Rhapsody II: 封月のレクイエム ─後奏─
※本話は、小説家になろう上での可読性を考慮し【前後編】に分割しています。
本来は一続きの物語として執筆されたものです。ご了承ください。
──夜は、まだ完全には終わっていなかった。
東の端だけが薄くほどけ、群青に細い橙がにじむ。宿の屋根の影を抜けると、道の土はひんやりしていて、踏むたびに湿りが靴底へ移った。呼気は白から透明へ、ゆっくりと変わっていく。
約束は、歩幅の中にある。
また明日、と言った。なら、朝になれば向かう。それだけだ。胸の温度は静かなまま、速さだけがわずかに違っている。
森の口まで、しばらく歩く。
木々の密度が光を裂き、細い帯になった朝の色が足もとを横切る。鳥の声はまだ遠く、露の玉は月の名残を抱えたまま、日輪の兆しに解けはじめている。
蜘蛛の糸が頬に触れる寸前で細く切れ、空中に一本の線を残した。
森へ入る。奥行きは深い。
冷えが増し、土の匂いが濃くなる。足音は苔に吸われ、折れ枝の小さな音だけが残る。
進むにつれて、音が一つずつ生まれる。羽音、水の落ちる微かな間、葉の縁を撫でる空気。
群青は薄まり、色が増える。夜がほどけ、朝が始まっていく。
やがて、木立が途切れ、外光が面で落ちた。
遺跡の外縁が見える。昨夜は月光に白く浮いた石壁が、今朝は薄い橙で縁取られている。
表面の冷えは変わらず、影の輪郭だけがやわらいだ。ここは相変わらず、外の時間を拒む顔をしている。静寂は凍結ではなく、息を潜めるほうの静けさだ。
扉の前で、一度だけ呼吸を整える。脈は落ち着いている。
ここから先は、再会だ。
◇
扉を押し開ける。朝の細い光が石の内へ滑り込み、鎖がかすかに鳴る。
少女がこちらへ向く。前髪の向こうから、確かな視線で俺を見つめる。吸い込まれた息が、音にならずに揺れた。
「……!」
「来たよ、ルナ」
「……ほんとに、すぐきてくれた」
「当たり前だろ。また明日って言ったからな。起きたらすぐに来るさ」
言葉の理屈だけで言えば、夜にでも来られたが──その説明は、きっと要らない。
「……ん」
ルナが身体を小さく揺らす。嬉しさは、音にならない。
「でも、ルナなら扉の前に来た時点で分かったんじゃないか?」
「……うん、わかったけど……見たら、もっとうれしかった」
「ん、そうか」
心の動きを、言葉に直す意味は薄いのかもしれない。ただ、彼女と同じものが、確かに俺の中にもあった。
「さて、今日は何を話そうか」
「……ユウは……なにを、はなしたい?」
いつものように、首が少し傾く。
「んー……やっぱり、ルナのことかな」
「……わたしのこと、もっとしりたいの?」
「ああ、もちろん」
「……いいよ、ぜんぶおしえてあげる」
返事の端は、すこし弾んでいる。
「なら──ルナはここで、五百年、何もしなかったって言ってたよな。その時の記憶はあるのか?」
「……うん、ぜんぶおぼえてるよ。まっくらで、たいくつだっただけ……だから、ほん、よんでた」
五百年を”たいくつ”と言い切る少女。けれど、もう驚きの感情は起きない。
「本?──人間の作った本か?」
「……うん。あたまのなかで、よめるの」
「ああ、なるほど」
偏った知識の並び方に、合点がいく。
「……でも、つまんなかったから……やめちゃった」
「そっか。五百年、寂しくはなかったのか?」
「……さみしい……って、なに?」
「──ああ、知らないのか。寂しいっていうのは、そうだな。
一人でいるのを悲しいと思うこと、とか。そんな意味に近い」
「……よくわかんない」
ルナが分からないと言ったのは、おそらく言葉の意味の方ではない。それを悲しいと思うこと自体がルナには分からないのだ、とすぐに理解する。
「そっか。あとはそうだな……いるはずの誰か、あるはずの何かが欠けて、満たされない──とか、そんな意味もある」
俺の言葉を聞いた瞬間、ルナは少し驚いたような反応をする。
──少しの間を置いて、首を傾げ、口を開く。
「……じゃあ、ユウがいなくなってからのわたしは……さみしかった、ってこと?」
──瞬間、胸の奥がひとつ鳴る。
「ぐっ……か、かわいい……」
──初めて発する言葉。こんな言葉が、自分の口をついて出るとは思ってもみなかった。それも、反射的に。
「……かわいい? わたしが?」
斜めに身を傾け、指先をきゅっと握って、もじもじと身体を揺らすルナ。
”かわいい”の意味を知らないと思っていて、つい漏れてしまった。
——いや、今のは、どちらにせよ漏れていた言葉だっただろう。それくらいに、反則だ。
「……ああ。かわいいよ」
俺は誤魔化すのを諦め、心のままに答える。
「……ユウは、やっぱり、へん」
ルナが、見上げるようにこちらを見る。その言葉に、冷たい温度はない。意味は、ちゃんと届いている。
そして何より、髪の縁に走った桃色が──彼女の心を、晒していた。
「──なあ、昨日と同じこと、してもいいか?」
「……きのう?」
思い返す気配。やがて、短い息。
「……!」
何を思ったのか、俯く少女。
「……うん」
──そして、さらに俯く。差し出されたのは、頭の位置だった。
俺は手を上げ、髪に触れる。もちろん、そのまま撫でるために。
「……ユウ、たのしい?」
「ん。けどそれより嬉しい、かな」
「……ユウも、うれしいの?」
──「も」。その一字で、鼓動が少し乱れる。
「嬉しい。しかも、ルナが嬉しいなら、もっと嬉しい」
「……じゃあ、わたしも、もっと?」
「ふふ、そうだな」
「……ねえユウ、もっとたのしいこと……ないの?」
「ん?あー、そうだな……」
ルナの体に視線を落とす。ため息が短くこぼれる。
「これじゃ、撫でるくらいしかできないな」
ルナの視線が、背後へと滑る。手を縛る、枷。
ほんの少しだけ、不機嫌な空気が漂う。
「……これなかったら、おしえてくれる?」
「ああ。もちろん」
「……じゃあ、これいらない」
「よし、外そう」
彼女の意思を聞いて、即答。後ろへ回り、封具を確かめる。
──これは、ただの手枷ではない。刻まれた線は、繋ぎ止めるだけの痕じゃない。形が重なり、流れを持ち、何かを保とうとしている。何か、高度な──言うなれば、術のような構造。いわば、封具。
人間の手で組んだにしては、あまりに複雑で巧妙だ。しかしそれでも、細部には歪さや荒さが観られる。非人間が組んだものとも思えない。
「……いいの?」
「本当は、最初から外してやりたかったんだ」
「……そう、なの?」
首がわずかに傾く。口元の線が、すこし柔らぐ。
「──あ、けど、ルナは自分で外せるんだったっけ……?」
「……ううん。ユウに、やってほしい」
小さく口角が上がるルナの微笑を、俺が見逃すはずもない。頷いて、俺は指先を封具に置く。
これがただの拘束具でないとして、諦める気など無い。自分の知識を検索し、経験を想起し、その上で俺が持つ才覚を活用するだけだ。
「……ふふ」
「どうかした?」
「……わたしが、じぶんで外せるってしってるのに……ユウがはずそうとしてくれてるの、うれしい」
俺は微かな笑みだけ返し、観測へ沈む。
──視界のノイズを落とす。触れた封具の表皮に、薄い墨のような符糸が三層で走っているのが見える。最外層は封、内側に固定、その下で両者を縫い止める縫合符。線は整っているが、ところどころに恐怖由来の手ぶれがある。筆圧の乱れ、拍の取り違え、意図せぬ筆致の重なり。そこが入口だと判断する。
──不変量を拾う。
一、結び目の数は三。
二、術は光を拠りどころに組まれている。
三、流れの向きは封じる→固定→縫合の順。
四、縫合符の拍が一箇所だけ欠けている。封印直後の退避、その焦燥の跡。
──仮説を並列で立て、同時に削る。
A──拠りどころを影側へ倒せば、欠拍が致命傷に化ける。
B──同じ箇所に逆拍を与えれば、固定層の循環が一瞬だけ切れる。
C──封印核が置かれていない欠陥を利用すれば、宣言も媒介も不要。
手順を最短化する。
朝の斜光を背に、封具の表面に滲む符痕を指先で拾う。視覚ではなく、皮膚の温冷差で境界を読む。そこに影を落として闇をつくる。同時に、薬指と中指で縫合符の欠拍点をなぞり、逆拍の一指三拍を打つ。強くは押さない。圧ではなく拍を置く。
脳内では式が輪郭を失い、地図になる。
線は糸、糸は流れ、流れは向き。向きの交差点を一つずつ無力化する。拍を置くごとに、縫合の張力が半拍ずつ弱まっていく。固定層の循環が揺らぎ、最外層の封が拠りどころを失う。
さらに詰める。
影を一拍ぶんだけ深め、親指で刻印の縁を撫でて消す。ここで息を止める。呼吸の揺れは思索の揺れ。拍は外界に、意識は欠拍に、触覚は縫合に。三つを同時に保持し、余剰の思考を排除する。
静寂の質が変わる。
金属が鳴るのではない。術理がほどける。結び目が言葉でなくなり、ただの線へ戻る。その瞬間にだけ許される動きが一つだけある。俺はそれを選び取る。影を保ったまま、指先の角度をわずかに転ずる。拍の最後を置く。
内側で、因果の縫い目が外れる。
封の層が遅れて追従し、固定が自重で崩れ、縫合が線に還る。触れている面の温度が術の温から物の温へ落ち、拘束は名を失ったただの輪として落下する。
「──よし、これで外れた」
思考が、これまでにないほど加速していた感覚を残している。外の時間はほとんど進んでいない。
まだ、朝だ。
「……ユウすごい。ありがとう」
「まあ、ルナにはこんな物騒なものは似合わないからな」
「……ふふ」
もう、変だとは言わないようだ。
「それじゃ、せっかく手も自由になったし」
向き合って、手を差し出す。ルナは首を傾げ、ゆっくりと手を伸ばす。指先が触れて、ちょこん、と結ばれる。
「……あったかい」
今回は、髪だけでなく頬にも薄い色が浮かぶ。
「──うん、これは好きな人同士がすることらしいからな」
俺も、頬の温度を隠せなかった。
「……じゃあわたしとユウは、すき同士ってこと?」
「──ん゛んっ!?」
その問いは、あまりにも真っ直ぐで、ただ俺の胸に刺さる。
──急いで、呼吸を、整える。
「いやまあ、そうかも……いやそうなんだけど、好きにも色々あるから……多分」
不意をつかれてしまった。胸の奥に、くすぐったいような熱が広がっていく。
「……そう、なの?ことばって、ふしぎだね」
小首をかしげる仕草が、今回はやけに幼く見えた。言葉よりも、その存在そのものが近くにある。触れてはいないのに、距離が消えていく。
返す言葉を探しても見つからず、結局、俺は彼女をただ見つめ返していた。
◇
遺跡の静けさの中で、日の光だけが少しずつ角度を変えていた。
胸にこもった熱も冷めきらないままに、口を開いた。
「ああ、そうだ。昨日みたいな力、もっと見せてくれないか」
「……うん、いいよ」
そう言うと、彼女は自由になった手を体の前で上に向ける。
一瞬で、手のひらから炎が立ち上がる。
──次の瞬間には。
赤炎が、次々に表情を変え始めていた。
青、黄、緑。
青は氷晶のようなきらめきを孕み、黄はひと欠けの星明かりのように瞬き、緑は新芽の気配を宿して燃える。
色彩が絡み合い、分かれ、また一つに還る。まるで呼吸するかのように、炎そのものが生命の律動を奏でていた。
渦、輪、花弁。
渦は潮のうねりのように巻き、輪は月環のように澄んで浮かぶ。花弁は夜明け前の露を抱き、燃えながらも壊れない。
多彩な色と美しい旋律の階段が、空気をなぞる。
──あまりの美しさに、しばらく声が出なかった。
「──ルナは、本当に凄いな」
彼女の力と美しさを、それらしく表現するだけの語彙を、俺は持っているだろう。
それでも、出たのはただ一つ──「凄い」という言葉だけだった。
瞬間、炎は一段大きくなる。熱の面が近づく。
今の炎は、彼女の鼓動に合わせて揺れているような気がした。
──けれど、その観測は、胸の内にだけ置いておく。
才覚は手順を選ぶ役目で、選ぶ理由はいつも心だ。この少女に、対してだけは。
そして、彼女の力は、炎だけにとどまらなかった。
水が、形を持つ。薄い水鏡が宙にいくつも開き、角度を変えて静止する。光はその縁でほどけ、石面に冷たい帯を散らす。
落ちるはずの滴は落ちず、空中で輪郭を保ったまま、指の一振りで細い弧を描いた。
風は音を持たない。衣の裾と髪の先、そして炎の名残だけをやわらかく撫でて過ぎる。頬に触れる直前でそっと逸れ、皮膚の温度を半度だけ奪っていく。呼吸よりも静かな律動を、空気に置いていった。
光は粒になる。星屑ほどの微粒が生まれ、影の縁に沿って巡り、また戻る。
指先と指先のあいだに細い橋をかけ、繋いだ手の回路を確かめるみたいに、静かに流れていく。
因が形になる前に、結果だけが現れる。彼女の力は、ただそう”在る”だけ。
息をするのを忘れていたことにすら、気付かない。ただ、心の中をありのままに吐き出す。
「──綺麗だ」
「……ほんと?もっと見せてあげる」
彼女の手から、季節の外側から来たような雪が降る。融けない温度で、白だけが空気に残る。
花が咲く。現実の植物に似ているのに、香りが現実よりも少しだけ、遅れて届く。
「本当に、綺麗だな。それに、ルナに似合ってる」
「……えへ」
出力が一拍だけ上がる。炎の縁が明るく、風が柔らかく。光の粒は、手を握ったままの導線に沿って、俺の皮膚の上を静かに流れていく。
光の粒が消えても、余韻は空気に残る。
俺はただ見とれるだけで、時の流れさえ忘れていた。
日差しは少しずつ移ろい、影は長く、薄く伸びる。太陽は高くなり、やがて傾き始めていた。
「──そろそろ腹が減ってきたし、一度なにか調達してこようかな」
そう漏らした途端、ルナは不機嫌そうな声を上げる。
「……やだ。……これでいい?」
ルナが呟くと、ルナの前の空から、野菜、果物、焼けた肉までもが現れ、落ちる。
「わ、すごいな……これ、どこから来たんだ?」
「……わたしが、つくったんだよ?」
「よし。なら食べよう」
聞いた瞬間に頬張る。躊躇はない。
人間のものなら口にしない。けれど、ルナの作ったものだと分かれば、それで信頼に足る。
──食べてみると、不思議な感覚だ。
どれも見慣れた形に近いのに、香りの立ち上がりが現実から半歩ずれている。手触りは瑞々しいのに、果汁の甘さが一瞬待ってから舌に乗る。
人間の味には嘘が混ざることがあるが、この味にはそれが一粒もない。
そんなことを考える俺を、ルナは嬉しそうにじっと見ている。
「ルナは──そうか、食べないんだよな」
「……うん。ユウがたべて、みてるから」
「そうか、分かった」
また、口に運ぶ。味は、現実と齟齬を起こさないギリギリの場所で静かに完結する。視界の端で、ルナは俺を見ている。光に照らされていても、彼女の色はあまり変わらない。
──空は赤く染まり、輪郭の線が柔らかくなる。言葉は少なく、それでも満ちている。
満ちたまま、時間だけが外で変わる。
石に伸びた影は寄り添い合って、一つの形になっているようにも見えた。
◆
夜が、外を覆いはじめる。変化が封じられた空間にも、わずかな冷えが石を伝って忍び込んでくる。
月の白が石の縁を薄く縁取り、星の粉が床に細い帯を落とす。
「──もう、帰らないとな。また明日も来る」
言ってすぐ、胸の奥が短く鳴った。
言葉を発した瞬間、ルナの方から漂ってくる。離れたくない――そんな純粋な感情と切なさが、空気を震わせて届く。
その気配は温度に似ているのに、皮膚ではなく心に触れていく。そんな温度を宿した表情のまま、こちらを見上げていた。
「……まだ、いっしょにいたい」
小さな声に反して、重みだけが静かに沈む。
言葉の短さに、意味の大きさは比例しない。そして、俺の中にも、それと同じ形がある。
「……いかないで、ユウ。ずっと、ここにいて」
──これまで、その可能性を考えなかったわけじゃなかった。けれど、それは決して軽く言える言葉ではない。だから、いずれそうすると分かっている未来を、先延ばしにしていた。
──けれど。今の言葉に、完全にやられてしまった。胸の奥で何かが決壊する音がして、先延ばしの理由すらも今完全に失われた。
「──ルナ、一緒に外に出よう」
「……!」
驚いた顔で見上げる。嬉しさと不安が、同じ幅で並ぶ。けれどそれでいて、意思はもう決まっている。そんな複雑な表情。
「……でも、わたしは……怪物、だよ?」
──きっと。彼女は、外で何かをしてしまうことではなく、それで俺に嫌われることの方を恐れている。
だから、答えは一つだ。
「いい。俺がルナを連れ出したい。
──いや、違うな」
一拍、置く。
俺の言葉を待つ少女の、前髪の奥に隠れる目を確かに捉える。
「俺も、ルナと一緒にいたいんだ」
言葉を受けて、少女が、足下を見る。先刻の封具よりも深い術式が刻まれているであろう封印の鎖は、最初から何も意味など持っていない。
「……ほんとに、いいの?」
「ルナは特別な存在だ。人間に従う理由はない」
一拍置いて、気付く。一番大切な部分が抜けていたことに。
「……俺にとって、な」
少女の頬と髪が、また少し桃色に染まる。
一瞬の、静寂と、交わる視線。
少女はゆっくりと頷いて、鎖を見る。短く、言葉が落ちる。
「『くだけろ』」
言葉が紡がれた瞬間。
鎖は、一瞬で、音もなく砕け散った。先刻の封具よりも、遥かに緻密で複雑な術が込められていたであろう封鎖が──砂塵のように霧散する。
封鎖は名を外され、ただの塵となって夜に紛れた。
──その瞬間、少女は飛び込んできた。温度と重さが、胸に当たる。何を考えるでもなく、抱き返す。ついでに、撫でておく。頬にかかる髪が触れ、呼吸が揃うまでの一拍が、やけに、長い。
「……ユウ。これからも、わたしといっしょにいてくれるの?」
「俺から頼みたいくらいだ。──それに、もう決まりだろ?」
「……えへへ。うん、そうだよ」
満たされた声音。腕の中の軽さと温度が、ようやく現実味を帯びていく。
遺跡の石扉が開く。外の空気が、夜の匂いで満ちている。
外気は冷たく、月光が石の縁を薄く削るように置かれる。その白は澄みきっていて、美しく、正気に欠けている。星は粉のように散っているだけで、何も指し示さない。空気は動かず、温度だけがわずかに落ちていく。
──自然に、手が繋がる。
「行こうか」
「……うん」
掌の線が重なり、鼓動が半拍だけ寄る。
互いの温度は溶け合い、境界がひとつずつ消えていく。
歩き出す二つの影が、月夜に溶けながらも確かに残っていた。