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037.

 あのキスの翌日から、リーナは現れない。その翌日も王家の馬車はやってこない。エミリーは大変心配していたが、結局その翌日も、翌々日も、リーナもフィオもやってこなかった。

「迎えに来て」と言ってしまった手前、王宮へ行くのは何だか格好が悪いような気がして、ルーチェは寂しさを紛らわせるために予定を詰め込んだ。近隣に住む貴族の令嬢たちの茶会に招かれてルッカとして花を添え、恋の相談にも乗り、街邸から星の別邸に持っていくものを選んで木箱に入れ、領地の邸から持っていくもののリストを作る。母と香茶を飲んで語らい、弟の勉強を見て、父と兄には王子妃としてどのような振る舞いが求められるのかを尋ねた。リーナやフィオがいない寂しさを感じずに過ごすことができた、非常に充実した五日間だったと言える。

 そして、六日目の朝、ルーチェは並んだ木箱を見つめながら、香茶の準備ができるのを待っている。


「五日も王女殿下とも王子殿下ともお会いしないなんて、変な感じですね」

「そうだね。風邪を引いたときを除いて、毎日のように会っていたからね」

「お二方ともお風邪を召した様子はないようですが、いかがなさったのでしょう」


 エミリーは引っ越しのために星の別邸に少しずつ荷物を運び入れているのだが、どうやらそのときに他の使用人たちに様子を聞いて回っているらしい。心配性なのだ。


「まさか、どちらかと喧嘩でもなさったとか? ルーチェ様は頑固なところがありますから、謝るべきところは謝ったほうがいいと思いますよ」

「私が謝らなければならないと決めつけるなんて、心外だなぁ」

「そういうところですよ、ルーチェ様」


 エミリーの言葉が理解できないままに、目の前に置かれた香茶を飲む。かすかに鼻を抜けるオレンジの香り。エミリーがオレンジのジャムでも入れたのだろう。


 ――オレンジの、匂い。


 途端に、愛おしさが込み上げてくる。オレンジの匂いのする、婚約者の姿。リーナの拗ねた顔、フィオの笑顔、リーナの柔らかな肌、フィオのゴツゴツした腕。どちらも、ルーチェにとっては大切なものだ。失いたくないものだ。

 フィオはきちんとキスの意味を理解したのだろうか。どんな姿であっても構わないという意図は伝わっただろうか。そこまで鈍感であってほしくないと、ルーチェは思う。自分の気持ちや乙女心をすべて理解してもらいたいとは思わないが、少しは歩み寄ってもらいたいとは思う複雑な心境だ。


「今朝、国王陛下と王妃殿下が隣国からお戻りになられるようですよ」

「あぁ、今日なんだ」


 隣国での八国会議が終わり、国王夫妻が戻ってくる。ようやく、国王の口から呪いについて語られるのだろう。フィオはオルテンシアのことを国王に問いただすことができるだろうか。アデリーナはヴァレリオと結婚したいときちんと話せるだろうか。ジラルドは……まぁ、いつも通りだろう。三兄妹にとっては勝負の日であることに違いない。

 ルーチェにできることはない。これは王家の問題であって、ルーチェの問題ではない。ルーチェは三人が決めたこと、そして王家が決定したことに従うだけだ。


「陛下のお帰りに合わせて、関所や通りが封鎖されているみたいです。そこかしこに騎士が立っている、とメイドたちが言っていましたよ。声をかけられた独身の子たちは満更でもなかったようですけれど」

「へぇ。軟派な騎士もいるものだね。そういえば先日の茶会でも、ご令嬢方が地方の騎士から誘われたと話していたよ。騎士の中には割と貴族出身の男子が多いからね」

「……軟派な男は嫌いです」


 ポットを片付けながら、エミリーはそんなふうに呟く。

 エミリーはまだ王子のジラルドと犬のラルドが同一人物であることを知らない。ラルドとはよく遊んでいる様子だが、あの犬が実はジラルドなのだと知ったらエミリーは卒倒するだろう。

 ジラルドがエミリーに好意を抱いており、未来を見据えているのであれば、きちんとコレモンテ伯爵家かエミリーの生家に一報があるはずだ。今のところ、それはない。ルーチェは静観するしかないのだ。


「軟派な男に言い寄られたの? 困るなぁ、勝手にエミリーを口説くだなんて」

「だ、大丈夫です。口説かれているわけでは、ないので」

「ふぅん?」


 エミリーはルーチェに背を向けているために表情まではわからない。だが、ルーチェの知らないところで軟派な男を気にかけていることだけは間違いなさそうだ。


 ――エミリーの結婚は嬉しいけれど、優秀な人を失うのは痛手だなぁ。


 ルーチェはそんなふうに思いながら、冷めつつある香茶を飲むのだった。




 その報せが届いたのは、昼食が終わって少したってからだ。応接室に通されたディーノは、落ち着きなく部屋を歩き回っていた。姿を現したルーチェに、星の別邸の執事は慌てた様子で「殿下はこちらに来ていらっしゃいませんか」と駆け寄ってきた。いつも冷静な彼のただならぬ様子に、ルーチェは驚きながら応じる。


「フィオに何かあったの? ここ五日ほど会っていないよ」

「なんと……! 昼食を食べ終えたあとから、殿下の姿が見えなくなりまして……」


 ディーノによると、国王の帰還に合わせて幾人かの貴族が謁見を申し込んだらしく、朝から朱の宮殿は賑わっていたらしい。いつも宮殿にいるはずの騎士たちは今日は一日中街道での警備に任ぜられており、王宮内や王族の警護騎士も最低限の体制だったという。

 そんな中、想い人から求婚されて舞い上がってしまったアディが姿を消してしまったため、星の別邸の使用人たち皆で行方を探していたという。そして、昼食後にはリーナが忽然と姿を消してしまう。

 リーナとアディが同時にいなくなったため、「コレモンテ伯爵家へ向かったんじゃないかな」とハンモックに揺られていたジラルドが言ったらしい。そこで二人の捜索は打ち切られたのだが、ディーノはその真偽を確かめに来たということだ。


「リーナが、行方不明?」

「王家の馬車は通っていないとのことなので、一応、門番に貴族の馬車の確認をさせているところです。殿下が立ち寄りそうな場所にお心当たりはありますでしょうか?」

「心当たりなんて……あ」


 国王との謁見後に姿を消したというのなら、ヴァレリオかオルテンシアのことが関係しているのではないか。そんなふうに考え、ルーチェはディーノに花鳥歌劇団へ向かうように指示する。もちろん、ルーチェも馬車に同乗する。エミリーは万が一のときに備えて伯爵家に残ってもらうことにした。


 昼の部が開演した直後の花鳥歌劇場の周辺は閑散としている。送迎用の馬車がまばらに残り、劇場内の音が漏れ聞こえてくるのを町娘たちが聞いている程度の人通りだ。

 馬車を裏口につけ、オルテンシアかコルヴォ、オーカへの取り次ぎを兵に頼んだところ、やってきたのは簡素な服を着たコルヴォだ。化粧はしていなくても華やかさは健在だ。

 舞台に立たないとき、出番のない役者は裏方の仕事を手伝っているのだという。裏口から入り、長い廊下を進んで特別個室へ向かおうとするのを止め、すぐにルーチェは本題に入る。リーナかアディは来ていないだろうか、と。


「アデリーナ王女殿下……は見かけていないね。今日は特別席にも個室にも誰も来ていないよ」

「オルテンシア様は?」

「彼女も今日は裏方。でも、私みたいに自由に動ける場所にはいないから、呼ぶことはできないんだ」


 地毛で化粧もしていないコルヴォは、非常に中性的な顔立ちだ。ところどころに薄いそばかすがある。しみ一つない肌だと思っていたが、間違いであったらしい。化粧をすると舞台映えのする顔になるのだから、不思議なものだ。


「コルヴォ様。あの、『王と精霊の恋物語』の最終日に、毎年黒い髪の女の人が来ているはずなんですが……覚えていませんか?」

「ふふ。毎年観に来てくださっている方がどれほどいると思うの。さすがに常連でも全員の顔は覚えていないよ」

「そう、ですよね」


 コルヴォは苦笑しながらも、「黒い髪」と小さく呟く。オルテンシアの母――黒髪の魔女のことを思い出したのだろう。


「そういえば、毎年、黒い薔薇と真っ赤な薔薇の花かごを持ってきてくれる人がいるよ。上演最終日には花と贈り物が大量に届くから、すべてを気にしているわけではないのだけれど、あまり見ない組み合わせだから覚えているんだ。あれはもしかしたら、黒髪の魔女と緋色の魔獣の暗示だったのかもしれないな」


 黒と赤の組み合わせだということだけで、黒髪の魔女が来ていると断言はできない。ルーチェは「そうですか」と力なく応じる。


「王女殿下も不思議な人だね。最初は、女の格好をしている男なのかと思ったよ。男の格好をしているあなたと、よくお似合いだ」

「男の格好をなさっているのは、コルヴォ様も同じではありませんか」

「ハハハ。確かに。でも、王女殿下は私のことが嫌いみたいだからね」


 あなたが国王の子どもではないかと疑っていたからです、とは言えない。ルーチェは曖昧に微笑む。


「また、来てくれるかな?」

「ええ。最終日に」

「王家の皆様と一緒に、か。それでも嬉しいよ」


 コルヴォと別れ、裏口を出ると、ディーノが誰かと話していた。星の別邸で働いている者の一人だ。門番からの伝言を伝えに来たのだろう。ルーチェが近づくと、二人は険しい顔をして頭を下げた。


「猫のアディが見つかりました。温室で倒れていたそうです」

「えっ、アディは無事なの?」

「ラルゴーゾラ侯爵家のヴァレリオ様が見つけてくださったらしく……脱水症状が見られるとのことですが命に別条はないそうです」

「そう……それならひと安心だけれど」


 二人の顔は依然険しいままだ。何か良からぬ報告があったのだろう。


「アディの近くに、髪飾りが落ちていました。殿下の」

「リーナは? リーナは大丈夫?」

「それが、温室の周りを探しても見当たらないそうで」


 星の別邸からの若い使者はしょんぼりとうなだれている。その様子だと、まだ捜索は続けられているのだろう。ヴァレリオはアディに付き添っているようだ。アディが離れないのだろう。

 リーナが温室にいたとするなら、アディを放ったらかして温室を出ていくのは不自然だ。何かあったと考えるのが普通だろう。リーナが消える理由があったのだ。


「……ルーチェ様、陛下に謁見を申し込んだ貴族の中に、アウトゥリア侯爵がいらっしゃったようです」

「アウトゥリア侯爵……トーニオ?」


 ルーチェに葡萄水をかけ、アディを追いかけ回し、ルーチェから鍬を突き立てられたあの出来損ないだ。顔を思い出すだけで腹立たしくなってくる。


「まさかとは思いますが、逆上した侯爵家のご子息に……」

「うーん、さすがにそこまで愚かではないんじゃないかな。伯爵家の娘と、王女の猫に危害を加えるだけならまだしも、王女を拐かすなんて」


 恥をかかされたと逆上して王女を誘拐することが、王女を傷つけることがどれほど愚かな行為なのか、侯爵家の人間なら理解しているはずだろう。家を取り潰される可能性があるというのに、そこまで愚かではないだろうとルーチェは考える。


「そうですよね。そこまで愚かではございませんよね。王宮内での出来事ですし、相手は殿下でございますし」

「……あ」


 ルーチェは青ざめる。行方がわからなくなったのは「フィオ」ではなく「リーナ」だ。トーニオがリーナに逆恨みをして、誘拐をして、最大の恥辱を与えようと考えているのであれば――それはただの暴行ではないはずだ。ディーノも思いついたのか、同じように青ざめている。


「それだけは、阻止しないと」

「はい、それだけは……!」


 アウトゥリア侯爵の邸へ向かいながら、ルーチェは日の高さを確認する。日没まではそれほど時間がない。アディが行方不明になったときと同じだ。夕刻までに見つけないと、リーナはフィオになってしまう。


 ――すべて杞憂でありますように!


 ルーチェとディーノの空回りであればいいと願いながら、婚約者の無事を祈るしかないのだった。




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