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名を与えし少女と、名を奪われた領主

作者: かも@ろん
掲載日:2026/02/26

目を開けた瞬間、世界が知らない色をしていた。

湿った土の匂い。風に混じる甘い花の香り。見たことのない木々が空を覆うように枝を伸ばしている。

私は地面に倒れたまま、肺に空気を押し込むようにして息を吸った。

「……ここ、どこ……?」

声は震えていた。

さっきまで私は、確かに日本の道路にいた。夜の横断歩道。車のライト。急ブレーキの音。

そこまで思い出したところで、胸がざわりと波打つ。

死んだのだろうか。

それとも、夢だろうか。

立ち上がろうとした瞬間、森の奥から“それ”が近づいてきた。

空気が変わった。

風が止まり、鳥の声が消え、木々がざわりと震える。

まるで世界そのものが、何かを恐れて息を潜めたようだった。

足音はしない。

ただ、冷たい気配だけが近づいてくる。

私は反射的に身を縮めた。

逃げる場所などないのに、身体が勝手に震える。

そして――彼が現れた。

白い。

最初にそう思った。

肌も、髪も、纏う空気までもが、光を吸い込むような白さをしている。

20代後半ほどの年齢に見えるが、その美しさは人間の枠から少し外れていた。

無表情。

感情の影が一切ない。

ただ、深い湖の底のような瞳だけが、私を静かに見下ろしていた。

その視線が、私の全身をゆっくりと撫でる。

私は息を呑んだ。

――見られている。

私の髪は黒に近い深い茶色で、森の薄光を受けると水面のように揺れた。

怯えで揺れる瞳の奥に、折れない芯があることを自分でも感じていた。

華奢な体つきなのに、風に流されるだけの弱さではない。

そんな自分を、彼は静かに見つめていた。

まるで、私の“水”を見透かすように。

「……人間?」

低い声が、森の温度をさらに下げた。

その声に触れた瞬間、背筋がぞくりと震える。

怖い。

でも、目が離せない。

私は喉を震わせながら答えた。

「ひ、人間……です。たぶん……」

彼は瞬きひとつせず、私を観察するように視線を滑らせた。

その視線が肌に触れるたび、冷たい痺れが走る。

魔力だ、と直感した。

普通の“力”ではない。

「この森に人間が迷い込むことはない。……お前は、どこから来た?」

「わ、わかりません……気づいたら、ここに……」

彼はしばらく沈黙した。

その沈黙が、痛いほど重い。

やがて、彼はゆっくりと手を伸ばした。

触れられる――そう思った瞬間、私は反射的に後ずさる。

「っ……!」

彼の指先が空気をかすめただけで、森の魔力がざわりと揺れた。

まるで彼の存在そのものが、世界の法則から少し外れているようだった。

「怯えるな。殺しはしない」

その言葉は淡々としているのに、なぜか嘘ではないと感じた。

私は息を呑み、彼の手を見つめる。

「立てるか」

「……はい」

震える足で立ち上がると、彼は背を向けた。

その背中は、孤独そのもののように見えた。

「来い。ここに置いていけば、魔物に喰われる」

「……あ、あの……あなたは……」

名前を聞こうとした瞬間、彼の足が止まった。

振り返った瞳が、わずかに揺れた気がした。

「……名はない」

「え……?」

「奪われた。昔の話だ」

その言葉が落ちた瞬間、胸の奥がひどくざわついた。

理由はわからない。

けれど、“名前を呼ばれない孤独”というものを、私はどこかで知っている気がした。

記憶ではない。

もっと曖昧で、もっと深い場所に沈んでいる痛み。

その空白に触れたとき、胸が締めつけられた。

――この人には、名前が必要だ。

そう思った理由は、まだ言葉にならなかった。

「だが、呼び名ならある」

「呼び名……?」

「“白狼はくろう”と呼ばれている」

白狼――

その二つ名は、彼の冷たい美しさと異質な魔力に、あまりにもよく似合っていた。

私は小さく頷いた。

「……白狼様」

その瞬間、彼の魔力がわずかに揺れた。

風がひとつ、森を撫でる。

「……好きに呼べ」

それだけ言って、彼は歩き出す。

私は慌ててその後を追った。

森を抜けると、灰色の石造りの屋敷が現れた。

重く、静かで、どこか寂しい建物。

門の前に立つ兵士たちは、白狼を見るなり背筋を伸ばし、私を見ると困惑の色を浮かべた。

「領主様、その者は……?」

「保護する。部屋を用意しろ」

兵士たちは驚いたように目を見開いた。

白狼――彼がこの地の領主なのだと、その反応で理解した。

「は、はい……!」

私は兵士たちの視線に耐えきれず、白狼の背中に隠れるように立った。

彼は振り返らない。

ただ、歩みを止めずに屋敷の中へ進んでいく。

部屋に案内されると、白狼は扉の前で立ち止まった。

「ここで休め。……お前の名は?」

「え……あ、私の……?」

突然の問いに、胸が跳ねる。

私は慌てて名を告げた。

「……澪です」

白狼はその名を、無表情のまま反芻するように口の中で転がした。

「……そうか」

それだけ言って、彼は去っていった。

扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

私はベッドに腰を下ろし、深く息を吐く。

――名前を、聞けた。

でも、彼には名前がない。

胸の奥が、ひどくざわついた。

理由はわからない。

ただ、あの無表情の奥にある“何か”に触れた気がして、心が落ち着かなかった。

「……白狼様……」

その名を小さく呟くと、胸がきゅっと締めつけられた。

私はそのまま、疲れに負けて眠りに落ちた。

知らない世界で、知らない領主の屋敷で。

名を奪われた男の、冷たい魔力の余韻に包まれながら。


朝の光が薄いカーテン越しに差し込んでいた。

澪はゆっくりと目を開け、見知らぬ天井を見つめた。

昨夜の出来事が、夢ではなかったことを思い出す。

――白狼様。

名を奪われた領主。

冷たい美しさと、異質な魔力。

そして、無表情の奥にある、言葉にできない孤独。

胸の奥が、少しだけ痛んだ。

扉がノックされ、澪は慌てて身を起こした。

「失礼します。朝食の準備ができております」

入ってきたのは、若い女性の使用人だった。

澪を見る目は、驚きと警戒と、少しの好奇心が混じっている。

「白狼様が……あなたを保護されたと聞きました」

「え、えっと……はい」

「……珍しいことです」

その言葉には、深い意味が含まれていた。

澪は何も言えず、ただ小さく頷いた。

使用人に案内され、広い廊下を歩く。

石造りの壁は冷たく、空気は静まり返っている。

屋敷全体が、白狼の無表情をそのまま写したようだった。

食堂に入ると、数人の兵士や使用人が食事をしていた。

澪が入った瞬間、空気がわずかに揺れる。

「……あの子が?」

「領主様が連れてきたって……」

「人間の女……?」

ひそひそとした声が耳に刺さる。

澪は肩をすくめ、視線を落とした。

「こちらへどうぞ」

使用人が席を示す。

澪は小さく礼を言い、席についた。

食事は温かく、優しい味がした。

けれど、周囲の視線が気になって、味わう余裕はなかった。

「……澪」

突然、背後から低い声が落ちてきた。

澪はびくりと肩を震わせ、振り返る。

白狼が立っていた。

無表情のまま、澪を見下ろしている。

その姿に、食堂の空気が一瞬で凍りついた。

「食事は口に合うか」

「は、はい……とても……」

白狼は小さく頷き、周囲に視線を向けた。

「澪は当面、この屋敷で保護する。必要なものがあれば私に言え」

その言葉に、兵士たちがざわめいた。

「領主様が……名前を呼んだ……?」

「いや、あれは……」

「人間の女に、あんな……」

澪の頬が熱くなる。

白狼は周囲の反応など気にしていないようだった。

「食べ終わったら、私の執務室へ来い」

「えっ……あ、はい……」

白狼はそれだけ言って去っていった。

澪は胸を押さえ、深く息を吐く。

――名前を、呼ばれた。

それだけで、心がざわつく。

けれど、そのざわつきの理由はまだわからなかった。

***

執務室に入ると、白狼は机に向かって書類を読んでいた。

澪が入ったことに気づくと、顔を上げる。

「来たか」

「お、お邪魔します……」

「邪魔ではない」

白狼は淡々と言い、澪に椅子を示した。

澪は緊張しながら座る。

「お前の身元について、少し話を聞きたい」

「……私、本当に何も覚えていなくて……」

「覚えていない、か」

白狼は澪をじっと見つめた。

その瞳は冷たいのに、どこか深い。

「魔力の痕跡がない。お前はこの世界の人間ではないのだろう」

「……はい」

白狼はわずかに眉を寄せた。

それは、彼が初めて見せた“感情の影”だった。

「異世界からの転移者は、稀にいる。だが……」

「だが……?」

「この世界に呼ばれる理由は、決して幸福なものではない」

澪は息を呑んだ。

「……私、どうなるんでしょうか」

白狼は少しだけ視線を逸らした。

その仕草が、妙に人間らしく見えた。

「わからない。だが……」

彼は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。

「私は、お前を害するつもりはない」

その言葉は、無表情のままなのに、不思議と温かかった。

澪は胸がじんと熱くなるのを感じた。

「……ありがとうございます」

白狼は澪の礼に反応しない。

ただ、机の上の書類を指で軽く叩いた。

「しばらくは屋敷で働いてもらう。何もしないでいると、周囲が余計な詮索をする」

「働く……?」

「できることをすればいい。無理はさせない」

澪は小さく頷いた。

「……はい。頑張ります」

白狼はその言葉に、ほんのわずかだけ目を細めた。

それは、微笑みとは言えない。

けれど、澪には“柔らかさ”のように見えた。

「澪」

「……はい」

「その名は……呼びやすい」

澪の心臓が跳ねた。

「え……」

白狼は視線を逸らし、淡々と続ける。

「意味があるのだろう。静かで、強い響きだ」

「……!」

澪の胸の奥が熱くなる。

白狼の言葉は、どれも淡々としているのに、なぜか心に深く刺さる。

そのとき、澪はふと気づいた。

――名前は、誰かを救うことがある。

白狼が澪の名を呼ぶたびに、彼の魔力が静まる。

その現象を見ているうちに、澪の中でひとつの思いが芽生えた。

――この人にも、呼ばれるべき名が必要なのではないか。

理由はまだ曖昧だった。

けれど、胸の奥で静かに灯ったその思いは、消えなかった。

***

その瞬間、扉が勢いよく開いた。

「領主様! 魔物の群れが北の森に――!」

兵士が駆け込んできた。

白狼の表情が一瞬で冷たく戻る。

「すぐに向かう」

立ち上がる白狼の背中は、孤独と決意に満ちていた。

澪は思わず叫ぶ。

「白狼様!」

白狼は振り返らない。

ただ、低く言った。

「澪。ここにいろ」

そして、彼は去っていった。

澪は胸を押さえ、震える声で呟いた。

「……名前を……呼んでほしい……」

その願いは、まだ白狼には届かない。


北の森に魔物が現れたという報せから、すでに数時間が経っていた。

澪は屋敷の一室で、落ち着かないまま窓の外を見つめていた。

白狼――彼は、まだ戻らない。

胸の奥がざわつく。

理由はわからない。

ただ、彼の無事を願う気持ちが、どうしようもなく強くなっていた。

「……白狼様……」

その名を呟くと、胸がきゅっと締めつけられる。

彼が自分の名前を呼んだときの声が、耳の奥に残っていた。

――澪。

あの声は、冷たいのに優しかった。

無表情なのに、どこか揺れていた。

その揺れの理由を、澪はまだ知らない。

***

夜が深くなった頃、屋敷がざわめいた。

兵士たちが慌ただしく走り回る。

「領主様が戻られた!」

澪は反射的に廊下へ飛び出した。

兵士たちの間をすり抜け、玄関へ向かう。

そこには、血に染まった白狼がいた。

「……白狼様!」

澪は駆け寄る。

白狼は片膝をつき、肩で息をしていた。

その周囲の空気は、いつも以上に冷たく、荒れている。

「触れるな……魔力が乱れている」

白狼は低く言ったが、澪は首を振った。

「触れます……!」

澪が手を伸ばすと、白狼の魔力がざわりと揺れた。

しかし、澪の指先が彼の腕に触れた瞬間――

魔力が、静まった。

白狼は驚いたように目を見開いた。

「……澪……」

「大丈夫です。私、平気ですから……!」

澪は白狼の腕を支え、兵士たちに叫んだ。

「治療室へ! 早く!」

兵士たちは慌てて白狼を支え、治療室へ運んだ。

***

治療室で、白狼はベッドに横たわっていた。

傷は深く、魔力の暴走で身体が内側から焼けているようだった。

治療師が首を振る。

「領主様の魔力は異質すぎます……通常の治癒魔法が通じません」

澪は白狼の手を握った。

その手は氷のように冷たい。

「……白狼様……」

白狼は薄く目を開け、澪を見つめた。

「……来るなと言ったはずだ」

「来ます。だって……」

澪は言葉を飲み込んだ。

胸が痛くて、声が震える。

「だって……心配で……」

白狼の瞳が、わずかに揺れた。

「……澪」

その声は弱く、かすれていた。

「私の魔力は……お前を傷つける……」

「傷つきません。だって……」

澪は白狼の手を両手で包み込んだ。

「白狼様は、私の名前を呼んでくれたから」

白狼は息を呑んだ。

「……それは……」

「私の名前を呼ぶと、魔力が静まるって……言ってましたよね」

白狼は目を閉じ、苦しげに息を吐いた。

「……あれは……理由がわからない……」

「理由なんて、今はいいです」

澪は白狼の手をぎゅっと握った。

「私が呼びます。白狼様の……本当の名前を」

白狼の瞳が大きく開かれた。

「……本当の……?」

「奪われたって、言ってましたよね」

澪は静かに微笑んだ。

涙が頬を伝っていた。

「返します。私が……あなたに」

白狼は震える声で言った。

「……私は……名を持つ資格など……」

「あります」

澪は首を振った。

「あなたは、誰よりも……名前を必要としている」

白狼の瞳が揺れ、魔力が微かに震えた。

澪は白狼の手を胸に抱き、そっと囁いた。

「――ルシエル」

その瞬間、治療室の空気が変わった。

白狼の魔力が、光の粒となって舞い上がる。

冷たかった空気が、静かに温度を取り戻す。

白狼の身体を蝕んでいた魔力が、澪の声に溶けるように消えていく。

白狼――いや、ルシエルは、驚いたように澪を見つめた。

「……ルシエル……?」

「あなたの名前です」

澪は涙を拭いながら微笑んだ。

「光のように静かで、冷たくて……でも、優しい名前」

ルシエルの瞳が揺れ、唇が震えた。

「……澪……」

その声は、今までで一番、人間らしかった。

「澪……」

澪の胸が熱くなる。

ルシエルが、初めて澪の名を呼んだ。

「……ありがとう……」

その言葉は、かすかに震えていた。

無表情の奥に隠されていた感情が、初めて表に出た瞬間だった。

澪はルシエルの手を握り返し、静かに答えた。

「こちらこそ……生きていてくれて、ありがとう」

ルシエルは目を閉じ、安堵の息を吐いた。

その顔は、初めて“冷たさ”ではなく“静けさ”を宿していた。

澪はその手を離さず、そっと囁いた。

「これからは……ルシエル様って呼びますね」

ルシエルは微かに頷いた。

「……澪」

その声は、澪の名を確かめるように優しかった。

「お前の名は……私を救う」

澪は涙をこぼしながら微笑んだ。

「ルシエル様の名も……私を救います」

二人の手が重なり、魔力が静かに溶け合う。

奪われた名は、澪の声によって取り戻された。

そして、澪の名は、ルシエルの心を初めて温めた。

冷たい光と静かな水が、ようやく触れ合った夜だった。




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