1 起点
なにか、特別なことをしたわけではない。
ただ、学園の廊下を歩いていただけだ。
物語というにはあまりにも薄っぺらい、小さな冊子をめくった日の感覚と見開きの2ページが映像となって、イザベルの脳裏に突如現れた。
カラフルな色味で構成された美男美女のイラストと、大まかな人物紹介。その中には、イザベルがよく知る人物がいる。
それはとても重要なことだと感じて、脳裏の映像に意識を集めた。
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《パトリック・バーリー》
《難易度》イージー
中性的なクラスメイト。あざと可愛さで男女問わず人気があるけれど、愛に飢えている。
《攻略方法》
ステータス『知力』を上げる。彼のカッコいいところや、飾らない素の時の魅力を伝えよう。
「そんな風に言ってくれたのは、君が初めてだよ」
《ダニエル・ニュンケ》
《難易度》ノーマル
硬派な先輩。剣術の腕はトップクラス。いつも男子とばかりつるんでいるのは、女子に慣れてなくて、話しかけられないかららしい。
《攻略方法》
ステータス『体力』を上げる。話しかけまくり、頼りまくれ。
「はは! 君はすごいな。勝てる気がしない」
《エーリッヒ・アスタフェイ》
《難易度》ハード
女好きなチャラい先輩。誰にでも優しいので意外に恨まれることは少ない。
《攻略方法》
ステータス『魅力』を上げる。笑顔が大事。プラスな想いはストレートに伝えよう。
「困ったな……たった1人に、また夢中になる日がくるなんて、考えもしなかったから」
《フランツ・ウイスニウスキー》
《難易度》エクストラハード
学年主席。婚約者がいる。理屈や倫理に合わないことが嫌い。
《攻略方法》
全ステータスを9割以上に上げると攻略可能。婚約者からの妨害は宿命。『幸運』必須。
「愛なんて、無駄な感情だと思っていた」
《*******》
主人公。平民ながら、潜在能力を買われて学園に編入した。素敵な恋がしたい。
《イザベル・クンツァイト》
フランツの婚約者。主人公が総合ステータス8割を超えると、ステータス上げ時に妨害することがある。確率3:7ランダムで、ステータス増減。
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「イザベル、どうした?」
「……いえ、なんでもありませんわ」
微笑み答えたイザベルが、カタカタと震える手を後ろに隠したことを、彼はもしかしたら気づいたかもしれないけれど、イザベルの婚約者フランツは「そうか」と言って会話を終わらせた。
イザベルはフランツにやっぱり相談してみようかと考えて……先ほど『なんでもない』と答えてしまった以上、もう混ぜ返すことはできないと結論づけた。
フランツは、発言がコロコロ変わる人を好まない。うかつな人間は側に置かない。それは婚約者でも同様だ。
フランツとイザベルの関係を周りはオロオロと見ているけれど、そっけないのは信頼の証だとイザベルは思っている。
……否、思っていた。つい先ほどまでは。
心が揺れる。言動が支離滅裂になりそうになる。
(頭が痛くて吐きそう……)
でも、体調管理も満足にできないなどと、フランツに思われたくなかった。イザベルは自制心をかき集めて微笑みを顔に張り付けた。
「では私はここで失礼します、フランツ様」
「待て、イザベル」
「……どうされましたか?」
フランツが珍しく、イザベルを呼び止めた。
イザベルが顔を上げると、頬にフランツのひんやりとした手が添えられて、緊張でびくりとする。
神聖な湖の水を凍らせたような凛とした瞳が、イザベルを見つめた。
こんなことも、とても珍しい。もし今、イザベルの体調が万全だったら、驚きつつも喜んで見つめあっただろう。
「ふ、フランツ様……なにを」
「熱はなさそうだが、顔色が悪い……人を付き添わせよう」
フランツがそう言って、後ろに控えている従者の1人に目配せをしたので、イザベルは慌てて辞退した。
「いえ! いえ、結構です! ……少し、1人で外の空気を吸って参ります……ご心配をおかけして申し訳ありません」
「わかった。……謝ることはない。なにかあれば頼ってくれ。君は婚約者なのだから」
「……はい。ありがとうございます」
そうしてフランツと別れるとイザベルは、決して空気が良いとは言えない場所……資材置き場となっている階段下に誰もいないことを確認して、比較的平坦な資材の上に、崩れ落ちるように座り込んだ。
急に膨大な情報が頭の中に流れ込んできたせいで、酷い頭痛とめまいがする。
妄想だと思おうとするのに、どうしようもなく真実味があって、手足がガクガクと震えている。
否定に足る理由をいくつも重ねて……それでもイザベルは、最終的にその妄想を受け入れていた。
(乙女ゲーム? 悪役令嬢? なにそれって思うけど……でも、私はこの世界の主人公に心当たりがある。そして、今の状況になるまでに主人公の辿ったルートを、私は経験したかのように、知っている)
3ヵ月ほど前に学園に編入してきた平民の女子生徒。編入してくるだけあって、可能性と伸びしろのある生徒だと聞いている。
シーナ・リーファース。
2年生で編入した生徒は彼女しかいない。
そして、彼女は今、女子生徒の間では非常に悪い意味で有名になっていた。
なんせ、学園で人気の高い男子生徒ばかりと、次々に仲良くなっていくのだ。
彼らが、これまでにない特別扱いをしていることも、女子達の嫉妬の大きな要因になっている。
(この世界が、ゲームと同一の世界だとしたら、彼女は攻略難易度順に彼らと親しくなっている)
シーナはまず『知力』を上げて、難易度《小》のパトリック・バーリーと仲良くなったはずだ。次に『体力』を上げて難易度《中》のダニエル・ニュンケを。
……この辺りからシーナは噂になり始めた。
ダニエル・ニュンケが女子と話して笑っているというのは、それほどに大事件だったのだ。
そして、つい最近、女好きのエーリッヒ・アスタフェイが、女遊びをしなくなった。理由はもちろん、シーナ・リーファースだ。
(どうして? この世界があの乙女ゲームなら、攻略できるのは1人だけのはずなのに……)