強き心
孔明、決断の秋!
幾千幾万の群集団の中で人一人の存在などちっぽけなものだ。浩然たる海内の地においては塵芥に過ぎない。しかし、そんな小さな存在である人一人の行いが起因となり、常人ではおよそ想像もつかない驚天動地の結果へと繋がる事がある。そしてそれは、抗い難いものであり仕方のない事だ。
だが、奴が我が居を訪れて以来、これまで起こった数々の悲劇はすべて私の所為だ。言い訳はしない。これまで起こった数々の悲劇は、すべて私の厭世的な思考と行動から招いた事だ。
現実を受け入れ、奴を討つことに全力を尽くしていれば、劉表様が弑され、隆中が滅ぼされる事もなかった。多くの民が戦乱に巻き込まれ虐殺される事もなかったのだ。
故に私は罪を償わなければならない。
責務を果たさなければならない。
いつか、命奪われた者の仇を討ち、遺された者を救う。
それが私の使命、生きる意味…
しかし、そんな秘めたる決意を嘲笑うかのように現実は残酷だった。
この度の戦いで多くの難民と孤児が出たことだろう。悔しいことだが今の私にはすべてを保護する力はない。軍師に任命されたとはいえ、所詮、私は新参者で若僧だ。机上の空論だけで名をあげた青二才の命令に、誰が命を預けて従うというのか?
そう自嘲しながらも、兵士に生き残った民たちの護衛を嘆願した。奴のことだ、残す者と捨てる物の判別は既に行っているのだろう…ただ、無駄だと分かっていても何かをしてあげたかった。もしかしたら私の言葉によって義を思い出し、本当に民を救ってくれる将兵が出てくるかもしれない…
「お前たちの無念…必ず私が晴らしてやる!必ずだ!」
兵士たちによって徐々に一箇所に集められていく流民たちを遠く背にしてそう呟いた私は、長坂で拾った二人の孤児を連れて劉備軍の本隊に合流するべく足を早めた。
何故、范彊と張達を連れたのか?
この二人は違う、まだその目が死んでいないからだ。
特別、才能があると感じた訳ではない。范彊は利発そうに見えるが、同年の士族の子と比べれば並みの下だろうし、あの場でただ泣いていた張達に至っては、恐らく庶人並みの知力もあるまい。
では彼等には何があるのか?
………
お答えしよう…それは、「心の強さ」だ!
鈍感さと言い換えても良い。
あの絶望的状況に於いて皆が心を壊していく中、この二人は一切の希望を失うことなく愚鈍なまでに自分達に未来があると楽観的に思考し…いや、或いはそんな思考すらしていないのかもしれないが、瞳から光を失わないその心の強さに私は目を付けたのだ。
考えても見よ、守ってくれると信じた味方が、救世主と崇めた神の尖兵達が、自分の親族を犯す様を目の当たりにしたのだ。
仮に今この地に幼い頃の私がいたなら、すべてを悲観して自死したに違いない。頭の回る子ならば尚更だ。
古えの聖人・比干も、常勝将軍・白起も、楚の覇王・項羽も、あの陳公台もそうだ!
如何に知勇に傑出した者でさえも、生きる希望を失えば、皆、素直に潔く死を受け入れるものだ。
そう、それが普通であり正常な人間としての反応だ。賢愚の差もありはしない。
だが、この范彊と張達は違うぞ!
これだけ非道い目に遭いながら彼等の心は壊れていない。
厳しく辛い時代を生き残る者が持つ必須の条件があるとすれば、それは即ち、どんな状況に於いても決して諦めず、たとえ食う物がなければ土を噛み、水がなければ泥を啜ってでも生き抜こうとする「強い心」を有するかどうかなのだ!
比干とは違い、狂人を装った箕子は逃れて国を建てた。白起とは違い、意地を捨てて仇国に亡命した楽毅は、自らを疑った王に過ちを悟らせ末代まで敬われた。項羽とは違い、鴻門之会や成皐の戦いといった絶体絶命の危機に何度となく遭いながらも、逃げの一手で生き延びた高祖は、逃げなかった項羽を倒し漢を興した。陳公台とは違い、仇敵である曹公に仕えた張文遠は、それからさらなる僥名を得た。
私は、前者がその能力で後者に劣っていたとは思わない。ただ、後者は一時の恥を晒そうとも自分の命を優先させたが故に生き延びた。結果、偶然にも天運が味方して歴史の勝者となれたのだ。
そして、この范彊・張達の二人にはその強い心が備わっている。運もまた然り。
この先、修練を積んで成人すれば、必ず私の使命を果たすための貴重な駒となるだろう。
それがこの二人を連れ立った理由だ。
長坂を立ってからすでに二刻が経っただろうか、陽は傾いたが暑さは盛りの時期故に衰えるはずもない。
目を浸そうとする汗を袖で拭い、立ち止まって後ろを振り向くと、すぐ後ろをついてきている張達が笑んできた。
その少し後方を范彊は俯いて歩いていたが、私の視線に気がつくとしっかりとした目つきで私を見つめてきた。
うむ、良い反応だ。不安定な心情であろう筈だが、ちゃんと周りが見えている。この子たちと出会って間もないが、その潜在力には目を見張るものがあった。特に張達は、直感力に優れているようで、不自然を察知するのが早い。今も何かに気づいたのか私に向けていた視線が少し反れたかと思うと、私たちが歩いている道からはかなり外れた叢に向けてすっと人差し指を向けた。
「先生ぇ、狗!」
張達が指差す方向に振り返ると、少し痩せてはいるが、范彊と張達よりは大きい体躯をした狗がいた。獰猛に牙を剥き出し涎を垂らして我々を見つめている。
危なかった…もしあの狗に気づかぬままに背後から襲われていたらと思うとぞっとした。
そして、同時に内心でほくそ笑んだ。
長い逃避行で、此処三日ほど栄養のある物を食していない。見れば、狗は一匹だけで群れていない。大方、血気にはやった若い雄が、新たな群れを形成すべく独り立ちしたばかりなのだろう。一匹狼ならぬ一匹犬…ふふっ、まさに絶好の機会だ。
「彊、達、飯にするか?」
私は背嚢を地に下ろし、汗が沁みた所為で脱ぎにくくなった上衣をそれでも素早く脱ぐと、左手に何重にも巻きつけてから狗に向かって歩を進めた。
二人は、私が何故唐突にそんな事を言ったのかすぐには解らないようだったが、目の前の狗と私の動作から閃くものがあったのか、お互い顔を見合ってから笑みを浮かべ
「「はぁーい!!」」
と大きく返事をしてきた。
狗もどうやら私と考えている事は同じ様で、舌で口周りの涎を舐めとると吠えもせずにのっそりとした緩慢な動きで此方に近づいて来ている。
《この狗…出来る!》
狗が近づいて来る様を看て直ぐに私はそう感じた。
あの緩慢な動きは自身の速さを相手に測らせないための擬装だ。ある程度近づけば、いきなり最高速から私の急所即ち喉元に噛みついてくるに違いない。流石は野生の狗、飼われて牙を抜かれた似非物とは違う。闘争心を秘め殺意を隠してゆっくりと近づいて来る様は、さながら一撃必殺の狩人の風格がある。
さて…対する私は徒手同然だ。袖箭は既に長坂で使い果たしており矢の補充は出来ていない。
手頃な長さの棒さえあれば、我が棒術の絶技「天下無犬」でこんな犬コロなどイチコロなのだが、今更無い物ねだりをしたところでどうせ結果は同じだろう。多少の危険だけは覚悟せねばなるまい。
狗との距離はゆっくりと縮まっていく。互いに相手の瞳を直視し外すことはない。
十歩の距離まで近づいたところで私は歩を止めた。
立つこと以外の全ての力を脱力させ、感覚だけを研ぎ澄まして佇めば、はたして狗も近づくのを止めて低く唸りながら初めて威嚇してきた。
互いに悟っている。
相対する敵に油断は禁物だと…
……………………
……………………
ぐぅぅぅぅ~
腹の虫が鳴る音が後方から聞こえてきた…
そして、それとほぼ同時だった。
私の注意が後方へ向かったその瞬間、対峙していた狗が私に向かって飛びかかってきた。
助走無しの跳躍から10歩の距離をわずか二足跳びで詰めたその脚力は流石である。
今まさに、その口を大きく開けて私の喉元に噛みつかんとす…!?いや、違う!
こ、これはっ、陽動だと!!?
私の喉を狙って跳んだはずの狗は、実際には私の腰程までしか跳んでいなかったがために目の前に着地し、咄嗟に左手で喉を庇おうとした私は、不覚にもそれで自らの視界を遮ってしまった。
次の行動を誤れば私の敗北は必至だ。
だが焦りはない。全て想定内の事だった。これは、防御の為に巻き付けている訳ではない。そのまま、上げた左手を勢い良く振り下ろせば、巻きつけた上衣は一気に解け鞭の如く鋭い音を立てて狗を打った。
キャィンキャィン!
予想外の痛撃に鳴き叫ぶ若い狗。
先程まで威勢は何だったのか…
さらに、2回、3回と雷電のごとき高速の鞭捌きで狗を打つ。
距離をとることも、反撃をすることもできない狗は、情けない鳴き声を出すばかりだった。
実に惨めだ…見苦しい…だが、素晴らしい。
悪魔の悪戯か、ふと私に善からぬ案が浮かんだ。
そのため、上衣を利用した鞭の四撃目で、私は犬を打たず地面を打った。
打ってしまった。
寒気が背筋を駆け巡った。
狗を見れば、絶望の中に希望をみたという何とも呆けた顔をしている。そして、その顔はみるみる鋭気を取り戻していく。嬉しくてたまらないのだろう。敗者が一転して勝者になれると思っているのだろうから…
狗は、与えられた好機をしっかり掴んで体勢を立て直し、私の喉目掛けて噛みつこうとしてきた。しかし、そこに待つのは勝利と栄養ではなく、ただ死があるのみ。
「はあいっ!」
狗の牙が私の喉に届こうとする瞬間、それよりも早く裂帛の気勢とともにこれまでずっと遊ばせていた私の右手の手刀がその頸を一閃した。
ズパァーッッ
噴き出る血飛沫とともに狗は地面に落下した。立てる力は最早無くピクピクと痙攣し、その頸からはどす黒い血が止め処なく溢れ出ている。
そしてその顔は、驚愕の一言で表せることが出来るほど両眼と口を開いており、色を失いつつある瞳は未だ勝利の確信という夢で満たされたままだ。
ふふ
ふふふ
ふははははははは、はははははははははは
堪らない、堪らなく可笑しかった。結局、あの狗は、終始、自分の命が私の手のひらの上で転がされていたことに気づく事無く逝ったのだろう。
この死に顔が何よりの証拠だ。し、しかし、それにしてもこれは傑作だ!
ふぁはははははは、はははははははははは
「せ、先生?」
「先生、先生、しっかりしてくれよぉ!!」
強敵を自分の思い描いた通りに始末したという愉悦に浸っている中、范彊と張達の声が聞こえてきた。衝動的に感情を支配されていた私に理性が戻る。
《い、いかん!戻らねば、このままでは奴らと同類になってしまう!》
頭では理解していても体は動かない。まるでもう一人の自分が私の体を操っているかのような意思を感じる。
…なぜ戻る必要があるのです?私には覚悟が必要なのでしょう?…この乱世を生き残り、この世界をあるべき姿に戻すために…
「先生、どうしたんだ?なあ、戻ってくれぇ?」
反応出来ない私に、尚も張達が身体を揺すってきた。
子供達の声は確かに聞こえている。このままではいけないという自覚もある。だが煩わしかった。
「あ…ああ…糞五月蝿い…邪魔だ。いっそ…こ、殺してしまおう…どうせ変わりはいくらでもいる…あの御方もそう仰っていたではないか…簡単な事だ。とっても簡単な…綺麗にスパッと済ませよう」
そう、それが慈悲というものだ…
「「孔明先生ー!!」」
ハッ!?私は今何を考えていたのだ?
二人の私の名を叫ぶ声が私の心に届いたのか正気を取り戻した私は、狗の血が滴る右手を天に向かってにあげていた。
一体、私は何をしようとしていたのか…推し測ろうとするだけで悍ましい…未だに泣きながら范彊と張達が私の体を揺さぶっていることに、申し訳なさで涙が溢れてきた。だが、決して流すまい。私は挙げていた右手を脱力させ、左手で二人の頭をやさしく撫でた。
「二人共、済まなかった…さあ、飯にするとしよう」
平常心を取り戻した私の声に反応し、二人は顔を上げてきた。
「何を泣いているんだ?久しぶりの肉がそんなに嬉しいのかな?」
「だって、だって、先生ぇすごく怖くて…おら…」
「先生、一体何があったんだぁ?」
「ハハハ、いやなに、狗は群れる習性がある事は知っているだろう?さっきのはこの狗に仲間がいたらまずいから、少し派手に振舞ってみせただけさ。それより、敵兵がいつ追いつくとも限らない。早くこの狗を食おう!張達、背嚢から小刀を取ってくれ。さっさとさばいてしまおうじゃないか。」
「な、何だぁそうだったんか!おら、てっきり先生ぇが気でも触れたのかと思ったぁ〜」
「先生、嘘をつくでねぇ、さっきの先生の豹変振りはまともじゃねかったどっか具合が良くねえんじゃねえか?」
「范彊、私の事を気遣ってくれてありがとう。だが、私はこれでも大人だ。君よりは身体の作りがしっかり出来ていると自負している。そして、今、我々は曹公の追撃から早く逃れなければならない。ならば、誰が一番身体に気をつかい、何をしなければならないかは自明ではないかな?」
「そ、それは…こん中で弱っちいおらが、一番体調に気をつけなきゃなんねえ。しっかりと栄養さ取って、早いとこ立たねえと曹操の兵に追いつかれて殺されちまう。そういうことか?」
…素晴らしい、満点の回答だった。指導されて伸びる人間は共通して素直なものだ。だが、ここでそれを誉めてはいけない。
「ふふ、それは違うぞ范彊、君は貧弱ではない。確かに体力は少ないかも知れないが、それを補うだけの知恵がある。少ないのなら減らないように工夫すればいいだけのことだ…違うかな?そして、もう一つ、栄養をとってから立つのでは遅い、とりながら移動するのだ!」
「「は、はいっ!」」
自分達が今置かれている状況を思い出したかのように表情を引き締めた二人は、声を揃えて強くそう返事をしたので、私はそれを見て頷き笑んだ。
二人にその心中を悟らせないために。
私は内心で動揺していた。残虐な行為を楽しみ、自らの力に愉悦し、取り返しのつかない過ちを犯そうとした私自身に対して恐怖したのだ。
なんだあれは!?
あれでは豚と、張飛と変わらぬではないか!
長坂での記憶が蘇る…対岸から一方的に敵味方を虐殺し、誇らしげに笑っていた張飛の顔が…
大馬に跨がり、嗤いながら流民たちを蹂躙していった豚の顔が…
興奮で我を忘れた敵兵が老父を殺す様子を満足そうに眺めていたあの醜顔が…
自らが逃げる為に、老父の足に矢を撃ち込んだ時の自分の顔が…
それは、確かに笑っていた…
はっ!?
ち、違う、何かの間違いだ!
私は、私はそんな人間じゃない!
締め付けられるように痛む胸を押さえ、崩壊していく心を叱咤し、暗示をかけて強引に戻す。
内も外も信の置けなくなりそうなこの状況を、私は必死で取り繕っていたのだ。
張達は納得したようだが、范彊はさすがに疑念を持ったようだった。無理もない、臥竜としての名は知れているとはいえ赤の他人について行こうとしているのだ。しかし今は私を頼るしかない事も賢明なこの子は理解している。それで良い、とにかく今は無事にこの死地を脱することが先だ。
張達が背嚢の中から取って来てくれた刃で狗の後ろ足を手早く切り取ると、それを張達に与え、もう一方の後ろ足を切り取って范彊に与えた。
二人は渡された狗の足の皮を勢い良く剥ぐと、揃って大口を開けて太腿の部分にかぶりついた。
「「うっ、まい!!」」
生臭くて肉も固く、普通ならとても生食は控えるべきだが、それでも美味いと言う二人に、感心しながら、狗の前足を切り取り、皮を剥いでから食べた。
「う、む…ぁい」
生温かい肉を口に含めば、鉄の味と新鮮さを強調する臭いが中いっぱいに広がり鼻から抜けていく、少し気後れしそうになるも、強引に噛み千切り、命をいただくというありがたみを、肉とともにしっかりと噛み締めていく。
一、二、三、四、五…
…二十六、二十七…四十九、五十…
なかなか、嚥下する機会が伺えない…肉の弾力が強い為に歯が通らないのだ…
二人の子らはどうしているかと気になって後ろを振り向くと、なんと張達は肉を口いっぱいに頬張っていた。信じられない事にしっかり骨ごと噛み砕いてるのだから、その顎の強靱さには舌を巻く。一方、范彊はといえば、肉を少しずつかじって食べているため、一度に食べる量こそ少ないが、確実に胃に落としていっている。
なんとも逞しい事で、それでこそ鍛え甲斐があるというものだ。
注意を再び自分の手に持つ狗の足に戻し、幾度か吐きそうになるのを堪えてその肉を噛み砕き胃に落とすと、その後は、食べるのを諦めて血を啜る事にした。
存外、強き心を有していないのは、私だったのかもしれない…