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■「先輩、どエスですね」


「先輩! テーブルと椅子の拭き上げ終わりました! 褒めてください」


 店内で朝食を食い終わった一叶いちかが、開店前の準備を手伝ってくれていた。メイド服ではなく、学校の制服にエプロンをかけただけの格好だが。


「ありがたいけど、一叶いちかのシフトは夕方からだろうが。給料出ねーぞ」

「知ってます。これは、先輩の好感度を上げるためにやってるんです」

「好感度あげるなら『褒めて』とか言うなよ。プラマイゼロだっての」

「えー、一生懸命やったのに」

一叶いちかちゃん、登校前にありがとうね。助かるわぁ。給料、少し上乗せしておいてあげるわね」


 雪姉がニコニコと一叶いちかに話しかける。甘いところがあるのは、雪姉らしくて俺は文句を言えない。


「わーい。やっぱり朝からいいことすると気持ちがいいですね」

「俺なんか毎日、そのいいことをしているぞ」

「先輩は仕事じゃないですか」

一叶いちかだって、お金もらえただろうが」


 雪姉の恩情でだ。


「先輩の好感度を上げられて、お金ももらえるなんて。こんなお得なことはありませんよ」

「好感度は上がってねえって言っただろうが。それに、俺の方はおまえの好感度メーターがぶっ壊れてて信用できない問題をどうしてくれるんだ」

「やだなぁ、信じてくださいよ」

「信じられるか。胡散臭い」

「あはは、ひっどいなぁ」

「どうせ、俺がカシマリョウだからって媚びてるんだろ?」

「あははは、バレました?」


 そんな一叶いちかとのやりとりに、雪姉が優しい表情で俺にこう問いかける。


「あの話、一叶いちかちゃんにしたんだ」


 俺が作家だったという話だ。


「ええ、なりゆきで」


 というか、PCのフォルダを勝手に見られるという強硬手段をとられたのだけどな。


「いいことだと思うわ。一叶いちかちゃんも好意的に受け止めてくれているみたいだし、隠しすぎるのもよくないわよ」

「まあ、そうなんですけど」


 雪姉には頭があがらない。だから、否定的な感情があっても、それを言えないでいる。


 でも、一叶いちかから悪意は感じられないのはわかっていた。俺を利用しようと野望を抱いていても、作品のことはしっかりとリスペクトしてくれているのだ。


「そろそろ書いてもいいんじゃないかしら?」


 雪姉のその問いかけは初めてじゃない。


「いえ、俺にはもう何も残ってないんですよ。無能の極みです」


 空っぽな俺には物語を生み出すことができない。


「そんなことないわよ。アイシスは亮ちゃんのおかげで助かってるのだし」

「……」


 雪姉からは何度も同じようなことは言われている。俺を心配してのことなのだろう。彼女のためにも、もう一度筆をとった方がいいのかもしれない。


 雪姉は本気で俺の本を楽しみにしてくれていた。まあ、もともとビブリオフィリアの傾向があるから、小説ならなんでもいいんだろうけど……それでも、初恋の人に必要とされるのは嬉しい。


 そんな状態でも俺はまだ書けない。なにしろ、空っぽなのだ。


 書きたいものがなくても書けるほど、俺は天才でもないのだから。



**



 一叶いちかがバイトとして入って1週間ほどが経ち、仕事も覚えてきたので花音はしばらく受験に専念することになる。


 その花音の仕事の最終日、事務所内でのことだ。


 室内には俺と一叶いちかと花音の三人がいる。店内にはお客がまだ一組いるので、雪姉は残っている。


「花音先輩。あとのことは任せてください!」

「ええ。よろしく頼むわ。雪姉のフォローをよろしくね。亮にぃのことはまあ、どうでもいいか」

「おいっ!」


 俺はいつものようにツッコミを入れてしまう。花音は俺には冷たいのだが、それは度が過ぎていることもあるからだ。


「雪姉さまのことは任せてください。先輩のことは放置プレーですね」

「そう。でも、亮にぃが雪姉に必要以上に近づいたら阻止してね」

「はい。わかりました」

「いい返事だけど、それはあなたにも言えることだからね」


 花音が氷のような視線を一叶いちかに向ける。それは、「あなたも雪姉に近づくな」という意味だろう。


「……善処します」


 一叶いちかが震えるように縮こまる。彼女にとっては花音はリアルな先輩だからな、俺みたいな似非先輩と違って言葉の重みが違うのだろう。


 こういう気弱な後輩っぽい一叶いちかの姿は新鮮にも見えた。


 そういや花音って演劇部だったよな。こうやって、厳しい後輩指導とかやってんのかな? 雪姉の前では甘えっ子なのにさ。


 俺はそれを想像してクスクスと笑い出す。


「亮にぃ、なんで笑ってるの?」

「いやぁ、花音も成長したなぁと思ってさ」

「なにそれ、キモい、亮にぃ」

「いや、お姉ちゃんッ子で、雪姉がいないと何もできなかった花音が、先輩として威厳のある態度をとってるんだからな。おまえが小学校に上がってからも、トイレに一人でいけなくて……」

「いやぁ、それは言わないでぇ」


 顔を真っ赤にする姿は俺の知っている幼い日の花音と代わり映えはなかった。そうほくそ笑んだ俺を一叶いちかが冷めた目で見る。


「先輩、どエスですね」



**



「先輩。外の掃除終わりました。看板も片付けておきましたよ」


 閉店時間が終わってクロージング作業は、三人で行えるのでいつもより早く終わる。花音が手伝ってくれていた時は、こんな遅くまでは働かせてなかったからな。


一叶いちか、今日も泊まっていくのか? いい加減に帰らないとマズくない?」


 金銭面での心配がなくなったとはいえ、年頃の女の子が家にずっと帰らないのはどうかと思う。


「大丈夫ですよ。もともと親との会話なんてないに等しいんですから、食事だってここ数年一緒にとったことはありませんし」

「そういう問題じゃなくて」

「それにこっちの部屋の方が、絵を描くのが捗るんですよ。静かで落ち着きます。家だと親以外にも騒音が酷くて集中力が途切れるんです」

「あら、一叶いちかちゃん。それならあの部屋を下宿として契約する? 月単位での支払いならお安くしとくわよ」


 雪姉がそう提案してくる。


「え? いいんですか?」

「ええ」

「やったぁ!」


 一叶いちかは嬉しそうに小さく両手を揚げる。


「じゃあ、一叶いちかちゃん。あとで書類渡すから、保護者のかたの署名と捺印だけもらっておいてね」

「はーい」


 一叶いちかの母親は、男を連れ込んで娘を疎ましく思っているのかもしれないし、この案は全員にメリットがあるだろう。宿泊費も娘が稼ぐわけだから、断られる心配もないかな。


「たしか、事務用PCにテンプレがあったと思うんだけど」


 雪姉の視線が俺の方に向けられる。彼女が何を言いたいのかを一瞬で理解した。


「はい、わかりました。探して作成しておきますよ」

「ありがとね。亮ちゃん」


 とびきりの笑顔に俺はやられる。そんな顔でお願いされたら断れませんって。


 そこで、時計を見て、雪姉がまだ着替えもせずにゆっくりしていることが気になる。


「あれ? 雪姉。もう9時過ぎますよ。帰らなくていいんですか?」

「ええ。悦司さん、今日から出張なのよ。だから、しばらくはここで浸るわ」


 そう言って、メイド服のまま客席に向かうと本棚から一冊抜いてカウンター席へと座る。こういうことはたまにあった。


「ははは、ごゆっくり」


 雪姉が本を読み始めたら邪魔をしてはいけない。ビブリオフィリア、つまり良く言えば愛書家。けど、彼女の本質は書物崇拝狂と言う言葉に近い。


 ただのカフェだったこの店を叔父さんから受け継いだときに、ブックカフェへと変貌させたのは雪姉の仕業なのだから。


 まあ、だからこそ俺の作品を気に入ってくれたのかもしれないし、再び筆を取って欲しいのだろう。


一叶いちか。着替えたらすぐに退散しろ」

「えー、なんでですか?」

「雪姉は普段優しいけど、本の事で邪魔をされるとめちゃくちゃ不機嫌になる」

「あははは……そうしますね」


 一叶いちかは着替えに事務所へと向かう。俺は彼女が着替え終わった後にPCを操作して、書類を作成しないとな。


「亮ちゃん」


 呼ばれて振り向くと雪姉がニコニコと笑っている。なぜか嫌な予感を覚えた。


「なんでしょう?」

「久々にこれを読んでいるのよ」


 彼女がこちらに向けた表紙には『ペトリコールはあなたの匂い』のタイトル。俺の黒歴史のデビュー作が……。


「ははは……もう何度も読んだんじゃないですか」

「久々に10代の頃の亮ちゃんに会ってみたくてね」

「……」


 雪姉に向けていた俺の笑顔がだんだん引きつっていく。


「だって、これに書かれているヒロインって私なのよねぇ。お姉ちゃん、これを読むたびにキュンキュンしちゃって」

「……」


 だから黒歴史なのだ。


 10代にしか書けない物語。それを余すところなくぶちまけて、審査員から絶賛された作品。そりゃ、こんな恥ずかしい作品、普通の神経で書けるわけがない。


 20代になって冷静に考えてみれば、それはただのマスターベーションでしかない。文学的に優れているとか、そんなことは俺には興味がなかった。


 ただひたすら雪姉への愛を綴った物語だ。


 そんなものが売れるわけがないじゃん。


 だからこそ俺は、その作品が大嫌いだった。



◇次回「さすが先輩です」にご期待ください!


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