名を与えし少女と、名を奪われた領主
目を開けた瞬間、世界が知らない色をしていた。
湿った土の匂い。風に混じる甘い花の香り。見たことのない木々が空を覆うように枝を伸ばしている。
私は地面に倒れたまま、肺に空気を押し込むようにして息を吸った。
「……ここ、どこ……?」
声は震えていた。
さっきまで私は、確かに日本の道路にいた。夜の横断歩道。車のライト。急ブレーキの音。
そこまで思い出したところで、胸がざわりと波打つ。
死んだのだろうか。
それとも、夢だろうか。
立ち上がろうとした瞬間、森の奥から“それ”が近づいてきた。
空気が変わった。
風が止まり、鳥の声が消え、木々がざわりと震える。
まるで世界そのものが、何かを恐れて息を潜めたようだった。
足音はしない。
ただ、冷たい気配だけが近づいてくる。
私は反射的に身を縮めた。
逃げる場所などないのに、身体が勝手に震える。
そして――彼が現れた。
白い。
最初にそう思った。
肌も、髪も、纏う空気までもが、光を吸い込むような白さをしている。
20代後半ほどの年齢に見えるが、その美しさは人間の枠から少し外れていた。
無表情。
感情の影が一切ない。
ただ、深い湖の底のような瞳だけが、私を静かに見下ろしていた。
その視線が、私の全身をゆっくりと撫でる。
私は息を呑んだ。
――見られている。
私の髪は黒に近い深い茶色で、森の薄光を受けると水面のように揺れた。
怯えで揺れる瞳の奥に、折れない芯があることを自分でも感じていた。
華奢な体つきなのに、風に流されるだけの弱さではない。
そんな自分を、彼は静かに見つめていた。
まるで、私の“水”を見透かすように。
「……人間?」
低い声が、森の温度をさらに下げた。
その声に触れた瞬間、背筋がぞくりと震える。
怖い。
でも、目が離せない。
私は喉を震わせながら答えた。
「ひ、人間……です。たぶん……」
彼は瞬きひとつせず、私を観察するように視線を滑らせた。
その視線が肌に触れるたび、冷たい痺れが走る。
魔力だ、と直感した。
普通の“力”ではない。
「この森に人間が迷い込むことはない。……お前は、どこから来た?」
「わ、わかりません……気づいたら、ここに……」
彼はしばらく沈黙した。
その沈黙が、痛いほど重い。
やがて、彼はゆっくりと手を伸ばした。
触れられる――そう思った瞬間、私は反射的に後ずさる。
「っ……!」
彼の指先が空気をかすめただけで、森の魔力がざわりと揺れた。
まるで彼の存在そのものが、世界の法則から少し外れているようだった。
「怯えるな。殺しはしない」
その言葉は淡々としているのに、なぜか嘘ではないと感じた。
私は息を呑み、彼の手を見つめる。
「立てるか」
「……はい」
震える足で立ち上がると、彼は背を向けた。
その背中は、孤独そのもののように見えた。
「来い。ここに置いていけば、魔物に喰われる」
「……あ、あの……あなたは……」
名前を聞こうとした瞬間、彼の足が止まった。
振り返った瞳が、わずかに揺れた気がした。
「……名はない」
「え……?」
「奪われた。昔の話だ」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥がひどくざわついた。
理由はわからない。
けれど、“名前を呼ばれない孤独”というものを、私はどこかで知っている気がした。
記憶ではない。
もっと曖昧で、もっと深い場所に沈んでいる痛み。
その空白に触れたとき、胸が締めつけられた。
――この人には、名前が必要だ。
そう思った理由は、まだ言葉にならなかった。
「だが、呼び名ならある」
「呼び名……?」
「“白狼”と呼ばれている」
白狼――
その二つ名は、彼の冷たい美しさと異質な魔力に、あまりにもよく似合っていた。
私は小さく頷いた。
「……白狼様」
その瞬間、彼の魔力がわずかに揺れた。
風がひとつ、森を撫でる。
「……好きに呼べ」
それだけ言って、彼は歩き出す。
私は慌ててその後を追った。
森を抜けると、灰色の石造りの屋敷が現れた。
重く、静かで、どこか寂しい建物。
門の前に立つ兵士たちは、白狼を見るなり背筋を伸ばし、私を見ると困惑の色を浮かべた。
「領主様、その者は……?」
「保護する。部屋を用意しろ」
兵士たちは驚いたように目を見開いた。
白狼――彼がこの地の領主なのだと、その反応で理解した。
「は、はい……!」
私は兵士たちの視線に耐えきれず、白狼の背中に隠れるように立った。
彼は振り返らない。
ただ、歩みを止めずに屋敷の中へ進んでいく。
部屋に案内されると、白狼は扉の前で立ち止まった。
「ここで休め。……お前の名は?」
「え……あ、私の……?」
突然の問いに、胸が跳ねる。
私は慌てて名を告げた。
「……澪です」
白狼はその名を、無表情のまま反芻するように口の中で転がした。
「……そうか」
それだけ言って、彼は去っていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
私はベッドに腰を下ろし、深く息を吐く。
――名前を、聞けた。
でも、彼には名前がない。
胸の奥が、ひどくざわついた。
理由はわからない。
ただ、あの無表情の奥にある“何か”に触れた気がして、心が落ち着かなかった。
「……白狼様……」
その名を小さく呟くと、胸がきゅっと締めつけられた。
私はそのまま、疲れに負けて眠りに落ちた。
知らない世界で、知らない領主の屋敷で。
名を奪われた男の、冷たい魔力の余韻に包まれながら。
朝の光が薄いカーテン越しに差し込んでいた。
澪はゆっくりと目を開け、見知らぬ天井を見つめた。
昨夜の出来事が、夢ではなかったことを思い出す。
――白狼様。
名を奪われた領主。
冷たい美しさと、異質な魔力。
そして、無表情の奥にある、言葉にできない孤独。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
扉がノックされ、澪は慌てて身を起こした。
「失礼します。朝食の準備ができております」
入ってきたのは、若い女性の使用人だった。
澪を見る目は、驚きと警戒と、少しの好奇心が混じっている。
「白狼様が……あなたを保護されたと聞きました」
「え、えっと……はい」
「……珍しいことです」
その言葉には、深い意味が含まれていた。
澪は何も言えず、ただ小さく頷いた。
使用人に案内され、広い廊下を歩く。
石造りの壁は冷たく、空気は静まり返っている。
屋敷全体が、白狼の無表情をそのまま写したようだった。
食堂に入ると、数人の兵士や使用人が食事をしていた。
澪が入った瞬間、空気がわずかに揺れる。
「……あの子が?」
「領主様が連れてきたって……」
「人間の女……?」
ひそひそとした声が耳に刺さる。
澪は肩をすくめ、視線を落とした。
「こちらへどうぞ」
使用人が席を示す。
澪は小さく礼を言い、席についた。
食事は温かく、優しい味がした。
けれど、周囲の視線が気になって、味わう余裕はなかった。
「……澪」
突然、背後から低い声が落ちてきた。
澪はびくりと肩を震わせ、振り返る。
白狼が立っていた。
無表情のまま、澪を見下ろしている。
その姿に、食堂の空気が一瞬で凍りついた。
「食事は口に合うか」
「は、はい……とても……」
白狼は小さく頷き、周囲に視線を向けた。
「澪は当面、この屋敷で保護する。必要なものがあれば私に言え」
その言葉に、兵士たちがざわめいた。
「領主様が……名前を呼んだ……?」
「いや、あれは……」
「人間の女に、あんな……」
澪の頬が熱くなる。
白狼は周囲の反応など気にしていないようだった。
「食べ終わったら、私の執務室へ来い」
「えっ……あ、はい……」
白狼はそれだけ言って去っていった。
澪は胸を押さえ、深く息を吐く。
――名前を、呼ばれた。
それだけで、心がざわつく。
けれど、そのざわつきの理由はまだわからなかった。
***
執務室に入ると、白狼は机に向かって書類を読んでいた。
澪が入ったことに気づくと、顔を上げる。
「来たか」
「お、お邪魔します……」
「邪魔ではない」
白狼は淡々と言い、澪に椅子を示した。
澪は緊張しながら座る。
「お前の身元について、少し話を聞きたい」
「……私、本当に何も覚えていなくて……」
「覚えていない、か」
白狼は澪をじっと見つめた。
その瞳は冷たいのに、どこか深い。
「魔力の痕跡がない。お前はこの世界の人間ではないのだろう」
「……はい」
白狼はわずかに眉を寄せた。
それは、彼が初めて見せた“感情の影”だった。
「異世界からの転移者は、稀にいる。だが……」
「だが……?」
「この世界に呼ばれる理由は、決して幸福なものではない」
澪は息を呑んだ。
「……私、どうなるんでしょうか」
白狼は少しだけ視線を逸らした。
その仕草が、妙に人間らしく見えた。
「わからない。だが……」
彼は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「私は、お前を害するつもりはない」
その言葉は、無表情のままなのに、不思議と温かかった。
澪は胸がじんと熱くなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
白狼は澪の礼に反応しない。
ただ、机の上の書類を指で軽く叩いた。
「しばらくは屋敷で働いてもらう。何もしないでいると、周囲が余計な詮索をする」
「働く……?」
「できることをすればいい。無理はさせない」
澪は小さく頷いた。
「……はい。頑張ります」
白狼はその言葉に、ほんのわずかだけ目を細めた。
それは、微笑みとは言えない。
けれど、澪には“柔らかさ”のように見えた。
「澪」
「……はい」
「その名は……呼びやすい」
澪の心臓が跳ねた。
「え……」
白狼は視線を逸らし、淡々と続ける。
「意味があるのだろう。静かで、強い響きだ」
「……!」
澪の胸の奥が熱くなる。
白狼の言葉は、どれも淡々としているのに、なぜか心に深く刺さる。
そのとき、澪はふと気づいた。
――名前は、誰かを救うことがある。
白狼が澪の名を呼ぶたびに、彼の魔力が静まる。
その現象を見ているうちに、澪の中でひとつの思いが芽生えた。
――この人にも、呼ばれるべき名が必要なのではないか。
理由はまだ曖昧だった。
けれど、胸の奥で静かに灯ったその思いは、消えなかった。
***
その瞬間、扉が勢いよく開いた。
「領主様! 魔物の群れが北の森に――!」
兵士が駆け込んできた。
白狼の表情が一瞬で冷たく戻る。
「すぐに向かう」
立ち上がる白狼の背中は、孤独と決意に満ちていた。
澪は思わず叫ぶ。
「白狼様!」
白狼は振り返らない。
ただ、低く言った。
「澪。ここにいろ」
そして、彼は去っていった。
澪は胸を押さえ、震える声で呟いた。
「……名前を……呼んでほしい……」
その願いは、まだ白狼には届かない。
北の森に魔物が現れたという報せから、すでに数時間が経っていた。
澪は屋敷の一室で、落ち着かないまま窓の外を見つめていた。
白狼――彼は、まだ戻らない。
胸の奥がざわつく。
理由はわからない。
ただ、彼の無事を願う気持ちが、どうしようもなく強くなっていた。
「……白狼様……」
その名を呟くと、胸がきゅっと締めつけられる。
彼が自分の名前を呼んだときの声が、耳の奥に残っていた。
――澪。
あの声は、冷たいのに優しかった。
無表情なのに、どこか揺れていた。
その揺れの理由を、澪はまだ知らない。
***
夜が深くなった頃、屋敷がざわめいた。
兵士たちが慌ただしく走り回る。
「領主様が戻られた!」
澪は反射的に廊下へ飛び出した。
兵士たちの間をすり抜け、玄関へ向かう。
そこには、血に染まった白狼がいた。
「……白狼様!」
澪は駆け寄る。
白狼は片膝をつき、肩で息をしていた。
その周囲の空気は、いつも以上に冷たく、荒れている。
「触れるな……魔力が乱れている」
白狼は低く言ったが、澪は首を振った。
「触れます……!」
澪が手を伸ばすと、白狼の魔力がざわりと揺れた。
しかし、澪の指先が彼の腕に触れた瞬間――
魔力が、静まった。
白狼は驚いたように目を見開いた。
「……澪……」
「大丈夫です。私、平気ですから……!」
澪は白狼の腕を支え、兵士たちに叫んだ。
「治療室へ! 早く!」
兵士たちは慌てて白狼を支え、治療室へ運んだ。
***
治療室で、白狼はベッドに横たわっていた。
傷は深く、魔力の暴走で身体が内側から焼けているようだった。
治療師が首を振る。
「領主様の魔力は異質すぎます……通常の治癒魔法が通じません」
澪は白狼の手を握った。
その手は氷のように冷たい。
「……白狼様……」
白狼は薄く目を開け、澪を見つめた。
「……来るなと言ったはずだ」
「来ます。だって……」
澪は言葉を飲み込んだ。
胸が痛くて、声が震える。
「だって……心配で……」
白狼の瞳が、わずかに揺れた。
「……澪」
その声は弱く、かすれていた。
「私の魔力は……お前を傷つける……」
「傷つきません。だって……」
澪は白狼の手を両手で包み込んだ。
「白狼様は、私の名前を呼んでくれたから」
白狼は息を呑んだ。
「……それは……」
「私の名前を呼ぶと、魔力が静まるって……言ってましたよね」
白狼は目を閉じ、苦しげに息を吐いた。
「……あれは……理由がわからない……」
「理由なんて、今はいいです」
澪は白狼の手をぎゅっと握った。
「私が呼びます。白狼様の……本当の名前を」
白狼の瞳が大きく開かれた。
「……本当の……?」
「奪われたって、言ってましたよね」
澪は静かに微笑んだ。
涙が頬を伝っていた。
「返します。私が……あなたに」
白狼は震える声で言った。
「……私は……名を持つ資格など……」
「あります」
澪は首を振った。
「あなたは、誰よりも……名前を必要としている」
白狼の瞳が揺れ、魔力が微かに震えた。
澪は白狼の手を胸に抱き、そっと囁いた。
「――ルシエル」
その瞬間、治療室の空気が変わった。
白狼の魔力が、光の粒となって舞い上がる。
冷たかった空気が、静かに温度を取り戻す。
白狼の身体を蝕んでいた魔力が、澪の声に溶けるように消えていく。
白狼――いや、ルシエルは、驚いたように澪を見つめた。
「……ルシエル……?」
「あなたの名前です」
澪は涙を拭いながら微笑んだ。
「光のように静かで、冷たくて……でも、優しい名前」
ルシエルの瞳が揺れ、唇が震えた。
「……澪……」
その声は、今までで一番、人間らしかった。
「澪……」
澪の胸が熱くなる。
ルシエルが、初めて澪の名を呼んだ。
「……ありがとう……」
その言葉は、かすかに震えていた。
無表情の奥に隠されていた感情が、初めて表に出た瞬間だった。
澪はルシエルの手を握り返し、静かに答えた。
「こちらこそ……生きていてくれて、ありがとう」
ルシエルは目を閉じ、安堵の息を吐いた。
その顔は、初めて“冷たさ”ではなく“静けさ”を宿していた。
澪はその手を離さず、そっと囁いた。
「これからは……ルシエル様って呼びますね」
ルシエルは微かに頷いた。
「……澪」
その声は、澪の名を確かめるように優しかった。
「お前の名は……私を救う」
澪は涙をこぼしながら微笑んだ。
「ルシエル様の名も……私を救います」
二人の手が重なり、魔力が静かに溶け合う。
奪われた名は、澪の声によって取り戻された。
そして、澪の名は、ルシエルの心を初めて温めた。
冷たい光と静かな水が、ようやく触れ合った夜だった。




