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諸葛孔明物語~「偽史三国志」  作者: 珍寿
青年諸葛孔明物語
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流血千里-後編

曹操に追いつかれてしまった孔明たち……英雄登場の予感!

 目の前に広がるは、緑の大地には異様としか映らない赤と黒が混ざってできた血液の川。

 深くもなく急でもない。

 唯々、それが人だった物の残骸で満たされたこの地を、延々と果てしなく流れている。


 いま一人、その景色に加わろうとする男がいる。


 その名を陳という。

 昨日まで野宿ながら寝食を共にした老夫だった。

 少し草臥れてはいたが、その相好を崩すと、なんとも穏やかな気分にしてくれる好々爺だった。

 孫の話や釣りの話で、辛い道中でも大いに賑わったものだ。


 しかし、いま、その笑顔は見れない。

 目を見開き、口も開いたまま必死に私の後について走って逃げようとしている。

 焦っているのか、足を傷めたのか、覚束無い足取りで何度も転んでいる。

 派手に転倒した。

 打ち所が悪かったのだろう、額から出血している。

 遂に立てなくなったのか、四つん這いになった。

 その手が虚空を掴む。

 我々を追っていた騎兵が、背後から槍で陳を突いた。


「うげぇぇぇぇぇぇぇぇぇえええええ〜」


 (むご)い、相手は動けぬ老人だぞ……

 せめて首を刎ねるか、心臓を突けばよいものを……

 兵士といえども、所詮殺しのプロではないのだ……

 戦場において効率的に人を殺せる者が一兵士のままでいるわけがない。

 それに、この空気が、この地にまとわりつく死の情念が、あの兵士から、冷静さを奪っているのだ。

 槍の扱いに不慣れなのか、なんと、下馬して剣を抜き、陳を斬りつけた。


「やめろお~おねげえぇぇあっ!」


 放って置いても、いずれ事切れるだろうに、兵士は武器も持たない苦痛に泣き叫ぶだけの老夫を何度も何度も斬りつけている。


「えくぅ」


 ようやく止めを受けて事切れた陳老人が発した断末魔は、殆ど聞きとれない程それはそれは力無い静かなものだった。


「げっ」


 漸く老人を殺した兵士の脳天に、深々と矢が突き刺さった。硬直したまま後ろから地面に倒れる。

 バシャっと音がした。

 死の間際、あの兵士は間違いなく私を見ていた。陳老人の次に私を手にかけようとしていたに違いない。

 自分で自分を抱きしめ、死の恐怖に慄然とする。しかし、それでも走ることだけは止めない。

 止まったら次は私なのだから……


ドンッ


 陳が殺される様を注視していた私は、前に意識を払っていないことで、固い金属のようなものに包まれた柔らかい物にぶつかってしまった。


「しまった!!」


 焦っても遅いが、慌てて腕で顔を庇う。


……反応がない。


 敵兵なら即斬られる筈。

 敵兵でなくとも、立ち止まればそれだけ危険は増える。

 時間が無いので腕を払うと、目の前には長弓を手に携え、目を細めて薄ら笑う張飛が立っていた。

 その視線は私ではなく遠くを見ている。


「張益徳殿! これはいったい!?」


 こちらの呼びかけに応じる様子は無い。




 あれから、ひと月。

 予想通りに襄陽の劉氏は曹公に降り、我々は曹公軍の騎兵による追撃を受けていた。

 坂を下り、川を渡れば、一応の追撃を振り切れるというところで我々は追いつかれた。


 はじめ、劉備の撤退作戦案は実に巧妙だった。

 流民を含めた全員を一気に移動させるのではなく、まず、歩兵の全兵士を先発させて、曹公に寝返らんとする荊州諸勢力への備えとし、次に年若い女子供の流民を、次に老年の流民を、最後に壮年の流民を順次出発させたのだ。

 殿軍は劉備率いる最精鋭の騎兵が努め、迫る曹操軍の軽騎兵に急襲をかけつつ最後尾を守るというもので、劉備は、必ず全員を守ると公言し、自分の妻子の乗る馬車を、後発の壮年の流民に組み込んだ。

 流民たちも次代を守るための万全の策と劉備の決意の固さに感動して涙を飲んで了承したものだ。


 しかし現実はどうだ!

 なんだこれは!

 最精鋭の騎兵部隊は、曹公の追撃部隊を払うどころか、交戦せずして忽然と姿を消し、今、こうして老人たちと歩んでいた私の前に現れた。

 結果、壮年の流民が殿軍となり、尽く殺された。

 どうやら、流民の中に変装させた兵士を混ぜて戦わせていた様で、曹公の兵たちも容赦がない。

 もう、老年の流民も大半が殺されているのだ。


「張益徳!なぜ貴様らがここにいる?」


 怒鳴っても、返事は帰って来ず、張飛は私の腕を掴むと、愛馬の上に放り投げ、自身もそれに騎乗すると一気に橋まで駆け出した。


「ひ、ひぃぃぃぃぃがあっ!」

 バキバキ!

「えやあっ!」

 ゴッ!

「ちょっ」

 ドンッ!


「ガハハハハ」


 嗤う、嗤う、張飛が嗤う。

 醜悪な面で、楽しそうに嗤う。

 肥太り歪んだ顔で、何が可笑しいのか嗤う。

 血みどろの老いた流民を跳ね飛ばしながら嗤い続ける。


「邪魔だぁ〜どけえぇぇぇ〜」

 聴力が持っていかれるほどの物凄い大音声だった。

 命を繋ぐ希望の橋へと詰めかけ密集する流民共を、主の巨躯も平気で支える愛馬に踏み飛ばさせながらどんどん駆ける!

 潰す、砕く、蹴り飛ばす、面白いように死んでいった。

 鋭利な刃物でもないのに、馬脚に触れれば簡単に四股が断たれていき、蹴られればありえないほどに飛んでいった。

 見事、馬蹄が体に決まろうものなら、もうたまらない。

 ある老婆の頭を踏み潰した時など、もはや酷さを通り越して芸術的ですらあった。

 陥没直後に中身が爆散したのだ。


「やったぁー」


 そんな声が聞こえたような気がした。


 数にすれば、到底、50には満たぬであろう犠牲者を出して、私と張飛を乗せた馬は橋を渡り終えた。


「橋を落とせぇ〜!」


 渡り終えてすぐに張飛は絶叫して配下に命じた。

 その言葉に私はもう驚かなかった。

 最後の希望を絶たれようとする、流民たちの顔は忘れないだろう……


 橋を落として、まもなく。

 曹公軍の騎兵の軍団が続々と対岸のはるか遠くに姿を現した。

 数は数百から千に満たぬであろうか……

 取り残された流民は、皆、一様に悲鳴を上げて、泳いでこちら側に渡ろうとした。

 生憎と、流れが急で、数十人が水に浚われたところで、慌てて岸に戻ろうとする様はひどく滑稽だった。


 曹公軍の騎兵の軍団は、民たちには目もくれず、対岸の川縁まで寄ってきた。


「我が名は張益徳なり、命が惜しくなければ、かかってこい!」


 何を思ったか、張飛が大声で名乗りを上げた。

 川を盾にして全く格好がつかないが、それでも、少し効果があったようだ。

 曹公の騎兵の軍団に動揺が走ったように見える。

 しばらくして、そこから一人の若武者が抜け出てきた。


「我が名は、夏侯仲権だ! 貴様が張益徳か! 我が従妹の仇、今こそ果たしてやる!」


 まだ声変わりもしていないが、しかし凛とした声で若武者は名乗りを上げた。

 張飛に対し、相当の恨みを抱いているようで、怒りの形相でもったいなくも綺麗な顔が歪んでいる。

 それにしても、川の橋が落ちていることが、色々と残念でならない…


「仇?さてぇ、身に覚えがござらんな?」


「とぼけるな!8年前、薪取りをしていた13才の我が従妹を拐ったのは貴様であろう!」


 響めきが起きた。命の危険にさらされていた流民たちも、対岸からの火事場見物を決め込んでいた兵士たちも、皆が一様にその視線を張飛に向けた。


「むは、むはははは。そうか、思い出した! 心配するな! 貴様の従妹とやらは、儂がたっぷり可愛がってやったぞ! もう死んでしもうたが、2人も娘を産んでくれたわ! お前の従妹とやらに似て可愛らしいことこの上ない! もう少ししたら儂好みに仕立ててやるつもりよ!」


「お、おのれ外道めぇ〜!!!」


 若武者は絶叫した。

 あまりに酷い現実を敵の口から告げられたのだ。激昂するのも当然だろう。

 それにしても、張飛の加虐嗜好は有名だが、まさか幼女趣味まで持っていようとは思わなかった。

 若武者の従妹は相当無残な死を迎えたに違いない。

 周りを見渡すと、自軍の将の行いを恥じているのか、亡き若武者の従妹を思っているのか、或いは、従妹の残した娘たちの将来を悲観しているのか、皆俯いていた。


「むははははは」


 無情にも、張飛の下卑た笑い声だけが、川岸に響いている。


「があぁぁぁあああ!」


 雄叫びとともに向こう岸の若武者が吠えた。

 手には短弓を構え、強く引き絞って狙いを定めている。

 短弓とはいえ、強く引かれた弦が若武者の膂力が並でないことを示している。


「ちょおひぃぃぃ! うけてみろぉぉぉお!!!」


 目一杯に引かれた弦から上方に放たれた矢は、弧を描きながらも正確に張飛に向かって飛んで来た。狙われた張飛は、しかし、動かずにその矢をまるでその身に受けるかのようだ。


トッ…


 矢は見事張飛の胸に命中した。

 完璧に心臓の位置を捉えていた。


 カランッ


 はあぁ~


 皆が一斉にため息をついた。


「強弩の末、魯縞に入る能わず…か…」


 当たるも、穿つことなく地面に落下した矢の音のなんと虚しきことよ。

 そもそも、短弓の矢で殺傷するには、距離が離れすぎているのだ。

 分かっていたことだが、本当に残念でならない。

 若武者はうなだれたまま、トボトボと騎兵の中に消えていった。

 曹公軍も先発の軽騎兵が揃ったようで、その数はざっと1万に達しようとしていた。

 振り返れば、こちらも劉備軍精鋭の騎兵部隊、皆、下馬して張飛同様に長弓を手にしている。

 中には足弓を装着している者もいた。

 ……なるほど、最初からこれが目的だったか……


「構えー……撃てぇ~」


 得意満面の張飛、敵の矢が届かないのは、実証済みて、一方的に敵をなぶれる状況が余程嬉しいらしい。


 馬鹿馬鹿しい……

 風を切る凄まじい数の矢の音と、民が敵兵か区別のつけようもない阿鼻叫喚を背後に、私はその場を後にした。





 橋があった場所から離れて行くにつれ、そこかしこから、女子供の悲鳴が聞こえてくる。

 橋を渡って、生き延びた流民たちのそれだ。


「ぱ~、ま~!」


 目に付いたのは二人の童子……

 一人は泣きながら頻りに親の名を叫び、一人は呆然として立ち尽くしている。


「父母とはぐれたのか?」


 たまらず声をかけた。


「父ちゃん母ちゃんだけじゃねえ! 姉ちゃんも妹も兵隊につれてかれ、爺ちゃんは殺されちまったぁ……」


 泣き叫んでいた子が、そう答えた。

 返す言葉が見つから無い……

 気がつくと、隣で呆然としていた子が私の袖を引いていた。


「臥龍先生、教えてくれ。おらぁ、頭悪いからわかんねぇ。劉将軍様はおらたちを救ってくれるんじゃなかったんか? 劉将軍様についていったら、おいしいおまんまが毎日食えるって、父ちゃんも母ちゃんも爺ちゃんも言ってたのに……おらも、達も、家族みんな殺されるか拐かされちまった……なんでだ? なんで劉将軍様はおらたちを見捨てたままにしているんだ?」




「坊……よ……」


「将軍様だけじゃねえ!関羽は? 張飛は~? なんでぇ? 、なんでぇ、みんな来てくれねぇんだ? このままじゃみんな殺されちまう……。なぁ、先生教えてくれ !本当に、本当に劉将軍様を信じてもいいんか?」


 い、言えない……近くに立っているあの男が、民が虐殺される様子を悦に入りながら眺めているあの男が、民たちの退路を断ち、絶望に追い落としたあの悪鬼が張飛だとは……絶対に言えない…

 言えばこの子等は殺される。奴は女子供にすら容赦ない……いや、寧ろ喜んでするだろう。

 そして、この状況を作り出した張本人が、他ならぬ劉備玄徳と知ったらこの子等の心は……くっ……


「坊……よ、名はなんという?」


「…彊……范彊だ…この泣いてる奴が張達……幼なじみなんだ……」


「そうか……」


 もはや、彼らが親兄弟と再開する事は出来まい。

 こうした孤児たちをつくってしまった責任は私にもある。

 やはり、あの時、命をかけて反対しておけば良かったのだ……それを私は……

 悔やんでも悔やみきれない。

 民を捨て駒として平気で扱う劉備とその配下共に、心底嫌気が差した。

 やはり、私が民を救わなければならない……そして、劉備を、この諸葛亮が滅ぼさなければならない。


 それが私の宿命なのだ。


 范彊、張達の二人の頭に手を乗せて我が身に寄せた。


「坊らよ、今はじっと耐えてくれ……必ずこの臥龍が、お前たち民を幸せにしてみせる!」


「先生……」


 日が暮れて、夕闇が辺りを覆ってゆく。

 川の向こうでは今も虐殺が続いている。

 対岸には劉備軍の伏兵がいたようで、矢を受けながらの背水の陣に、先行した曹公の軽騎兵は殲滅させられ、多くの民と曹公軍の兵士の血が流れた。

 坂を下りながら集まり、川を形成したそれは、やがて、水の川と合流しその水面を赤へと変えつつ、さらなる本流へと合流していくことだろう。

 数千里をかけて海へと合流するまで、その色を変えることは、今日ここで死んでいった者たちの情念が許しはしない……


 長坂坡は、その名の通り、長い坂が続く土地である。この日、曹操軍の追撃を受けた劉備軍は壊滅的な打撃を受けた。配下の諸将は散り散りとなり、劉備は妻子や自分を慕ってついて来た十数万の民を捨てて逃亡したため、結果、夥しい数の民が虐殺されたという。

 しかし、不思議な事があるもので、劉備配下の名だたる武将・文官に戦死した者はいなかった。

 そう……皆無であったのだ…

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