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【カクヨムに移転】封月のルナティック  作者: 創綴世 優
叙詩

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Rhapsody Ⅸ: 災厄のラプソディ


 朝は、夜の余韻を容赦なく剥がしていく。


 窓辺から差し込んだ光が、寝室の床に淡い帯を落としていた。昨夜まで月の下に沈んでいた家は、朝を迎えたことで輪郭をあらためて顕わにしている。壁も、天井も、寝台も。そこに在るものは何一つ変わっていないはずなのに、夜とは別の世界に置き換えられたような感覚があった。


「……ん……ユウ……」


 優朔はその声で目を覚ました。


 隣で眠るルナはまだ意識の深い底にいるらしく、前髪の奥に表情らしいものは見えないまま、小さく身じろぎしている。寝言で呼ばれた名が耳から胸の内へ落ちると、それだけで目覚めの気怠さが少し和らいだ。


 優朔は腕の中にある重みを確かめるように、そっとその頭を撫でた。月白の髪は朝の光の下でもなお白く、指を通せば冷たさと滑らかさが手のひらに残る。


「おはよう、ルナ」


「……ん……おはよ……ユウ」


 返事はまだ、眠りの底に半ば沈んだままだった。

 ルナはもぞもぞと体を動かしたかと思うと、起き上がるというにはあまりに緩慢な動きのまま、のそのそと優朔の胸へ抱きついてくる。子どもが手探りで寄ってくるような、あまりに無防備な動きだった。


 今日はいつも以上に甘え方が強い。昨夜交わした言葉のせいか、あるいは朝という時間が彼女をわずかに緩ませているのか。

 ともかく、胸元へ頭を押しつけてくるその仕草が可愛かった。


「今日も可愛いな、ルナは」


「♪」


 撫でながら言うと、ルナは頭を胸へ擦りつけるようにして感情を返した。言葉ではないからこそ伝わるものもある。

 小さな機嫌の弾みが、呼吸の端に混じった。


「とりあえず飯にするか」


「……♪ ごはん……」


 ようやく顔を上げたルナは、まだ少し眠たげなまま頷いた。優朔はその頭をもう一度撫でてから寝台を降りる。ルナも少し遅れて起き上がり、長い髪を揺らしながらその後をついてきた。


 下へ降りると、家の中は朝らしい静けさに満ちていた。壁にも床にも、昨夜の出来事を騒ぎ立てるものは何も残っていない。玄関先を赤く染めたはずの惨状さえ、今はもうどこにも見当たらなかった。







 食卓には、優朔が整えた朝食が並んでいる。焼き魚、白米、味噌汁、卵焼き。一昨日ほど机を埋め尽くす量ではないが、それでも二人で食べるには十分すぎる。湯気が立ちのぼり、味噌と出汁の匂いが木の匂いと混じって、朝の家の空気をゆっくり満たしていく。


 ルナは椅子に座ると、机の上をじっと見つめた。食べるという行為を最近知ったばかりの少女にとって、目の前の皿はまだ新しいものだ。それでも彼女は迷わず椅子に座って箸を持ち、優朔が作った食事を自分の生活の一部として受け入れている。


「……きょうも、ユウがつくってくれた」


「当たり前だろ、せっかくルナも食べられるようになったんだ。毎日でも作るさ」


「……ん」


 短く答え、ルナは卵焼きを口に運ぶ。もぐ、もぐ、と小さく咀嚼し、一度だけ動きを止めてから、こちらを見た。


「……あまい」


「ルナの好みに合わせて味付けしてみたつもりなんだけど……もしかして微妙だったか?」


「……ううん。おいしい」


 そう言うと、迷いなく次の一口を食べた。甘い、温かい、美味しい。そういう感覚が彼女の中で少しずつ形を持ちはじめ、そのたびに昨日までなかった世界が一つずつ増えていく。

 そんな小さな変化を目の前で見るだけで、朝の光も、食卓の匂いも、より価値のあるものに思えた。


 優朔も箸を取る。

 本当なら、こういう時間だけを続けていたかった。食事をし、言葉を交わし、何も起こらないまま朝を過ごす――ただそれだけで充分だった。ルナと過ごす時間は、何もかもが外側と切り離されていればいいとさえ思える。

 だからこそ、誰にも踏み荒らされたくなかった。


 ――そんなことを考えながら食事を続けていた、その時だった。


 突如、爆音とともに家全体へ衝撃が走った。


 壁が鳴り、窓硝子が震え、食卓の上の皿が一斉に跳ねた。汁椀の表面が波打ち、箸先が器に当たって乾いた音を立てる。


 ほんの一瞬前まで朝食の匂いに満ちていた空間へ、外側から無遠慮な破壊が叩きつけられた。


 ルナが、箸を持ったまま空いた手を卓へ向ける。


 傾いた汁椀。宙へ跳ねた一滴。皿の縁から滑りかけた卵焼き。

 そのすべてが、落下へ移る寸前でぴたりと止まった。


 遅れて汁だけが器の内側へ戻り、食卓には何事もなかったような静けさが戻る。


「……地震って感じじゃないな」


 優朔は泰然と、揺れの原因を見極めるように視線を巡らせる。今のは地の底から伝わる揺れではない。外側から明確な意図を以て壁に叩きつけられた衝撃だった。


 ルナは口に含んだ料理を静かに咀嚼したまま、窓のほうを見る。


「……外に、たくさんいるよ」


「――ああ、やっぱりそうか。今の衝撃が人為的な攻撃だとしたら……十中八九、一昨日の連中かその仲間だろうな」


 言い終えるより早く、第二撃が来た。


 今度は先ほどよりも強く、家の外壁を直接打ち据えるような衝撃だった。梁が鳴り、戸棚の中で食器が震え合い、吊られた器具が小刻みに揺れる。家具や設備が一斉に音を立てるその中で、優朔は反射的に壁のほうへ目をやった。

 見たところ、外壁には一切の崩壊がない。それどころか罅一つ入っていない。


 察するに、この家は見た目以上に頑丈に創られているらしい。いや、頑丈という言い方で足りるのかも分からない。

 今の衝撃なら、普通の家はとっくに窓が割れ、柱が歪み、原型など保っていないはずだ。ルナが創った家は、家という形をしながら、もはや別の理屈で成り立っていた。


「それにしても、本当に鬱陶しい連中だな。……仕方ない。一旦食事は中止にしよう」


「……うん」


 優朔が椅子を引いて立ち上がると、ルナもすぐにそれに従う。小さな足でとてとてと後を追うその様子の愛らしさは、外で何十人が殺意を発していようと変わらない。

 むしろ昨日交わした約束のせいか、今回の彼女は砂漠の時よりさらに落ち着いて見えた。人間への対処を、もう我慢しなくていいと知っているからかもしれない。


 玄関へ向かう途中も、外から断続的な衝撃が届いていた。壁を叩きつける音、術式めいた圧の波、何かが焼けるような臭い。だが、やはり家の内側へ踏み込んでくることはできないらしい。

 朝食を邪魔された不機嫌と、そこへ無遠慮に叩きつけられる敵意だけが、じわじわと内側に溜まっていく。


 玄関に辿り着く。

 扉を開いて外に出た瞬間――優朔に向かって、何かが飛んできた。


 ――それは彼の知る〝射撃〟とは違っていた。弾丸のように直線を走っているのに、実体の気配がない。砲撃に近い規模と速度で空気を裂きながら、質量を持たぬまま破壊だけを起こそうとする異質な弾だった。

 何らかの術で放たれた、優朔の知識の外にある力――そうとしか思えない。


 射線は見えていた。

 玄関の段差を下りる動きに合わせ、三歩だけ左へ抜ければ当たらない。


 そう判断した瞬間――白い髪が視界を横切った。


 後ろにいたはずのルナが、一歩だけ優朔の前へ出る。

 月白の髪が朝風に遅れて流れ、その向こうで、小さな掌が射線へ差し出された。


 着弾まで、あと数歩の距離。


 ――光が、失速する。


 砲撃は掌へ触れることすらなく、その手前から輪郭を失い、白い残滓を散らして消えた。


 着弾すれば普通の家屋一棟など容易く砕いていたであろう一撃が、何事もなかったように消えた。その事実だけでも、ルナと連中の力の格が違うと分かる。


 ――そして、ルナがいる以上、こういう力を持った連中がいたところで不思議ではない。


 しかし同時に、やはり何かが違うとも感じていた。


 連中の力は、ルナのそれとは根本から質が異なる。

 ルナの力が必要な因を飛び越えて現象を成立させるものだとすれば、眼前の術は術理の延長にある力だ。組み、放ち、届かせるという明確な過程がある。だから観測できるし、だからどこか凡庸にも感じられた。


「ルナ、ありがとう」


「……ん」


 頭をぽんと撫でると、ルナは短く頷いた。


 優朔は先ほどの砲撃が飛んできた方角を見る。


 そこには、昨日の連中と同じような装束に身を包んだ人間たちが大勢いた。

 黒や灰の長いコート、何らかの符具や魔具を仕込んでいるらしい袖口、老若男女の混ざった顔ぶれ。遠目には整然と並んでいるように見えるが、その実、一人一人の視線の底には張りつめた警戒と明確な敵意がある。


 彼らが人間なのか、それとも別種の何かなのか、優朔には分からない。

 ただ、ルナを毎日見ている彼の目には、彼らは他と変わらぬ凡俗な人間にしか映らなかった。異能を扱おうが、奇妙な道具を持とうが、その根にある打算や恐怖や群れの論理は、人間以外のものには見えない。


「――さて。また俺たちの前に現れて、しかも家を攻撃してきたとなると……どうやら余程の用事があるらしいな」


「……わたしたちにはないよ」


「ああ、そうだな。だけど、相手にはなくても自分の用事を無理やり押しつけるのが人間の面倒なところだ」


「……じゃあ、全員けしてもいい?」


 今日のルナの判断が早いのは、昨日交わした約束があるからだろう。好きに壊していい、と優朔は言った。だからこそ今、行動に移す前に確かめている。

 早く排除したい感情と、それでもなお優朔に嫌われたくないという不安が、その一言の中に同居していた。


「言っただろ? ルナが――いや、俺たちが不快になったんなら、好きに壊せばいいんだ。それに、ルナとの食事の邪魔をされて腹が立っているのは俺も同じだからな」


「……うん、わかった」


 ルナが小さな笑みと共に頷き――右手を胸と同じ高さに伸ばす。


 その動作から〝結果〟が起こるまで、何秒の間があっただろうか。優朔が測ろうとした時には、既に遅かった。


 〝ひゅん〟と、細い音が鳴った。


 風を切るような、けれど風ではない音。それがルナの手もとから発せられた瞬間、前方を埋めていた人の群れは、弾けた光の奔流に散らされていた。


 それは火でも雷でもない。光そのものが奔り、押し広がり、その一帯の空気を一瞬だけ別のものへ塗り替える破壊だった。眩いのに冷たい。鋭いのに輪郭ははっきりしない。

 群れの中心を貫いたそれは、地面ごとえぐるように前方へ走り、魔術師たちの陣を大きく押し潰して彼方まで突き抜けた。


 砕けたように散る土塊と、遅れて持ち上がる砂煙。その中に混じる、術式の破断音めいた高い響き。朝の光に晒された戦場へ、ルナの一撃だけがあまりにも異質な美しさを持ち込んでいた。


「おお、これはまた派手にやったな」


「……だめだった?」


「いいや。今のは、さすがルナってことだよ」


 褒めると、ルナはほんの少しだけ身を寄せてくる。


 優朔はそれに応じようとして――、

 しかし、砂煙が晴れはじめると目を細めた。


 前方に、人の群れがまた浮き上がってきたからだ。


 今の攻撃は一見して相当の破壊力だった。にもかかわらず、数が大きく減ったようには見えない。衝撃波が届く前に離脱した者もいるのだろうが、それだけでは説明がつかなかった。

 ――よく見れば、前列の幾人かを囲むように、薄い障壁めいた歪みが残っている。


 そしてさらにその後方から、同系の装束を纏った者たちが次々と姿を現す。


「ったく、何人で来たんだか」


(……昨日の結果を受け、今度は準備を整えてきたというわけか)


 そうなると、あの装束にはルナの周囲に生じる異常への対策が編み込まれていると見るべきだろう。

 空間への影響、精神への干渉、異質への恐怖――そういったものを鈍らせるための仕掛けがあるのかもしれない。

 少なくとも、昨日よりは踏み込んでくる用意が為されている。


 優朔がそう考えているうちに、連中が距離を詰めてきた。


 先頭の一人が前へ出る。年嵩の男だった。声の貼り方一つにも、場の差配に慣れた気配がある。


「先日は我らが同胞が随分と世話になったようだな。――そこの男、何者かは知らぬが……我らを何者と知っての狼藉か?」


「――? 知るわけないだろ、お前らのことなんて」


「そうか、では知ってもらおう。我らは魔術師――均衡の代行者。この世界のことわりを乱す異端を排し、秩序を守る者。そして、人の世の正義を代行する者だ」


「……それで?」


「――貴様が傍らに置いているのは、人の理の埒外に在る怪物だ。貴様は昨日、ソレが人を殺したことを知っているのか?」


「知ってるが、それがどうした?」


 躊躇のない即答に、騒めきが走る。


 「人を殺した」という事実を突きつければ、即座に手放すとでも思っていたのだろう。

 彼らの目には、目算を外された戸惑いが濃く滲んでいる。


「……あの異空間からソレを連れ出したばかりか、犯した罪まで承知の上で傍らに置いている──と? ……もしや貴様、脅されているのか?」


 そこまでの言葉は、ほとんど耳を滑っていた。

 だが――最後の一言だけが、明確な不快となって胸の内へ引っ掛かった。


「……はぁ。随分と都合のいい解釈をするんだな。封印されていようが、お前達にとっての罪を犯そうが、それをどう感じるかは俺次第だろ」


 自分でも驚くくらい、怒気を含んだ声が腹の底から飛び出た。


「――ッ」


 魔術師たちの空気が揺れる。ルナの行いを知ったうえでなお、自分の側に置く。その選択肢そのものが、彼らにとっては理解の外にあるらしい。


「ソレの危険性を知り、我らの正体を知って、尚も引き渡さないというのであれば……貴様もまた、世界の均衡に仇なす反逆者として我ら組織の敵と見做される。――その意味が分からぬわけではあるまい」


「――危険性? 勘違いしてるところ悪いが、俺はルナを危険だと思ったことなんてない。それにお前らが均衡の代行者だろうが人間たちの正義だろうが、俺の意思は何も変わらないな」


 言い切ってから、優朔はわずかに息を吐いた。


 反逆者。世界の均衡。そして、人類の正義。

 並べられた言葉はどれも大仰な響きを持っていたが、胸には一片たりとも残らない。


 相手はきっと、それらを告げれば優朔に迷いが生じると思っていたのだろう。


 けれど、そもそも前提が違う。


 ――迷うためには、二つ以上の選択肢が要る。

 最初から、優朔にはそれが一つしかなかった。


「それで世界が敵になるのなら、俺と世界の考えが合わなかったってだけの話だろ」


「…………到底理解の及ばぬ思考だ。貴様は一体……」


「こっちこそ理解できない。なぜ俺が知らない他人の命に責任を持たなくちゃならないんだ? お前たちは、名も知らない他人が死んだという事実を知るたびに嘆くのか? 俺はルナのことを誰よりも知っているが、その他の奴らのことは何も知らん。……当然、お前らのこともな」


「くっ……」


「……で、要件は何だ? ルナの力を知った上で来たのなら、わざわざ命を捨てに来たってわけでもないんだろ」


 代表格の男は、奥歯を噛みしめるように間を置き、それからようやく本題へ入った。


「――当然だ。貴様には降伏を勧告する。そして、その怪物は再び封へ戻す。如何せんそやつは死なんからな」


 なるほど、これはいいことを聞いた、と優朔は思う。

 ルナが不死身――それ自体は特段驚くことではない。そういう存在であっても不自然ではないと、既に理解している。

 しかしその事実を知った瞬間、優朔の頭には別のことが頭をよぎった。


(俺も、長生きしないとだな)


 それは今この場から見ればずれた思考だったが、彼にとってはとても重要なことだった。

 そんな思考をよそに、眼前の男は続ける。


「だが、先ほどの言からして降伏する気はないようだな。――幸い、被害の規模はまだ大きくない。今χ《カイ》を差し出して降伏すれば、貴様の罪は軽く済むぞ。拒めば、貴様も《封月》への加担者として最上位の処理対象に指定される。そうなれば、もはや人として裁かれる機会すら残らぬぞ。同じ人間として、最後の猶予を与えているのだ」


 ――これは嘘だ。


 彼らの目の底には、目的のためならば手段を選ばない人間の色が滲んでいる。

 にもかかわらず、優朔の意思が分かってなお、すぐに攻撃を仕掛けずいたずらに問答を引き延ばしている以上、こちらが降伏する可能性に賭けているのだろう。


 それは当然だ。どれだけ対策を施してきたのか知らないが、人間がルナと戦って、何の代償も払わずに済むはずがない。加えて向こうにとっては、怪物の少女を連れ出した男が何者かも分からないのだ。慎重にもなるだろう。


「それが何だ。それは、俺たちが負けた場合の話だろ? わざわざ有り得ないことを恐れる馬鹿がこの世のどこにいる?」


「な、貴様――ッ! 貴様らが敵に回すことになるのは世界そのものだと言ったはずだぞ!!」


「くどい。これ以上お前らに使う時間はない。用が済んだなら、今すぐに帰れ」


 揺るがない意思と言葉に、空気が凍りつく。


 優朔に全てを任せ、ここまで静観していたルナが、ようやく口を開いた。


「……ユウ、かえしちゃうの? ……また邪魔されるかも」


「まあ、今は早く食事に戻りたいしな。けど、どうするかはこいつら次第だ」


 魔術師と名乗った連中は、額や頬に汗を浮かべたまま、互いに何かを話し合っている。それは判断に迷っているというより、ひとつしかない選択へ踏み切れずにいるように見えた。


 優朔はそれを眺めながら、深く息を吐く。

 重要な場面において既に定まった決断すら実行に移せない人間に、一体何ができるというのだろうか。覚悟をした顔をしていても、芯にあるのは別の物だ。人間のそういう醜さを、彼は嫌というほど知っている。


「――はぁ……どちらにせよ、今後も俺たちに付き纏った挙句引き離そうとしてくるのなら、いずれは排除しないといけないわけだしな。家に砲撃してくる時点で、自分たちが殺される覚悟も済ませてきたんだろうし」


 諧謔めいた調子でそう言ってから、優朔は魔術師の群れを見渡した。


「――ルナ、やろうか」


「……うん」


 きっかけはそんな軽い合図だった。


 魔術師たちの気配が一斉に張りつめる。警戒が強まり、器具が構え直され、前列の障壁は厚みを増す。

 だが、それより早くルナの手が上がった。


「『爆ぜろ』」


 その一言が落ちた瞬間。


 誰かが身構えるより先に――前方、最も人の密集していた一帯が爆ぜた。


 術式も、火種も、光が集まる予兆さえもない。


 言葉が落ちきった瞬間には、魔術師たちの陣の中央は白く染まっていた。


 地表が円形に隆起し、その亀裂から光と熱が一息に噴き上がる。前列の障壁が内側から膨らみ、硝子のような亀裂を走らせた。


「――ッ!?」


 爆圧が大地を薙ぎ、人影をまとめて攫う。

 黒い外套が空へ散り、その奥から遅れて土砂が巨大な幕となって立ち上がった。


 さらに一拍遅れて、轟音が届く。


(――やはり、詠唱そのものに意味があるのか。それとも、言葉にすることで像が定まるのか)


「……なんにせよ、さすがはルナだな」


「……えへへ。もっとこわす……?」


「まあ、それは向こうの出方次第だな。これでもし連中が引くなら、わざわざ殺す必要もない」


「……うん、わかった」


 言った通り、優朔には無益な争いをする気がない。彼らに興味はないし、ここにいる魔術師をいくら殺し尽くしたところで、連中の執着がそれで終わるとも思えない。


 ――しかし、魔術師たちに引く気はなかった。


 こちらが引く意思を見せた途端、それを好機と受け取ったのか、魔術師たちは一斉に二人を取り囲みはじめる。距離を詰める者、横へ散る者、後列で詠唱を始める者。隊列だけは崩さず、しかし包囲を完成させるための動きだけが速まる。


「……なんか、かこまれちゃった」


「みたいだな。どうやら、ここまで来て力量差も分からない連中らしい」


 今の発言は、〝ルナがいるから勝てる〟というだけの意味ではない。


 異能を持たない優朔の目から見ても、彼らの力は大した脅威には思えなかった。


「――総員、起律! 詠唱を開始せよ!」


 指揮役の合図とともに、魔術師たちが一斉に何かを唱え始める。


 本を開く者、掌を掲げる者、地へ符を打つ者、杖の石突きを踏み鳴らす者。所作はばらばらだが、紡がれる詠唱の律だけは不気味なほど揃っている。


 散開していた術師たちの足元で、一つ、また一つと法陣が灯った。


 異なる形の術式が、離れた位置から互いへ細い光条を伸ばしていく。


「――開式!」


 合図と同時に、すべての法陣が前を向いた。


「ルナ、あれは防げるか?」


「……もちろん……ユウに当たったら、だめ」


 ルナが優朔を見上げ、小さく頷く。

 返事の終わりとほとんど同時に、彼女の指が一つ折れる。


「放てッ!!」


 指揮役が命じた次の瞬間、魔術師たちの前列から数種の攻撃が一斉に放たれた。


 炎、氷、風、光、闇。


 炎線は蛇のように捻れ、

 氷槍は朝日を裂いて白く走り、

 風刃は大気そのものを刃へ変えて押し寄せる。


 後方では法陣が幾重にも重なり、その中央から放たれた光弾が直進し、闇色の塊が遅れて大気の濃度を歪めながら迫ってきた。


 それぞれの性質は違うが、狙いは同じだ。二人を、魔術の物量で一気に呑み込むこと。


 事実だけ並べれば、遺跡でルナが魅せた力とさほど遠くもないように聞こえるかもしれない。だが、彼女のそれが最初から結果を置いてくるものだとすれば、眼前の攻撃はどれも、着弾までの過程を余すところなく晒していた。


 威力までは分からないが、手順の全てが目に見えているというだけで脅威としての純度は低い。


 それらは優朔の感覚に、何一つ訴えてこなかった。


 炎が視界を赤く染める。

 氷槍の穂先が朝光を反射し、風刃が地表を削りながら迫る。


 それでも、ルナは動かなかった。


 髪すら揺らさず、ただ飛来する魔術を眺めて――


「『消えて』」


 ルナが呟く。

 その声は小さく、魔術師達が拍子抜けするほど静かだった。


 ――〝ぽん〟と。


 そんな軽い空気が鳴ったかと思うと、こちらへ向かっていた全ての攻撃が、まるで最初から存在しなかったかのように霧散した。


 飛来する炎は中央から窪み、火勢を保てないまま赤い輪郭だけを一瞬残して潰える。

 氷槍は穂先から白い霧へ解け、風刃は形を失って空の中に戻された。

 光は輝くことをやめ、闇は濃度を捨て、ただの朝の空気へと押し戻されていく。


 だが、それすらも目に映る光景をそれらしく表現したに過ぎない。成立した魔術が、いかなる機序きじょを経て消されたのか――優朔はもちろん、放った魔術師たちにすら分かっていないだろう。


「なッ――!」


「ばかな……あれだけの手数を、たった一言の詠唱でかき消しただと……っ?」


 敵陣にどよめきが渦巻く。


(……あれを同じ『詠唱』として数えるのか。やはり人間は、理解できないものほど既知の言葉に押し込みたがるものだな)


 優朔には、彼らが使った魔術とやらがどの程度のものか分からない。

 だがその反応からして、今の総攻撃が彼らにとって相応の一手だったことだけは理解できた。


「くっ……散開ッ!! 一所に固まるな! 第二陣、多方位展開へ移れ!!」


 一人の魔術師が声を張り上げると、群れは一斉に位置を散らした。


 左右へ、大きく、遠く。前列と後列の間にも高低差をつけるように動き、ある者は家の斜め後方へ回り込み、ある者は道の外れにある石垣の陰へ滑り込む。

 術者ごとの間合いを活かしながら、同時に、ルナによる正面一掃を避ける陣形だろう。決して効率的な統率ではないが、昨日の連中と比べれば遥かにまともな連携をしていた。


 その移動に合わせ、地面へ打ち込まれていた符が光る。線が走り方陣が展開すると、朝の大気の下に薄い膜のようなものが張られ、視界の端で空間がわずかに歪んだ。


 空間干渉対策か、錯乱対策か、あるいは怪異に相対した際の特殊な防御壁か。


 少なくとも彼らは、ただ多人数で押し寄せているのではない。ルナと戦うことを前提に準備を整え、その上でなお、今この瞬間も足りない部分を戦いながら埋めている。だからこそ、彼らはルナを前にしても人の形で立てている。


「――開式!」


 今度は斜め右から三人、左から二人、後方から一人。別々の角度から魔術が走る。

 火球は真正面を避け、死角を狙って低く潜る。

 氷は足止めのためか地を這うように伸び、風は胴を狙って水平に走った。


 単に撃ち込むだけでは通らないと理解したうえで、こちらの防御を削りに来ているのだろう。


「……ユウ、うしろ」


「ああ」


 後方から放たれた風は空中で折れ、闇の槍は根本から捻れて消えた。正面へ来た炎はまた形を失い、地を這っていた氷はルナの足元まで届く寸前で白い塵へ戻る。彼女は一歩も動かず、ただ指先の向きを少し変えるだけで、攻撃そのものがなかったことになっている。


 だが、それで終わらせるほど彼らも甘くはなかった。


「拘束術式、展開!」


 前衛の三人が同時に地へ手をつく。大気が低く鳴り、足元の土から黒い環が幾つも浮かび上がった。環は一つの円ではなく、複数の線で繋がれた歪な輪だ。そこから鎖のように連なる黒帯が伸び、地表すれすれを這うように優朔たちの足を狙う。


「ルナ」


「……うん」


 ルナが地面へ視線を落とす。


「……じゃま」


 その一言で、黒環に連なる帯は途中から切断されたように折れ、環ごと地表の上でばらばらに砕ける。だが、そこで生じたわずかな間隙を縫って、一人の魔術師が前へ出ていた。


 細身の男。肩口までの黒髪を後ろで束ね、袖の内に短い刃のような術具を隠している。

 武具からして近接型であることは間違いない。

 遠距離や搦め手が多い中、巻き込まれる可能性の高い近距離――しかし術者であることを踏まえれば、間合いを一気に詰める類の術かもしれない。


 男の姿が、一度だけ像を乱した。


 踏み込んだ形跡はない。十数歩あった距離の中程に、砂が一筋だけ遅れて爆ぜる。


 ……気づいた時には、男は既に優朔の懐にいた。


 術具の刃が朝光を引き、心臓へ真っ直ぐ伸びる軌道は、恐ろしく速い。


 ――だが、優朔が見ていたのは刃ではなかった。


 加速する直前に沈んだ右肩。

 踏み込む寸前、僅かに外へ逃げた膝。

 袖口から刃が現れるより先に、身体はもう刺突の軌道を告げている。


 ――切っ先が胸へ届く寸前、優朔は半歩だけ外へずれた。


 切っ先が肩口を抜ける。

 同時に男の手首を押さえ、止めず、むしろ加速した腕を前へ送った。

 距離を詰めた勢いも、崩れた重心も、ほとんどは男自身のものだった。


 男の胸が開いた瞬間、優朔の掌底が正中へ沈む。

 鈍い衝撃が背中まで抜け、男の肺から一息に空気が吐き出された。


「――ッッ」


 空気を吐き切った男が膝を落とす。

 掴んだ腕を背へ折り畳むと、優朔はそのまま地面へ伏せさせた。術具を靴先で遠ざけ、首の付け根を一度打つ。


 ――ここまで、ほんの数秒の出来事だった。


 倒れた術師が砂へ沈む。


 優朔は掴んでいた腕を放し、袖口に土が付いていないことだけを一瞥した。


 周囲から、詠唱が消えていた。


「……なんなんだ、今のは」

「奴は、ただの人間のはずでは……」

「近接班が一瞬で――」


 数十の視線が、《封月》ではなく――初めて優朔へ集まる。


「人間相手ならこれくらいはできるさ」


「――――ッ」


 そもそも、ルナの存在だけでも彼らの理解を遥かに超えているのだ。

 それが、その隣にいる()()まで、術を使わずに術師を沈めたとあっては――。

 敵陣を走った動揺は、さっきまでとは明らかに質が違っていた。


「――動揺するな! 男のほうは魔術を持たん、ただの格闘家風情だ! 警戒指定を改める! χのみではない、同行者も制圧対象と見做せ!」


(格闘家、か……都合のいい理解だな)


 内心でそんな皮肉を落とし、優朔はまた状況の観測に戻る。


 魔術師たちが再び詠唱を重ねる。前後左右あらゆる角度から術式が重なると、空気が震え、摩耗するように歪み始める。


 詠唱が一節進むたび、術者の足元から砂粒が僅かに浮く。


 炎を編む者の周囲でも、氷槍を造る者の周囲でも同じだった。


 砂は術者自身へ吸われているのではない。その周囲――何もない空間の一点へ向かって、同じように引かれている。


 草の葉が揺れ、空気が薄く窪んだ。


(……なるほど)


 つまり、術式の発動は術者自身を燃料にしているわけではない。


(奴らは、大気から動力を得ているのか)


 火炎の帯が地を舐め、氷柱が矢列のように連なり、風圧が砂を剥ぎながら奔る。

 上空では薄い光輪が幾重にも重なり、背後では水流のような闇の玉が地を這い、触れた草を瞬時に枯らしながら広がってくる。


(俺たち二人を相手に、炎だの氷だの風だのと随分な大盤振る舞いだ。まるで見世物小屋だな……それにしたって騒がしすぎるが)


 それぞれは、人間の身体能力でも捌ける程度の術に過ぎない。

 だが、今やそれは群れの戦術に組み込まれ、一つの〝暴力〟として完成されつつあった。


 優朔はその中心に立ったまま、視線だけで戦場を捌く。

 彼は、飛び交う魔術ではなく、陣の揺らぎを見ていた。


 攻撃役が詠唱を止めても、障壁だけは途切れない。

 そのたび右後方の女が水鏡へ指を滑らせ、左奥の女が一拍遅れて符を返している。


 二人の手が止まった瞬間だけ、前列を覆う歪みが薄くなった。


「――ルナ、右奥と左奥。水鏡を持っている二人だ。あれをどかせば、障壁が弱くなる」


「……ん」


 短い返事と共に、ルナの手がそちらへ向く。


 左右後方で障壁を支えていた二人の女が、それぞれ別方向へ吹き飛んだ。風は起きておらず、視覚には飛んだというより、立っていた空間そのものが彼女たちを拒絶したように見える。

 あまりの速度に悲鳴は遅れ、体は弧を描くことさえ許されず、点のように遠ざかって遥か向こうの林の奥へ消えていった。


 魔術師側も、ただ見ていたわけではない。飛ばされた術師の隙間を埋めるように、後列から新たな障壁が展開する。


 半透明の壁が何重にも重なり、表面には細い符文が蠢いていた。さらにその背後では複数の術者が膝をつき、詠唱の速度を上げている。


 上空の光輪が一つずつ重なっていく。


 一枚、二枚、三枚――重なるたび中心の白光が細く絞られ、やがて一本の巨大な槍へ変わった。


 地上の全てが白く焼かれ、まだ落ちてもいない光の熱だけで草の先が焦げていく。


「貫けぇッ!!」


 術師が腕を振り下ろし――白光の槍が墜ちる。


 空を切り裂く光と熱が地上へ真っ直ぐ押し寄せ、周囲の影を蒸発させていく。土が焼け、草が焦げ、轟音が戦場に轟く。


 これまでとは出力も圧も桁違いの一撃だと、五感が知らせる。


 だが、その槍がルナへ届くことはなかった。

 彼女は優朔の隣で、それを避けるどころか、空を仰ぐことすらなく、ただ掌を上へ向ける。


 白光の槍は、その手の数寸上で止まり――そのまま縦に裂けた。二つに分かれた光は左右へ流され、家の両脇に深い焼痕だけを残して遠ざかる。


 ルナは裂いた光の片側を視線で追ったあと、胸前に下ろした手を不思議そうに見つめる。

 それから、小さく首を傾げた。


「……あさ、だから……ちょっと、つかれた」


 口調はいつも通り平坦だが、それでも優朔には言葉の意味が分かった。

 いつもの彼女なら、今の一撃でも裂くまでもなく消していただろう。


 ――やはり時間帯は、ルナの力に何かしらの影響を及ぼすらしい。


 それとは別に、ルナがどこか力を選んで使っていることも感じていた。

 先ほどから、必要以上の破壊を避けているようにも見える。


 無論、人間を慮ってのことではない。そもそも彼女が見知らぬ人間の生死を気に掛ける理由などないからだ。

 彼女が気にしているのは、壊される側ではなく――その光景を隣で見る自分なのだろう。


 しかし、それでもなお戦場は彼女の掌一つで壊れかけているのだから、魔術師たちにとってこれは悪夢以外の何物でもない。


「防護班、精神鎮静を維持しろ!! 畏れず術式を展開し続けるんだ!!」


 統率役らしい女の叫びが全体に飛ぶ。


(……なるほど)


 発狂や混乱への対策は、あの辺りか。衣へ編み込まれた符だけでなく、それに適した術者が魔術で精神へ安定を促している。ルナを視てもこれだけの長時間戦えているのは、そのためだろう。


 だが、鎮静は畏怖を留めても、根底にある恐怖までは消せない。その継接ぎだらけの安定を保つためには、相応の人員と魔力を割いているはずだ。

 そして、術と人の数だけでは、圧倒的な力量差までは埋められない。


「――開式!」


 指揮役の命令が飛ぶと、今度は地面そのものが動く。複数の術者が同時に地へ符を打ち、周囲から石槍が突き上がる。一本や二本ではない。林立という語がそのまま当てはまるほどの石の刃が、二人を包み込むように生える。


 さらにその合間を縫うように、目眩ましの砂塵が舞い上がる。補助班がルナの視線を切り、背後の近接班がそこへ飛び込む手筈なのだろう。


 やはり魔術師達の動きは統制されており、戦術としてもよく練られている。


(訓練された兵士の軍隊に、魔術という科学の延長のような力が加わった――そんなところだな)


 背後で、刃が空気を裂いた。


 優朔は振り向かず、左へ一歩ずれる。刃が脇腹のあった空間を抜けた。


 男の手首を取ったところで――横から、優朔を狙った短槍が迫る。


 優朔は一人目の伸び切った腕をそのまま引き、男の身体を槍の軌道へ滑らせた。


 槍手は直前で穂先を逸らそうとしたが、止めきれない。穂先は引き出された男の肩を浅く裂き、その一瞬、二人の重心が同時に浮く。


 優朔はその間へ入ると、槍手の胸元へ肘を沈め、その身体を捩じる。

 重なった二人の足が絡み、そのまま一塊になって地へ落ちた。


「――次」


 彼は異能を持たない。だが、 術で速度を上げても、動かすのが人間の身体であることは変わらなかった。


 踏み込む前には踵が浮く。腕を振る前には肩が開く。

 急に方向を変えれば、必ず重心が一方の足に移る。


 術がどれほど動きを補っても、その予兆まで消せるわけではない。


「――ッ!!」


 術者の一人が袖から短い針を放つのを、目端が捉える。


(麻痺か、毒か――なんにせよ、ろくでもない術を載せた飛び道具だろうな。こっちのほうが余程人間らしい戦法だが)


 優朔は後ろへ避けず、投げ腕の外側へ踏み込んだ。針は耳の後ろを抜け、伸び切った腕だけが目の前に残る。


 その肘を内側へ押し込み、空いた脇腹へ拳を入れた。


「ぐっ――」


 術者が身を折る。


 優朔は追撃せず、肩を押してその身体を横へ流した。

 その崩れを見届けるより先に、優朔は視線だけで次を拾う。


 後方、砂塵の切れ間。ルナの死角へ滑り込もうとしていた術者が、一瞬のうちに足を速めた。


 優朔は踏み替え一つで身体を捻り、そのまま裏拳を打ち上げる。

 顎へ叩き込まれた一撃が骨ごと顔を跳ね上げた。術者の身体が地面を離れ、詠唱は歯の砕ける音とともに途切れる。


 倒れる身体には目も向けず、優朔はその向こう――ルナへ伸びかけていた次の手を見る。


「この子に触れるな」


 低く落ちた声に熱はない。なのに、その一言は鋭く、周囲の空気を真っ直ぐ裂いた。


「……ユウ、かっこいい」


 その声は、戦場の只中にあまりにも場違いなほど素直に通る。


「っ……ああ、ありがとう」


 やはり、この状況であってもルナの言葉は優朔の心臓に悪かった。

 二人は目を合わせ、ひと時沈黙が流れる。だが、その時には既に次の気配が動いていた。


「――ルナ、左だ」


「……うん」


 近くで術を編んでいた左の群れへ向け、ルナが指を向ける。

 その瞬間、彼らの前に張られていた障壁は一斉に内側から裏返るように歪んで壊れ、支えを失った術者たちの身体が悲鳴とともに宙へ跳ね上がる。林の梢を越える高度へ達した次の瞬間――彼らは墜ち、そして潰れた。


「――――ッ!!」


 群れの中でどよめきが起こり、視線が揺れ、足が止まり、何人かは反射的に後退した。

 さすがに魔術師側も学んだらしい。潰れた仲間を見て、近接班はそれ以上むやみに詰めてこなくなり――代わりに、距離を保ったまま多方向からの火力集中へ切り替える。


「第二陣、展開! ――開式、放てッッ!」


 上空に浮いた複数の法陣が同時に回転を始める。

 火と氷、光と闇、土と風がそれぞれ別系統のままではなく、途中で交差し、層となり、ひとつの奔流へ変わっていく。

 奔流には相克そうこくする術を強引に束ねた不安定さがあったが、それだけに着弾した時の破壊規模は大きそうだった。


 優朔はその組み方を見て、少しだけ感心する。


(――なるほど。人間がこれだけの連携を積み上げてきたのなら、世界の均衡とやらを保ってきたのも伊達ではないらしい)


 空気が軋み、束ねられた術の塊は今にも二人に落ちようとしている。


 ルナはそれを見上げ、ほんの少しだけ眉を寄せた。

 優朔に怖がられる戦い方はしたくない。けれど、優朔へ届く攻撃を見過ごすつもりもない。

 その二つが、一瞬だけ彼女の中でせめぎ合っていた。


 だが――、


「……もういいや」


 術が落ちるより先に、結論は決まった。

 白い掌が空を向き、少女は口を開く。


「『こわれちゃえ』」


 それは詠唱と呼ぶにはあまりにも幼い響きだったが――、

 結果はあまりにも苛烈だった。


 ぱき、と。


 最初は、空の最上段に浮いていた法陣へ一本の亀裂が走った。


 それは隣へ移り、さらに隣へ。

 亀裂は瞬く間に陣列全体へ伝播した。


「待て、術式を切れ――!」


 気付いた術師が声を上げるも、それは遅すぎた。


 上空で収束していた術の塊が、中心から崩れ落ちる。

 均衡を失った力はそのまま自壊へ転じ、制御を失った魔力が法陣そのものへ逆流した。

 砕けた法陣、そこへ繋がっていた術者たちの体が潰れ、その中身を噴き出して壊れる。


「――ッ!!!!」


 一枚、二枚、三人、四人――、――やがて連鎖は数える意味を失った。


 さらに遅れて、衝撃が空一面に広がった。


 音のない爆圧が朝の空をたわませ、遠くの雲まで細く裂く。その余波で地上の魔術師たちは無差別に散り、隊列は崩れ、土煙が帯になってその上を流れた。


「……おもったのと、ちがう」


 優朔は横目でルナを見る。彼女の呼吸が、いつもに比べれば少しだけ乱れている。疲弊というほどではないだろうが……やはり立て続けに力を行使すれば、それなりの消耗はあるらしい。


「無理はしなくていいからな」


「……うん。だいじょうぶ」


 ――それでも、戦場はまだ終わらなかった。


 後退する術師たちの間を割って、一人の老術師が前へ出る。


 誰かが命じずとも、男の進路は自然と開かれた。


 外套には幾重にも符線が編み込まれ、左目の周囲には何かしらの術刻らしき紋がある。先ほどまで前に出ていた連中とは、纏う気配が明らかに違っていた。


 男はルナを見据え、両腕を開いた。


「起律――対χ《カイ》用封環術式【縛月】」


 詠唱と同時に、地平に沿って複数の光環が走った。


「――開式」


 円でも楕円でもない、歪んだ月輪めいたものが幾層にも重なり、二人を中心に空間を包む。輪と輪の間には見えない膜があり、そこへ触れた風が硬質な音を立てていた。


 制限、拘束、封印――そういった意図の術だということはすぐに分かった。遺跡でルナを封印していた封具や封鎖、それに編み込まれていたものに近しい術式だろう。


「ルナ、大丈夫か?」


「……へいき」


 ルナの平然とした様子を見れば、言葉通り、致命的なものではないらしい。だが術環が起動した瞬間、それまで対策越しにもルナの周囲へ滲んでいた異質な気配が、わずかに沈んだ。

 時間による制限に、さらに重りが一つ足されたようだった。


 そして、魔術師たちもそれを見逃さない。


「効いているぞ! 今だ、間隙を突け!」


 近接班が再度、こちらへ突っ込んでくる。

 今度は躊躇が少ないところを見るに、封環が効いていると確信したのだろう。左右から二名、正面から一名、後方から短い転位で一名。


 正面の男が、最も速かった。

 今度の武具は刃ではなく、術刻の走る短棍だ。ルナへの対策を組み込んだ術具なのだろう。

 あと数メートル、その棍が彼女の肩へ届きかけたとき――、


「……ちかづかないで」


 ルナの手が普段より素早く上がり、瞬間、男の体が視界から消えた。


 ――いや、吹き飛んだのだ。

 だがその速度は尋常ではなく、優朔の目にすら、その軌跡はほとんど映らなかった。ほんの一瞬前まで目の前にいた人間が、次の瞬間には地平の彼方へ点のように弾かれ、遠方で地面が抉れる。


 左右から迫った二人も同じだった。片方は上空へ、片方は真横へ。どちらも悲鳴より先に体が見えなくなる。

 残った後方の一人だけが、恐怖で一歩を止める。


 ルナがただそちらを見ただけで、男は自分から後退し、足をもつれさせて倒れ、そのまま這うように陣の奥へ逃げていく。


 その一連の光景が、余計に戦場を冷やした。

 魔術師たちの顔色が変わっていく。発狂や混乱への対策は十全に施しているのだろうが、仲間が一切の抵抗を許されず消えていく光景まで、完全に平静の内へ収められるわけではない。

 術で押し固めた理性の下にある〝生身の恐怖〟が、じわじわと浮き上がり始めていた。


 優朔はその綻びを見て確信する。もう長くはもたない、と。


「――ッ、押せぇッ!! 押し切れッ!! 封環が機能しているうちに――!」


 半ば悲鳴のような号令が飛び、最後の総攻勢が始まる。


 前衛が突撃し、後衛が上空から魔術を降らせ、補助が術環を維持する。火線が地を割り、氷柱が二人を囲んで壁のように立ち上がり、その中を風の刃が循環する。さらにその奥で、高位術者たちが長い詠唱へ入った。空に現れた法陣の数は、先ほどまでの比ではない。


 朝の空が、術式で黒く染まっていく。


 頭上を埋め尽くした法陣のせいで、朝日さえ満足に地上へ届かない。


 幾重もの術式が二人へ照準を重ね、地上では封環が逃げ道を塞ぐ。


 魔術師たちが積み上げられるものを、すべて積み上げたであろう光景。


 だが、それでも――結果が覆る可能性など、最初から存在していなかった。


「ルナ」


「……うん」


 その中心で、ルナが一歩前へ出る。


 月光とは対極の朝の光が、法陣の隙間から一本だけ白い髪へ落ちた。


 ……彼女は今、万全ではない。


 それでも、そこにいるのは『怪物の少女』に他ならなかった。


 彼女は両手を胸より少し高い位置で揃え、それからほんの少しだけ左右へ開く。


「『――還れ』」


 ――――。


 ――空間が、激しく軋んだ。


 空を覆っていた法陣の列が、端から連鎖するようにひび割れていく。


「な――」


 飛来していた炎が反転し、放たれた氷槍が軌道を折る。

 風刃も、光も、闇も――来た道を辿るように還り、魔術師達の元へ降り注いだ。


「防壁――ッ!」


 周囲に張られた防壁は一枚目が砕け、二枚目が捩れ――三枚目でようやく形を保とうとしたが、結局は耐えきれず、【縛月】ごと破断した。


 さらに遅れて、見えない奔流が走った。


 前列の魔術師たちがまとめて吹き飛び、後列の障壁が紙のように裂ける。

 武具と術具は砕け、法書は捲れ上がり、地面に打ち込まれた符は根元から抉り返された。

 押し潰された空気が林を薙ぎ、道の端の石垣を粉砕し、そのさらに奥まで一直線に破壊の痕が走る。


「うわあぁぁぁ――っ!!」


 圧倒、という言葉では足りない。

 誰かが再起動の術句を叫びかけ、途中で喉ごと潰れた。別の誰かは防壁を張り直そうとして両手を掲げたまま、到達した奔流に腕ごと捩じ切られる。


「ぐぁあああッ――!!」


 砂煙が空へ立ち昇り、折れた木々の向こうで人影が次々と倒れていく。人も隊列も指揮も、もはや原形を保っていない。


 ――そうして残ったのは、ほんの数名だった。


「……やっぱり、おもってたのとちがう」


 残ったうちの一人、最初に名乗った老魔術師が膝をついたまま血を吐く。外套は裂け、胸元の符線は焼け、片腕はだらりと下がっていた。

 唇が震え、歯の隙間から血泡が零れる。それでもなお、男は二人を睨み、喉に残った血を呑み込むようにして言葉を絞り出す。


「……化け物、め……」


 戦慄混じりに吐き出されたその罵倒は、怒りや嘆きというより、人間が理解不能なものに触れた時の〝諦め〟だった。


 優朔はそれを聞き流し、ルナのほうを見る。案の定、彼女には傷一つない。

 分かっていたことではあるが、それでも優朔は心の中で胸を撫で下ろした。


「まだやるのか?」


 優朔が問うと、老魔術師は口の端から血を零しながら笑った。


 老魔術師の視線は、もはや目の前の二人だけを捉えていなかった。


 壊れた法陣の残光、裂けた封環、吹き飛ばされた同胞の痕。

 その全てを見たうえでなお、この光景に〝別の何か〟を重ねて見ているような――そんな、焦点の合わない目だった。


「……仮に……我らを全て打ち破ったとしても……奴らは……」


 そこで言葉が切れ、老魔術師は力尽きた。


「……」


 最期に老魔術師の目の奥に浮かんだものは、こちらに対する敵意ではなかった。むしろ、他に厄介な何かを思い出すような――。


 優朔はその一語を胸の内で反芻する。


 ――〝奴ら〟。


 魔術師とは別の何者かが、まだこの先にいるのか。


 だが、その続きを問い質すより早く、残った魔術師たちの陣が完全に崩れた。誰かが撤退を叫び、誰かが倒れた仲間を引き摺ろうとし、誰かが術具を捨てて逃げようとする。統制は完全に壊れ、そこにあるのは哀れな壊走だけだった。


 ルナがその光景を眺め、優朔に向かって小さく首を傾げる。


「……まだ、こわす?」


 優朔は一瞬だけ考え、それから息を吐いた。


「……いや。今日はもういい」


「……ん。……じゃあ、ごはん?」


「ああ、さすがに残った奴らもこれ以上は仕掛けてこない。……それより、後の掃除が面倒だ」


「……たべたら、わたしがやる」


 それが戦場の締めとしてはあまりに拍子抜けした会話であることを、優朔本人ですら理解していた。

 ……けれど、それでいい。自分たちにとって大事なのは、戦における勝利でも、世界の均衡でもない。

 家に戻り、冷めかけた朝食を温め直して、いつもの時間に戻ることだ。


 ルナは頷いて、優朔の袖を軽く掴んで走る。


 朝の光の中、砕けた術式の残滓はまだ空を漂っている。その只中を、二人は何事もなかったように家へ戻っていく。

 背後では、敗残はいざんの魔術師たちがなお呻き、血を流し、折れた陣の中で立ち尽くしていた。

 その全てを置き去りにして、優朔は扉へ手をかける。


 今回で降りかかる火の粉を完全に払えたとはとても言えないだろう。

 次に来るものが何であれ、それはきっと遠くない。


 ――そう思いながらも、今はただ取り戻した静けさが心地よかった。

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