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北条氏を倒した男

作者: 沢藤南湘

 源頼朝が鎌倉に幕府を創設してから百三十年が過ぎて、武士の頂点に立った幕府の第十四代執権北条高時は、政は一切家来に任せて、自分は毎日酒宴を張り、また闘犬に興じていた。

 北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた足利氏では、十五歳になった足利又太郎が従五位下に叙し治部大輔に任ぜられ、その日に元服をし、得宗北条高時の偏諱を賜り足利高氏と名乗り、二十五歳で高氏は周囲の勧めにより北条一族の名門赤橋氏から登子を正室に迎え、一年後に第一子義詮が生まれた。

 高氏二十七歳の年、再び後醍醐は討幕を計画したが、側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。

 乱は結局失敗に終わり、倒幕計画に関わった貴族や僧侶が多数逮捕され、死刑及び配流などの厳罰に処された。天皇後醍醐も廃位され、代わって持明院統の光厳天皇が践祚した。後醍醐は隠岐島に配流された。

 隠岐に流されてから二年後の、後醍醐は名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出に成功し、伯耆船上山で再び挙兵した。

 高氏28歳、鎌倉では。

「兄上、高時様が、後醍醐天皇たち討幕勢力を鎮圧するよう命が下りましたが、父上の喪が明けておりませんし、兄上のお体の具合もよくないので、今回はお断りしたらいかがですか?」

 弟の足利直義が、高氏に進言した。

「そうだな。高時様にお願いしてみるか」

 高氏は、高時に面会し懇願したが、受けいられなかった。

「では、妻と子供たちの同行をお許しください」

「それも認めぬ。妻子は鎌倉に留めておけ。後のことは、総大将の名越高家に従え」

(登子と子は人質か。高時様は俺のことに疑心暗鬼を抱いているな)

 屋敷に戻った高氏は、直義を呼んだ

「高時様に拒否された。それどころか妻と子たちを鎌倉において行くように命じられたぞ」

「なんというひどいことを。兄上どうされますか?」

「直義、ここだけの話だが、京に入ったら、俺は反旗を翻して後醍醐天皇について、北条を倒そうと思っている」

「ご決心されましたか!兄上、いよいよ我々足利の天下を築くのですね」

 直義は高揚した。

「そうだ。全国の武士を統括する征夷大将軍になるのだ」

「兄上は、北条氏がなれなかった征夷大将軍にきっとなれます。私も力の及ぶ限り兄上に尽くします」

 高氏は京都への途中の三河国八つ橋に来たところで、幕府に謀反を起こすことを長老の吉良貞義の腹心たちに打ち明けた。

「高氏様、御決心されましたか。我ら一同、地の果てまでついて行きますぞ」

「この地には足利一族やその関係のものが多くいますので、我々に従うよう命じたらいかがでしょう」

「そうしよう。いろいろ苦難はあると思うがよろしく頼む」

 策通りに、高氏は総大将の名越高家に進言した。

「名越様に危険が及ばぬように、我々は先に京に入って敵の情勢を探っておきます」

「分かった。よろしく頼む」

 その後、京に着いた高氏は、海老名六郎季行を密かに船上山へ密書を持たせた。

「吉報じゃ。高氏から北条を討ちたいとの密書が届いたぞ」 

 喜んだ後醍醐は、北条追討の綸旨をすぐに高氏に送り返すことを家来に命じた。

「千種忠顕と赤松円心に伝えよ。足利高氏は我らの味方になった。決して高氏には手出しをせずに、幕府の総大将の名越高家を攻めよ」

 そうとは知らずに、名越高家を総大将とする北条軍は、京の南に布陣する後醍醐の軍の諸将に向けて軍を進めた。

 高氏らは上洛し、名越高家が山代で赤松円心に討ち取られたことを知り、船上山と京都を繋ぐ山陰道の要衝であり、また千種忠顕軍が展開していた丹波国の篠村八幡宮で討幕の兵を挙げた。

「俺が天下を収めるのはもうすぐだ。九州の豪族を今から味方につけたほうが良いな」

「その通りです。さすが、兄上は先へ先へと手を打たれる」

 高氏は諸国に多数の軍勢催促状を発し、播磨国の赤松円心、近江国の佐々木道誉らの反幕府勢力を糾合して入洛し、六波羅探題を滅亡させた。

 関東では、上野国の御家人である新田義貞を中心とした叛乱が起こり、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込んだ。

 この軍勢には、鎌倉からの脱出に成功した千寿王も参加していた。

 一方で、高氏の庶長子の竹若丸は伯父に連れ出され、鎌倉を出たが、脱出に失敗して途中で北条の手の者に捕まり殺害された。

「なに、竹若丸が殺されたと」

 高氏の目から止めどもなく涙が流れた。

「竹若丸、成仏してくれ。憎き北条、今に見ておれ」

 

 帰京した後醍醐は、

「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」と宣言し、建武の新政を開始した。

 まず、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、幕府・摂関を廃した。両統迭立を廃止して皇統を大覚寺統に一統した。実子で元弘の乱に最初期から参戦した護良親王を征夷大将軍とした。

「高氏、戦功第一の褒美として、朕の諱尊治からの偏諱尊氏の名を与える。今から足利尊氏と名のれ。また、合わせて、鎮守府将軍と参議に任ずる」

(なぜ武士のこの俺を征夷大将軍にしないのだ)

 また、後醍醐は、記録所、恩賞方、雑訴決断所、武者所(新田義貞を頭人に任命)、窪所などの重要機関を再興もしくは新設した。

 武者所の筆頭には新田義貞が任命されたことに対しても、尊氏は不満を抱いた。

「兄上、天皇より鎌倉へ行くよう命じられました」

 直義が尊氏に報告した。

「それはよかったな。鎌倉は何といっても頼朝さまが幕府を開いてから北条一族が長い間幕府として政務をとってきたところだ。しっかり守って来い。そういえば、東北・北関東は北畠親房の子の顕家に決まったそうだ。油断するな」

1334年1月23日、後醍醐は、実子の恒良親王を皇太子に立てた。

「なぜ討幕に貢献した私が皇太子に選ばれなかったのか」

 不満を抱いた護良親王は、やけくそのなって洛中で暴れまわった。

 護良は征夷大将軍としての器ではなかったため、戦乱の間に率いていた武士たちは彼に味方する者はおらず、皆、離れて行った。

「護良親王が帝位を狙って、近々謀反を起こすらしい。そうなったら、町が火の海になるぞ」

「そりゃ大変だ。逃げる準備をしなきゃ」

 京の雀たちが騒がしくなった。

「帝、護良親王が帝位を奪い取らんと、諸国へ令旨を成して兵を集めています。謀反でございます。早いところなんとかせねばなりません」

 尊氏は、後醍醐にその令旨を見せた。

「なに、護良親王がそんな大それたことを考えているのか。尊氏、今度の清涼殿での詩の会で護良親王を捕縛しろ」

 詩の会の日、それとは知らず、護良親王は侍十数人という身軽さで参内した。

「ここで待っていろ」

 護良親王は、ひとり玄関を上がって広間に向かった。

「護良親王、謀反の罪で逮捕します」

 尊氏の家来に囲まれた。

「何事だ。無礼者」

「天皇のご命令です」

「なんだと」

 逮捕された護良親王は、足利直義に預けられ、鎌倉に送られ土牢の中に投獄された。

「もはやこれまでか」

 親王は、死を覚悟した。


尊氏30歳の時、信濃で蜂起した北条高時の遺児の北条時行は、鎌倉に迫って来た。

「護良親王が時行に旗印として奉じられることになってはまずい。義博、親王の首をはねろ」

 直義は淵辺義博に命じた。

 京の尊氏のもとに鎌倉が時行によって占領され、直義が敗走したとの報が入った。

「直義は、無事か?」

「無事、三河にいるそうです」

「早く助太刀に参らねば」

 尊氏は、即座に後醍醐に掛け合った。

「天皇、時行への追討と征夷大将軍及び諸国総追補使の官職を私にお与えください」

 後醍醐の頭脳はめまぐるしく回転した。

「そなたを征東大将軍に任ずる」

 そして、後日、後醍醐が、成良親王を征夷大将軍に任じたことを尊氏は知った。

「またか。戦も知らず武家でもないのに天皇は何を考えているのだ。俺の何を恐れているんだ」

 尊氏は京を出発して数日後、三河矢作で直義と合流した。

「兄上、申し訳ありません」

「まずは、無事でよかった。これから鎌倉を奪回するぞ」

 尊氏の軍勢は、各合戦で北条軍を破り鎌倉に入った。

 尊氏が、自ら諸将に恩賞として所領宛を行ったところ、天皇の勅使がやって来て、後醍醐の意向を伝えた。

「尊氏に勲功賞として、従二位を与えるが、軍兵の恩賞については綸旨によるべきである。早々に帰京すべし」

 尊氏は、直義に言った。

「天皇のご意向だ。俺はすぐに京へ戻るぞ」

「ちょっと待ってください兄上、京へ戻られてはいけません。北条が滅亡して、天下が統一されたのは兄上の功績です。ところが、京に兄上がいた時は、公家や新田義貞が度々陰謀を企てて兄上を陥れようとしました。これまでは運に恵まれて大事に至りませんでしたが、今回は大敵を逃れて鎌倉にいるのですから、京へお戻りになってはいけません」

 尊氏は、直義の意見を取り入れて鎌倉にとどまることにした。

 更に、直義が進言した。

「兄上、新田義貞を討伐するために一族を馳せ参じるよう軍勢催促状をしたためていただけませんか?」

「直義、急ぐな。俺から帝に新田義貞討伐を請う奏上を送るからその返事が来るまで待つんだ」

 尊氏31歳。

 しかし、後醍醐は尊氏討伐を決めており、その名に従って、新田義貞軍が京を発っていた。また、

「足利尊氏、同直義以下の輩、反逆の企てあり、誅伐のため鎌倉に発向すべし」という軍勢催促状が天皇方諸将へ発していた。

「なんだと、帝が俺を討てと。そんな馬鹿なはずはない」

 尊氏は仰天した。

「兄上、新田義貞はすでに京を出発したそうです。我々も早く出陣しなければなりません」

 直義が緊張した面持ちで進言した。

「分かった。高師泰を大将として新田を迎え撃たせよ。ただ三河の川よりは西へ進軍してはならぬ」

 尊氏は念を押した。

「俺は、帝の恩を忘れることはできない。だから帝に敵対するなどできない。直義、おまえに政務を譲るから好きにやるがよい」

 続けて尊氏が言った。

「兄上はどうされるのですか?」

「俺は、帝に敵意の無いことを表すために、浄光明寺に引きこもる」

 直義は単独で出陣したが、各地で新田軍に惨敗した。

「これを兄上に渡してくれ」

 直義の負け戦を知った尊氏は、帝に叛くことは本意ではないと苦悩した。

 直義の家来が書状を持ってきた。

 それには、直義が作った新田義貞を誅伐せよとの偽りの綸旨が入っていた。

「これは真実か?」

「分かりません」

「どうでもよい、直義を助けに行くぞ。出陣だ!」

 尊氏は半信半疑の思いであったが、直義に危険が迫っているのを見過ごすことができずに出陣した。

 尊氏は、箱根で新田軍を撃破して、一気に京を目指した。

「兄上、ありがとうございました」

「直義、この勢いで、京に攻め上る」

 足利軍は京を占領した。が、後醍醐が京を脱出して比叡山に逃れたことを知った尊氏の気持ちは浮かなかった。

「やはり、直義に一杯食わされたか。三種の神器はないし、光厳上皇の行方も未だ分からない」

 翌年、尊氏追撃のため、奥州の北畠顕家が京に攻め込んできた。

「やっと、顕家が来てくれたか」

 後醍醐は喜んだ。

「帝は先見の明がおありになります。奥州の顕家を鎮守府将軍に任じ、足利の背後から攻めさせる作戦が、ズバリと的中いたしました」

「これからじゃ」

 両軍激突した結果、北畠顕家の軍勢に押されて、尊氏たちは丹波へ退却した。

 尊氏は軍議を開いた。

「忌憚のない意見を聞かせてくれ」

 尊氏がいつもの通り、落ち着いた態度で言った。

「明日にでも再び京へ攻め込みましょう」

「いや、ここは一旦退いて、過日功をなすのも武略の道です」

 意見が二つに分かれた。

「皆の意見は分かった。一旦、九州へと退散してまた機を見て京を目指すことにする」

 尊氏軍は、室津に到着した。

 再び、軍議が行われた。

「追撃してくる帝方阻止のため、山陽道及び四国での諸将の配置を決める」

 と言って、

「足利一門の石橋氏を備前、今川氏を備後、桃井氏を安芸、大島氏を周防、そして細川氏を四国に配する」と尊氏は具体的に配置を決めた。

「直義、密使を光厳上皇のもとに送って、新田義貞誅伐の院宣を出すように策を立てろ」

 そして、尊氏は西へと向かった。

「兄上、とうとう賢俊の働きで、光厳上皇の新田義貞を誅伐せよとの院宣がくだりました」

「本当か、直義、偽りではないな」

「真実です。これで我々は朝敵ではなくなりました」

 そして、尊氏は多々良が浜の干潟で九州最大の天皇方勢力の菊池軍と決戦に臨んだ。

「兄上、圧倒的に敵方のほうが兵が多いです」

「何を心配している。この勝負に勝たねば二度と京には戻れないのだ。戦は数ではない、頭で勝負するのだ。勝つための策を重臣たちを集め考えよ」

 戦術と士気そして運も味方して、尊氏軍が勝利すると、尊氏に加勢する兵は一気に増加し、瞬く間に九州を制圧してしまった。

 尊氏は流れが変わったのを巧みにとらえ、一息入れるのもそこそこに、博多から京に東上を開始した。

「早く京の桜を見たいものだ。俺は海から行くが、お前は陸路を行け」

 尊氏が直義に向かって言った。

 尊氏は伊予の河野氏たち水軍の味方を得て、多くの軍船を集めて海上を進み、直義は山陽道を東上しながら多くの味方を集めていた。

 後醍醐は軍議を開いた。

「正成、策はあるか」

「はい、わが軍は足利軍に比べますと兵力が劣りますので、正面から戦わずに、まず足利軍を京に易々と入れて、敵方を安心させたところ、四方から京にいる足利軍を攻め立てれば勝利間違いございません」

「楠殿、それは危険です。楠軍の強さは足利軍に引けを取らないではありませんか。ここは京に入れずに敵を迎え撃った方がよい」

 公家の一人が言った。

 他の公卿たちもその意見に賛同した。

 (兵力も乏しくろくな武将もいないのに、平場で勝てるわけがない。兵法など知らぬ馬鹿公卿どもが)

 正成の意見は取り入れられずに、敵を迎え撃てという勅命になった。

 この間、新田義貞は赤松氏の居城白旗城への攻撃に手間取っていたため、尊氏軍は兵庫でやすやすと楠正成を倒し、光厳上皇と豊仁親王を擁して京に向かった。


「楠正成殿が自害いたしました」

「なに、正成が自害だと?!」

 敗走してきた新田義貞の報告に後醍醐は愕然とした。

「帝、足利勢はすぐそこまで攻め入ってきています。一刻も早く比叡山へお逃げください。私たちがお守りします」

 桜の花も散り、梅雨に入ると直義軍は、比叡山を攻めて、後醍醐の側近の千種忠顕を討ち取り、続いて、京の市街戦では名和長年も討ち取った。

 尊氏は、豊仁親王を光明天皇に立てた。

 家来が後醍醐に尊氏からの書状を渡した。

「なに、尊氏が両統迭立と私へ京に戻れと。一体何様だと思っているのだ」

 持明院統と大覚寺統の両統が交互に天皇を立てることを尊氏は条件としてきた。

 この二つの申し入れに、後醍醐は怒り狂った。が、兵力に劣っていることを知っている後醍醐は、申し入れをのんだ。

 将来のために、子の懐良を九州へ、恒良と尊良に義貞をつけて北国に落とすのが精一杯の抵抗で、他には手の打ちようがなかった。

 後醍醐は京に連れ戻され、やむなく光明に三種の神器を渡した。

「兄上、とうとう我々の思い通りになりましたね」

「やっとな」

「後醍醐様はどういたしましょうか」

 尊氏はしばらく考えてから、投げやりに言った。

「花山院に幽閉しろ」

 尊氏は三十二歳になっていた。

 尊氏は、幕府開創にあたっての施政の基本十七条を定めた’建武式目条々’を家来からの答申という形をとって制定した。

「兄上、第一項の幕府の所在地ですが、鎌倉にしますか?」

「鎌倉に置けば、京では後醍醐がいつ勢いを盛り返すか心配でならない。鎌倉に移ることは、京を明け渡すことになり、せっかく戦で獲得したものの大半を放棄するになるのだ。そのようなことはできぬ。よって、京に幕府を置くことにする。直義、おまえは政務を行え。俺は御家人たちを束ねることに専念する」

 新しい幕府は京に置くことに決めた。

「兄上、政を行う場所や建物はいかがいたしましょうか?」

「高師直に検討させよう。それまでは我々の屋敷で行うしかないな」

 武家の棟梁として尊氏は、執事高師直の補佐のもと御家人武士の統率にあたり、政務は直義に任せた。直義は、そのもとに鎌倉以来の裁判を担当した家筋の人たちを登用した。

 尊氏は土御門東洞院、直義は錦小路堀川の屋敷で政務を行った。

 尊氏は直義および高師直たち重臣を集めて、軍議を開いた。

「北陸の新田勢は、金ヶ崎城にこもって、着々と兵を集めているそうです。やはり天皇が吉野に脱出されたことが、義貞をその気にさせているのでしょうな」

 と直義が言うと、尊氏は睨みつけて言い返した。

「帝はこの京にいらっしゃる。吉野にいる方は、天皇を退いた方。太上天皇と呼べ」

「申し訳ありません。以後注意しますが、新田は叩いておかねばなりません。それから、奥州の北畠顕家に対しては充分備えておく必要があります」

 発言力のある高師直が、口を開いた。

「北畠に対しては、奥州の足利一族に蜂起させ、上京を遅らせるように命令しておきます。金ヶ崎城の新田軍に対しては、すでに私の弟の師泰が攻め入っております。新田勢の士気は上がっているようですが、兵糧攻めでそのうち降伏いたしましょう。ご心配は無用でございます」

 直義は、顔をそむけた。

 師直の思惑とおり、北畠を足止めさせることはできたが、金ヶ崎城にいる新田勢には手こずっていた。

 兵糧攻めを始めて、二ヶ月が過ぎていた。

 新田義顕は、父の義貞に進言した。

「父上、城内の飢餓は極限に達しています。お願いですから、城を抜け出してください」

「何を考えてる。おまえは俺のいや新田の後継だ。おまえが生き延びるのだ」

「いいえ、私が生き延びても、兵を集めて足利を倒すことはできません。新田義貞の名前

でこそ豪族たちも集まってくるのです。私は天皇からお預かりした皇子たちをお守りしなければなりません。父上、城を抜け出し、軍を立て直して一刻も早く我々を助けに来てください」

「分かった。俺が戻るまで生き抜くんだ」

 義貞が城を抜け出したのを知った高師泰は、叫んだ。

「今だ、かかれ。敵の大将は逃げたぞ」

 戦う力も尽きていた義顕、皇子の尊良親王は自害し、恒良親王は囚われの身となった。

「師泰、よくやった」

 尊氏は高師直からの報告を受け喜んだ。

 そして、尊氏が新しい幕府を作り始めて一年が過ぎ、十二月も押し詰まっていた時。

 息を切りながら家来が、尊氏に報告に来た。

「殿、北畠顕家が六十万の軍勢を持って鎌倉を占拠したとのことです」

「なに!」

 尊氏は気が動転した。

「義詮は、一体何をしていたんだ」

「鎌倉を脱出して、軍を立て直して北畠勢を追撃しようと準備しているようです」

「追撃だと?」

「北畠軍は、鎌倉を発って、京に向かっているそうです」

「ばかもん、なぜそれを早く言わんか。殿、一大事でございます。北畠を迎え撃たねばなりませんぞ」

 高師直が怒鳴った。

「分かった。出陣じゃ」

 尊氏は、一万の兵を何とかまとめて、東方へ向かった。

 北畠軍が美濃の国青野ヶ原に到着した時、足利義詮が追撃した。

「鎌倉での敗北を取り返すぞ。かかれ」

 数に劣る八万の義詮軍は、六十万の北畠軍に完全敗北した。

 その知らせを受けた尊氏は、美濃の国と近江の国の境に流れている黒血川の近江側のほとりで北畠軍を待った。

 北畠顕家は、兵を休ませてから戦わずして、後醍醐のいる奈良へと南下して行った。

「顕家が逃げたぞ」

 尊氏はすぐさま北畠軍を攻め立てた。

 総崩れになった中、顕家は弟の顕信に言った。

「おまえは、ここから離れ、義良親王と吉野へ逃げろ」

「兄上はどうなさるのですか?」

「八幡山の城にたてこもる。義良親王は次に天皇につかれる大切なお方だ。命かけても守るのだ」

 それを知った高師直は、八幡山を包囲して北畠顕家が出てくるのを吉野への街道入り口天王寺で待った。

 それを知らずに、顕家が包囲網を破って、天王寺付近に来た時、師直軍に取り囲まれるも敵を斬り倒し続けたが、多勢に無勢で壮絶な死を遂げた。

 顕家、二十一歳の生涯だった。

「さすが師直、よくやった」

 尊氏は、北畠顕家の死の知らせを膝を打って喜んだ。

「残るは憎き新田義貞!」

 その頃、義貞は三万軍を率いて、足利一族斯波高経が籠る足羽城を包囲していた。

「高経の兵は、三百余りだ。一気に落として京に上るぞ!」

 義貞は意気込んだ。

「兄上、早まってはいけません。敵が少ないからと言って侮ってはいけません。精鋭の兵が揃っています」

「何を臆病なことを。こっちは三万だぞ。俺が先頭になって敵陣に乗り込んでやる」

 義貞は五十騎を伴って城へ向かった。

 それに足利軍が気付いた。

「おい、あれは新田軍だ。討ち取れ!」

 足利軍は一斉に矢を放った。

「殿をお守りしろ」

 新田軍の兵士たちは義貞を守るため囲んだ。

「殿、雑兵は相手にせずに、ここは退却いたしましょう」

「退却だと、馬鹿なことを言うな。自分のために家来が死んでいるというのに。行くぞ、やあ」

 義貞は馬の腹を蹴って、足利軍に突撃して行ったが、雨の降るごとく矢が義貞の身体にあたり、とうとう持ちこたえられずに落馬した。

「これまでか」

 義貞は、小刀を抜いてのどを突き刺した。

 暑い日だった。

 尊氏は、光明から征夷大将軍に任じられた。

「兄上、念願の天下取りを果たしましたこと、おめでとうございます」

「直義、これからもよろしく頼む」

「後醍醐天皇はいかがいたしましょうか」

「ほっとけば、また我々を討とうとするであろう。捕らえて、二度と俺たちに刃向かえないようにするのだ」

 直義は、尊氏の命によって、後醍醐を捕らえようと厳しい探索を行った。

 一方、後醍醐の陣地では、公家たちが浮足立っていた。

「お上、早く逃げなけれなりませぬ」

「なぜ逃げなければならぬ。光明に渡した神器は偽物だ。従って、光明は偽帝である。本物の神器を持つ我こそが真の天皇である。早く足利一門に対抗する武家たちを集めて反撃せよ」

「そうは言われても、足利直義がお上を捕らえようと必死になっております。一時も早くこの場を去らなければ」

「分かった。吉野へ行こう」

「吉野ですか?」

「そうだ。吉野だ。吉野は金峰山の修験道の本拠地として独立した世界で、地形的にも要害の地である。そこで立て直すのだ」

 後醍醐は、直義の厳しい探索から逃れて吉野に潜入した。

 一方、北畠顕家の死を知った後醍醐は、鎮守府将軍に顕家の弟の顕信を任命した。

「顕信、我が分身として義良と宗良の両皇子を伴って、陸奥で再起を計るのだ。そして、即刻、尊氏を討て」

(後は、満良を土佐に派遣すれば、九州の懐良とで西は盤石になる)

 顕信は、父の親房と両皇子を伴って、伊勢大湊から海路で東に向かった。

 遠州灘辺りに来た時、波あらく三艘の船が大揺れし、それぞれ方向が定まらずに流された。

「父上」

「顕信」

 顕信と義良はなんとか伊勢に戻ることができたが、宗良は遠江に、親房は常陸に漂着した。

 将軍を認めない後醍醐は、分身を通じて武士を直接掌握しようとしたが、成果を挙げることなく病に倒れた。

 床に臥せった後醍醐が、義良を呼んだ。

「義良、わしはそう長くはない。おまえを皇太子に任ずるので、わしが万が一の時は、後をまかせる」

 数か月後、後醍醐の容態が急変した。

「帝、お気をしっかり」

 後醍醐が義良に近くに来るよう手招きした。

 義良が後醍醐の手を握った。

「義良、おまえに譲位するので、後は頼む」

 後醍醐が、皆に聞こえるように声を振り絞って言った。

 そして、数か月後、五十二歳の後醍醐崩御、十二歳の後村上の誕生した。

 一方、常陸に漂着した北畠親房は、南朝方に属していた小田治久の小田城に入っていた。

「帝が亡くなられたそうです」

 治久が声を落として言った。

「なんですって。帝が・・」

 親房は、床に目を落とした。

「治久殿、しばらくの間、私をここに置いていただけないか?」

「それは願ったりでございます。いつまでも遠慮なくお過ごしください」

 親房は関東の武士を集めて組織化して、京の足利を攻め滅ぼすことを企てていた。

 数年後、小田城は、上杉に代わって関東管領になった高師冬に攻撃された。

 親房は関城へ逃れ二年間抵抗してそして、大宝城へと移った。

 この間、親房は、南朝が正統の天皇であることを論証した神皇正統記を書き上げていた。

 そして、親房は親しい白川を本拠とする結城親朝に決起を促したが、打算的な親朝は師冬が本領安堵を持って誘ってきたのに応じた。

 そして、親房の敵にまわった。

「親朝め、裏切ったな」

 親房の命運はつき果て、伊勢から吉野へと命からがら逃げた。

 一方、尊氏と直義は後醍醐が怨霊として、跳梁跋扈することを恐れて、天龍寺の造営を発願した。

 尊氏は軍議を開いた。

「北畠親房も吉野へ逃げ込んだか。残るは河内の楠正行と九州の懐良親王ぐらいか」

「殿、私にその二人はお任せください」

 高師直が尊氏に言った。

(また出しゃばったことをする)

 尊氏の弟の直義が、舌打ちをした。

「直義様、何か気にくわないことでもありますかな」

 師直が、直義を睨んだ。

「二人ともいい加減にしろ」

 尊氏が割って入った。

「楠正行は師直に任せる」

 師直は、尊氏に向かって頭を下げた。

 高師直は河内四条畷で楠正行を戦死させ、その勢いで吉野に向かった。

 そして、吉野に入るとすぐに後村上の仮の宮を取り囲んだ。

「皆の者、松明に火をつけよ」

 師直は松明に火がついたのを見て、

「この宮をすべて焼き払え、焼き払え」

 一瞬、兵士は驚きざわめいた。

「何をやっておる、早く投げ込め」

「おお」

 数多くの松明が投げ込まれて、あっという間に宮は燃え尽きてしまった。

 後村上は、紀伊境の賀名生に逃れて行った。

 師直は京に戻り、早々に尊氏たちに戦果を報告した。

「紀伊へ逃れたか、師直でかしたぞ」

 尊氏は満足だった。が直義は、終始仏頂面であった。

 師直は直義を意識していた。

(相も変らず直義は俺のなすことに腹を立てているようだな。困ったお人だ)

 師直は戦闘の功績として、配下武将に恩賞として土地を暫定的に分け与えた。しかし、その土地が他人の領土だったため、持ち主は幕府に訴え出たが、直義の裁断に反して、師直の尊氏へ進言することにより、返却されない場合が多かった。師直による多くの武士を参加させるための土地預け置きと直義の法による公平な統治は矛盾が生じて、師直と直義の対立は激化していった。

 直義の執事上杉重能と畠山直宗は、直義の帰依する僧の妙吉を使って、尊氏に訴えた。「尊氏さま、高師直殿と師泰殿は国を乱しご政道を誤らす者たちでございます。執事の職を取り上げてください」

 尊氏は、考えておくという返事をした。

 後日、このことが師直の耳に入り、師泰に伝えた。

「兄上、先手を打って直義さまや上杉重能、畠山直宗を一日も早く排除しなければ我々に危害が及びます」

 いよいよ直義と師直との対決が表面化し、京市中は騒然たる空気に包まれた。

 師直が手勢を率いて、直義の屋敷に向かったのだ。

「直義さま、師直殿が軍勢を率いてこちらに向かっているようです」

「なに、師直が私を討ち取ろうと」

「間違いありません、こちらには今備えがありませんので、早くお逃げになってください」

「分かった。兄上の所に行こう」

 師直は、直義が逃げ込んだ尊氏の屋敷を取り囲んだ。

 そして、尊氏に要望した。

「師直、これは一体何事だ。無礼であろう」

「尊氏さま、幕府思ってのことで、このような行動に出たことをお許しください。今の幕府の混乱は、直義さまの執事の上杉重能殿と畠山直宗殿の政務の仕方によるものです。混乱を鎮めるために二人を幕閣から外してください。また、直義さまを出家させるようお願いします」

 尊氏は師直の覚悟を肌でも感じ取った。

(師直の要求を拒否すれば俺の命も危ないかもしれぬ。この際、直義を出家させて、その代わりに息子の義詮を政務を行わせるか。俺の後継だと皆に認知させるには良い機会になるな)

「師直、分かった。悪いようにはせぬから今日は引き下がれ」

 翌日、尊氏は上杉重能と畠山直宗を越前に配流し、直義から政務担当をはずし出家させた。が、事態は収まるどころかこれをきっかけとして、やがて尊氏と直義の対立にまでエスカレートしていくのだった。

「殿、直義さまが長門探題の直冬さまを呼び戻そうとしています。すでに、直冬さまは軍を率いて長門を出発した模様です」

「なんだと、すぐに直冬を打ち払うのだ」

 尊氏は討伐軍をおくって、直冬軍を西へと敗走させた。

 尊氏44歳。

 それと並行して、尊氏は鎌倉にいた二十歳になっていた実子の義詮を京に呼び戻し、代わりにその弟の基氏を下した。

 この機会に義詮を政務を担当させようとの尊氏の目論見が実現した。

 しかし、翌年に入ると事態が急展開した。

 西へと敗走していた直冬が反乱を起こしたとの知らせが入った。

「直冬め。今度は徹底的に打ちのめしてやる」

 尊氏がその討伐の準備を進めている中で、家来が報告に来た。

「殿、直義さまが、南朝方と連絡を取り挙兵をしたそうです」

「ほっておけ。直冬討伐に出陣じゃ」

 尊氏が備前に進んだ時には、直義の軍勢は大兵力となって一挙に京に入って、義詮の軍を破った。

 義詮は、西走して播磨にいた尊氏と合流した。

「義詮、無事だったか」

「父上、直義軍が追ってきてます」

「兵力はどのくらいだ」

「大軍です」

「殿、烏合の衆です。叩き潰して見せましょう!」

 高師直が、自信をもって言った。

 しかし、直義の大軍は簡単に尊氏軍を破り、猛勇をほこってきた高師直と師泰の兄弟にも手傷を負わせた。

「使者を出せ」

 尊氏は形勢が不利となると、高師直と師泰を出家させるという条件で直義側に和平の申し入れをしたためた書状を使者に持たせた。

「兄上はいつもこうだ。承知したと伝えてくれ」

 直義は、使者に言った。

 和平が成立して、尊氏の一行が摂津まで引き上げてきた時、上杉と畠山の軍勢が立ちはだかった。

「尊氏殿、我々は師直と師泰に用がある。手出しは無用」

 上杉憲顕が言った。

 尊氏46歳。

 そして、その軍勢は師直と師泰そして高の一族郎党に襲い掛かり、一瞬のうちに皆殺しにした。

「重能殿、敵を取りましたぞ」

 尊氏たちは、ただ見ているだけだった。

「兄上、政務は私が以前と同様行いますので、一切口出しせずに願います」

「好きなようにしろ」

 直義は、再び政務及び人事の主導権を握り、義詮は形ばかりの存在となった。

 更に直義は、南朝に帰服したと思いこませて、この機会に北朝と和平交渉させようとした。

 南朝からの使いとして、楠正行の弟正儀が京に来た。

「直義殿、折角の申し出お断り申す。我々は南朝が正統だと今も思っております」

「楠殿、いつまでも建前を通す気か」

「はい」

「分かった。どうなるか覚悟をしておくんだな」

 直義は荒々しく席を立った。


 義詮が、尊氏に直義の件を報告した。

「直義が、南朝と通じているとは」

 尊氏は不愉快だった。

「父上、直義さまは私を無視して政務を独断で行っています。早く何とかしないと父上の権威も失墜します」

 数日後。

 夏の暑いさなか、尊氏は直義の訪問を受けた。

「兄上、義詮殿が私とは意見が合わないというので、私は政務の職を辞退した方がよいと思います」

「そう言わずに、義詮とうまくやってもらえないか」

「それは難しいです」

 一か月後、朝から蝉がやかましく鳴いていた。

「父上、直義さまが京を出発してどうやら北陸に向かったようです。我々が完全に京を制圧しているから危険を感じたのでしょうか?」

「なに、俺はそのようなことは聞いてはおらん。危険を感じただと、そんなことはありえない。義詮、よく考えろ。北陸には直義を支持する勢力が多いのだ。越前で力を張っている斯波高経、越中守護の桃井直常、丹波守護の山名時氏そして、上杉一族が越後に根をおろしているので、その方面で兵力を結集して京に攻め上ってくるのであろう」

「なぜ、直義さまは北陸からの支持が得られるのですか?」

「直義は以前鎌倉にいて、東国に勢力を扶植していた関係からも北陸や越後そして関東地域を自分の最も有力な勢力基盤だと思っているに違いない。それは間違いないだろう」

 秋風が吹き始めた。

「直義が北陸を後にして、京に向かったようだ。義詮、直義を成敗してこい」

 出陣した義詮の軍勢は、近江で直義を迎え撃った。

「義詮さま、直義軍が我々との戦いを避けて、東に向かい始めました。諜報によるとどうも鎌倉に行くようだと」

「なに、我々はすぐ京へ戻って父上の命を仰ぐ」

 義詮の報告を聞いて、尊氏は目を閉じた。

(全国支配は、京だけの一元的な中央による権力だけでは不可能だ。鎌倉があっての幕府の安定が保たれるのだ。その鎌倉が、直義によって抑えられたら幕府の権力が失われることになる。なんとか直義を征伐しなければならぬ)

「義詮、俺は直義を成敗しに直ちに出陣する。京と畿内の守りはお前に託する」

 そう這いながらも、北朝の光明天皇、光厳上皇や叡山の僧たちは直義を支持していたのが心配の種だった。

「義詮、南朝に帰服を申し入れするぞ。その見返りに直義追討の綸旨を後村上天皇からもらい受ける」

「承知いたしました」

(父上は、弟の直義さまを本気で成敗するつもりか、むごいことだ)

 尊氏は直義追討の綸旨を携えて、東国へと出陣した。

 47歳の尊氏は、下野の武士や武蔵の群小の武士たちを味方に加わえ、直義をじりじりと追い詰め、翌年の正月に屈服させた。

 そして、鎌倉に入って尊氏は、直義を呼んだ。

「直義、今までおまえがしたことは水に流そう。仲直りの宴だ」

 酒と馳走が運ばれてきた。

「手酌で行こう」

 尊氏は盃に酒を注ぎ、飲み干した。

 直義も酒を注いだ盃を口に運んだ。

 しばらくすると、直義が七転八倒し始めた。

「兄上、毒を盛ったな」

 直義の最期の言葉となった。

 こうした状況に紛れて、南朝方が動いた。

「義詮さま、後村上天皇が賀名生を出陣して、男山に進んでいます」

「なんだと、我々との講和協定を破るとは許せぬ」

「先鋒は誰だ?」

「楠正儀の軍勢のようです」

「出陣の準備をせよ」

 義詮は焦った。

 翌日、楠正儀らの先鋒隊は義詮軍を破って、京に潜入した。

「義詮さま、ここは一旦京を出ましょう」

「兄上に申し訳が立たない」

「そのようなことを言っている場合ではございません。再起を目指せばいいのです」

 敗軍の将になった義詮は、京に再び攻め上ろうと、細川、土岐、そして佐々木などの周辺の守護連中を味方にすべく走り回った。

「義詮さま、これらの守護国については我々の味方に付くことは価値があると知らしめるために、武家方地頭の設置されている公家領の年貢をその年は半分差し押さえ、軍勢の兵糧にあててよいとし、残りの半分は今まで通り公家側に渡すようにと命じられてはいかがでしょうか」

 側近の知恵者が、義詮に進言した。

「それは良いが、北朝方に相談せずに行ってよいものか?」

「幕府が決めたと言えばよいこと。それに従わせれば、幕府の権威はさらに高まるでしょう」

 そして、桜が咲き始めた頃。

「後村上天皇がおられる男山を攻めるぞ。いざ、出陣じゃ」

 義詮の覚悟は、兵士全員に伝わっていた。

 細川、土岐、そして佐々木などの軍勢の働きは目覚ましく、一か月ほどで、男山を攻め落とし、負けを悟った後村上は賀名生へ逃げ帰った。

 そして、義詮は、堂々と京に戻り、尊氏の帰京を待った。

 尊氏が帰って来た。

「父上、お疲れさまでした」

「義詮、良く京を守ってくれた」

 尊氏は、満面笑みを浮かべた。

(これで義詮はれっきとした俺の後継者になったな)

 その後、南朝方でタカ派の指導者だった北畠親房が死去し、大勢は尊氏と義詮に有利に展開していった。

 尊氏53歳。

 怒涛の世を駈け抜けた足利尊氏は、最期まで気が休まることなく生涯に幕を閉じてしまった。 

                                     了

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