017.
ルーチェは変な夢を見た。
「ルーチェ! わたくしと結婚して!」
真っ白な婚礼ドレスに身を包んだ、絶世の美女が追いかけてくる。紫色の花束をぶんぶんと振り回しながら、とても楽しそうに。
「僕と結婚して、ルーチェ!」
真っ白なタキシードを着た絶世の美男子も追いかけてくる。どこにそんな体力があるのか、花束を振り回しながら、とても幸せそうに。
ルーチェは二人からの求婚に怖じ気づき、後退る。結婚するのが嫌なのではない。恐怖を感じているわけでもない。ただ、「逃げなくては」と体が勝手に動くのだ。
「待って、ルーチェ!」
「僕の可愛い葡萄の妖精さん!」
「ルーチェはわたくしのものよ!」
「いいや、ルーチェは僕の妻だ!」
言い争いながら、兄妹が迫ってくる。ルーチェは必死で逃げようとするが、なかなか足が進まない。すぐにでも追いつかれそうだ。
どうして、とあたりを見て、気づく。真っ白な婚礼衣装の長い裾の上に、金色の猫と飴色の犬が優雅に乗っかっていることに。
「ルーチェ! 大好き!」
「結婚しよう!」
兄妹二人の、同じ顔が眼前に迫り、ルーチェはとうとう悲鳴を上げた。
「うわあぁぁっ!!」
毛布を跳ね除けて、ルーチェはガバと起き上がる。しばらくはゼェゼェと荒い呼吸を繰り返し、あたりを見回す。いつものルーチェの寝室だ。既に日は高い様子。部屋には誰もいない。
そのことに安堵しながら、近くのテーブルに置いてあったぬるい水を飲む。
――馬鹿みたいな夢を見たなぁ。フィオとリーナが同一人物だなんて、そんな馬鹿なこと、ありえるわけがないのに。
水を一気に飲み干し、溜め息をつく。熱に浮かされ、変な夢を見たのだ。ルーチェは額に手をやり、熱が引いたことを知る。そして、汗でベタベタになった寝間着のまま部屋を出る。
「あら、ルーチェ様。お加減はいかがですか?」
「悪くはないけど、良くもない。風呂から出たら、何か食べるものを準備しておいてくれないかな」
通りかかったメイドにそう伝え、ルーチェは浴室へ向かう。熱い風呂に水を足し、少しぬるめにしてから湯船に入る。三日か四日ぶりの風呂は、大変気持ちがいいものだ。石鹸で体の隅々まで綺麗にしてから、ルーチェは浴室をあとにした。
ルーチェの居室に準備されていたのは、消化が良さそうな柔らかな食べ物ばかりだ。白いパンに、野菜のスープ。それらをゆっくりと食べていると、ノックの音が聞こえた。エミリーかと思ったら、入室してきたのは、ルーチェの母だ。
「ルーチェ、もう具合はいいのかしら?」
「はい。大丈夫です、お母様」
「そう。きっと疲れてしまったのでしょうね。ゆっくり静養なさい」
伯爵夫人は、ルーチェの正面のソファに座る。何か話があるようだ。
「そのまま聞いていて。こんなときに伝えるのも配慮がないかもしれないのだけれど」
「ええ、知っています。フィオ王子から婚約を解消したいとの申し出があったのですね?」
夫人は「違います」と一笑に付す。どうやらまだ婚約解消の申し出はないらしい。
「結婚式の日取りが決まりました」
「……え? 誰の?」
「何を言っているの、あなたとフィオリーノ王子殿下の結婚披露宴のことでしょう」
「私が、結婚するのですか?」
そんなまさか、とルーチェは驚く。夫人も同じように思ったらしい。そんなまさか、と。
「ルーチェ、あなた記憶がないの? 高熱のせいでおかしくなってしまったの?」
「いえ、あります。大丈夫です。ただ、驚いているだけです」
「そう? ならいいのだけれど。結婚の準備期間中は、どうしても気持ちの浮き沈みが激しくなるものだから、適度に休みながら行なうのよ。アリーチェだって、そうしてきたでしょう?」
「そう、ですね」
先日結婚したアリーチェの姿を思い出しながら、ルーチェは微笑む。婚礼ドレスの刺繍の色が気に食わない、料理に使いたい食材が使えない、招待客をどこまで呼べばいいのかわからない、何かと理由をつけては一年間喚き散らしていた。結婚とは大変なものだと、ルーチェも戦慄したものだ。
「アデリーナ王女殿下が、心配していらしたわよ? 今朝帰ってしまわれたけれど、元気になったことを早めにお伝えしておいたほうがいいかもしれないわね。エミリーを使いに出しましょうか」
「あの、お母様。今朝帰られたのは、アデリーナ王女でした? フィオリーノ王子ではなく?」
「ええ、当たり前でしょう。変なことを聞くのねぇ。王女殿下は、昨夜は客室でお休みになられ、今朝早くに王宮に戻られましたよ」
やはり、昨夜のことは夢だったのだ。臨場感溢れる夢だった。何しろ、キスをした直後、リーナがフィオに変身したのだから。今朝見た二人に迫られる夢と同じ。どう考えても夢に違いない。
「ルーチェもとうとう結婚ね。アリーチェを送り出したばかりだというのに、あなたまで。寂しくなるわ」
「……お母様」
「幸せになるのよ、ルーチェ。わたくしは、それだけを願っているわ」
「ありがとう、ございます」
寂しそうな母の背中を見送ったあと、ルーチェはぬるくなった野菜スープを口に運ぶ。優しい味だ。
とにかく、二十年前に何があったのか、父に聞く必要がある。もしかしたら、呪いのことを知っているかもしれない。知らなかったとしても、何か手がかりを覚えているかもしれない。
朝食を食べ終えたルーチェは、父が帰ってくる三つ時まで眠ることにする。しかし、すぐには寝つけず、寝台の上でゴロゴロと寝返りを打つことになる。
眠くなるまでぼんやりと考えをまとめようとするものの、どうしても思い浮かぶのは、あの夢だ。リーナからキスされる夢。リーナがフィオに変身する夢。二人から迫られる夢。いずれも悪夢だとは思えないのは、二人ともに好意を抱いているからに他ならない。
「そういえば、夢の中のフィオ王子は、割と筋肉質な体つきだったな……」
だから、夢だったのだと断言できる。病弱で伏せっているフィオが鍛えているはずもない。筋肉質であるはずがないのだ。
ただ、フィオはいつもゆったりとした衣服を着ているため、体の線をはっきりと確認したことはない。握った手の感触から、細くもなく太くもないということがわかる程度だ。
「手……うーん……あれは剣ダコ?」
フィオとリーナの右手には硬い部分があることをルーチェは思い出す。記憶をたどると、やはり二人とも右手だ。リーナが剣術を習っているとは聞いていない。それはフィオも同じだろう。病人に剣は必要ないのだから。
フィオが杖をついているということもないため、手すりとの摩擦で生じたものだと納得する。昔のフィオは手すりがないと歩けないほど病弱だったのだろうと。
「夢には願望が現れる、んだっけ?」
抑圧された願望を夢に見るということは、よくある話だ。『王と精霊の恋物語』でも、王が愛しい精霊と抱き合う夢を見ていた。目覚めると精霊は消えてしまっているため、観客は皆、あの夢がずっと続くことを願いながら涙を流すのだ。
「筋肉質なフィオは私の願望なのか……」
病弱な王子様よりは筋肉質な王子様のほうが好ましい、とルーチェは知らず知らずのうちに考えているのかもしれない。
――筋肉質な王子様というよりは、健康な王子様、かな。
それなら納得できる。フィオが健康だったら日中も一緒に過ごせるのに、という願望が見せた夢なのだろう。
――私、フィオと一緒に過ごしたいと考えているんだな。知らなかったな。
ゴロリと寝返りを打ち、ふと気づく。ただの願望で終わらせてしまってもいいものかどうかわからない夢があったことを思い出したのだ。
「……だとすると、リーナとのキスも、私の願望?」
――確かに、私は可愛いものが好きだけれど! リーナはかなり可愛いけれど! だからといって、リーナとそういう関係になりたいというわけでは……!
結局、ルーチェはまた寝台をゴロゴロと転がることになる。顔を真っ赤にして。





