003.
公爵家の客室は庭の一角にある。丘の上にある王宮を臨むことができる、二階建ての立派な邸だ。馬車が停まると、既に話を聞いていたのか、使用人たちが出てきてルーチェを浴室へと案内してくれた。侍女らしき人も、若いメイドたちも、ルーチェの男装に触れることがない。ルーチェは安心して衣服を任せ、入浴する。
湯船には色とりどりの花びらが浮かんでおり、湯加減もいい。ザバザバと頭や体を洗い、花の香りの石鹸でサッパリと葡萄水を洗い流す。
満足しながら浴室を出ると、男物のタキシードが準備されている。ジラルドのものだろうか、と思いながらルーチェはシャツに袖を通す。やはり、少し大きめだ。そして、ほのかに柑橘系の匂いがする。
「ジラルドの匂いではなくて、リーナの匂い?」
不思議に思いながら隣の部屋へ向かうと、甘い匂いが漂っている。ゆったりとした藤色のワンピースに着替えたリーナがソファから手招きする。
「香茶とタルトを準備したの。食べましょ」
「美味しそうですね。いただきます」
テーブルの上に準備された苺と林檎のタルトを見て、ルーチェは嬉しくてたまらない。甘いものは大好物なのだ。
「シャツ、やっぱり袖が余るわね。ぴったりではなくて申し訳ないわ」
「いえ、ご配慮ありがとうございました。助かります」
「汚れた衣服は証拠として預かることになるけれど、構わないかしら?」
「もちろん」
作ったばかりなのか、タルトは温かい。リーナがぱくぱく口に運んでいるのを見て、ルーチェも一口食べる。甘酸っぱい、優しい味だ。
しばらくタルトを食べていたルーチェは、自分の顔をじっと見つめるリーナの視線に気づく。タルトが口の周りについていただろうか、と慌てて口を拭く。
「ねぇ、ルーチェ」
「はい、何でしょう?」
「あなた、成人したとは聞いたけど、婚約者はいないのよね? 好きな人はいるの?」
「残念ながら、どちらもおりません」
ダンスのときにも同じ話をしたことを思い出す。香茶は甘くなりすぎない、後味がすっきりとしたものだ。
「単刀直入に言うわ。婚約者も好きな人もいないのであれば、わたくしの兄と結婚していただけないかしら?」
口に含んだ香茶を噴き出しそうになり、ルーチェはむせる。ゲホゲホと咳き込むルーチェの背中を、いつの間にか隣にやって来ていたリーナが撫でる。
リーナの提案に、侍女やメイドたちは動じない。こういうことには慣れているのかもしれない。
「……ゲホ、えっと、ジラルド王子殿下、とですか?」
「いいえ、フィオリーノ第五王子、わたくしの実の兄とよ」
病弱だとして、一切公務に出てこない第五王子。王宮内にある別邸で療養していると聞いている。去年成人を迎えたものの、婚約者はいない。結婚すれば王子妃の立場は獲得できるものの、大きな権力を得ることはできない。貴族にとっての旨味がないため、「娘を」という声もない。
父コレモンテ伯爵ならなんと言うだろう、とルーチェは考える。娘の行き遅れを心配する両親なら、滅多にない良縁として「こんな娘ですが」と喜んで送り出すに違いない。つまり、王家と伯爵家の話ではなく、個人の話になってくるということだ。
「そんな大事なことをリーナ王女殿下がお決めになってよろしいのですか? フィオリーノ王子殿下の意見も聞かなくては」
「兄なら大丈夫。わたくしが決めることに口出しをすることはないもの。ルーチェが気にするなら、婚約前に会えるように手配するわよ。いつがいい? いつなら空いているかしら? 明日? 明後日?」
リーナはどうしてもフィオリーノとルーチェを引き合わせたいようだ。ルーチェが困惑していると、リーナがぎゅうと両手を握ってくる。
「わたくしはあなたを義姉と呼びたいの。家族になりたいのよ。ダメかしら?」
「それは大変ありがたい申し出ですが」
「兄は病弱だけれど看病は必要ないの。日中は寝室にこもりきり。夜になると起きてきて割り当てられた仕事をこなすものだから、吸血鬼王子だと言われていることは把握しているわ」
居合わせたメイドたちが申し訳なさそうに顔を伏せているのを見ると、彼女たちの間でもそう噂されていたのだろう。『魔境』に棲む者と人間が交わると、『魔』の要素を持つ子どもが生まれることがあると聞いたことがある。しかし、王子は国王と第二妃の子。そのような醜聞はないはずだ。
「もちろん、あなたに苦労させることはないわ。男装を止めるようなこともしないし、潤沢ではないけれど予算もついているもの。好きなものを食べて、好きなものを着て、時々わたくしの公務についてきてくれれば、それでいいの。コレモンテ伯爵領に別荘を作っても構わないわ。ええ、それはいいかも。伯爵領は確か『魔境』に近いわよね?」
「え、ええ、はい」
「コレモンテ伯爵領では『魔境』に棲む者たちの姿が目撃されていると聞いているもの。黒髪の魔女に、緋の魔獣。獣人もいるのよね? 素敵! 別荘を作ったら、ぜひわたくしも行ってみたいわ。招待してちょうだいね」
リーナの勢いに、ルーチェはどうしても圧倒されてしまう。戸惑いの笑みを浮かべるだけのルーチェを見上げ、絶世の美女リーナはその常磐色の瞳をうるうると輝かせながら懇願する。
「お願い、ルーチェ。わたくしの兄と結婚して」
――リーナがすっっごく可愛いから、断ることができない……!
「……少し時間をいただいても構いませんか? 一応、両親に申し伝えなければなりません」
「その必要はないわ。披露宴が終わったあと、こちらに来ていただくように手配してあるの」
ルーチェが目を丸くするのと、居室の扉が開いてコレモンテ伯爵夫妻が入室してくるのはほぼ同時だ。ルーチェの両親は顔を真っ赤にして「ありがとうございます!」「ふつつかな娘でございますがよろしくお願いいたします!」と言いながらリーナの手を取った。どうやら、従者の男から顛末を聞いているようだ。
退路を断たれた形となり、ルーチェは頭を抱える。馬車に乗る前から、こうなることは確定していたらしい。
「伯爵家としてはもちろん異を唱えることはございません。ただ、父親としては、娘の幸せを願っているものゆえに……娘の了承を得てからでないと」
「私は構いません。王子と結婚いたします」
その言葉に、発した本人が一番驚いている。ルーチェは「ええと」とバツが悪そうに頭をかく。もう葡萄の匂いはしない。柑橘と花のいい香りがするだけだ。
「フィオリーノ王子殿下と結婚いたします」
「あぁ! ありがとう、ルーチェ!!」
むぎゅとリーナに抱きつかれ、ルーチェはソファに沈む。柑橘の匂いと柔らかな体に包まれ、ルーチェは困ったように笑う。行き遅れ、いずれどこかの老貴族の後添えになるよりは、病弱な王子の妃になるほうがいいのかもしれないと思うのだった。