10 言えない
フランツとイザベルが向かい合わせで乗った馬車が、ゆったりと学園の門をくぐり抜けた。普段なら従者も1人は相席するが、今回は御者台にいて、他の従者達とイザベルの馬車は後ろに続いている。
今のような完全に2人きりという状況になるのは、婚約以来初めてだ。
「御者には、遠回りするように伝えている。イザベルの屋敷には、1時間ほどで着くだろう」
「わかりました」
「話してくれるか?」
「ええ、でも……なにからお話ししたらいいか」
「そうだな……イザベルが話しやすいことからでいい。不明点はあとから聞く」
イザベルはうなずいて、少し思い悩んだ。そして、頭の中で話の流れを組み立てる。
(始まりは、前世の記憶。でも、そこから時系列で話すのは馬鹿げているわ。『妄想とは決めきれない』とフランツ様が判断してくれたら、フランツ様からシーナを遠ざけることができる……話すなら、客観的なところからがいいと思う)
だから、話の取りかかりは、シーナの噂話にしようと考えた。その瞬間、シーナの言葉が頭をかすめたものの……それを無視して口を開いた。すると、イザベルは満足に声を出せなかった。
「……か……は……?」
「イザベル!」
イザベルの体内に溶けた脈動する宝石が、ドクンドクンと波打ってイザベルの喉を締めつけていた。
(声がでない……息、も……)
必死に首をかきむしるものの、息を止めるほどの強い圧力には実態がなくて、喉の締めつけを外すことができない。
フランツの鬼気迫った声が遠くに聞こえる。
イザベルはバランスを崩して座席から落ち、頭を打ちつける前にフランツに抱き止められた。
「しっかりしろ、イザベル! イザベル!」
「……フラン、ツ、様」
フランツの名前は、口に出すことができた。
『フランツ様と両思いになれるように、尽くしてくださいね、イザベル様』
(ああ、そうか……私はシーナから、フランツ様の仲を応援するように言われていた……だから私は、シーナにとってマイナスな話は……噂話すら、フランツ様に言うことができないんだわ……)
「……言え……ない」
(特定の話だけを)
イザベルの白い首筋に、自身がひっかいた爪痕が、いく筋も赤く浮き出ていた。絶望と混乱でとめどなくあふれる涙が、首筋に伝わり傷口により強い痛みを与える。
自傷する指をフランツに無理やり剥がされていたことに気づかないイザベルは、そのまま意図せずフランツに抱きついていた。そして、自分を痛めつけたい分だけ力を込めてその肩に爪を立てた。
「言えません……」
「……ああ。もう、なにも言わなくていい」
フランツはそう言うと、少しだけ躊躇って、やがてイザベルをゆるく抱き、背中を優しく撫でた。
イザベルの首への圧力は、シーナの話題以外を出したタイミング──フランツの名前を呼んだ時に消えていた。
しばらく荒い呼吸を繰り返して、満足に空気が行き渡るとやがて落ち着いて、全身から力が抜け意識が遠のいていく。
フランツがこんなにも側にいるのに。
なんの役にも立てない。なにもできない。
(……本当に?)
イザベルの脳裏に今日の出来事が駆け巡った。そして、エーリッヒの言葉を思い出した時、イザベルは意識を手放した。
****
フランツの肩に爪を立てていたイザベルの腕が、力なくだらりと落ちて、フランツはイザベルが気絶したことに気がついた。
イザベルの肩にかかっていた淡い赤紫色の髪の毛がさらさらと流れ落ちて、外の光が透けるようにきらめいていた。
体がゆるく上下に揺れていることから、イザベルが呼吸できていることを確認する。
涙に濡れた頬と、首の引っ掻き傷が痛ましい。
このまま床に上着を敷いて一旦寝かせようか悩んだが、揺れる馬車の中で、フランツが目を離している間に、どこかに体をぶつけては困る。
だから仕方なくフランツは、イザベルを抱いたまま立ち上がり、御者台に通じる小窓を開けた。
「どうなさいましたか?」
「イザベルが倒れた。至急イザベルの屋敷に向かってくれ」
「は、承知しました」
馬がいななき、馬車が速度を上げる。
イザベルを抱えたまま座席に戻ると隣り合わせで腰掛けて、イザベルの頭が揺れないように支えた。
すると今度は、まだ乾ききっていない涙のあとが気になって、ハンカチを取り出して丁重に拭いた。
「……無理をさせてすまない。焦っていたんだ」
(エーリッヒ・アスタフェイの側には、ダニエル・ニュンケもいた。イザベルは、シーナ・リーファースに関わった可能性がある)
以前からフランツが警戒していた人物。
報告書を読む限りでは、どう見ても平凡な女子生徒だ。特段なにか問題を起こしたわけでもなく、突出した才能があるようにも思えない。
だから当初はただ『学園に平民が編入する』という特異性を気にかけただけだった。
だが……今回もシーナには、足取りを辿れない空白の時間帯があった。そして、この空白のあとには決まって、新しい取り巻きが増えている。
フランツは暗い気分でイザベルに目を向けた。
(やはり人を付けるべきだった……女性は安全だという想定は外れた。だが、これほどまで体が拒絶するのなら、イザベルに聞くことは叶わないだろう。……彼らになにをされたんだ……イザベル)
想像しうる最悪なパターンが、フランツの脳裏によぎる。
(『なにがあっても、イザベルを愛している』と言えたら、どれほどいいか)
だが、フランツは、自身が心変わりする可能性を想定している。だからこそイザベルには、期待させるような言動を取りたくなかったし、そのような不確かなことは、言えなかった。




