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009.

『王と精霊の恋物語』は、花鳥歌劇団にいた脚本家が書き、上演し始めた演目とされている。

 稀代の女好きの王が泉の精霊と恋に落ちるものの、泉の精霊には既に恋人の魔獣がいた。三角関係の果てに、王は魔獣から呪いをかけられて死んでしまう。泉の精霊は嘆き悲しみ、とうとう命と引き換えに王を蘇らせる。王が目覚めても、愛する人はもういない。泉の精霊を想いながら、王は一人寂しく独唱し、幕が下りる。そんな悲恋の話だ。


 本日の昼の部は、劇団の花形役者がそれぞれ王と精霊を演じているため、満席となったのだろう。姉アリーチェに付き添い、ルーチェも何度か花鳥歌劇団に足を運んだことはあるものの、看板役者の演目を観劇することはできていない。それでも、他の男役の芝居は男装をする上で大変勉強になったものだ。

 花鳥歌劇団では、女役は花の名前、男役は鳥の名前がそれぞれ芸名となっている。ルーチェが紫陽花(オルテンシア)(コルヴォ)の二人を見るのは、今日が初めてだ。


『……あぁ、退屈だ。国は栄え、手に入れられぬ女などいない。世界はすべて私のもの。しかし、空虚な心は満たされぬ。我が孤独を埋めてくれる者は、どこにいる』


 舞台に現れた「王」を見て、ある者は彼女の名を呼び、ある者はうっとりと微笑む。感極まって泣き出す者もいる。ルーチェは、花形役者、看板役者の本当の意味を知る。


 ――なんて美しい人!


 息を呑むのを忘れてしまうほどに美しい「男」が、いる。

 切れ長の瞳に、面長の顔。舞台映えする濃い化粧の下には、美しく整った顔があるのだろう。伸びやかで張りのある声は階上まで響き渡り、歌声は力強く耳に心地いい。

 そして、何と言っても、ヴェルネッタ王国では珍しい真っ黒な髪。妖艶さが一層際立っている。まさしく烏だ。


 ――綺麗。すごく綺麗。


 ルーチェは目を輝かせる。目の前にあるのは、芸術だ。観客を喜ばせるための、観客から歓声を引き出すための計算された仕草。一朝一夕で習得したものではないと、ルーチェにはすぐにわかる。鍛えていなければ美しく発声できないし、研究しなければ女が喜ぶ所作も身につかない。

 だからこそ、自分の男装など、彼女の足元にも及ばないのだとルーチェは思い知る。自分が目指すものは、彼女ではないのだと。

 ルーチェはしっかりとコルヴォを見つめる。隣のリーナがじっと自分を見つめていたことに、もちろん気づくことはない。


 恋人を奪われた魔獣の苦しみや憎しみも、二人から求愛される泉の精霊の迷いも、愛する人を失った王の悲しみや嘆きも、役者の芝居がいいから観客は感情を共有することができるものだ。

 ルーチェにも苦しみ、悲しみが波のように押し寄せてきて、気がつくとボロボロと涙を零していた。王、コルヴォの最後の独唱など、涙なしには見られない。リーナが手渡してくれた手巾(ハンカチ)を、びしょびしょに濡らしてしまうほどだ。

 幕が下りると、当然のように立って拍手を贈る。ルーチェは涙を流しながら、手が痛くなっても拍手をやめなかった。


「あぁ、本当に素晴らしかった!」

「ええ、今回もコルヴォ様は素敵だったわぁ」

「オルテンシア様のアリアも美しかったわねぇ」


 ルーチェと二妃はきゃあきゃあと感想を言い合うが、リーナは静かに果実水を飲むだけだ。その反応の薄さに、ルーチェはハッとする。


「……リーナ、もしかして、観劇が好きではないのでは?」

「そうじゃないわ。ルーチェもあんな感じの男が好きなのかと思っただけよ」

「えっ、コルヴォ様は女だよ?」

「女だけど……女、だからこそ、なのよ」


 リーナの言葉の真意がわからず、ルーチェは小首を傾げる。

 オルテンシアとコルヴォの再独唱(アンコール)も終わり、終幕した客席からはどんどん人がいなくなる。しかし、二人の妃は退室する気配がない。リーナは不機嫌そうにソファで足を組んだまま動こうとしない。夜の部まで時間はかなりあるが、ずっと居座っていいものではない。


「リーナ、帰らなくてもいいのかな?」

「おや、帰ってしまうのですか? お嬢様方は私に会いたいから残ってくれているのだと思っていたのですけれど?」


 よく通る美しい低音。二妃は「きゃぁ! コルヴォ様!」「お待ちしておりましたぁ!」と扉へ向かう。ルーチェは固まったまま振り向くことすらできない。そんなルーチェを見上げ、リーナは苦笑する。


「ルーチェ、会いたかったのではないの?」

「えっ、えっ、無理だよ。確かにお会いしたかったけど、無理。腰が抜けそう」

「腰が抜けたらわたくしが支えてあげるわよ」

「ええ、私も支えて差し上げあげましょう」


 至近距離で聞こえた低い声に、ルーチェは悲鳴を上げそうになった。失礼なことだとわかっているため、すぐに手で口を塞ぐ。


「あなたも男装を? 長い手足に、その長身。花鳥歌劇団で男役をするならすぐに人気が出るでしょうに」


 振り向くのではなかった、とルーチェは後悔する。先程舞台で恋人への別れの歌を歌っていた主役が、目の前にいる。フィオとは違うが、コルヴォもまた絶世の「美男子」だ。ルーチェは目を丸くしたまま、口を押さえたまま、コルヴォの一挙手一投足を眺めるだけだ。


「婚約おめでとうございます、ルーチェ嬢。あなたの心を奪ったのが私ではなくて、本当に残念です」

「え、あ、ありがとう、ございます」


 どうやらクリスティーナが「息子の婚約者」だと教えたらしい。ただの伯爵令嬢の名前など、看板役者が知っているわけがない。しかし、名前を呼ばれると特別感が増すのは事実だ。


「今日の芝居はどうでした?」

「とて、とても、素敵でした。感動して泣いてしまいました」

「それは良かった。泣くと気持ちがいいでしょう。しかし、あなたに涙は似合わないですね」


 ふわふわと雲の上を歩くかのような高揚感が続く。自分の生半可な男装ではその領域にたどり着くことができない、とルーチェは恥ずかしさで消えてしまいたくなる。


「ふふ。そんなに睨まなくてもいいではありませんか。あなたの大切な人を取って食うわけではないのですから」


 コルヴォがリーナを見て苦笑する。振り向いたルーチェは、コルヴォを睨むリーナに気づく。リーナの険しい顔を見るのは初めてだ。


「ルーチェ嬢。ここからは舞台がよく見えたでしょう?」

「はい、とても」

「舞台からも、この特別席はよく見えるのですよ。目は口ほどに――」

「それ以上言うと王家からの寄付額を減らすわよ」

「おぉ、怖い。では、無粋な真似をするのはやめておきましょう」


 リーナの脅しにコルヴォは素直に引き下がる。ルーチェは意味がわからずにキョトンとするしかない。そんなルーチェにバチンとウインクをしたあと、コルヴォは二妃が待つテーブルへと向かう。


「嫉妬って怖いわね」

「オ、オルテンシア様っ」

「ご婚約おめでとうございます。今後とも、花鳥歌劇団を贔屓にしてくださいませ」


 コルヴォの後ろから現れた、二人目の主役にルーチェは驚く。オルテンシアの小柄さにも再度驚く。舞台の上では大きく見えていたものの、エミリーより小柄な彼女から美しいアリアが紡がれていたとは知らなかったのだ。

 王家の寄付金のための挨拶回りなのだろう。主役が二人揃うと一気に場が華やかになるため、二妃も喜んでいる。


「コルヴォ様が挨拶に来てくださるなら、ベアトリーチェ王妃殿下もお誘いすれば良かったわねぇ」

「ええ。王妃殿下はコルヴォ様を贔屓になさっているから」

「しかし、王妃殿下はコルヴォには会いたくとも、私には会いたくないでしょうね」


 もう一人、背の高い男装の麗人が入室してくる。ルーチェは思わず「オーカ団長……!」と驚きの声を零す。花鳥歌劇団の団長オーカは、長年看板を背負ってきた元男役だ。引退した今は舞台に立つことはなくとも、惚れ惚れするような美しさは健在だ。コルヴォと並ぶとキラキラしすぎていて直視できない。


「妃殿下がいらっしゃるときは、私は特別席へ立ち入ることができませんからね。まだ恨んでおいでなのでしょう」

「そんなことは……と言いたいところだけれど、どうでしょうねぇ?」

「そうねえ、いくら寛大な王妃殿下でも、さすがに愛人には……あら、うっかり」


 二妃の視線がルーチェに注がれる。どうやら、マリアンナの失言だったようだ。


「まぁ、ルーチェちゃんはフィオの奥さんになるのだから、隠しても無駄かしら」

「そうねぇ。愛人のオーカが陛下の昔の話を勝手に脚本として書いちゃったことも、いつかはバレちゃうものね」


 マリアンナの度重なる失言に、ルーチェは目を丸くし、リーナは頭を抱える。歌劇団の三人は苦笑するしかない。


「えっ?」

「つまり、さっきの『王と精霊の恋物語』は、父の……ヴェルネッタ国王陛下の愚かな実話なの。わたくしが生まれる前のことだけれど、父が三人の妃を裏切ったことを愛人がしれっと悲恋として公演したものだから、王妃殿下の恨みが消えるわけないのよ」


 リーナの苦々しい表情と刺々しい言葉に、ルーチェはようやく彼女がこの演目を好んでいない理由を知るのだった。




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