■「わたしはそんなにお安くないんでご注意を」
「アラン・チューリングって知ってるか?」
「あらんちゅーりんぐ? なんか聞いたことがあるような……」
一介の高校生にマニアックな数学者の話は高度すぎたか。それでも、オタクであるなら、この言葉は知っているだろう。
「じゃあ、チューリングテストは?」
「あ、それ、あれですよね。機械が人間的であるかどうか判定するテスト。コンピュータを通じて会話をさせて相手が人間か機械かを判断させて、機械を人間だと判断させたら勝ちみたいな」
「勝ち負けとかじゃないけどな。俺としては物語の中で、少女が男にチューリングテストをさせて、相手が機械かどうかの判断をさせる展開を入れたかったんだ」
それはオマージュでもある。
「それって、なんだか古い映画でありませんでしたっけ? ブレードランナーとかいう」
「原作はディックの小説だけどな。まあ、もろに被ってしまうからボツにしたけど」
「そりゃそうですよね」
元ネタが有名しすぎてオマージュって言っても通用しないだろう。
「俺としては哲学者のジョン・サールの言葉くらいは引用したかったんだ」
「なんて言葉ですか?」
「コンピュータは単なる道具ではなく、正しくプログラムされたコンピュータには精神が宿るとされる」
「わぁ、なんか哲学者っぽい真理を突いてますね」
「そんな彼はチューリングテストを否定し、人工知能批判で有名な人物だ」
「ダブスタですか?」
「違うって。彼は人間そのもの模倣する人工知能――彼が提唱するところの『強いAI』よりも、人間を補助するだけの特定の機能に特化した『弱いAI』を開発するべきだという人だよ。そうすることで、『人間に近づく』ではなく『人間を超える』AIが出てくるだろうって」
「それが人間の幸せに繋がると」
「彼がそこまで考えていたかはわからないけどな」
セクハラで大学を追放されるくらいだ。彼の幸せの定義は歪んでいたのかもしれない。
「たしかに、そんな話を入れると物語が複雑になりすぎますね。でも、これで先輩の物語は理解できました。挿絵とかの作業に入ってもいいですかね」
「だから、出版されることはないっての」
一叶の情熱はありがたいが、申し訳なくも感じる。これは世に出ることはないのだから。
「いいじゃないですか、雪姉さまに見せるだけの世界で一冊の同人誌を作るのも乙じゃないですか」
「まあ、雪姉に見せるんだから、気合いを入れて作りたいってのは本音だけど……」
こんなことで一叶を埋もれさせていいのだろうか? 彼女の絵の才能は本物だ。素人のごっこ遊びに付き合わせるのは気が引ける。
「愛する女性のために、童話を書いて贈ったロリコンがいたじゃないですか!」
「俺はロリコンじゃねえ! あと、ルイス・キャロルに謝れ! 日記を読めば彼が常識的な大人だってことは理解できるはずだ」
「そういえばアランもルイスも数学者なんですよね? 数学者ってわりとロマンチストなんでしょうか?」
「知らんがな」
**
昼のピークを過ぎて店が落ち着いてきた頃、俺は世間話でもするように雪姉にこう告げた。
「雪姉さ、ちょっと話があるというか、読んで欲しい本があるんだ」
「あら? 亮ちゃんが書いた小説?」
ドキリと鼓動が高鳴る。
「なんでわかるんですか?」
「だって、一叶ちゃんといろいろ話してたじゃないですか」
「あいつ、雪姉に漏らしたのか?」
口止めしなかったのは俺が悪いのだけど。
「あの子は直接そんなことは言わなかったわ。けど、あの子が描いている絵を見て、ピンときたのよ」
そりゃ、絵は俺と一叶そのものだからな。
「まあいいや。もうすぐ書き上がりますから、ちょっとだけ雪姉の時間をくれませんか?」
他人に小説を読んでもらうということは、他人の時間を消費するということだ。それを強制的に押し付けたくはない。
「いいわよ。楽しみにしてるわ」
「ありがとうございます」
優しい雪姉の表情が心に染み入る。これでもう少し頑張れるかな。
**
仕事が終わるとすぐに一叶と打ち合わせをして、部屋に戻って書き上げる。そんな日々を何日か繰り返し、ついには完成する。
ワープロソフトのDTP機能を使い、一叶の描いたイラストを挿絵として挿入する。プリンタで両面印刷をして製本。表紙はカラー印刷という豪華さだ。
いちおう単行本サイズを意識し、B6判(128mm×182mm)で裁断する。
製本するのは手間だが、雪姉が違和感なく読書できるように気を配った形だ。
「出来ましたね。先輩!」
「おう! 世界で一冊のオナニー本だ」
デビュー作の再来とも言っていいだろう。
「先輩。乙女がいるんですから、その呼称は止めましょう。普通に同人誌でいいじゃないですか。それに、先輩一人で作ったんじゃないですよ。わたしだって、これに関わっているんですから」
「そうだな。ちょっと自虐すぎたわ」
今回は一叶に引っ張られて書いたようなものだからな。この子には感謝しかない。
「明日にでも雪姉さまに見せます?」
「うーん、そうだな。糊が完全に乾くのを待ってからにしたほうがいいな。できればもう二、三日置きたい」
ビブリオフィリアの雪姉に、雑な仕上げの本は読ませられないからな。
「そうですね。手作りですもんね」
「まあ、完成なのは間違いないし。うちらだけで打ち上げでもやるか」
「わーい! 打ち上げ打ち上げ」
一叶はなんだか楽しそうだ。
といっても、時間はもう夜の11時となる。どこかの店に行くわけにも行かなかった。
「時間も時間だから、コンビニでいいか? 今日は好きな物おごってやる」
「それじゃ、コンビニスイーツを大人買いしましょう」
「安上がりだな」
「そうですね。でも、わたしはそんなにお安くないんでご注意を」
うまいこと言ったつもりなんだろう。
「はいはい」
そんなじゃれ合いのような会話をしながら二人で夜中のコンビニへ行く。帰り道、ふと一叶がこんなことを呟いた。
「わたしと先輩はここで出逢ったんですよね」
出逢ったという言い方が気になる。男女の出逢いってわけでもなかったのだからな。
「初めは変質者かと思ったよ」
俺は素朴な感想を言う。
「なんですか? それひどくないですか?」
「だって、一叶の最初の言葉、覚えてるか?」
「こ、小悪魔と契約しませんか? でしたっけ」
恥ずかしそうに口ごもる一叶。やっぱり自分でも変だと思ってるんじゃないか。
「そうそう。俺、吹き出しそうになったんだぞ」
「あれは、なかなか泊めてくれる人がいないから、インパクト勝負に出たんですよ」
「はいはい」
「信じてないでしょ、先輩」
「いや、どうでもいいけどな」
「もう!」
そのあと、小悪魔から逃げ出した俺は、再びここで彼女と再会する。
そしてなんやかんやあって、部屋に泊めることにした。このとき一叶は俺の部屋に泊まるもんだと思い込んでいたっけ。
『先輩、赤ですよ』
出会った頃に言われたその言葉はまるで、俺の未来が赤信号で進めないかのような未来の暗示。でも、実際は俺を前に進ませてくれた女神のような少女……。
ん?
俺はあたりをキョロキョロと見回す。
「先輩どうしたんですか?」
「……」
俺が最初に声をかけられたとき、駅の方からこちらのコンビニに向かっていた。そこで一叶が話しかけてきた。
二回目に彼女と出会ったとき、彼女は男たちに震えていて、俺がどちらの方角から来たのか知る由もないだろう。
だったらなぜ、俺の部屋が信号を渡ったところにあると知っていたんだ? 交差点だから、直進して青信号の方向に進むことだってあったはずだ。
一叶は俺の部屋を知っていた? いや、もしかしたら、最初に声をかけて断られたときに、俺の行く方向を見ていたのかもしれない。
そう自分に言い聞かせた。
心がざわつく。
◇次回「憧れではあります」にご期待下さい!




