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第二話 送終②

 倭国から人質として連れてこられた小文だが、その価値は実のところ薄い。今は落ちぶれた家系の娘であり、華国としても正直扱いに困るほどである。


 皇帝から寵愛を受ける后妃の一人が倭国出身であるため、下手に妃としようものなら争いの火種となるは必定。かといって不要と切り捨てられるほど軽い家柄でもない。落ちぶれたとはいえ倭国で名は広く知れ渡っている。


 故に通倭司の司官として、一応の体裁を整えられている彼女であるが、もし倭国との戦となれば話は別である。もはや倭国に気を遣うは不要。人質の用を成さぬとして、即刻切り捨てられてもおかしくはない。


 小文自身もそれを理解している。仕事自体は不出来でも大して咎められないが、倭国との戦だけは何としても避けなければ、己の命が消し飛びかねない。


 だが奇妙なことに――小文が何より気にかけているのは、目の前にある「真実」であった。もはやこれは、彼女の性分であろう。


「誤訳ではないとしても、聞き間違いという線は考えられませんか?」


 彼女の口から出た言葉は言い逃れでも命乞いでもない、一つの可能性であった。


「聞き間違いだと?」


 陸子衡はあざけるような声色で、小文に問い返す。小文はすぐには答えず、一拍置くようにして自分の座卓に座り、紙に倭国の文字を書いた。


 彼女もまた誤訳の可能性を考えていた。倭国人が他国の言葉を完璧に使いこなすことは、相応に難しい。いくら公書を担当する人材が優秀な者であろうとも、そこに間違いが一切ないと決めつけるのは早計である。


 小文は筆を止め、乾いた喉を潤すために一度唾を飲んでから、ようやく彼の問いに答えた。


「『送終』は倭国の崩し字で書くと、『そんちょん』となります。これと同じ発音の『送鐘』と聞き間違えた、という可能性は考えられませんか?」


 そんちょん、送終、送鐘。同じ発音の三つの言葉が並べて書かれた紙を手にして立ち上がり、小文は司長たちに見せる。


 しかしそれを見せた瞬間、司長の顔色が一気に真っ赤になった。机を蹴り上げんばかりの勢いで一歩踏み出し、怒りの声を小文に叩きつける。


「馬鹿か貴様は! 仮に『送鐘』であるとすれば『これは送鐘の礼なり』となってしまうだろうが!! これが何を意味するか、倭人の貴様は知らんと言うのか!」


 怒鳴る司長を他の司官たちが必死に抑えつけ、そのうちの一人が小文にも分かるように説明した。


「それでは倭国が我が国に時計を贈るという意になります。それはあまりに無礼なことかと」


 華国語で「鐘」は、大きな音を鳴らす鐘とは別に「時計」という意味もある。


「時計を贈る行為は、我が華国においては最大の禁忌。発音がどちらも同じであるが故に、極めて失礼なことであるとされているのです」


 倭国人であるためにこの礼儀を知らないと思ったのか、司官が丁寧に説明する。だが華国にそれなりに長くいる小文はそれを知っていた。そして華国の人には常識である禁忌が、倭国の人にとってはピンとこないものであることも。


「ですが、それは倭国にない風習です」


 言葉を選びながら、小文は続ける。


「倭国はかつて華国から文字を輸入して、書き言葉として華国の文字を使うようになりました。しかし、発音は倭国独自のものなのです」


 だから倭国の人は『送終』と『送鐘』が繋がらない。発音が異なるからである。時計を贈るという行為は、何も失礼にあたらない。


「ならばこれは『華国と長くありたいという意味をこめて時計を贈ります』という内容に解釈できませんか?」


 硯の水面が、誰かの動きでわずかに揺れ動いた。


 倭国もまた通倭司と同じように複数人で外交の信書を書いているはずだ。ならばそのやり取りの中で聞き間違い、あるいは書き間違いが生じてもおかしくはない。


 送終の礼ではなく、送鐘の礼。ただ単に時計を贈る礼をすることで、貴国と共にいたいと願う信書ではないかと小文は考えていたのであった。


「しかし、それでは倭国が用意した時計が華国に届いているはずでは……?」


 司官の疑問に小文は一度唇を湿らせた。


「大方、港で貿易官に止められているか、あるいは後宮の交易担当者によって保管されているのでしょう」


 倭国から時計が届くということそれ自体が不敬である。輸入を許可することなどできず、担当者も頭を抱えているであろう。


「取り急ぎ、港か後宮の交易担当者に時計が届いていないかご確認いただいてから判断されてはいかがでしょうか?」


 小文の話を聞いていた司長は次第に冷静さを取り戻すと、腕を組み黙考した後、低い声で呟いた。


「『我が国と長くありたいという意味をこめて時計を贈る』か……ふん、倭国の書にふさわしい玉虫色の回答だな」


 華国との友好について触れてはいるものの、北の小国と縁を切るとも言わず、端から具体的なことは何一つ記載がない。


「曖昧な文章でごまかそうとしている、実に倭人らしい文章だ」


「倭人らしい……?」


 小文が思わず口にした疑問に対し、司長は睨みを利かせたが、しかし何も言わずに他の司官たちに仕事を割り振った。


「皆は急ぎ港へ向かい、倭国より時計が来ていないか確認せよ。確認ができ次第、俺は帝の元に行く。倭国の真意を確かめるため時間を頂けるよう懇願せねばな」


 司長の命により、司官たちは一斉に動き始めた。


 港へ向かった者たちは、倭国からの積荷の記録を確認しようとした。しかし担当の貿易官は当初、頑なに首を縦に振ろうとしなかった。


「倭国より届いた品は確かにある。だが……後宮へ送るわけにはいかぬ」


 時計を贈るという行為が華国においてどれほどの禁忌であるかを考えれば、彼の態度も無理からぬことであった。記録こそ残してあるが正式な手続きを進めることもできず、倉に封をしたまま判断を先送りにしていたのだという。


 華国の港は後宮ではなく、朝廷側の管轄になっている。それ故に調査はやや難航したが、何度かの確認と説得の末、倭国から時計が届いていることがついに明らかになった。


 次いで、倭国の真意を問う公書が改めて書かれる。同時に時計を贈るという無礼を詫びさせる必要もあり、通倭司としての文章力が試される機会でもあった。


 公書が書き上げられた後、快速船で急ぎ返書を持ち帰るようにと、呉成ウーチャン(倭読:ごせい)という真面目な男に倭国使の役が与えられた。倭国との最短である南回りの航路で船を走らせるという、命の危険を伴う役回りである。


 行きはともかく帰りは初冬の頃であるため相当に危ない橋であるが、すでに倭国からの返答を皇帝に一ヶ月も待たせてしまっている。悠長に事を構えているというわけにもいかなかった。


 通倭司の者たちが忙しなく動く中、小文は一つ大きく息をついた。ちなみにこの間、彼女は墨を磨ることくらいしかしていない。


(首の皮一枚繋がったかなぁ……)


 しかし、小文には一つだけ気になることがあった。


 確かに倭国には「時計を贈る」ことが「無礼である」というしきたりはない。


 だが一方で「時計を贈る」という慣例もないのである。そもそも倭国という小国の技術力では、時計を作ることができるかどうかも怪しい。


(いったい誰が「時計を贈ろう」などと考えたのだろう……)


 華国と長くありたいという意味をこめて時計を贈ろう――そのような考えをした洒落者がいたのなら、確かにあり得なくもないが、果たして華国という大国相手にそんな気の利かせ方をするだろうか?


 無難に玉虫色の回答を書こうとするのが自然である。なぜ倭国の人は、急に時計を贈ろうなどと思い至ったのだろう。


 喉の奥に骨がつかえたようなわだかまりは、小文の胸の中に残ったままだった。

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