26【完結】終幕
愛を返してくれたフランツに、イザベルはそっと手を伸ばす。
(本当の私は今、赤い宝石に殺されかけていて、最期に、幸せな夢を見ているのかもしれない……)
そう思ってしまうほどに幸せすぎて、イザベルは夢ではないことを確かめたかった。
「……フランツ様……」
指先で、恐る恐るとフランツの唇をなぞり、口角に触れて、頬をなでる。
フランツは実体を伴っている。
イザベルが手を離すと次はフランツが、イザベルの行動をなぞるように、イザベルの唇から口角、頬の順になでた。
「イザベル……」
息をするのもためらう距離に、フランツがいる。
フランツは息を振り絞るようにイザベルの名を呼び、イザベルを見つめている。イザベルはそんなフランツを、瞳を潤ませながら見つめ返していた。
フランツの仕草の1つ1つが、イザベルを好きだと伝えていたから、片時も目を離したくなかった。
「君は、いつか、私の目の前から消えてしまうのだと思っていた」
「……なにか私は、フランツ様を不安にさせる言動を……してしまっていたのでしょうか?」
今の雰囲気にそぐわないフランツの不穏な言葉に、イザベルは質問した。
だがフランツは「いいや」と答える。
「私には長年……『過去の王族貴族のように、いつか悪女に狂わされる』という強迫観念があった。
だがその妄執はいつ終わるとも知れず、確固たる根拠もなく、今の自分が狂っていないと証明することもできなかった……私は昨日の君の話で初めて根拠を得て、先ほどの光景でようやく終わりを知った」
イザベルはこの言葉を聞いて、フランツが慎重すぎる行動を取り続けた理由と、他者……特に女性を決して寄せ付けなかった理由を知った。
非論理的なことが本来苦手なフランツが、それでも、妄想と一蹴できなかった不安。それが、自身を守る第六感なのか、自身が狂っていく前兆なのかを彼は判断できなかった。
(……だからフランツ様は、自分の心が信じられなくて……理屈や倫理に照らし合わせて行動するというルールを作った。だから笑顔を無くしていたのかも。本当はこんなにも、心を持っている人だったのに……)
自身の行動を厳しく制限し、人を寄せ付けない日々はどれほどの苦しみだったのだろう。
でも根本にあった不安が消えて、今のフランツは、春の雪解けのような、柔らかい雰囲気をまとっている。
「だが、長い悪夢はようやく終わり……傍らには今も、君がいる。これまでの苦悩と選択が、今日この日のためなのだとしたら……きっと今が、君と共にいられる唯一の道だった。
……好きだ、イザベル。ずっと伝えたかった。
こんな風に……君に触れてみたかった」
フランツはそのように言葉を結ぶと、イザベルの頬に再び触れて、唇へと指を這わせた。これで3度目だ。これまでは1度も触れたことがなかったのに。
でも、本当は指では物足りないのではないかと、イザベルは思った。
イザベルがフランツに触れる時、いつも遠慮しているように……フランツもきっと、遠慮している。
フランツの背中にそろそろと手を回し、そっとフランツを見上げると、やはりその瞳には渇望が見えて……イザベルは、声にできない喜びを、精一杯の微笑みで表現した。
(ああ……想いが通じ合うのは、なんて……なんて)
温かく、幸せで、胸がつまるのだろう。
涙で目の前がにじみ、キラキラと輝いていた。
それは、これまで見てきた世界の中で、最も美しいものだと思った。
イザベルは瞳を閉じて少しだけ顔を上向ける。
ドクンドクンと心臓が波打つ。何も見えないのに、フランツから見つめられていると強く感じた。
フランツの指が、ギクシャクとイザベルの髪を通し、フランツの小さな息づかいが聞こえる。
そしてそのままイザベルの頭は固定されて、フランツの唇がそっと重なった。
それは、心が芯まで蕩けるような、甘く優しいキスだった。
****
時は少し戻る。
シーナとフランツの会話が一段落すると、イザベルがフランツの隣に座り、フランツの怪我について話している。シーナの位置だと怪我は見えない。
「懐中時計の中心に、以前手に入れた赤い宝石を埋め込んでいた」
「赤い宝石を……? どうして、フランツ様が」
フランツとイザベルが話している内容はシーナも気になるところだったけれど、靴を持ってきた侍従に急かされて、最後まで聞くことはできなかった。
(まあいっか。イザベル様は私に、ステータスを上げる手伝いをしてくれると言ってたし、今度聞こう)
フランツから、必要事項は一通り聞いている。
パトリックを冷たく固い床に寝かせたままなのが気になっていたし、地下から早く出たいとも思っていたから、パトリックを背負う侍従の後ろを、シーナは素直に追いかけた。
そして、侍従の横に並び歩き、話しかける。
「フランツ様が、なにか希望があれば従者の人に気軽に話すようにと言ってたんですけど、お願いしてもいいですか?」
「ええ、なんなりと。どのようなお願いですか?」
「化粧が得意な人に、私の化粧を直してほしいの。
リックが目覚める前に、なるべく可愛く」
「承知しました、すぐ手配いたします」
他人行儀だった侍従は、シーナのお願いを聞くと微笑んで快諾した。
これでシーナの不安は1つ消える。アイテムによる魅力は消えてしまったけれど、今のシーナにとっては一番いい状態で、パトリックに会えるはずだ。
そうして、準備が整ったシーナがパトリックの部屋に行くと、パトリックは目が覚めていて医者の問診もちょうど終わったところだった。特に異常はないらしい。
医者が帰って2人きりになると、パトリックから話し出した。
「無効化の宝石は、無事、使えたみたいだね」
「やっぱり、私はもう、前より可愛くない?」
そう聞くとパトリックが慌てる。
「いや、違うよ。そうじゃなくて……ぼくの中にあった赤い宝石が消えた感覚があるから。シーナは今も、可愛いよ。ぼく達を信じてくれてありがとう」
「うん」
話したいことがたくさんあるのに、なにから話したらいいかわからない。
パトリックが「座らないの?」と聞いてきて、シーナは自分がまだ入口にいることに気づいた。
でも、近づいたところで触れ合いはしないのだから、これくらい離れていたほうがむしろ寂しさを感じなくていいかもしれないと思う。シーナは首を横に振るとそのまま入口で話した。
「……リックが好き」
そう言うと、シーナの言葉が信じられないようで、パトリックが驚いている。言葉を失い呆然とするパトリックを見て、シーナは薄く笑った。
(やっぱり『好きだよ』と言ったのは……私を説得するための嘘だったんだ。私を好きだったリックはもういない……ちゃんと、わかっていたはずなのに)
シーナがイザベルの説得を受け入れたのは、イザベルとパトリックの言葉を信じたからだ。
使ってからたった1日のイザベルと、他の3人とでは憎しみの度合いが違うなんて当たり前なのに……シーナは、赤い宝石の効果が消えたら、パトリックとも再び元の関係に戻れるかもしれないと思った。
ダニエルとエーリッヒもシーナを許してくれて、もう脅えなくてよくなる。シーナは彼らも好きだったから、そんな未来と、彼らを信じたいと思った。
(でも、あんな力、私だって手離したかった。持っていても全然幸せじゃなかった。だから、もういいや……みんな生きているんだからそれでいい)
それに、危害を加えられそうな時は、フランツが家の力を使って守ってくれると言っていたから、万が一があっても、普通の生活はできるはずだ。
シーナは、にっこりと笑った。
「今までありがとう。学園で1人ぼっちの時に話しかけてくれた時から……私は、ずっと好きだったよ。それなのに沢山、傷つけてごめんね。
……それが言いたかったの。ばいばい、リック」
「なんで……お別れの言葉みたいに言うの?」
部屋を出ようとしたらそんな風にパトリックが言うから、シーナは足を止めた。パトリックがベッドから降りて近づいてくる気配がするけれど、振り向かずに答える。
「もう、顔も見たくないだろうなって思うから」
「どうして?」
「だって、リックは私が嫌いだもん」
「『好きだ』って、言ったつもりだったんだけど」
「……触れるのも、嫌なくらい?」
なんでもない口調で言いながら、パトリックから見えないのをいいことに、シーナは涙を流した。
涙をぬぐったら泣いてることがバレるから、このまま顔を見られないうちに帰ろうと思う。
でも、パトリックがシーナの肩に触れて顔をのぞきこんだ。そして、シーナがこっそり泣いていたことが、あっさりとバレた時、シーナはパトリックに抱き締められていた。
「……リック?」
「違うよ……触れたいくらい、好きだったけど……触れると赤い宝石が、偽りの恋心を植え付けようとしてくるから……シーナへの気持ちが、上書きされそうで嫌だったんだ。あんなものがなくても、君が好きだと言いたくて……ぼくはずっと、君の呪いを解きたかった。『そのままで君は、愛される』」
パトリックの言う《呪い》とは、赤い宝石のことなのか、それとも、シーナが前世から人知れず抱いていた『そのままの私は、誰からも愛されない』という、自分自身への呪いのことだったのか。
でも『どっちでもいいや』とシーナは思った。
久々に触れたパトリックは温かくて、シーナは幸せで涙がこぼれた。
****
シーナに再び例の紅茶を飲まされて気を失った日の翌日、どこからともなくやってきた光の刃がダニエルの体を通り抜けて、ダニエルは『体内で蠢いていた赤い宝石が消滅した』と感じた。
輝く光の刃は、窓の外でも無数に飛びかっていたけれど、クラスメイトは誰一人気づかない。
そして、その後すぐにエーリッヒと合流したものの、肝心のシーナは欠席していた。
パトリックも早退していて、彼らと同じ学年のイザベルと、イザベルの婚約者でシーナ曰く『最後の攻略対象』フランツまでもが欠席していると知る。
「なにかがあったんだろうね。ゲームの根幹を揺るがすようななにかが。休んだ子達の間でさ。そして、パトリックはそのなにかに気づいて早退した」
「ああ。そうだな……そして、俺達が知らない間に、なにかが終わった」
その日はエーリッヒとそんな話をして終わった。
その日の詳細は、次の日、シーナとパトリックから知らされた。
イザベルに力を使ったことで、彼女の婚約者が動き、シーナが監禁されていたこと。そして、シーナがイザベルに力を使ったことで、パトリックがイザベルの持つ力に気づいたこと。
イザベルの持つ打ち消しの力により、シーナは力を失い、2度とアイテムが使えなくなった。
そうして『今までごめんなさい』と謝るシーナを、ダニエルは許した。
自分の弱さに、これまで向き合ってこなかった。根本の原因はそれだと思うからだ。
シーナとの件がなくても、遅かれ早かれ、ダニエルは行き詰まっていたはずだ。
自分自身の問題と向き合ういい機会だった。
『2人が卒業する前に、またみんなでお茶したい』
そんな風に言ったシーナの言葉にはもう強制力はなく、ダニエルは『そのうちな』と保留にした。
そうして、不参加の代わりに受け取ったコーヒークッキーの包みを片手に風にあたっていると、すっかり聞きなれたちゃらんぽらんな声がする。
「シーナが『エルにフラれた~』って言ってたよ」
「嘘つけ。俺は本人から『リックと付き合う』って聞いたぞ」
ダニエルが呆れながらそう応えると、エーリッヒは「お茶会のことだよ」と言って笑い、ダニエルの隣で柵にもたれた。
「……ダニエルはさ、以前みたいに戻るの?」
「いや……少しずつ変わりたいと思ってる」
「ふーん、どんな風に?」
「とりあえず、シーナ以外の女子と目を見て話す」
「ふは!」
エーリッヒが思い切り吹き出した。
「ははは、ごめんごめん。
……いい目標じゃん。女子達も喜ぶね」
「エーリッヒはどうする?」
取って付けたようなフォローは無視して、ダニエルからも質問した。
「オレも変わるよ。もう前の環境には戻らない……それは、あの子達のためにならない」
エーリッヒの言う『あの子達』というのは、シーナに出会う前まで、エーリッヒの周りに常にいた女子達のことだろう。ダニエルはその光景を見る度に『とことん自分とは正反対な人間だな』と思ったものだ。
「シーナに『今までの女性関係を全部精算して』と言われた頃にさ、色んな子を泣かせたあとで……シーナの強制力の抜け道に気づいたんだ。それで、特に心配だった子達の様子を、急いで見に行った」
エーリッヒは淡々と、穏やかに話している。
「そしたら『オレがいなくなったらダメになる』というのは、オレの思い込みでさ……ちゃんと依存を断ち切ろうとして、前を向いて頑張っていたよ。
もうすぐ卒業だったから……いずれにせよ、ずっとこのままではいられなかった。だから卒業前に、彼女達が大丈夫だと知れて、よかったんだ」
(……エーリッヒも、パトリックも、周りのことをいつも考えている……優しさは、強さだ。
自分のことで常に精一杯な俺よりも、ずっと強い)
彼らと出会えたことも良いことだったと、ダニエルは思っている。これまでの過ごし方だったら、関わる機会は決してなかった。
「ダニエルも、シーナに関わってよかったことはあった?」
そう話を振られたけれど、本人を前に『お前達と出会えて良かった』などとは絶対に言いたくない。
だからダニエルは、こんな風に応えた。
「そうだな……色々ある。例えば……『甘味の少ないクッキーは旨い』と知った」
ダニエル用に作られた甘さ控えめのクッキーを、持ち上げて笑った。
シーナへの偽りの恋心は消えたものの、ダニエルの中に残っているものはあって、その1つがこのクッキーだ。シーナと過ごす日々も、決して悪いことばかりではなかった。
眼下遠くの中庭は、大勢の生徒で賑わっている。その中にはシーナ達もいて、無事にテーブル席の1つを確保できたようだ。
シーナとパトリックから遅れて、イザベルとその婚約者も合流するのが見えた。
(『いつか自分の力で、克服できる』……積み重ねよう。大切なものを拾い集めながら、一歩ずつ前へと)
彼らを眺めながらそんな風に思い巡らすと、いつかダニエルも、本当の恋ができるような気がした。
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