Rhapsody III: 純愛のセレナーデ
人間は、自分たちの理解を超えた"定義できないもの"を『怪物』と名付けた。
自分たちが矮小な存在であることを棚に上げ、他者を勝手に恐れて不気味がる。
それでも、本当に人間が触れてはならない存在も確かに在て。
俺は、それを──ただ、美しいと思った。
◆
遺跡の口を抜けると、石の冷たさがほどけ、温い風が頬に触れた。
ルナの意識がほどけたせいか、静止していた世界にも遅れて音が戻ってくる。葉のこすれる気配と、遠くには鳥の声。
握っている手は驚くほど軽い。指の細さと温度が、歩幅に合わせてわずかに強弱をつけてくる。こちらが半歩だけ早めれば、彼女も半拍だけ進めて、すぐ同じテンポにそろう。砂の粒を踏む音まで、いつのまにか二つでひとつの音になっている。
「これからどうしようか」
俺が口を開くと、ルナは首を傾げてこちらを見る。
「……いっしょなら、なんでもいいよ」
「ん、俺もだよ。だけど、住む場所をどうするかは考えなくちゃな」
「……おうち?」
「ああ」
ルナが、少し考えて口を開く。
「……おうちができたら、またしてくれる?」
歩きながらも、わずかにうつむき、そっと頭を差し出してくる。どうやら撫でられるのがよほど気に入ったらしい。
「もちろん」
そう答えて、繋いでいないほうの手でルナの頭をやさしく撫でる。後ろ髪が、ふわりと微かに揺れた。
「……ん」
空気がやわらぎ、肩先が小さく弾む。
「そういえば、遺跡では俺ばっかり聞いてたけど。ルナも何か聞きたいこととかあるんじゃないか?」
「……うん」
少しの沈黙。たくさんの問いの中から、一つを選んでいるらしい。
「……どうして、ユウは……にんげんに、興味がないの?」
──ああ、そうか。
人間が、人間に無関心。人でない少女がそれを不思議に思うのは、当たり前のことだ。
「あー、そうだな。生まれた村が酷いところだったから、かな」
──言いながら、違和感を覚える。
仮に生まれたのがあの村じゃなかったとして、俺はこうならなかっただろうか。
いや、きっと関係ない。俺がどこに生まれようが、同じ所へ行きつく。
俺という人間は、人間という生き物──その仕組み自体に関心が持てない。
俺が久遠優朔である限り、いずれは人に無関心になる。
──そして、ルナと出会う。
そんなふうに考えを巡らせ、糸がふと途切れたとき。
ルナが、足を止めた。
足もとで砂が、さく、と鳴る。
「……わたしが、こわしてあげる」
首をわずかに傾げ、温度のない声で──その一言は、少女の口からあまりに平然と落ちた。
ルナが言う「こわす」だ。比喩ではなく、そのままの意味だろう。
村一つを、壊す。人間の側の尺度では、それは驚天動地の大罪に分類される。
俺は、あの村に対して大した感情を持っていない。もしあるとして、それは遺恨でも悔恨でもない。
人間という枠組みに生まれた俺にわずかに残された、人に対する感情の残滓。言わば、遺伝子に組み込まれた習性のようなもの。
興味がないのに、観察してしまう。関心がないのに、模倣してしまう。それが人間社会で生きる術だと、引き継がれた遺伝子が教えてくるから。
──けど、今は違う。
ルナと出会い、名前をつけてからは。
人間のことなど、これまで以上にどうでもよかった。
元から遺恨はない。興味もない。
けれど──
「……ありがとう。行こうか」
──俺の返事は最初から決まっていた。
この少女が俺のためにする行動を、拒む理由がどこにもなかったから。
この少女が俺のためにやろうとしていることは、偏に俺のための行いだ。
聞いた瞬間に分かった。ルナの発言と行動には、裏がない。計算がない。
遺跡で俺にどう思われるかをあんなに気にしていたのに、さっきの言葉の温度には「好かれたい」という計算は微塵も含まれていなかった。
──いや。
仮にそんな計算があったとして、それはそれで可愛いと思う。
でも、違う。
ルナのそれはただ純粋に、“ユウのため”の行為。
ユウが嫌なら消す。ユウが嫌だと、わたしが嫌だから、消す。
そんな、混じり気のない行為と動機。
“相手だけのため”と、言葉にするのは容易い。
でも、真にそれをできる存在は、この世にどれほどいるだろうか。
俺が知る“人間”には、絶対にいない。
誰かを無益に助けるときでさえ、他者からの視線を気にしている。
恩を着せ、見返りを求める。
くだらない。本当に、くだらない。
俺はその醜さを受け入れなかった。いや、受け入れようとさえ思わなかった。
そんな勘定でしか生きられない存在に、俺は価値を見出せない。
──けど、例外がいた。
探し続けて、ほとんど諦めかけていたとき、唯一と出会った。
時間も、種族も、何ひとつ関係なく。俺と彼女は、出会った瞬間から共鳴していた。
ルナは、俺がくだらないと切り捨てたものとは何もかもが違っていた。
美しくて、可愛くて、そして何より、純粋で。
今から彼女が行おうとしている破壊行為さえ、俺に対する純粋な“好意”でしかない。
そこには、俺に好かれたいという計算もなければ、壊される村や人間に対する悪意も存在しない。
ただ、相手だけを想ってする行為。
その感情に付く名がこの世にひとつしかないことを──俺でさえ、知っている。
無邪気に手を握って、俺の顔を覗きながら、わずかに身を揺らして歩く彼女を横目に、
鼓動はしばらく、鳴り止む気配を見せなかった。
◆
木立の影が浅くなり、頭上に夜空がひらける。梢の隙間を月が横切り、道が薄く白んだ。ルナが空を見上げる。
「……ユウの村まで、とぶ?」
「おお、飛べるんだ。それはいいな」
答えた瞬間、身体がふわりと持ち上がった。
跳ぶでも、飛ぶでもない。ただ浮かんで、空気の上を滑っていく。
ルナならここから村まで瞬時の移動もできるはずだが、それは言わなかった。俺たちはあえてゆっくりと進んでいく。
ふと、ルナが空を見上げる。何かを考えたあと、ゆっくりと口を開く。
「……しばらく、よるのままにするね」
すぐにその意図を理解して、頷く。繋いで歩きだした最初の夜を、まだ終わらせたくなかった。
夜の固定。彼女の意識が世界に触れ、歯車の噛み合わせが静かにズレていく。星の流れは止まり、海の面は眠り、誰もそれに気づかない。この夜は、俺たちのためだけに延びている。
「……ユウ」
「ん」
俺の手を包む細い指に、静かな力がこもった。
「……て、はなさないで」
「離さないよ」
触れている掌の温度は変わらない。風だけが頬を撫で、雲の縁が月明かりを儚く散らしている。
聞こえてくる音はほとんどない。地上では、眠った世界の呼吸だけをしている。
その呼吸の上を、二人の影だけがゆっくりと移動していく。
いくつもの海と陸の縁を渡るあいだ、下の灯は言語を変えるように並びを変えた。直線が格子へ、散在が帯へ。弓なりに続く海岸線の光が長く伸び、黒い山並みが濃く重なり、川が銀の細い糸になって走る。
やがて、どれほどの地境を越えたのか、数を数える意味がなくなった。
──時の流れが止まっていなければ、どれほどの時間が過ぎていただろうか。
それでも、体感は一瞬に近い。到着までの時間は、ただ静寂の厚みとして俺たちの間に積もっていく。
やがて、海と山とがせめぎ合う東方の島国に差し掛かる。
細かな湾と入り江の沿岸が夜の海に浮かび、山はすぐ海へ落ちる。
湾口には赤い防波灯が等間隔に灯り、内側は白い常夜灯が薄く縁取る。
細い平地に家の灯が連なり、河口の橋の赤灯が規則正しく点滅していた。
沿岸の灯が遠ざかり、外れに一つの島影が浮かぶ。濃い藍の海に孤立するその島は、内側にまっさらな荒野を抱えていた。藍の底から、薄金の砂がせり上がる。
輪郭の低いその島の中央には、砂原がただ無意味に広がっている。
ここは、広いだけの場所だ。
俺は島の中央に視線を止める。ルナがそれを追い、時の歪みを静かに解いた。
世界は何事もなかったように針を回し始める。
遠い波がひと呼吸ぶんだけ音を立てると、また静寂が戻った。
「ここらへんのはずだ」
周囲を見回すと、目的の場所はすぐに見つかった。ルナの手を引くように、そちらへ滑る。
高度を保ったまま、村から斜めに離れた上空へ位置を取る。灯は少ない。屋根の列が小さく連なり、細い路地が糸のように交差している。
村のまわりには薄金の砂がただ広く続いているだけで、広さ以外には何も置かれていない。
「……あれ?」
ルナが指さす先を確認し、再び視線を送る。屋根と道の集まり──俺が生まれ、八年間を過ごした村だ。
「ああ。久しぶりだけど……特に何も感じないな」
答えを聞いたルナが一度、こちらを見る。視線が重なったあと、すぐに村へ向き直る。
「……ユウ、みてて」
「ん?」
曖昧な返事をして、ルナの方を向く。
あまりの唐突に、理解が一瞬遅れた。
──。
風が止み、
世界の呼吸が途絶える。
空気が重くなり、
周囲の世界が硬直する。
ルナが、村の方角へ静かに手をかざす。
「『きえろ』」
──瞬間。
村は、一瞬にして巨大な異物に飲み込まれた。
それはまるで、「闇の帳」とでもいうような。
黒く、音を絶ち、光を通さぬ大きな無機質。
夜でもなければ、影でもない。
そこだけ“世界が閉じた”かのような感覚。
世界は既に夜なのに、そこだけが──”異常に暗い”。
──帳が、収縮を始める。
世界の呼吸は、まだ戻らない。
閉じられた内側は、何も視えない。
──。
そして──帳が、完全に解けたとき、すべては無に還っていた。
そこに残っていたのは、「何もない」という結果だけ。
屋根も、灯も、人の気配も。
そこにあったはずの秩序は、何一つ跡を残していない。
砂の面は周囲に均され、沈黙だけが水平に広がる。
遠い海が一拍遅れて寄せ、また静かになった。
──しばらくして、潮の匂いが素直に届き始める。
風は迂回をやめ、真っ直ぐに抜けていく。
音は少ないまま、嘘だけが消えていた。
この前後で、繋いだ手の温度は変わっていない。
俺はその一部始終を、ただ黙って見ていた。
当然、恐怖などなかった。
一つの村が、瞬きのうちに消えゆく光景。その跡さえ残っていない事実。
俺だけのための行為。ためらいのなかった手。
俺はそれら全てを──やはり、美しいと思った。
◆
村のあった場所は、ただの平面になっていた。
人がいた痕跡も、柱の影も、何ひとつも残っていない。
砂と同じ色に均された地面が、月明かりを淡く返している。
その中心に、二人で降り立つ。
「……ユウのいやなもの、ぜんぶなくなったよ」
「……ん。俺のためにありがとうな、ルナ」
頭に手を置いて、撫でる。前髪の奥で目を細める気配と共に、撫でる手に頭を押し付ける感触が返ってくる。
「……ん……」
しばらく撫でると、少女の喉から満足の呼気が短く落ちる。
「よし、次は家だな」
「……おうち……わたしがつくる?」
「いいのか?連続で力を使って、疲れたりしないか?」
「……だいじょうぶ。まかせて」
「ルナは本当に凄いな……それなら任せるよ」
ルナがこくりと頷く。
「……ユウ、こっち」
繋いだ手は離れない。顔が近づく。意味は分からなくても、意図は分かる。
額を、そっと合わせる。
「わかった」
ルナはそう言うと、先程まで村があった場所へと手をかざした。前髪の奥で、瞼が下がる気配がする。
空気が凪ぐ。音になる前に、静けさだけが先に落ちた。
「『創造せよ』」
──影が、先に立つ。壁の影、柱の影、屋根の影。影が先で、物が後。
影の稜線が先に交わり、梁の角度が空気へ印をつける。
面は遅れて重なり、木目と釘の頭が”最初からそこにあった”側へと移る。
匂いも音も追いつけないまま、形だけが先に世界へ置かれていく。
──分かってはいたことだが。
”壊す”だけでなく”創る”ことにおいても、ルナの力は圧倒的だった。
「……ユウのあたまのなかから、つくった。どう?」
「完璧だよ」
「……やった」
「よし、これで一緒に暮らせるな」
「……ユウと、ずっといっしょのおうち?」
「ああ、もちろん」
「……!」
返事を受けて、視線が家の外壁をなぞる。手の握りがわずかに強まる。
「早速入ろうか」
「……うん」
扉を押す。軋みはない。家の内側は静かで、無機質な空気を纏っている。
「本当にイメージ通りだな。ルナと暮らすのを想定して組んでたから、これなら完璧だ」
「……よかった」
家の中を並んで歩く。影だけが床を移動し、輪郭は静止を保つ。
家というものをよく理解していない少女の歩調は、不思議と楽しそうな軽さに映る。
「お、ここは寝室か。ベッドも完璧だな」
遺跡を出てから、初めて指をほどく。
ルナから、少しだけ不満げな空気が流れてくる。
少し広めのベッドに腰を下ろし、先に横になる。
「……ユウ、なにしてるの?」
「寝る時はここに横になるんだよ。ほら、ルナもおいで」
「……いく」
シーツがわずかに沈む。すぐに潜り込んできて、胸元にぎゅっと抱き着いてくる。
「……ユウ、あったかい」
「……ん、俺も」
「……ん……」
幸せな静寂が続く。
「……今日はもう遅いし、さすがに疲れたな。このまま一緒に休もうか」
「疲れた」の意味が分からなかったのか、不思議そうに首を傾げる。
しかし、そのあとすぐに頷いて、腕の中に納まるように背を丸めてきた。
抱きしめた腕にわずかに力を込め、目を瞑る。
初めて、愛しい存在と抱き合って眠りに就く感覚。
──意識はすぐに、まどろみへと落ちていった。
◆
窓の外では、月が雲の縁を細く削っていた。
外の光と内の影がゆるやかに混じり合い、ひとつの静けさに還っている。
二つの呼吸は同じ刻の中に刻まれ、鎮魂歌のように静かに、けれど確かに重なっていく。
五百年のあいだ眠らなかった少女は、いま──静かな寝息を立てて眠っていた。