怠惰な王太子と逃げたい令嬢
「疲れた……」
そうつぶやいたのは彼女だけでなかった。
振り返ると長椅子にだらけて座り、溜息をついている王太子ジェイダンがいた。
彼は彼女の姉の婚約者であった。王太子は彼女の存在に気付いて目を瞬かせる。
「……グレイス。君はなぜこんなところに」
「王太子殿下もなぜおひとりで?姉と一緒ではなかったのですか?」
彼女、グレイス・アランドンは王太子の問いに質問で返してしまった。
王太子といえば、今夜の主役の一人。
こんなところで護衛もつけず一人でいるのはおかしかった。
特に姉はどうしたのだろうか、とグレイスは思った。
「一人になりたくてね。会場にはフレッドもいるし、セレニティーもいるから大丈夫だろ」
王太子ジェイダンは投げやりに答え、長椅子の背もたれに寄りかかる。
グレイスはこのような彼の姿を見たことがなくて、戸惑ってしまった。
「誰か、呼んできましょうか?」
「だから、一人になりたいんだ。だが君と二人でいることを誰かに見られるとまずいな。退散しよう」
ジェイダンはそう言うと立ち上がり、颯爽と部屋を出ていった。
背もまっすぐ伸びて、先ほどだらけていた人物とは別人のようだった。
王太子の姿を見たことは忘れようと心に決め、グレイスはやっと一人の空間を得て、別の椅子に座り込む。
そして大きな息を吐いた。
「ああ、もう帰りたい」
グレイスは伯爵令嬢でありながら、姉と違い勉強も嫌い。稽古事も嫌い。時間があれば、一人で庭いじりをするのが好きだった。
それは小さい時から母方の祖父母に預けられ、自然と共に過ごし、令嬢らしからぬ生活をしていたことが原因だ。彼女が田舎に預けられた理由は二つ。一つは体が弱かったこと。もう一つは姉の教育に一家が一丸となって務めるためだった。
当時王子の婚約者の選定があり、グレイスの両親はなんとかして、姉を王太子の婚約者にしようと頑張った。
その結果、姉は見事に王太子の婚約者となり、グレイスは田舎から呼び戻された。
短期集中で、礼儀作法などをたたき込まれ、グレイスは社交界デビューした。毎日が嫌で堪らず、王都の生活に嫌気がさしていた。
☆
「探したぞ。グレイス。またこんなところで」
今日は王主催のパーティで、参加者がいつもの倍であった。そのおかげで彼女は疲労困憊。会場の片隅で、カーテンに隠れた小部屋を見つけて、いそいそ避難所にした。そこで王太子と遭遇したものの、帰ってもらったので一人で悠々としていたのに、父親に見つかってしまった。
彼女はこういった小部屋見つけて紛れ込むのはいつものことで、父親はグレイスを軽く叱る。
「お前にもいい相手を見つけなければならないんだ。いつまでも子供みたいに逃げるのはやめなさい」
「はい」
結婚なんて絶対にしたくない。
グレイスは田舎の祖父母の元に帰りたかった。
しかし、この調子ではいつか無理やり結婚させられてしまうとグレイスは嘆く。
その嘆きに気が付くものは誰もいなかった。
「グレイス。またいなくなったの?逃げでも解決する問題ではないわ。吟味していい婚約者を見つけることよ」
会場に父と戻ると、姉セレニティーが母と共にいて、グレイスに小言を言う。
姉は母親似で金髪に青い瞳の月の女神のような美しい女性だった。
美しさだけではなく、教養、礼儀作法、すべてが完璧で令嬢の模範となっていた。なので、グレイスは姉と比較されてよく嫌味を言われることが多かった。そういう輩は姉にあこがれているのではなく、王太子の婚約者の座を射止めることができず、その妹であるグレイスで気晴らしをしているような女性たちであった。
それでも王太子の婚約者候補に上がるくらいなのだから、グレイスよりも美しく賢かった。
なので何も反論ができない彼女は黙るしかなかった。
「セレニティー嬢」
「まあ、フレッド殿下。何か御用でしょうか?」
「妹君への挨拶がまだだったと思い出してね」
「まあ、私としたことが。グレイス、第二王子のフレッド殿下よ。ご挨拶なさい」
「はい。姉上」
グレイスは姉に一声言った後、必死に第二王子のフレッドへ挨拶する。
慣れない挨拶のために不格好で、フレッドが苦笑した。しかし彼はその後に彼女をダンスに誘う。断ることはできない。しかし、グレイスは踊れない。
「フレッド。妹君は疲れているようだ。踊りたければセレニティーと踊ってくればよい」
そんな彼女に救いの手が現れる。
王太子のジェイダンだ。
「兄上、それは」
「私は構わぬ。セレニティー。それでいいか?」
「はい。喜んで」
セレニティーがそう答えると、フレッドは躊躇なく彼女に手を差し出す。
そうして二人は会場に滑り出した。
「アランドン。グレイスを少し借りるがよいかな」
「ぐ、グレイスをですか?」
グレイスとセレニティーの父は王太子の問いに即答できなかった。
「いいのではないの。あなた。私たちも久々に踊りましょう」
妻にそう言われ、迷いながらも彼はグレイスと王太子をその場に残し、妻と一緒にダンスを踊り始める。
「……グレイス嬢。君は逃げたいと思わないか。面倒なことが多すぎる。私はそもそも王太子には向いていない。弟のほうが向いているのに、私が先に生まれたからと私が王太子になった」
グレイスが王太子と話すのはこれで二度目だ。一度目は先ほど。二度目は今だ。
突然何を言うのかと思いながらもグレイスは黙って彼の話を聞く。
「私はこの王太子の座から逃げようと思う。もちろん、君の姉の婚約者の座からも。君の姉は完璧すぎる。私には重い」
赤裸々に語られる王太子の本音。
聞いているグレイスは正直たまったものではなかった。
「そこで君の力を借りたい。私が君に惚れたということで、セレニティーとの婚約を破棄したい。それによって、私は王太子の座から追われるはずだ」
「ま、待ってください。私はさっきから何も言っていないのに、勝手に話を進めないでください」
「そうだった。悪かった。だが、君は逃げたいのだろう?このような場所にいると疲れるのだろう?君はずっと田舎にいたようだから」
「どうして、それをご存じなのですか?」
「もちろんセレニティーだ。悪口ではないぞ。彼女は君のことをちゃんと妹として想っている。心配しているようだ」
「そ、そうですか」
グレイスは姉が自身を心配してくれてていることを知っている。
言葉はきついが、その端々に彼女への心配が透けて見えるからだ。
今日の早く結婚相手を見つけるようにというのも、遅れれば遅れるほど、いい条件の者が減るからだとグレイスは理解していた。
「さあ、どうする。私の案にのるか?」
「のるわけないじゃないですか!」
グレイスは思わず怒鳴り返してしまい、後悔する。
周りがぎょっとしたように見ていた。
踊っていた姉達には気づかれていないようだが。
「すまないな。皆。私の悪ふざけが過ぎたようだ。グレイス、悪かったな」
王太子は先ほどの脱力した本音が嘘のようにさわやかに周りに言い放つ。そして微笑みながら、王族が座る席へ戻っていった。
「グレイス。何をやらかしたんだ?」
「どうしたの?」
姉には届かなかったが、両親には騒ぎが伝わっていたらしく、二人が慌てて戻ってくる。
「いえ、別に何も。少しからかわれてしまい、声を張り上げてしまいました。申し訳ありません」
グレイスは二人に素直に謝罪する。
「次からは気をつけるのだぞ。王族に声を上げるなどとんでもないことなのだから。それにグレイス。誰か踊りに誘われたら踊るのだぞ」
父はそう言うとまた母と一緒にダンスの輪に加わる。
姉は二曲続けて、第二王子と踊っていた。
彼女の微笑みは作られたものではなく、自然で、頬が少し赤く染まっているようにグレイスには見えた。相手のフレッドも少し照れているようで。二人は見つめ合って踊っていた。
「もしかして、相思相愛?それなら、王太子殿下は?」
三曲目が始まり、さすがに二人は踊るのをやめた。姉の次の相手は王太子だ。二人は完璧は踊りを披露するが、姉の表情は作られた微笑み。先ほどの照れた様子などは微塵も感じなかった。
ふとグレイスが視線を移動させると、第二王子が踊りの輪の外にいて、二人の様子を切なそうに見ていた。
「王太子殿下は知っているのね。だから。それなら私も」
まずは計画だけでも聞いてみようと、グレイスは王太子と話すことを決めた。
それからパーティに参加すると、彼女は王太子の姿を探すことが多くなった。探さずとも姉の婚約者なのだからいいのだけれども、気が付けば王太子は姿をくらませることが多かった。そんな時、代理を務めているのは第二王子フレッドだった。
「見つけました!」
「見つけられたか」
パーティー会場で、まるで隠れんぼのように、二人はお互いの避難所を探すようになっていた。
しかし、グレイスはなぜか王太子から持ち出されたあの話を再度問いかけることができず、こうしてあっても、どうでもいいことを少し話して、誰にも見つからないうちにどちらかがいなくなる。
そういう端からしたら密会を繰り返しているうちに、二人は噂になってしまった。
人の目というのはどこにでもあるもので、隠された小部屋で何度も男女が会っていれば勘違いされても仕方ないことだった。
「すまない。グレイス」
婚約者がいながら、ほかの女性しかも妹に手を出したということで、王太子ジェイダンは廃された。王位継承権を放棄させられ、彼は侯爵となった。
グレイスは姉の婚約者に手を出したということで、他に相手が見つかるわけもなく、外聞が悪い。彼女は田舎に戻された。
田舎でのんびり祖父母とお茶を飲んでると、ジェイダンがやってきた。
それは深々とした謝罪から始まり、グレイスは慌てて止める。
そんな二人をみて、祖父母は席を外し、彼女はジェイダンをお茶に誘う。
「私だって、わかっていたんです。王太子、いえ、ストレイム侯爵様。だけど、正直私も逃げたかったんです」
「……そうか。しかし騙すようで悪かった。私は噂になることを見通していた。それでも続けた」
「私も楽しかったからいいのです。結果的に念願が叶いました。これで窮屈な貴族生活ともおさらばです」
「……今、幸せか?」
「はい。とても」
「そうか」
「ストレイム侯爵様。あなたは本当は逃げたかったわけではないんですよね?弟君と、私の姉のことを知って」
「何を言っているのだ。グレイス。私は怠惰なのだ。面倒ことが嫌いだ。それだけだ。今は侯爵の身分でゆっくり過ごしている。領地もいただいた。そうだ、グレイス嬢。私の領地はここと変わらぬくらい山も川もあるぞ。遊びにくるといい」
「……はい。いつか」
グレイスはそんな日は来ないだろうと微笑む。
結局、セレニティーは王太子となったフレッドの婚約者になった。王としては息子の不始末のためであった。
兄は弟の思いに気が付き、妹は姉の思いに気が付き、醜聞を被った。
グレイスは田舎に戻るという目的の上に、兄ジェイダンは単なる弟への思慕だろうか。
「グレイス。昔、君をよくいじめた少年を覚えてないか?」
「それがどうかしましたか?」
祖父母の土地に預けられたグレイスに最初の頃、意地悪をする子供がいた。いつの間にかその子供の姿が消え、彼女はほっとしたものだった。貴族の子供らしかったが、態度が横柄でグレイスは大嫌いだった。
「実は、その子は私だ」
「え?だって、髪色が違う」
「成長したら髪色が濃くなってしまったのだ。小さい時は金色だった」
ジェイダンにそう言われ、まじまじと彼の顔を見る。
髪色は変わっていたが、その瞳の色は同じで……。
「なんで、私をいじめたんですか!」
そうなると昔の思い出が蘇ってきて、グレイスは詰る。
「それは、そうだな。君は可愛かったからだ」
「は?なんですか。それ」
「あの頃は素直じゃなくて、俺のことを覚えてほしかったのだ。すぐ王都に戻ることはわかっていたし」
「嫌なことをする子ですね」
「悪かった。ずっと気になっていたんだ。王都での窮屈な生活の中、あの時の自由が懐かしかった。そのたびに君の泣き顔を思い出した」
「な、泣き顔!確かにいつも泣かされてました。集めた花をぐちゃぐちゃにしたり、お気に入りのハンカチをとったり」
「ハンカチは今返すぞ」
ジェイダンはそう言って、桃色のハンカチを彼女の手に載せる。
「これ、本当に私のハンカチ。本当に、あの嫌な子は王太子、いえ、ストレイム侯爵だったんですね」
「嫌な子か。しかたないな。まあ、お互い自由になったんだ。グレイス。私の領地に遊びに来い。面白い花々が咲いているぞ。ちょうど見ごろだ」
グレイスは花を見るのが大好きだ。もちろん育てるのも好きだが。
「グレイス。いってらっしゃい。私たちには構わず」
どこから話を聞いていたのか、祖母がふと現れて、グレイスの背中を押す。
「それでは、お言葉に甘えて。後日、」
「いいや。今からだ。ちょうど帰るし、よかろう」
「え?支度がありますし」
「全部用意できる。侯爵だぞ」
ジェイダンは胸を張り、その姿は小さい頃の彼を彷彿させた。
あの時は、この姿を見るのが本当に嫌だったが、今のグレイスの思いはちょっと違う。
「さあ、行こう」
強引に誘われて、グレイスは流されるまま、ジェイダンの馬車に乗り込む。
それから彼の領地に向けて出発。
グレイスが祖父母の土地に戻ってきたのはそれから二か月後。
その時には、彼女の姓はアランドンではなくなっていた。
王都では醜聞があるので、田舎で結婚式を行う。
姉の婚約者を寝取った妹に、王太子でありながら恋愛脳だったバカ王子。
王都ではそう噂される二人だが、領地では素晴らしい領主夫婦として領民に慕われていた。
Happily ever after