 自ら外交官としての資質の無さを露呈させた魯子敬に、劉備陣営の文武官の痛い目線が注がれる。いまやその表情にゆとりはなく、肥えた体型には似合いの脂汗が大量に浮き出ている。


 このまま放って置くのも、それはそれで面白いのかもしれないが、生憎と私にそういう趣味はない。それに魯子敬はこれから江東と交渉するにあたって必要な駒だ。ここらで救いの手を差し伸べて、恩を売っておこう。


「んふふ、いい加減、腹の探り合いは()しましょう。貴殿の陣営にも諜報能力に優れた方がいらっしゃる事くらい私も知っています。荊州が曹操に降り、近くで対曹操同盟を結べる相手を失った今、江東は曹操と一戦交えるか、それとも降伏するかで揺れているのでしょう?しかも、実は降伏派の勢いが非常に強い…主戦派の貴殿としては、この流れを変えるべく外部からの伝を求めて此処までいらっしゃったのではありませんか?」


 瞬間、魯子敬の表情がパッと明るくなった。窮地から脱した事に安堵したのだろうそれは、冬の寒さにずっと耐えてきた一輪の花の蕾が、春の陽気に照らされて一気に大輪の花を咲かせたかのようで、些か無理はあるものの、目を細めなければならない程に眩しいものがあった。


「ナハハハ、流石は荊州の臥龍と謳われた孔明はんや。あんたはんなら降伏派を説得出来るやろう~間違いないわ~。劉将軍、私からも孔明はんを江東への使者にお願い致します~いやあ~それにしても、遠路遙々来た甲斐が有りましたわ~ナハハハ~」


 幕内に魯子敬の乾いた笑い声だけが上がった。野天に幕を張っただけの陣営である為、にぎやかな江東弁も外へと還っていくのみで耳に残らず虚しさが去来する。

 そして、それを遮る様にそれまで静かだった劉備がその沈黙を破った。


「軍師殿…具体的にはどの様な算段がお有りか?」


 不意に、劉備の側に置かれた燭台の火がすべて風を吹きかけられたように消えていった。一瞬、それに気を取られてしまうが、動揺を抑えつつ視線を戻すと、目の前にはあの時の劉備がいた。見開いた双眸からは赤い光が輝きを増し始め、陣内を真っ赤に染めていく。この前では如何なる嘘や偽り、誤魔化しも此奴には通用しないと、対した相手に自覚させる心理的な働きがあるに違いない。


 望むところだ。生来、私は虚言を弄するのは得意でない。奇をてらわずとも、碁盤に石を打つ様に着実に相手を追い詰める戦いこそ私の得意とする形であり、大きな失敗を招かない盤石なる戦法なのだ!




「はい…」


 劉備より作戦を問われた私は、一呼吸置く事でその間に唾液で舌を十分に湿らしていく。そして、あの夜、尻の痛みに耐えながらも思案した策を披露する。


「実のところ、今回の江東への使者はそう難しい任務ではありません。ただ孫将軍の尻を軽く叩けば良いだけです」


 私の答えに少し笑みを浮かべた劉備は、しかし、納得した様子もなく、まるで試す様な口調で問いかけてくる。


「孫仲謀殿は戦を好まないと聞くが、此度も戦わずして済むならば、迷わず降伏を選ぶのではないか?」


「戦を好まぬというのは、所詮、孫将軍の亡き兄君・孫討逆様に比べての評価に過ぎません。実際、孫将軍は御自身で猛獣を狩るほどその気性は勇猛であり、元より曹操に降伏する気などないのです。それは、昨今、江夏を攻めた事や、曹操の降伏勧告に応じていない事、そして、この場に魯子敬殿がいらっしゃる事が何よりの証。そもそも、僅か一万にも満たない兵力しかない我々の下に、降伏を考えている者が態々使者を出すでしょうか?いや、無い…」


「なるほどその通りだ…では軍師殿はどの様にして降伏派を説伏するおつもりか?」


 態とらしく肯首し、感心する様を衆目に見せつけながらも、劉備は話を続けよと催促をしてきた。それを見て、しかし、私はゆっくりと呼吸して焦る事の無いように努める。


「降伏派の説得など不要、時間の無駄です」


 一瞬、場に緊張が走る。劉備の顔が一瞬ニヤリと笑い口元に深いシワを刻んだ事を私は確信をもって見た。


「ほう…しかし、それでは大敵を前に一致団結して当たる事は出来なくなる。これでは曹操の調略の前に易々と内応者を出してしまうのでは?」


「どのみち決戦すると決まった段階で、降伏論者は面目を失いますので、彼等と合力するなどとても叶わないでしょう。また、そもそも降伏を唱える段階で、既に曹操の息がかかっていると考えた方が無難です」


「ふむ…だが、それならば、孫仲謀殿は本拠地を離れられぬだろう。それこそ、決戦どころではない…」


「問題ありません。孫将軍は戦う意思を示されればそれで済む事、御自身は城で内応者に睨みを効かせ、戦は適当な将を選んでその者に任せればよろしいのです」


 打てば響くように、劉備の問いに対する私の返答が返されていく様に、周りからはざわめきあがっている。文官が近くの者同士で 私の返答を賛否している様だ。今の私にはそれだけ心にゆとりが有り、この場面を俯瞰しながら持論を展開する事が出来る様になっていた。そして、肝心の目の前にいる劉備は、私が応える毎にその表情に怪しげな微笑を浮かべている。どうやら、私の考えを察知しているのだろう。


「軍師殿…では曹操相手にどの様にして戦おうと考えているのだ?」


「先に結論を申しましょう。この度の曹操との戦は、決戦を避ける事が上策と考えます」


「な、何を戯けたことを!そないやったら、どうやって曹操を破るんや?」


 ついに堪忍袋の緒が切れたのか、素っ頓狂な声を上げる魯子敬を皮切りに、場のざわめきは一気に高まった。中には私を名指ししての誹謗中傷も聞こえてくる。先程から劉備が私の言に笑みで応えているからであろう、私の案が入れられるのではと焦っているようでその表様は真剣そのものである。





 可笑しい、滑稽だ。

 揃いも揃った烏合の衆が、私を非難するため必死にギャーギャーと喚いている。


「くふぅふふ…うはあ~はっはっは…」


 遂に私は堪えきることが出来ずに吹き出してしまった。

 仕方あるまい、まさか劉備の陣営がこんなにも無能揃いだったとは…。私の発言を受けて険しい顔つきで考え込む者や、麋芳の様に私の言葉に頷き返す者は僅かに数名。それも決まって末席に連なる者達で、それ以外は私の策を嘲笑でもって断じているのだから。要は劉備を除けば、この陣営に恐れる存在など殆どいないという事だ。これは、私にとって有利な事実であり、私の計画を果たせる可能性がぐっと出てきた事を意味する。これを喜ばずにいられようか!


「貴様っ、不謹慎だぞ!この場をなんと心得る!?」


「豎子、引っ込んでおれ!汝の妄言に付き合わせてくれるな!」


 腹を抱えて笑う私に向かって、愚者共が罵詈雑言を投じてきた。幾ら罵られようとも今の私にとって何の感傷にもならないのに。


「静まれ…」


 自分の配下の愚鈍ぶりに気分を害したのか静かではあるが珍しい劉備の怒声に、幕内はまた元の静寂に包まれる。だが、それでも内部の熱気はいよいよ盛んになってきている様に私は感じた。


「軍師殿、続きを…」


 一時の静寂の後、劉備は私に話の続きを促してきた。

 流石に劉備と向き合うと、自然と気が引き締まり緩んだ顔の筋肉も緊張を持った。


「ふひ~ふ…失礼いたしました。この度の曹操の遠征は、既に当初の目的を果たしてしまっております。ほどなく曹操方の将兵には厭戦気分が蔓延していくでしょう。加えて南方の気候に慣れず風土病に罹かる者も多く出ている筈、さらに伸びきった補給線は小突くだけで崩壊するに違いありません…」


「つまりは直接戦わずとも滞陣が続けば、いずれ曹操は引き揚げると?」


「はい、ご明察です」


 如何に劉備・孫権の連合軍が精強で地の利すらも得ていたとしても、相手は百戦錬磨の曹操軍である。万が一にも決戦して敗れてしまっては意味がない。あの夜に考え出した私の策とは、そのことを考慮し不戦必勝を期するものだった。そして…何を考えているのか未だに答えを見いだせない主君・劉備に対する探りでもあった。

 出会ってから今に至るまでの経緯から推理して、この男は間違いなく先が見えていることを私は確信している。では、その先には一体何を望んでいるのか?それがあの夜の思索で最も困難を極めた議題であった。


「それは困る…」


 そして私が導き出した仮説の中で最悪の答えが帰ってきた。


「それでは奴らを殺せない…」


 狂気を含んだその言葉を聞いた瞬間、全身に鳥肌が立つ。視界は暗くなり目眩を起こしそうになったため、俯きつつ右手で顔を覆うように両方のこめかみを親指と中指で押さえた。

 やはり、この男は殺戮を望んでいるようだ…

 新たな疑問が出てくるがそんなことはどうでもよかった。


「そう仰ると思っておりました」


 今の私はどのような表情をしているのだろう…きっと笑っているに違いない。悪い方ばかりに立てた推測はあたっているが、しかし、嫌ではなくなっていた。


「!?」


 目線を上げれば、始めて劉備の驚く顔を見ることが出来た。


「ほう…軍師殿にはこの私の思考が読めるのかな?」


「いいえ…ただ、将軍に近い戦略眼を私も持っているのではないかと自負はしております…。此度の戦いは名実ともに曹操に勝利しなければ、我が軍の飛躍は期待できません。それだけに曹操軍は強大で我らは弱小なのです。よって、容易に修復できない痛撃を曹操軍に与えなければならない…」


 そこからは、未だに理解の追いついていない劉備陣営の幕僚に対して説明を行い、反論は尽く論破してやった。そして、具体的な作戦行動案を提示し、劉備に協力を要請した。



「善いでしょう。此度の件、すべて軍師殿に委ねよう…陳叔至、此れへ」


 私の献策に劉備は満足そうに嘆息してからそう言った。


「応!」


 劉備が名を呼ばわると、重厚かつ勢いのある声が返って来た。

 劉備の側に控える武官の中から一歩前に進み出たその声の持ち主は、劉備に三歩の距離まで近づいてから私へと振り返り拱手一礼してきた。金属の仮面で鼻より上を覆い隠し、左頰から顎にかけて大きな刀傷が走っていて、仮面の隙間から覗かれる細く鋭い眼は感情を相手に悟らせない。

 その風貌は不気味で、一目で油断ならない男だと見る者を説得させる凄みがあるが、何故か私はそこに一抹の懐かしさを感じた。


「軍師殿、貴殿の護衛としてこの者を同行させて頂きたい。陳叔至、軍師殿に挨拶を…」


 それは、言葉でこそ依頼しているように聞こえるが、私の意思など聞き入れられるはずもない決定事項を告げるものだった。


「…お初にお目にかかる。我は陳到、字を叔至と申す。」


 劉備に紹介された陳到は、それだけ言うと拱手一礼した。

 陳叔至…たしか聞いたことがある。劉備直属の親衛隊隊長として強兵を率い、曹公との戦いで何度も窮地に立たされた劉備を、その都度救ってきた将の名だ。名はそこまで知れてはいないが、将としてのその能力は少なくとも関・張よりは上だろう。自らの武勇でもって手柄を立てるのは所詮、虎や獅子の如き畜生の功であり、陳到にはその点、常に彼我の兵の動きを把握し、主君に危険が及ばぬように対応できる統率力と智慧があるからだ。


「陳叔至殿、よろしく頼む!。それでは劉将軍、早速ですが行ってまいります」


「軍師殿は先ほど着いたばかりであろう?しばらく休まれては?」


「いえ、静養はこの戦に勝利してから存分に取らせていただきます。それでは…」


 そそくさと拱手一礼すると、私は逃げるように伏魔殿から去った。

 外に出ると近くの物陰で、彊と達が肩寄せ合って眠っていた。両手で2人目の頭を優しく撫でると、范彊が即座に反応して目を開き、次に張達も目を覚ました。


「あ、父ちゃんおかえり!」


その言葉に感動を覚えつつ、私は「ただいま」とだけ応えて二人をぎゅっと抱きしめた。

何気ない家族の日常会話だが負担を強いられた私の心を癒すには十分だった。そのまま二人を連れて用意された舟に乗り込んだ。



 彊に達、陳到という劉備の監視者と案内人の魯子敬を帯同して、私たちは長江を下り江東へと入った。

 そして、魯子敬の取り計らいにより、孫権が座する城にも順調に入ることが出来た。

 降伏派は予想通り保身的で頭の固い愚物ばかりだったので、会盟の席における衆人環視の中、遠慮無く面罵してやり、その心を壊してやった。

 無様にぽかんと口を開け茫然自失する者、「違う、違う、」とまるで暗示をかけるようにして必死に自己を保とうとする者、涙を流しながら乾いた笑いをあげている器用な者、ゴツンゴツンと床に額を打ち付けている者、這いつくばって許しを請う者、憮然とした表情のまま気絶してる者、そして逃げ出す者…流石は江東七俊、七者七様の反応で私を楽しませてくれた。最後は調子に乗った孫権が何を思ったか自分の机に剣を突き立てて、もはやこの場に存在しない降伏論者を恫喝して会はお開きとなり、私の任務は達成された。


 決戦の日は近い…。

頓首、頓首、死罪、死罪。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ