Rhapsody II: 封月のレクイエム ─間奏─
※本話は、【前後編】に分割した『前奏』『後奏』の間に位置づけられた閑話エピソードです。
扉が閉まる音が、この空間の底に最後のひとかけらとして沈んだ。
静寂。世界の音は外へ還って、ここだけがまた、静止にたゆたう。
……さっきまで、ここにいた。
影の中に浮かんでるひと。わたしを見て、怖がらなかったひと。
掌の温度が、髪に残っている錯覚がする。撫でられたところだけ、時間が遅れている。
雪明かりみたいに淡く、やさしい力で。痛くも冷たくもない、はじめての——ぬくもり。
「……ユウ」
名前は、空気の粒子より軽く口からこぼれたのに、胸の奥では重く響いた。
呼べば、たった一人の姿が、闇の奥で輪郭を持つ。
初めて、これまでの時を思い返す。
鎖に繋がれた手。目隠しの御札。柱に刻まれた封紋。
ここは、五百年のあいだ、何もしないためだけに在る場所だった。
そしてわたしも、何もしないためだけに在る存在だった。
けれど、撫でられた。呼ばれた。名前を、もらってしまった。
五百年、一度も持たず、必要としなかったそれを。
「……ルナ」
音にした瞬間、世界に点が穿たれる。
何もなかった平面に、小さな灯がともる。
名は、わたしをひとりとして留める針だ。今はそう思える。
あのひとは、はじめての関心だった。
はじめて恐れなかったひとだった。
はじめてわたしに触れて。
はじめて、わたしに名前をくれた。
そして、はじめて——明日に、かたちをくれた。
「また、あした」
その一言が、静止に罅を入れる。
何も感じなかったはずの心に、小さな穴が空く。
この感覚を、わたしは知らない。けれど、確かに欠けている。
”あの時”もし、彼がここで「もう来ない」と言ったなら——きっと、扉は閉めさせなかった。
外へ返す道を、世界ごと絶ってでも。
そう思うほどに、彼はわたしにとって例外だ。
鎖の重みは変わらない。月白の光も、柱の影も、何ひとつ。
変わったのは、わたしの内側だけ。
彼が撫でた髪の端に、微かな色が灯っては消える。意味は知らない。けれど、消えない。
髪の下で目を閉じる。耳を澄ます。
扉の向こうに在る世界の呼吸が、かすかに、遠くで波みたいに寄せては返す。
そのたびに、ひとつの名前が胸の内で確かに鳴る。
「……あいたい」
はやく、明日になってほしい。
明日、あなたが来て——もう一度、わたしの世界に手を置いてほしい。